さて、目から“成りませる”神「天照大御神」と「月売神」、即ち、太陽と月ですが、此の二人の大神は
”善神<ヨキカミ>に坐<マ>シます。” それは“目に見たる穢は、浅くてなごりなき故”
だ。と宣長は説明しております。なお、「なごりなし」は「残るところがない。すぐに消え去ってしまうもの」という意味です。
これに対して「須佐之男命」は鼻から成坐る神で、
”鼻に嗅悪臭気<カグクサキケ>は、深くて其のなごり亡<ウセ>がたき故” “悪神”
だとしています。
このようにしてイザナギが“阿岐波原”で禊をした時ですが、結局、十四柱の神様がお生まれになっております。この時から、先にも申したように、この日本国に「時間」「時」「季節」と云う、至って人の生活にリズムを付ける貴重な、何と言ったらいいのでしょうか分かりませんが、「もののひろがり}とでも云いましょうか」、この世に現れたのです。というよりか生まれたと言いましょうか、人が生きる希望と云ったのうがいいのかもしれませんが???そして「日本の歴史」が始まるのです。
ということで、「イザンギ」のお話は終わりにしようと思ったのですが、「悪神」という字を見て、神様の世界にも、あたかも人間であるかのように「善悪」があるのはどうしてだろうか、という疑問が出て来ます。私の子供ころからの思いは、「須佐之男命は大蛇を退治した英雄だ」という備中神楽の影響で大変愛された神様だったのですが、それが「悪神だ」なんてとんでもない事のように思われます。そのあたりを今少し追い求めようと思い、またまた「閑話」ですが暫らくお付き合いいただけたら幸いです。ということで、もう少々]古事記を紐解いてみます。