1883年(明治16)大阪紡績会社が三軒家村で創業し、日清戦争から日露戦争時代にかけて大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれた。その後、他社と合併して世界最大の紡績会社に発展したが、戦争激化とともに軍需工場に転換させられ、1945年(昭和20)3月の大空襲で焼失した。
三軒家公園にある「近代紡績発祥の地」碑
平尾亥開(ひらおいびらき)公園の東側、木津川沿いに大阪俘虜収容所があった。第一次世界大戦の結果、14年(大正3)中国にいたドイツ兵などの捕虜を収容するために、大正区(当時は西区)に設置され、760人収容していた。敷地面積は8325坪で長屋50棟、独立家屋15棟があった。16年3月には火災で15棟を焼失して広い空き地ができ、収容所内でサッカーの試合が行われていた。17年2月16日、俘虜は似島(広島市南区)に移されて、同19日閉鎖された。このころの捕虜に対する扱いは人道的で、朝夕2回の点呼以外に労働は特になく、読書、絵画、演劇、音楽、テニスやフットボールなどのスポーツを楽しんだという。解放後も日本に永住する者もいて、神戸の洋菓子製造で有名なカール・ユーハイムもその一人だ。大阪衛戍(えいじゅ)病院で没した捕虜2人は真田山の陸軍墓地に埋葬され、今も墓がある。
平尾亥開公園に「大阪俘虜収容所」の説明板がある
ちなみに大正橋の歩道はピアノの鍵盤とメトロノームを模し、下流側の欄干にはベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされ、大正区とドイツとの交流を物語っている。
本土空襲の危機が迫る44年(昭和19)9月、大阪市立南恩加島国民学校3年生の29人が徳島県美馬郡貞光町(現・つるぎ町)の真光寺に集団学童疎開した。ところが翌45年1月29日午後9時頃、漏電により本堂付近から出火。火災により逃げ遅れた16人の尊い命が奪われた。戦後間もなく16人の霊を慰めようと貞光町の町民や徳島県内の学校関係者が募金を出し合い境内に十六地蔵尊が建立され、46年5月29日に開眼供養が行われた。その後も地域住民により手厚い供養が続けられてきた。南恩加島小学校でも、毎年児童たちが千羽鶴を折り真光寺に届けている。また、母校にも慰霊碑をと6年生が中心となって企画した「十六地蔵モニュメント」の除幕式が2003年1月29日に行われた。モニュメントは高さ45cmの銅鐸で、台座には16人の遺影と名前を刻んだ銅板をはめ、中には当日渡された卒業証書が収められた。
徳島県美馬郡つるぎ町の真光寺にある十六地蔵
南恩加島小学校の十六地蔵モニュメント
1929年(昭和4)船町の木津川飛行場は未完成のまま開港し、東京や福岡などに就航、近代大阪の玄関口として重要な役割を果たした。しかし元々が軟弱な地盤で、西北方向には農林省の大きな米穀倉庫があり、飛行場がL字型という立地条件や木津川運河を渡し船で渡らなければ飛行場へ行けないという交通の便の悪さなどのため、八尾空港や伊丹空港(当時・大阪第二飛行場)に役割を引き継いだ。中山製鋼所の工場内に当時の格納庫の建物が残っている。
船町に建てられている「木津川飛行場跡」碑
三軒家東にある八坂神社(上のやさかさん)の境内に「八垂(やたれ)銀杏」という神木がある。三軒家の開発者「中村勘助(木津勘助)」が1610年(慶長15)に大阪港湾の基礎建設の記念として、また無病息災を祈願して植樹したと伝えられている。45年3月13日、14日の空襲で社殿を焼失。イチョウも焼けたがその根元から若木が成長している。勘助の業績を刻む「中村勘助源義久彰徳」碑も空襲で傷つき、修復されて神社の傍らに建っている。
戦災を被った八坂神社の八垂銀杏
「中村勘助源義久彰徳」碑も空襲を受け表面が剥離している