私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

あくがれいづる希望の生き(梅雨の花)を

2020-06-13 09:01:16 | 日記
 私の庭に咲いた美しい梅雨の花をお見せしたいと写真に撮りました。









  写真にある木の葉は「トサミズキ」です。
「アジサイ、クチナシ、柿の花・・・。どれも夏の湿潤な季節に咲く花・・」と今朝の新聞コラムにある言葉ですが、よくよく考えてみますと、「花」とは草や木などが大空の下に撒き散らすその時々のあくがれいづる希望の"生き”です。それを梅雨空が
 「私も花を!!」
 と摸した六月の造化の一瞬の幻影です。
 

吉備津五社明神

2020-06-12 10:15:09 | 日記
 吉備津宮には「正宮(主神=大吉備津彦命)」の他に
       1)本宮(吉備津彦の父孝霊天皇)
       2)新宮(吉備武彦命)
       3)内宮(吉備津彦命の妃百田弓矢日売命)
       4)岩山宮(地主神の建日方別)
 これ等の神社は吉備津神社正宮の摂社で「吉備津五所明神」と呼ばれ、「創建の年代を詳らかにせず。」とあり、さらに
  「奈良朝の頃より神宮寺の設ありて、僧徒も亦祭神に奉仕するに至りしより、社殿の建築にもこれより、其の影響を受くるに至りぬ。」
 と、他に例を見ない珍しい神社だと書かれております。

 そのことの分かる資料として、鎌倉期の末(1304年)後深草上皇の侍女の二条局が書いた旅日記「とばずがたり」に
  「吉備津の宮は都の方なれば、参りたるに、御殿のしつらひも、社などはおぼえず、やう変わりたる宮ばら体に、几張などの見ゆるぞ、珍らしき。・・・」
 とあり、鎌倉時代の末頃から、既に、吉備津神社は普通の神社とは大変其の趣が違っていたことがわかります。
 なお、この「とばずがたり」の記述は「吉備津神社記」にはありませんが、藤井俊先生の

         「吉備津神社」

 から引っ張り出して書きました。
     

「神殿の造営」について

2020-06-11 10:00:15 | 日記
 吉備津神社社伝によると「ご神殿」の建設については、次の3通りの言い伝えが残っていますす。
 
 その一;
 「大吉備津彦命より五代の孫、加夜臣奈留美命<カヤノナルミノミコト>というもの、大吉備津彦命が立て給ひたる齋殿の遺跡に就いて、社殿を営み、始めて大吉備  津彦命を祀り、外に八柱の神を相殿に祀りしといふ。」
 
 その二;
 「若日子吉備津彦命三代の孫なる稲速別命・御友別命・鴨別命が、始めてこれを祀りしとも伝えり。」

 その三;
 「仁徳天皇が吉備海部直<キビノアマノアタヒ>の女黒姫<クロヒメ>を慕ひて、此の国に幸せられける時、大吉備津命の功を嘉して創建せられしものなりともいへ  り。」
 
 とあり、更に、「孰れが正しきかを詳にせず」と但し書きがしてあります。

 

「吉備津神社記(9)」・・なぜ吉備津神社がこの地に・・・・

2020-06-10 09:23:13 | 日記
  5月の初めごろから書き出した御友別命ですが、あちらに行ったり、こちらに来たりと、もう1か月以上も書き続けております。
 「ええかげんに しとかにゃあ おえんど」
 とお叱りが届きそうですが、もうしばらくの間続けますので、是非お読みください。
 
 今迄では吉備津神社とは「一体どんな神様か」その概略を「記」によってご紹介しましたが、次よりは誰がどのようにしてこの場所に作ったか、『神社の造営』について説明します。
 まづはこの吉備津神社のある位置から。

 「此の地たる中備の咽頭に当り、東には津高堺江深く湾入し海岸には葦荻繁りて、謂はゆる日美葦原其の東麓に接し、これより早島の間には、一条の海流東西に通じ、実に天険の地を占めたり。」
 そして、
 「されば、命は先ずこの地に拠りて、これを其の鎮所とし、かくて吉備津路を統治せられ給ひしか如し。而して社殿はこの鎮所につき、建立せられたるものなるべし。」

 と、この地に吉備津神社が建てられたかその所以を書いてい居ります。
 この記から読み取れることは、当時の瀬戸内の海岸線はJR山陽線の通っている辺り(岡山市庭瀬)まで入り込んでいて、今の岡山平野はほとんど総て瀬戸内海で「吉備の穴海」と呼ばれた内海だったのです。現在の早島や妹尾などは島で、津高・一宮まで海が奥深く湾入していたのです。この海岸線沿いに広がる土地には葦や萩が生い茂り "日美葦原<ヒミノアシハラ>”と呼ばれていました。
 その葦原の西側には足守川を途中から合流した高梁川から流れ込み、肥沃な広大な三角州が生まれていました。ここにも日美葦原と同じような、それ以上の広大な「葦が森のように生い茂る」葦原があり、此の地は早くから干拓が進み人々が住み付き、中国や朝鮮からの高い文明を持つ人たちの入植も手伝って、多くの人々が暮らす我が国太古の豊かな王国か形成されていたのです。これが「吉備王国」です。その象徴が
          
                          ”吉備の中山”

 です。このお山は当時から「吉備の神南備山」として人々から崇敬されていたお山です。

皇室と吉備氏との親密な関係が・・・

2020-06-09 08:57:52 | 日記
 播磨稲目大郎女や兄媛や御友別を通して吉備氏と天皇家との親密な関連が結ばれた経緯がわかるのですが、さらに、この関係が分かる確実な歴史が「吉備津神社記」には見えます。時代は舒明天皇の時代まで下がりますが、次のように書かれてあります。
 「舒明天皇の皇子蚊屋王<カヤミコ>も、蚊屋采女、カヤウネメ>の生む所にして、疑いもなく吉備氏の出なるべし。」
 とあります。これは書紀の
    「又娶吉備国蚊屋采女。生蚊屋皇子。」
 からの記述です。更に、その吉備氏の子孫が広く日本全国に敷衍して「朝臣」「臣」「宿禰」等の爵位を賜って活躍したと書かれています。
 
 そして最後に
             「御祭神の餘烈、実に偉大なりといふべし。」
 と、記してこの項の結びとしております。

 なお、ここにある「舒明天皇」は「推古天皇」の皇子です。