私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

雄略天皇(1)

2016-07-21 09:23:15 | 日記

 この事について前にも、この欄に書いたのですが、改めて、再度、書いてみます。

 先ずは「雄略天皇」について、写真のような、文政7年に再版された「王代一覧」と云う本です。

                   

 「大悪天皇ト申ス」と、ありますように相当の阿漕な方法によって自分の反政的になるような人物を沢山殺害しております。

 ・「天皇生ツキアラクテ、人ヲ殺コトヲ好ム」、
 ・「罪ナクテ死スル者多シ」

 等の記事がこの本に見られます。なお、あの、「先の副将軍徳川光圀」が著した「大日本史」にも、

 ・天皇、初め心を以て師となして、好みて軽しく人を殺し、・・・・天下謗りて大悪天皇と曰へり」と。

 この天皇の時代に吉備の国に大変な美女がいたのです。それが「稚媛」です。 どのような美人だったとおわれますか????    


ようやく吉備の美女に到着です。稚媛です。

2016-07-19 06:25:02 | 日記

 兄媛や黒媛に、次いで、吉備の国の美女について書こうとしていたのですが、この美女と云う言葉に、ついつい引っかかりまして、中国の美女や日本の美女をと思いたちまして長々と、お叱りをも覚悟して、書き綴ってまいりましたが、ようやく、吉備の美女にまで到着しました。

 時は雄略天皇の時代です。大体480年頃だと思います。それまでの大和政権は天皇による中央集権的な政治体制ではなく、吉備等の諸国の大王との連合政権だったのですが。この雄略の時代になると、大和の天皇が強大な勢力を確保して、地方の豪族たりの力を弱めて天皇の中央勇集権政治の確立を見た時代なのです。
 その過程を、日本書紀では、詳しく、吉備の勢力の衰退していく様子を美女を例に取り上げて説明しているのです。

 その美女が吉備の国の「稚媛」なのです。 


古事記の物語性

2016-07-18 08:31:15 | 日記

 この問題に関して、一番よく分かる部分に「雄略天皇の巻」もあります。

 ちょっと、古事記にある「雄略天皇の巻」を紐解いてみますと、
                ①白い糸
         ②赤猪子
         ③蜻蛉
         ④葛城山
         ⑤袁杼姫
 と、五つの事件について、時間的な差異は言及してはいないので分かりませんが、そこで起きた事件の展開は歌によって詠いあげられており、より物語風に知ることができます。
  例えば④の葛城山では

         “みすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の病猪 吼き恐み・・・・・”

 のように、必ず、歌を取り上げて詠うように説明がなされており、七世紀の日本人独特な文学的臭覚の鋭さには驚かされます。大陸の文化には影響されないような。 

 これに対して、日本書紀はと云いますと、雄略天皇を例にとれば、その歴史を、ご丁寧に、年・月・日までもが細かく書かれ説明がなされており。このほうは、大陸文化の影響を濃く伺わされます。
 このように二つを比較してみれば、如何に、「古事記」の方が、物語風にその話を展開しているかよく分かります。

 なお、これも、又、横道の横道ですが、この雄略天皇の歴史を語る時に、決して、無視することのできない書物が有ります。日本書紀にも書かれてない5世紀の日本、当時の倭の国の出来事について、詳しく書かれた中国の史書です。
 中国の南北朝時代(429~479年)の宋の正史「宋書」に書かれている「夷蛮伝<イバンデン>」です。この中に当時の日本、そうです。「倭国」について書かれているのです。

 「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」   (さん・ちん・せい・こう・ぶ)

 所謂、「倭の五王」について書かれております。
 あの衣通媛の父である允恭天皇は、この内の「済」です。ちなみに、「讃」は履中天皇、「珍」は反正天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇です。五世紀の日本の大王です。


「下泣きに泣く」で終わりです。

2016-07-17 05:58:07 | 日記

 軽皇子と妹の軽大娘皇女との恋は、書紀では、これで総て終わります。

        “・・・・・資哆儺企邇奈玖勾<シタナキニナク>”

 で、後は、古事記にあるようにその結末までを細かく書かないで、読む人に、甚く感動と云うか、余韻を残して結末としております。

 古事記は、「稗田阿礼」と云う一人の人が、その属する社会といいましょうか、大和地方の一部族にあるその成り立ちを、言い伝えと云った方がいいのかもしれませんが、語部として記憶していたものを文字に認めて、後世に伝えたものだと言われています。だから、その成り立ちをより興味深くするために、このような物語性の富んだ部分を沢山に仕立てて構成されたのではないかと思われます。一人の単なる記憶ではないのです、長年に渡って言い伝えられてきた膨大な記憶なのです。
 それに対して、「書紀」は、相当に古事記等の影響は有って、本来は客観的な観点のみによってから書かれなくてはならないのだとは思われますが、その主観的な物語性のある部分も、古事記同様に、あるのは否められない事です。でも、その背後には、「日本の歴史」を後世にと云うより客観的な立場で編成されている様にも思われるのですが?????その違いがこのような部分に現れている好例ではと思われるのです???

 


古事記の<アマダム>の歌ですが

2016-07-16 08:46:09 | 日記

      “天飛(だ)む 軽之媛女(かるのおとめ)
       甚(い)た泣かば 人知りぬべし
      波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く”

 です。この内「波佐の山」ですが。書紀には「幡舎」として、<ハサ>と読んでおります。この山は何処にあるのか、前に上げた”阿比泥<アヒネ>浜”と同様に何処にあるのかは分からない山なのだそうです。
 なお、此処に出てくる「鳩」ですが、その鳴き声は何となく物悲しそうに聞こえます、決して、美しくきれいな声とは言い難いのです。そこら辺りが。次の「下泣き」と導くための「序<ハショソイ>」だとするのは、かの「本居宣長」です。