「絵本太閤記」によると、この団右衛門は
“不智不能の下郎なれば、邪智悪計出ばこそ、所詮此城を敵のために落城されなば、彼当城の大将にて、主君に対して申し訳は有るまじと心を定め、扨(サテ)こそ仮屋に火を放ち、門を開いて降参に出たる者なり”
と、このようにして戦いはあっけなく程簡単に終わり、戦いが済んで、清正は、この戦いの一番の功労者として「団右衛門」を、太閤の前に連れて行き、このように紹介します。
「そうか。よくぞその決心をしたものだ。でかした。褒美を取らすぞ。」と、太閤は、大変、喜んで、云うものだとばかり思っていた清正ですが、あにはからんや、そこら辺りに武家社会の支配構想の対する二人の考え方の相違があったのです。秀吉の考え方の方が、封建社会の仕組みに、即、適合していたのだと思えます。清正の持つ温情では、決して、天下を武力で統一することが出来ない要因がそこら辺りにひそんでいるように思われます。それが関ヶ原の戦いやそれ以後の豊臣家の悲劇にも通じていると思われるのですが・・・・・・。
清正からの冠山城の戦いの状況を扨聞いた秀吉は、講談調ですが本文にある文章をそのまま書いてみます。
“礑<ハタ>と白眼<にらみ>
即刻、言い放ちます。