私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

昭和11年生まれの私は・・・

2016-06-24 10:22:11 | 日記

 昭和12年生まれのあの「美空ひばり」が歌う「港町13番地」の歌です。

 私が大学生の頃の話です(昭和30年頃)。「ひばり」が好きだんて事を、友達の前などで、おおっぴらに言おうものなら、「大学生のあんたが、ひばりなんかの歌が好きだなんて低級な趣味だね」と、みんなから揶揄され、嘲笑の的になる事は確かです。そこで、「隠れひばり」のフアンとなり、密かに彼女の歌を聴いておりました。そなん事が遠い昔にはあったのだと、今、なつかしく思い出されます。


“多儾比等用能未”

2016-06-24 08:56:58 | 日記

 日本書紀の「衣通郎媛」についても、ごく簡単に触れるだけにしようと思ったのですが、それを読んでいけばいくほど、その中に登場する人物それぞれの思いが夫々におもしろく、ついつい、随分と、長く書き続けてまいりました。退屈でしょうが、いましばらく、天皇と皇后、そして、主人公の衣通郎媛の3人の想いの変化を見て行きたいものだと思いますのでお読みいただけると幸いに存じます。

 さて、天皇が物陰からこっそりと郎媛を見られているとも知らずに”虚予比斯流志毛<コヨヒシルシモ>”と歌います。それをお聞きになられた天皇は

          “有感情而歌之曰”

 これを、<メデタマフココロ アリテ ミウタ ヨミシテ ウタヒタマフ>>と、少々長く、読ましております。何のことはありません。ただ聞いて大変嬉しがって歌を詠まれたと言うことです。少しばかり大仰な表現でとは思われますが。でも、「感情」を、<メデタマウ>と読ましているのには、なかなかうまい読み方だと思われます。これを「宇治谷 猛」は“感動されて”と訳されておりますが、少しばかりその訳し方に違和感を私は感じております。「感動する」ではなく、「ついつい嬉しくなって」ぐらいの方が、この場の説明では、いいのではと思ったりもしておりますがどうでしょうか???

 

 その<ミウタ>は

   “佐瑳羅餓多 邇之枳能臂毛弘 等枳舍氣帝 阿麻哆絆泥受迹 多儾比等用能未”

    <ササラガタ ニシキノヒモヲ トキサケテ アマタハネズニ タダヒトヨノミ>

 です。少々エッチな御歌です。「ササラガタ」というのは「細い形=小紋」のと言う意味になり、「今宵、貴方の着けている細い腰紐を解いて、幾夜とは言わない、せめて今夜だけでも一緒に寝ましょうよ」

 と、そのまま二人はその夜を共にします。


衣通郎媛の心境の変化は何処から???

2016-06-23 10:58:25 | 日記

 ようやく忙しい睦月の行事を終えた天皇の浮気心がむくむくと立ち上ります。どうにかして

      “容姿絶妙無比”

 の衣通郎媛に逢いたくて仕方ありません。媛のいる藤原宮までこっそりとやってきます。それが天皇の八年の2月の事です。今度の御幸は上手に造ろったのでしょう皇后の知られないようにこっそりとです。それも夕方のことです。密かに、媛のいる屋形を尋ね、恋しい媛の様子を、物陰から、こっそりと見ておられたのです。
 するとどうでしょう。あれほど、姉の皇后のために天皇に逢うなんて、とんでもない死んだ方がましだと、深く思っていた衣通郎媛ですが、この頃になると、どのような心境の変化があったのかは知らないのですが

             “是夕衣通郎媛恋天皇<コノユウベ ソトホリノイラツメ スメラミコトヲ シタミマツリ” 

 天皇を恋、そうです、早くお逢いしたいものだと、「慕われていた」のです。そして、その時、密かに歌われた歌が

     “和餓勢故蛾 勾倍枳予譬奈利 佐瑳蛾泥能 区茂能於虚奈比 虚予比斯流志毛”

     <ワガセコガ クベキヨヒナリ ササガニノ クモノオコナヒ コヨヒシルシモ>です。

         「私の夫である天皇が来そうな宵ですね。蜘蛛がしきりに巣を作っております事」
 ぐらいの意味です。天皇が密かに媛の様子を隠れて見ていた、丁度、その時のことです。何というタイミングのいい時でしょうかね????

 なお。この「区茂能於虚奈比」についての、わが国古来からの俗信で、「蜘蛛の振る舞い。行い」は、恋しい人が尋ねて来てくれるということの前触れだと信じられていました。そのことがこの歌に歌われているのです。念のために????


「朕過也」

2016-06-22 10:05:03 | 日記

     「私は死にます」
  という皇后の言葉を聞いた天皇は、”天皇聞之大驚曰”(大層、驚かれてきます)。

 “朕過也” (私が悪かった)と、天皇は深く謝り、その場を何とかしのぎます。ということは、媛のいる藤原まで行かずに途中で引き返されたのです。

 此の事件があったのは允恭天皇の7年12月もう、大晦日に近い遅い頃だと思われます。

 これまでの事件を日数的に辿ってみますと、皇后の口から、自分の妹「衣通り郎媛」の名を聞いたのが12月1日です。そして、天皇が烏賊津使主を媛の元に使いを出したのは、“則明日遣使者”とあるように12月2日です。3日には、彼は近江の坂田に着いて媛に逢って都に来るように伝えます。しかし、媛からの拒否に合って、“仍経七日伏於庭中”です。 七日も媛の庭で待ち続けております。すると、その日は12月10日になっておるのです。12月11日になって、漸く、媛の重い腰が上がり、都に旅立つことを承認します。でも、直ぐに、というわけにはいかないと思います。最低はその準備などのために2日間ぐらいたって出発したと考えられます。だとすると、媛の坂田出発は12月13日位だったのではないかと思われます。そうすると、倭の春日に到着されたのは12月15日頃です。そして皇后の“色不平<ミケハヒ ムツカシ>”のため急きょ藤原に殿屋を造らしめたのです。その間はどんなに早く見積もっても一週間ぐらいは必要だと思いますので、12月20日前後になるのではと思います。そのころに大泊瀬尊が誕生します。

 そのような計算をしてみると、天皇が“朕過也”と皇后に謝ったのですから、直ぐ、というわけにもいかなかったのではないでしょうか。それも、その年も暮れようとしている年末です。その時期は新年を迎えるために大変忙しい時期と重なります。正月を迎えると、天皇の最も多忙な時期です。その時期が済むまで、ということは睦月中は、天皇は衣通郎媛に関わる暇は皆無だったのだろうと思われます。この睦月の1かっ月の間は天皇は熱心に政務に励んだのす。だから、皇后との摩擦も、衣通郎媛との関係も何も起きていません。

 さて、天皇と衣通郎媛との関係は、皇后の「焼産殿而将死」という言葉に驚かれて、それ以後は何も起こらなかったのでしょうか???


皇后は“色不平<ミケハヒ ムツカシ>”

2016-06-21 08:48:18 | 日記

 その妹が、天皇のたっての招きに応じて、「春日」まで来たと言うことを知った皇后は<ミケハヒ ムツカシ>でした。それを知った衣通郎媛は、そのまま烏賊津使主に従って宮中に出向くことはできません。多分、使主が用意したのだと思いますが、「藤原」という所に、“殿屋”を建てて“居<ハムベラシム>” 

 それから、しばらくは媛はその藤原の殿舎に居られます。丁度、皇后が、その時、次の次の天皇になられる“大泊瀬尊(雄略天皇)”をお産みになられます。その時がチャンスとばかりに、天皇は、初めて、逢いたいと思っていた衣通郎媛のいる藤原へ行幸されます。

 でも、天皇が妹のいる藤原宮に行幸されたことを知った皇后は、“聞之恨<キコソメシテ ウランデ” おっしゃるのでした。

 “妾初自結髪 陪於後宮 既経多年”

 とあります。「髪を結う」とは、大人の女性になるという意味です。即ち、天皇の妃になって以来、もうずっと天皇のお側に仕えておりました。

 “今妾産之死生相半。何故 当今夕必幸藤原 乃自出之焼産殿而将死”

 「それなのに、此の度、皇子を出産して、今、生と死の境をさまよっていると言う時に、妹の所に行くなんて、そんなことって有るでしょうか。もう、私はあなたにとっては必要のない女です、この産殿に火を付けて死にます。」
 と言われたのです。

    さあ大変です。天皇はどうされたのでしょうか???

 この話を、現代、女性の前でしようものなら、悉く非難の眼差しが投げかけられます。