「私は死にます」
という皇后の言葉を聞いた天皇は、”天皇聞之大驚曰”(大層、驚かれてきます)。
“朕過也” (私が悪かった)と、天皇は深く謝り、その場を何とかしのぎます。ということは、媛のいる藤原まで行かずに途中で引き返されたのです。
此の事件があったのは允恭天皇の7年12月もう、大晦日に近い遅い頃だと思われます。
これまでの事件を日数的に辿ってみますと、皇后の口から、自分の妹「衣通り郎媛」の名を聞いたのが12月1日です。そして、天皇が烏賊津使主を媛の元に使いを出したのは、“則明日遣使者”とあるように12月2日です。3日には、彼は近江の坂田に着いて媛に逢って都に来るように伝えます。しかし、媛からの拒否に合って、“仍経七日伏於庭中”です。 七日も媛の庭で待ち続けております。すると、その日は12月10日になっておるのです。12月11日になって、漸く、媛の重い腰が上がり、都に旅立つことを承認します。でも、直ぐに、というわけにはいかないと思います。最低はその準備などのために2日間ぐらいたって出発したと考えられます。だとすると、媛の坂田出発は12月13日位だったのではないかと思われます。そうすると、倭の春日に到着されたのは12月15日頃です。そして皇后の“色不平<ミケハヒ ムツカシ>”のため急きょ藤原に殿屋を造らしめたのです。その間はどんなに早く見積もっても一週間ぐらいは必要だと思いますので、12月20日前後になるのではと思います。そのころに大泊瀬尊が誕生します。
そのような計算をしてみると、天皇が“朕過也”と皇后に謝ったのですから、直ぐ、というわけにもいかなかったのではないでしょうか。それも、その年も暮れようとしている年末です。その時期は新年を迎えるために大変忙しい時期と重なります。正月を迎えると、天皇の最も多忙な時期です。その時期が済むまで、ということは睦月中は、天皇は衣通郎媛に関わる暇は皆無だったのだろうと思われます。この睦月の1かっ月の間は天皇は熱心に政務に励んだのす。だから、皇后との摩擦も、衣通郎媛との関係も何も起きていません。
さて、天皇と衣通郎媛との関係は、皇后の「焼産殿而将死」という言葉に驚かれて、それ以後は何も起こらなかったのでしょうか???