【薩摩遺跡から市尾墓山・宮塚、与楽、束明神古墳まで】
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で、特別陳列「豪族と渡来人―高取の古墳文化」が始まった。奈良盆地の東南部に位置する高取町には約800基の古墳があり、〝古墳密度〟は隣の明日香村を凌ぎ県内1位といわれる。昨秋、高取を代表する2つの前方後円墳、市尾墓山古墳と市尾宮塚古墳を初めて訪ねた。このブログでも取り上げた(10月11日)が、その4カ月後にまさか高取の古墳に焦点を当てた特別展が開かれようとは……。会期は3月21日まで。
館内に入ると、展示会場入り口手前で市尾墓山古墳、与楽(ようらく)カンジョ古墳など4カ所の横穴式石室・石槨の360度回転映像が流れていた。会場では弥生時代後期~古墳時代前期(2-3世紀)の薩摩遺跡から始まって、古墳時代終末期(7世紀末)の束明神(つかみょうじん)古墳まで時代を辿る形で出土品や写真パネルなどを展示。薩摩遺跡の古墳群の周溝や集落跡からは当時の広域的な交流を物語るように近江、東海、吉備産などに加え韓式など外来系土器も出土した(上の写真)。
古墳時代前期も後半になると副葬品も充実。代表例としてタニグチ古墳群の1号墳を挙げる。直径20mの小型の円墳だが、銅鏡や鉄製甲、中国や朝鮮半島との関連をうかがわせる長大な素環頭大刀や鉄鉾などが出土した(上の写真)。中期に入ると、小規模墳の築造が本格化する。市尾今田古墳群の1号墳、2号墳には多数の武器・武具類が副葬され、ヤマト政権中枢との関係を示す帯金式甲冑、朝鮮半島の影響を受けた鉤状鉄器や鉄鉾も出土した。(下の写真は市尾今田2号墳出土の儀仗形埴輪)
高取最大の前方後円墳、市尾墓山古墳は6世紀前半に築造された。墳丘長は70m、周濠と外堤を合わせると100mを超える。続いて6世紀後半にはその南西側に市尾宮塚古墳が築かれた。2つの古墳はいずれも国史跡。石室からは首長墓にふさわしい多彩な副葬品が見つかった。築造者は地元に拠点を置いた豪族巨勢氏とする説が有力で、墓山古墳の被葬者は継体天皇の擁立に関わった巨勢男人では、といわれる。その一方で稲目以前の蘇我氏とする説も。橿考研は「石室の系統が巨勢谷一帯でまとまる点、継体朝と関わりの深い遺物が見られる点は重視すべき事実であろう」としている。(写真は㊤市尾墓山古墳出土のガラス玉など、㊦市尾宮塚古墳出土の耳環やトンボ玉など)
古墳時代後期には小規模墳が密集した群集墳の造営が盛んになる。その代表格が約100基からなる与楽古墳群(国史跡)で、一帯は渡来系集団東漢氏の墓域だったといわれる。渡来系集団の横穴式石室を市尾の首長墓と比べると、天井が高いことや釘付け式木棺を2つ並べて置くケースが多いことなどが大きな特徴。これらの石室の造り、釘付け式木棺、二棺並葬・夫婦合葬という葬制が「一体のものとして百済から伝わったと考えられる」という。
渡来系集団の古墳の石室からは木棺を打ち付けた多くの鉄釘が見つかっている。ミニチュア炊飯具が副葬されることも多く、与楽古墳群では鑵子塚(かんすづか)、カンジョ、ナシタニ支群、寺崎白壁塚などから見つかっている(上の写真は与楽ナシタニ6号墳出土のミニチュア炊飯具など)。装身具ではかんざしの一種、釵子(さいし)や銀製の耳環などの出土例が目立つ。市尾宮塚古墳などで見つかった耳環は太めの中空で作ったものが中心だが、渡来系の群集墳からは細身の針金状で中実のものが多い。藤井イノヲク古墳群からは鍛冶具、ミニチュア農耕具、土器棺に転用した煙突形土製品、銀装円頭大刀などが出土した。被葬者は渡来系鍛冶工人の親方層ではないかといわれる。(写真は㊤藤井イノヲク12号墳出土の煙突形土製品、㊦同1号墳出土の鍛冶具など)
終末期古墳の束明神古墳は対角長30mの八角形墳で、凝灰岩の切石を積み上げた横口式石槨を持つ。発掘調査は橿原考古学研究所と高取町教育委員会によって1984年に行われた。その被葬者として有力視されているのが天武天皇と持統天皇の間に生まれ、早世した草壁皇子(追号岡宮天皇)。宮内庁が皇子の陵墓として管理している岡宮天皇陵は少し離れた南側にある。橿考研付属博物館の前庭には束明神古墳の復元石槨が展示されている。