“夜久毛多都・・・」と云う歌は、「出雲」の“須賀”にスサノヲが宮殿を建てられ、その感激を歌にされた事に由来して「出雲」と云う国名になったのだとされております。では、「我が町吉備津」のある「吉備」の国名は一体何を元にして国名に付いたのでしょうか????。前に書いたのですが、オロチの里が吉備ではなかったと云う私の考えをご紹介しましたが、ここで改めて「吉備と云う国名」に付いて探ってみたいと思います。
この「吉備」に付いは、神武天皇に由来されるとか色々な意見があるのですが(その一つに[魏志倭人伝」に出てくる「投馬国」ではないかと云う学者もいらっしゃいます)。まあ、それは兎も角として、私が住む吉備津は、古代高梁・足守川流域を中心として開けた三角州で、災害の少ない豊かな自然に恵まれた地方です。この地方はこの天然の恵みをいっぱいに受け縄文の時代から大変に栄え、特に、黍の生産が盛んに行われていたのです(縄文時代ですから稲はまだ作られてはいません)???)その事を証明するのが、
“書紀通證”
と云う本です。その中に、次のような記述が見られます
“以木国粟国例之当訓黍国”
「黍」、即ち、「吉備」
だと。
これに付いて永山卯三郎氏も
“吉備義未聞”
と、、書いて、
「吉備の名義、キビ(黍)にして、吉備国の土地、黍穀の耕種に好適しその産額頗る多く、古来黍酒、黍団子の料となりしこと・・・・」
と。だから、「キビ」「吉備」は「黍」から生まれた確かな国名なのです。
この吉備地方は、縄文時代の我が国の中心地の一つであったことは間違いありません。だから、秦や百済からの、現在のシリア難民のようにドッとこの地方に押し寄せて来ます。トランプではりません。高い壁を作る必要はありません。むしろ、それらの人々を世界第一級の文明人として厚く遇したのです。、今のようなヨーロッパと違い、この吉備地方には、それら難民を受け入れるだけの十分な経済的な余裕というか必要ががあったのです。むしろ、そのような人達を受け入れしなくては国の発展は出来なかったのです。難民の力を利用して国力を増強する経済的な地力が備わったていたのです。それほどこの地方は、大変豊かな国だったのです更に、それら難民を受け入れたことによって、あのような巨大な日本に例を見ないような強大な造山古墳も作ることができたのです。
そのことは。「秦」「賀陽」「半田」「葉田」などの中国や朝鮮の地名と関係のある地名が付けられた土地が県内に沢山見受けられることからも理解できます。
私が住んでいる土地も「向畑<ムカイバタ>」や隣の「辛川<カラカワ>」も「ハタ」や「カラ」の外来語が元となった地名だと言われております。