戦前、戦中、戦後を生き抜いた母の記
大学時代の友人たちと久々の同窓会で再会、それからしばらくして一冊の本が届いた。『道芝の記――私の戦前、戦中そして終戦』という本であった。著者「前糸枝」とある。
ああ、友人のお母様だ。奈良の農家に大正8年、次女として生まれた。次男でなく次女で生まれた出生の不幸。「余計な子」として冷遇され、その中をじっと耐え抜き、やっとつかんだ幸せな結婚も夫が戦争にとられ、まさに苦難の連続だった。その中で顔を上げて生き抜いてきた日本の母ちゃんの不屈の手記だった。
手にしたら一気に読み上げた。まだ言葉にならぬ想いのままペンをとって、友人に返事を送った。
◎今こそ伝えたい自分史
…お母様の『道芝の記』一気に読ませていただきました。よくぞ顔を上げ、今日まで生き抜いてこられたと胸を熱くしております。
圭一さん(次男で、私の学生時代の友人、定年まで大学教授)の問題や平和運動そして大学教授時代の大学民主化闘争を不屈に闘い抜いてきた魂の在り処を見せていただきました。この母ありてこその圭一さんだったんですね。
実は、私も徳島の封建制の厳しい農村に生まれ、嫁と姑のあの「荷車のうた」のような家庭で、子ども時代を過ごし、早く家を飛び出したくて広島の大学へ向かいました。大学に入って、あの戦前、戦中、戦後の時代とは何だったのか、その中で生きてきた母の人生を振り返り、わが生き方をも深く考えたのでした。父も戦争にとられ、玉砕の島でのわずかの生き残りで、命からがら帰国。こんな自分のこととも重ねながら読ませていただきました。
私の夫も、戦争で焼け出され、中学時代、父親を亡くし、それ以後、母親一人で5人の子を育て上げました。遠縁の家の納屋の二階を借り、雨漏りのする家で雨露をしのぎ、今日のごはんにありつけるかとオロオロする日を過ごしました。学校を休んだら先生や友人が見舞いに家に来られるから、と病気をしても1日も休まず学校へ行ったということでした。ハンカチ・鼻紙検査のときも、親が用意してくれた鼻紙がわりの新聞紙の切ったものを見て、先生に、これは鼻紙ではないと笑われた、という話も聞かされました。
この暮らしの中で、夫を大学にやり、楽天的に生き抜いた姑もまた偉大な人でした。この姑とは、結婚して以来亡くなるまでずっと一緒に暮らしました。頑張って仕事をしていると「ようがんばるね」とよくほめてもらいました。
あなたのお母様の自分史をこんなわが人生と重ねて読ませていただき、思いひとしおでした。
踏まれても根強く偲べ 道芝のやがて花咲く春に会わなん(前 糸枝)
あの、お母様のすべての人生がここにあります。読みながら涙を流していても、「大変でしたね、かわいそうだ」などとは思えず、粘り強く困難を乗り越えていく楽天性、明日に注ぐエネルギー、しかもどんなに虐げられても人間への信頼がゆるがず、人の温もりに助けてもらって、前へ前へと生きてきた生き様、圧巻でした。
そして、戦争とは民衆にとって何だったかを暮らしの事実、真実を通してリアルに語ってくださっている。この自分史を再び戦争する国へとひた走る今こそ伝えていかねばと改めて思ったことでした。
こんなお母さんたちの涙と願いが結晶した憲法九条を何としても守り抜かねば、とまた気持ちをひきしめました。
94歳になられたお母様、今もお元気だとのこと、何より嬉しいですね。圭一さんが、この本を世に送ってあげたこと、何よりの親孝行でしたね。お母様は、書くことで、ご自分の人生の意味を一層深め、耐えて筆舌に尽くしがたいご苦労も報われたのではないでしょうか。いい息子を持ったもんだと喜んでいらっしゃることでしょう。
私もまた、いい本と会えたことに感謝です。そして、お母様にも…。すばらしい同窓会になりました。
(とさ・いくこ 和歌山大学講師・大阪大学講師)