米・麦・パン・麺類の配給統制組合が共同で作ったポスター。
1939年夏、西日本や朝鮮、台湾の日照りで米は大幅な減収となった。翌年5月、東京では外米6割混入の米が配給され、8月には食堂などの米食が統制された。
1941年4月、生活必需物資統制令が公布され、6大都市で米穀配給通帳制・外食券制が実施された。戦場にある兵士や米作農家の苦労をしのんで米一粒たりとも無駄にすなとの呼びかけである。
果てしない兵力増強で働き手は次々に軍隊に召集され、都市も農村も疲弊していった。泥沼のような戦争への不満は厳しい統制のもとでも消すことはできず、1939年の労働争議参加人員は約12万8千人、うちストライキには約7万人が参加した。1940年には砂糖、マッチが切符制になった。
戦争も行き詰まった1945年、「朝日新聞」(6月18日)は「食料資源の活用」「こうして食えば工夫次第で材料は無尽蔵」という見出しで、「鼠、よく消毒して食用とする」という記事をはじめ、落花生の殻、梅やびわの種、籾殻、茶殻、いなご、バッタ、モグラ、蛇などの食べ方を紹介している。そして最後に「いろんなものを食って大東亜戦争を勝ち抜く体力と気力を養え」と読者に説教をしている。