この象潟の処で、芭蕉はどうしてかは分からないのですが、曾良の句を二つも書きいれていることです。
“象潟や料理何くふ神祭”(前述)
“波こえぬ契ありてやみさこの巣”
更に、この曾良の句の間に「低耳」と云う人の句まで、ご丁寧に、嵌めこんでいます。
“蜑の家や戸板を敷て夕すすみ”
曾良の句は「日光」や「松島」など所々に入っていますが、ここでは、今までには、例のない二つもの句が見えるのです、それに加えて「低耳」の句も。
この部分を読むと、私は、何時もちょっとばかりその書きぶりに何か奇異な感じがするのですが???どうして芭蕉は、この「象潟」だけで、他では見られない書きぶりをしたのでしょうか?????こんな疑問点に対して、一人で悦になって、その回答をでっち上げております。
「そげえなこたあ どうでのええがな。わかりもせんくせをして かかんでのえんじゃがなあ」
と云う声が、そこら辺りの壁から響いてきそうですが、
「まあ、よんでみてつかあせえ。みをこもうにしてけえてみるけえ」。
<昨日も書いたように、芭蕉が象潟で止まった家は、「奥の細道」では、“蜑の苫屋”、「大変貧しいさびしげな貧乏家」になっていりますが、実際には、相当裕福な家だったのです(曾良旅日記)。この実際と文章構成上との相違に、いたく、引け目を感じて、暗に、その家は、自分が書いている程貧しい家ではなかった事を、読者に間接的に知らせるための手法ではないかと思われるのですが??>