噂に聞く稚媛を我が妃にと思った雄略は、その夫である田狭を任那に追いやりますが、この事について、別本の日本書紀では、単刀直入に、次のように書いて有ります
別本云、「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」
と。
夫である「田狭」を殺して、その妻を自分のものとしたと。でも、いくら「大悪天皇」と称された天皇だとしてもとしても、「田狭」は、当時、政治の中枢にいた、なくてはならない重要人物です。そんなに簡単に殺すことはできなったたのではと思われます。この本によりますと、媛の名前は「稚媛」ではなく、「毛媛」であるとされています。
なお、「天皇<スメラミコト>」と云う称号は、「当時には、まだなっかったのだ」と言われています。では、どう呼ばれていたか分かるお人は教えていただきたいのですが。大王ではないかと云われるお人もおられるよう。例の宋書には「倭の五王」と云う文字が見え、「王」と呼ばれていたのかもしれませんね?????
「漢委奴国王」「倭国王帥升等・・」「親魏倭王」等の文字が中国の書物に見られますから、単に「国王」と呼ばれていたのではとおむのですが