「己以前は下郎土民にせよ、今は毛利家の足軽を預り、武士の数に入たる者の、恨みある相手を討ち果たすべき筈なるを、己が恨みのために主人の城に火を放ち、門を開らき、敵を引入る条、不忠とや云ん獣心とや云はん言語道断憎き奴かな。以後の見懲しの為、引出だして首を切れ」
と、「此の者にも恩賞、褒美を!!!」と思った清正の考えとは裏腹に言い放ちます。そして、この団右衛門を陣外に引立て、終に、その首を刎ねてしまうのです。
この時代は、まだ、それまでの日本の戦いの特徴ずける、平安の世の中から打ちつづいている「仁義」が、色濃く残っていたのです。中国などの他の国の戦いのような、敵を総て抹殺すればいいと言う、ただ、むやみやたらに弱肉強食の戦いを繰り広げるような無残さはなかったのです。当時は、下剋上の荒んだ世の中ではあったのですが、争いの中にも、何らかの、古来から続いている日本独特の物云わぬ恩義や仁義が有ったのでなないかと思われます。
しかし、此の事件とほぼ同時に起きた明智光秀の本能寺での戦いは、日本での戦の中で、それまでの伝統を打ち破るような「恩義」などはかけらもなかった戦いではと思われます。ただ、この団右衛門と同じ武士の仁義に悖る、在ってはならない戦いだったのす?? 「ただ、体面を汚された」と言う個人的な恥ずかし目を受けたと言うことだけで、主君を蔑ろにすると言うことは、封建社会では、決して、あってはならない事なのです。大義名分が幅を利かせた時代の話です。
なお、此の明智光秀は、主従を重んじる封建社会にあって、早くも、団体よりも、箇の主張が己れの存在に最も大切な生き方であると思っていたのだと思います。生まれてくるのが200年ほど速かったのではないでしょうか。だから、光秀にすると、例え主君だとしても、それは当然の己れを主張するのが正義だと思っていて自分を主張して、信長の反感を買ったのでしょう。
そんな事を考えると、この物語の作者は、ある程度、団右衛門の話を挿入することによって、この後、光秀の戦いを「有ってはならない非道な戦いである」と、無言のうちに、非難するための布石にしたのではないでしょうか???