私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

もう六〇年も前のお話です

2016-08-10 10:12:57 | 日記

 私は、いま、80歳ですから、60年の時間が流れておりますが・・・・・・・・

 20歳前後の時です。当時は、まだ、テレビも新幹線もなかった時代のお話です。
 あの栃錦と若ノ花の無敗の横綱同士の優勝を懸けた千秋楽の大決戦の模様は、映画館に備えつけられていたテレビで見ました。その時、確か映画館(新作映画の上映館)の入場券は100円だったと思います。念のために、その時のデパートでのアルバイト料が一日170円では????
 アルバイトと云えば、当時、私の大学の周りの百姓家が植えていた「い草の刈り取り」があり、それに参加する学生も沢山いました。そのアルバイト料は、一日の、4000円と、とても高額で、しかも、食事が一日6回もあります。私のような貧乏学生には触手は十分に動くアルバイトでした。しかし、よくよく聞いてみると、その労働が、朝の3時から夜の10時ごろまで、しかも、真夏の、あまりにも過酷過ぎる肉体労働です。体力にも自信のない私は、その高価な4000と云う数字には大いに魅力は感じたのですが、参加する勇気が出ませんでした。
 まあ、その時、平均的な大学生のアルバイトと云えば、家庭教師でした。その額は1週間3回で1ヶ月2~4000円ぐらいが平均ではなかったかと思います。でも、中には、私の友人の一人にいたのですが、当時、ネオン花咲く大キャバレーでの「ボーイ}と呼ばれるアルバイトをして、夜の紳士の特殊な社会を覗けるのを、みんなから羨ましがらせた輩もいましたが、そんなのは例外で誰もがと云う訳には行きませんでした。どのくらいのお金を貰えたかは聞いてはいなかったのですが。

 マア60年の前の、田舎の一貧乏大学生のアルバイトを書いてみました。平均の時給は平均「20~30円」ぐらいではなかったかと思われますが。


でもまだ吉備の国は強大な力が有りました。

2016-08-10 09:23:20 | 日記

 雄略が、下道臣「前津屋」一族を、物部の兵士「三十人」で滅ぼしますが、まだまだ、吉備には、天皇と肩を並べるような強大な勢力を持つ豪族がいたのです。

 上道臣「田狭<タサ>」です。

 当時、吉備の国は吉備の前、中、後の三国に分かれておりました。下道臣は吉備の中ツ国の大王だったと思われます。しかし、当時、吉備の前<サキ>ツ国の大王が「田狭」だったのです。まだこの時代、倭の国は、天皇と有力な北九州や吉備や但馬・出雲辺りの地方の大王との連合政権だったと考えられております。その根拠が、この田狭の事件です。
 それを日本書紀には

    ”吉備上道臣田狭侍於殿側”

 と、書かれてあります。<キビのカムツミチのオミ タサ オホトノのホトリニ  ハムベリテ>と。その時、「田狭」は吉備にいたのではなく、倭にある朝廷「御殿」にまで出向いて、天皇の政治を、他の地方の豪族と一緒に、補佐していた事を示しています。

 前津屋が殺された同じ年、雄略天皇の七年です。この御殿で、政務の休憩の時間か何かの時だったのでしょう。田狭が他の大勢の地方の豪族たちと雑談します。