普通なら二萬ぐらいの兵士を送りこまないと、当時の巨大国「吉備国」の大王の征伐です。当時の天皇の軍隊は「物部氏」に率いら、日本では最強だったと言われますが、それも遠く吉備国までの大遠征です。でも、書紀には
“遣物部兵士三十人誅殺前津屋並族七十人”
<モノノベノ イクサビト ミソタリヲシテ サキツヤ ナラビニ ヤカラ ナナソタリヲ コロサシメタマフ>
と書いて有ります。
ここに書かれている「三十」「七十」と云う数字をそのまま信じることはできないまでも、この時代、大和勢力が何らかの方法で、吉備の国の勢力を弱めて、天皇中心の強大な中央集権政治に移行していった過程をこの文章は物語っています。だぶん、大変、大きな、何万という兵力の衝突が、此の吉備の国の何処かで有ったのではないかと想像できます。歴史には刻まれてはいませんが、勿論、古事記にもです。