私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“山たづの”とあるが、ナニカ シットンカ???

2016-05-18 10:15:21 | 日記

 「“山たづの”とあるが、ナニカ シットンカ???」 という御忠告を、又、承りました。

 私の持っている福永武彦訳の古事記によると「山多豆<ヤマタヅ>」というのは、今の造木<ミヤツコキ>で、「にわとこの木」の事だと、説明があります。

 そのようなご指摘をいただきまして、かの本居宣長はと思い、図書館で調べてまいりました。すると、彼の説は、福永氏より違って、

 “夜麻多豆能”は「山釿之なるべし迎の枕詞なり」とあります。「釿<テオノ>」は「まさかり」で、木を伐る時に、その刃を自分の方に向かって使うものだから「迎え」の枕詞になったのだと説明しております。

 この本居宣長の説と違って、「にわとこの木」と福永氏が説明しているのには何かいわくがありそうですがその辺りのことはよく分かりません???
 なお、ネットでは、この「山釿」は「ちょうな」のことで、柱などを削る時に使う大工道具(刃物)だと説明がしてありました。

 

 またまた、変な方向へと進んでいきましたが、お許しを!!!!!


「君が行き 日長くなりぬ}の歌

2016-05-16 15:44:11 | 日記

  衣通姫は伊予の国へその兄君を追い掛けるように、”追往”、訪ねてます。その時に歌った歌です。

     「君が行き 日<ケ>長くなりぬ 
     山たずの 迎へに行かむ 待つには待たじ」

 と、いう歌です。
 でも、この歌は、一説には、「吉備の美女その2」でお話した、仁徳天皇の后“石之日売命<イワノヒメノミコト>の嫉妬から逃れるために吉備の帰っていた吉備の美女”黒姫”を訪ねて吉備へ行幸された天皇があまりにも長く吉備にいたために、その時に歌た大后「石日売命」が作った歌だともと言われています。また、万葉集にも仁徳天皇の大后の歌だとして紹介されております。

 ですが古事記には衣通姫の歌だとされております。

 マア、このように古事記には、何と歌の多いことかと改めて驚かれされます。太安万侶一人が本当にこれだけの物を覚えていたのでしょうかね。文字もない時代ですにね。


今日は5.15事件”犬養木堂忌”です

2016-05-14 13:55:25 | 日記

 5・15事件(1932年)「話せばわかる」で有名な犬養毅<木堂>の暗殺された記念日です。それ以後の日本が、満州事変などの事件を経過して、どうなったかということはもう十分お分かりだと思いますので省きます。

 その記念日に毎年ですが、私は小さな木堂のお祭り我が家でしております。その写真を見て下さい。

                                                                                                                                                                                                                         

                     

  床の間に置いております本は「リットン報告書」で、花瓶に使っている鉄器は満州事変の初日に使われた南領での日本軍の砲弾で、大変珍しい物だそうです。次の掲げている「慈悲」の色紙は死の直前(5月10日頃)に書かれたものだと言い伝えられております。なお、木堂の漫画は、宍戸左行の絵です。この絵も、現在日本には、ほとんどないのではないでしょうか???(大正14年5月頃描かれた漫画です。)

 まあ、こんなものを並べて、一人で悦に入って、喜んでおります。お笑いください。


衣通姫はその後・・・

2016-05-14 09:42:46 | 日記

  ”明かして通れ”と兄君の伊予の国へ流されていくのを見送った衣通姫ですが、その後です。それに付いて古事記には簡潔に

  ”故後亦不堪恋慕施而<カレ ノチニマタ  オモヒカネテ>”

 兄上でもあり、亦、恋しい夫でもある軽太子に対して恋慕の情に耐えがたく、どうしても逢いたくて逢いたくて仕方なく。決心をして

  ”追往<オイ イマス>”

 兄君の流刑地である伊予の国まで追いかけて行きます。それが「追往」です。後先のことまでも考える暇もなき位に、只、「あなたに逢いたい」という一心の姫君の情熱がそのような行動を取られたのだと思います。それが、その後の己の人生にどのような影響を及ぼすかも分からず、ただ、すぐにでも逢いたいという心に駆られて、後を追いかけて伊予まで行くのです。そのどうしようもない乙女の心を、ここでも、たった「追往」という文字の中に込められて書かれております。
 その時に衣通姫が作った歌が次に紹介されていますが、此の歌につても、なかなか面白いのであすにでも改めて・・・・

 この”往<イマス>”について、例の宣長の説に従って読んで見ました。<オイユク>とした本もあるようですが。


”阿比泥の浜”考ーその2ー

2016-05-13 09:38:05 | 日記

 軽御子と軽大郎女のご兄妹(同母)同士が相思相愛の深い仲になるなんてことは、そのような関係は当時の社会でも、決して、あってはならないと堅く禁じられていたことですが、その掟をも無視して、二人は心も体もに深く結びついていました。それが為に、軽御子は天皇位までも剥奪されて、終には、伊予の国へ流罪となって送られます。その時、衣通王<ソトホシノミコ>が”献<タテマツル>”歌の中に

 ”阿比泥能波麻<あひねのはま>” (阿比泥の浜)という言葉があります。

 この「阿比泥の浜」に付いて、昨日も少々触れたのですが、伊予の国にある何処かの浜辺だが、今のところ、その場所は特定できないと、古来から、本居宣長を始め多くの学者のみなさんがいっております。でも、衣通王は、未だかって伊予の国になどに行ったこともありません。だから、そんな名の浜辺があるなんてことは知ってるはずがありません。私はそれに付いて“阿比泥”、即ち、「相寝」ということを云っているのではないかと思うのですが、誰もそんな事を云った人はいませんが。だから、この歌の意味を私は次のように解釈してみたいのですがどうでしょうかね???

 「本当の妹である私が、あなたの妻となって、ご一緒に相寝たなんて、そんなタブーなお話は、どうぞ、伊予の国に行かれた時は、決して、人には話なさないようにして避けて下さい。それが、伊予の国に於いて、あなたが一番安泰に暮らせる秘訣ですから」

 と、いうぐらいの意味になるのではないでしょうか???妹の兄に対するというか最愛の夫に対する、精一杯の、惜別歌ではなかったのではないdしょうか

 もう一度その歌を乗せておきますのでお読みください。

 夏草の 阿比泥の浜の 蠣貝に       ”那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐賀比爾
 足踏ますな 明かして通れ           阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富禮”