私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

神功皇后のお墓

2016-09-26 08:49:24 | 日記

奥の細道にある“干満珠寺”についても詳しい説明が有ります。

   “干満寺ト云或ハ蚶満寺トモ書ク禅宗ニテ千体仏を安置ス。山門ナド有テ、荘厳巍巍タリ”

と(「巍巍」とは、高くて大きいことです)。この寺の名前の由来について、梨一は、ここの里人の話にあるとして次のような話も書きとめております。

  昔、神功皇后の三韓征伐の時、干珠と満珠も2つの珠を使ったと言う伝えがあり、その二つの珠を此の島に埋めたので、最初は「干満珠寺」と呼んでいたのが、後になって珠が省かれ「干満寺」になったのだと。でも、元々は「蚶」の形をした「潟」から「蚶潟」それが「象潟」に変ったのだと説明しております。

 このような「象潟」に関するお話を読むと、あの柳田国男の「民俗学」のルーツは、この蓑笠庵梨一にあるのではないか???と云う気がしないでもありません。

 なお、これもどうでもいいような話ですが、写真を見てください。

                       

 この2枚の写真ですが、前のは芭蕉の奥の細道の自筆本を、次のは梨一の菅菰抄を写したものです。芭蕉は、写真でもお分かり頂けるように、ご丁寧に張り紙をして「后宮」と訂正しています。でも、梨一は右にあるように、堂々と、「皇后」と書いています。芭蕉の方に書き過ちがある事を、暗に、書き指しているかのようにですが。どうお思いでしょうか????