私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「三更の冷漢の雲」を・・・

2019-09-14 09:23:09 | 日記
 昨夜は“中秋の名月”でした。我家でも老夫婦だけでのささやかなお月見をしました。近くのお山から
     “萩の花 尾花 葛花・・・・”
 の三種の草を取ってきて窓際に生けて名月を愛でました。

               
                

勿論、お酒を傍にしてですが・・・・

 「名月」と云えば中国を初め、わが国でも、古来より多くの人々が親しんだ行事でもあったのです。何故に、八月十五日にお月見行事をするのかは、諸説ぷんぷんですが。あの兼好法師によると
「八月十五日は婁宿なり。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。」
 とあります。

 なお、我が町吉備津の偉大なる賢者「栄西禅師」は中国に渡る時に持って云ったと伝えられる「和漢朗詠集」にも、「八月十五夜 付月」として数種の歌が記されております。これも私の自慢本ですがお読みいただけると幸いです。

                 

 ・金膏は一滴の秋の風の露 玉匣は三更の冷漢の雲

 「満月は鏡のように澄んで明るいが その月の鏡を磨くあぶらは秋風に滴たり落ちる露と言ってもよく、その月を入れる箱は、夜半に冴えわたる空にかかっている雲のようだ。」


 ・水の面に 照る月なみは 数ふれば 今宵ぞ秋の 最中(もなか)なりける

 神八井耳命と神渟川耳命の兄弟は・・・

2019-09-13 09:07:16 | 日記
 兄「手研耳命<タギシミミノミコト>の策謀を知った二人「神八井耳命・神渟川耳命」は父「神武」の喪(“山陵<ミササギ>”)が空けるのを待って、その対策を練ります。まず
       
    “弓部稚彦<ユゲノ ワカヒコ>”
 
 に「弓」を造らせ、
       
    “倭鍜部天津真浦<ヤマトノカヂ アマツマウラ>”
 
 に「真麛鏃<マカゴノヤジリ>」を造らせ、
       
    “矢部<ヤハギ>”
 
 に「箭<ヤ>を作らせます。

 ここで又脱線です。
 まず初めに、「作」と「造」という字をここではわざわざに使い分けしていると云う点に付いてです。
 辞書によると、『「造」には、ものがある目的点にまで形をとるにいたる意味もある』とあります。「弓」や「鏃」は、元の材料が変化して全く別の目的物に形を変えて出来あがるものですから「造」を、「箭」、「矢」ですが、あまり切ったり曲げたりはしないで、元のまま形で使われますので「作」という字を使ったのです。

 なお、これも蛇足ですが、我故郷「吉備」には「造山古墳」「作山古墳」の大古墳がありますが、この「造」と「作」は、今見て来たような漢字の意味からではなく、「造山」は大きさでは日本第4位の古墳で、「作山」は第10位ですが、その命名については何時頃だれによってなされたのかは知りませんが、漢字そのものの意味からではなく、その大小からこの二つを使い分けしたと云う事を見ると、多分相当な学識を持つ吉備人が考えだして命名したものだと何時も感心しておりますが、古川古松軒ぐらいでは?????
 
 この書紀が出来た時は、漢字が日本に入ってまだ200年も立ってない時です。その時代に、もう、このような細かい使い分けを日本人はしていたのです。
 また、その「真麛鏃<マカゴノヤジリ>」ですが、「麛<カノコ>」「子供の鹿」です。鹿などの動物を取るための鏃を造らせたのです。

 ここで又もや!!!私の自慢の一品をお見せします。この時、「神渟川命」が使ったのではないのですが、五世紀の古墳の石室からの「鉄の鏃」です。

                


 なお、この倭鍜部天津真浦に造らせて「真麛鏃」ですが、時代からですとBC六世紀ごろです。当時の社会には鉄などは、現在の研究からすると、日本には、まだ、なかった時ですが、物語としては、成立しておるのです???これも蛇足ですが・・・ 
 
 


“諒闇”とは?????

2019-09-11 06:21:36 | 日記
 書紀には「タキシミミノミコト」は

         “以諒闇之際”
         <ミモノオモヒ ノ ヒマヲ>

    

 『諒闇』とは、現代では「リョウアン」と読みますが、天皇の喪に服することで、古くは、これを“ミモノオモヒ”と読んだそうです。

 ジンムの喪に服している最中に

        “図害二弟<フタバシラノミコトヲ ソコナハムトハカリ>”

 神八井耳命と神渟名川耳命の二人の弟を殺害しようと計画したのです。どうして、その計画を二人が知ったかという事は何も書かれてはいません。古事記では、母が歌を歌って知らせたとありますが・・・・兎に角、二人は、

        “陰知其志而善防”。
    <ソノココロザシヲ ヒソカニシロシメシテ ヨロシク ホセギタマフ>”
 
 兄の計画を、何処からともなく、知って、その防衛の対策を講じます。

 

日本書紀「綏靖天皇」の巻を・・・

2019-09-10 07:14:26 | 日記
 まず、この写真をご覧ください。寛政年間に出版された「日本書紀」です。

          

          

 この中に、その兄、(古事記では「當藝志美美」ですが、書紀では「庶兄 手研耳命<コトハラノアニ タキシミミノミコト>」)について書かれております。

       “立操〇(厂+昔)懐<ココロバエ ココロオキテ>”

 と書かれております。
 なお、(厂へん+昔)は、辞書によると、「サク」で、意味は「といし」だそうで、すると、その心が「といし」のようにがざがさとしていている意味では???
           

 この4文字の付いて、正確には分かりかねますが、「心がひねくれており」ぐらいに解釈しました。
 そして、その上

            “本乖仁義”
        <モトヨリ イスクシマウ コトワリ ソムケリ>

 「人を慈しみ、貴び敬う心を生まれつき持っていなかった」と解釈すればいいのでしょうか????

 自分さへよければ他はどうでもよいと云う、此の頃、流行りの超近代的心の持ち主だったのではないでしょうかね。 

         

 日本書紀に、そこら辺りの事が詳しく・・・・

2019-09-09 05:52:20 | 日記
  昨日、“兵<ツハモノ>”を「刀」、即ち、「草那藝剣」ではと書いたのですが、またも
 「おいおい、ええかげんなことばあ かきょうたらおえんど。しょきゅう みてみや。」
 と、ご忠告です。
 何が「書紀」には書いてあるのかなと、近頃、とんと、遠ざかっていた日本書紀を急ぎ開き見ます。「神武天皇」の項には何もないのですが、二代「綏靖天皇」の項に詳しくそのいきさつの記述が見られます。

 ここで、またまた古事記を他に置いていて、しばらく日本書紀の記述を書いてみますので、お読みいただけますと幸いですが・・・・

 さて、紐解いて、まず、驚いたのが「神渟名川耳<カムヌナカワミミ>天皇」はジンムの第三の子<ミコ>と書いてあるではありませんか??古事記では「神沼河耳命<カムヌナカワミミノミコト>は四番目の皇子です。また、古事記にある「日子八井命」は、書紀には有りません。だから、書紀には「三子」としてあるのです。
 また、これも記紀の違いですが、その母を、古事記では
          “伊須気余理比売<イスケヨリヒメ>”
としておりますが、書紀には
          “媛蹈鞴五十媛命<ヒメタタライスズヒメノミコト>”
 となっております。
  なお、その父に付いても、古事記にはイスケヨリヒメの父は「大物主神」ですが、書紀のイスズヒメの父は「事代主神」になっております。(但し、「大物」も「事代」も同じ神様ですが???)