・・・「薄=艹(草)+氵(水)+専(專)=うすい・ハク=厚みがすくない・薄氷・薄片・内容がすくない・わずか・とぼしい・薄給・薄利・かるい・かろんじる・薄情・軽薄・せまる・ちかづく・問い詰める・追い迫る・薄暮・肉薄=肉迫・すすき(芒)⇔すすき=啜記・イネ(稲)科の多年草」・・・「肉薄=にくはく・ジクハク=肉迫=字句葉句?」・・・「迫る・切迫=セッパク=雪白⇔説葉句?」・・・十五夜に芒(すすき)と団子(だんご・煮芋=にいも=煮薯)・・・垂れ下がった稲穂の姿に似る=芒(すすき)=薄・・・ささき・すずき・そそぎ・・・うすき=薄木・臼杵・臼木・宇宿・・・佐々木・笹木・須々木・鈴木・鱸・曽々木・曾々木・注ぎ・濯ぎ・雪ぎ・・・「さしすせそ=サシスセソ」・・・うスき⇔うサき⇔うサギ・・・
薄(すすき)+月見団子・里芋・枝豆・栗など+御酒
稲刈り前で稲穂に似たススキ(芒=のぎ・ボウ・薄)を供えた
芒=のぎ・ボウ=イネ科の植物の小穂を構成する
鱗片(穎)の先端にある棘状の突起
芒=夏朝の第九代帝
父は「槐=木+鬼」
竹書紀年によれば、58年間在位・・・竹書紀年?
・・・五(伍)拾(足)八(捌)念
在位中、東海で釣りをし、大魚を得た
・・・?だから何?・・・魚の名・・・真名・真魚
芒=イネ科の植物の小穂を
構成する鱗片(穎)の
先端にある棘状の突起
芒=鱗片の先端から針状の突起
イネ科植物の芒は針状の突起で硬い
途中で曲がりを持つモノもある
↓↑
二十四節気のうち
芒種(ボウシュ)=芒を持つ植物の種を蒔く時期
↓↑
芒=荒=黄帝の孫・昌意の子
父は「槐」
夏の先祖=顓頊(耑頁王頁)→鯀(コン・魚系)
顓頊(センギョク)=名は高陽・高陽氏
黄帝の孫・昌意の子
夏の王系
禹=ウ・う・・・⇔兎・兔・菟
=ノ+中+禸(ぐうのあし・じゅう・じゅうのあし)
禺 の脚 獣 獣 の足
=ノ+虫(中ム)+冂(まきがまえ・ケイ・キョウ)
姓は姒・鯀の子・治水に功績、舜から禅譲で
帝位を受け、夏王朝を建国
禹(紀元前1900年頃)の夏朝の創始者
名は文命(ブンメイ)・・・ブンメイ=文名・文明・分明
諡号は禹(ウ)
別称は大禹、夏禹、戎禹とも
姓は姒(ジ)
姓・諱を合わせ
姒文命(ジブンメイ)とも・・・ジブン=自分・時分・字分
夏王朝創始後、
氏を夏后(カゴウ)・・・・・・カゴウ=化合
掛合=掛け合わせ
禹
→啓→太康→中康
→相→少康
→予
→槐
→芒
→洩→不降→扃→廑→孔甲
→皐
→発→桀
ーー↓↑ーー
薄姫(ハクキ・?~紀元前156年)
呉郡(吳郡・江蘇省と浙江省にまたがる地域)出生
秦末から前漢前期の人物
西魏王
魏豹の後宮に側室
↓↑・・・魏 豹(ギヒョウ・?~紀元前204年)
戦国時代後期から秦代
魏王室の公子
後の西魏王
魏咎の弟または従弟
呉音「ギヒョウ」・・・技評・戯評・儀表・・・偽証?
漢音「ギホウ」・・・・技法・宜法・儀鳳・・・偽報?
魏豹は
陳勝・呉広の乱に
魏咎と共に挙兵
周巿らに擁立された
魏咎が魏王になるとこれに仕えた
↓↑ 紀元前208年
秦の章邯の侵攻で
魏咎が焼身自殺し
魏豹は楚の
項梁を頼って逃亡
懐王より数千の兵を借り
魏の20余城を攻め落とし
章邯が項羽に降伏した後
魏王を称した
↓↑ 紀元前206年
項羽が秦を滅ぼす
魏豹は領土を削り取られて
西魏王とされ
楚漢戦争が始まり
劉邦が韓信を得て
章邯らの三秦を打ち破り
魏豹は自ら劉邦と同盟を結び
彭城の戦いに加わるが
項羽の3万の軍勢に連合軍は大敗
敗戦後
魏豹は母を看病すると偽って帰国
劉邦から離反し
項羽に味方した
魏豹の離反に
劉邦は
酈食其を使者として説得させたが
漢王(劉邦)に二度と会いたくもないと拒否
↓↑ 紀元前205年
韓信による諸国遠征で
西魏が標的
黄河を挟んで対岸に位置する
蒲阪と臨晋に
それぞれ魏軍と漢軍が対峙
蒲阪に魏軍が集中
韓信は
臨晋から大軍が渡河するように見せかけ
上流に回り込んで
木樽で作った即席の
筏で黄河を渡り
魏軍の背後にある首都安邑を衝いた
魏軍は引き返そうとしたが
前後から攻撃されて大敗し
魏豹は捕らえられ
西魏は劉邦の漢の直轄地の郡に編入
魏豹は庶民に落とされ
側室の
薄氏は劉邦の側室となり
劉恒(文帝)を生んだ
↓↑ 紀元前204年
魏豹は再び登用され
滎陽で
周苛
樅公
とともに守備を命じられ
漢軍をまとめさせた
項羽率いる楚軍に包囲されると
秋8月に
周苛と樅公は
魏豹が反乱を起こす恐れあり
魏豹を殺害
滎陽は項羽に攻め落とされ
周苛は煮殺
↓↑ 樅公は処刑
薄姫は、後に
劉邦(高祖)の側室になり
文帝
劉恒を産む
劉恒が
代王に立てられ
薄氏は
代太后となって
一緒に
代に住んだ
↓↑
「劉恒=文帝」は
前漢の
第五代皇帝
恵帝の子とされる
二人の
少帝を除外し
第三代皇帝とする場合もある・・・
諱は劉恒(リュウ コウ)
高祖
劉邦の四男(庶子)
妻に
竇漪房
↓↑
ーーーーー
生母の薄氏は
戦国時代の
魏王室出身の女性を母とし
秦末の動乱期~楚漢戦争初期の頃に
「魏豹」の後宮に入内
↓↑
文帝(孝文帝・劉恒)
の在位期間は
減税が数度実施
一切の田租が免除の年もあった
法制度の改革で
斬首、去勢を除く
肉刑の廃止・・・肉刑=ジクケイ=字句形・・・廃止=ハイシ=?
↓↑
生母の
薄氏・・・・・・薄氏=ハクシ=葉句史=白紙=白詞⇔白文
に対しては孝行を尽くし
自ら毒味役を務めたり
孝行な皇帝
二十四孝に数えられた
文帝は
薄氏を尊重し
冤罪により
周勃が逮捕された際に
薄氏から叱責を受けると
周勃の釈放を命じた
計画していた
匈奴との戦争を
薄氏の説得により中止
↓↑
・祖(劉邦) 太皇太后 呂雉 側室 薄姫
↓↑
・第2代皇帝 恵帝(劉盈)
・第3代皇帝 少帝(劉恭)
・第4代皇帝 少帝(劉弘)
↓↑
・第5代皇帝 文帝(劉恒)孝文皇后・竇漪房
↓↑
・第6代皇帝 景帝(劉啓)諡号は孝景皇帝
↓↑
母は竇皇后
后妃は薄皇后・王皇后
中郎将・袁盎
御史大夫・鼂錯
・・・鼂=旦(日一)龜蠅縄
龟・𠁴・𠃾・𤕣・𧑴・𪚦・𪚧・𪚨・𪚺・𪚿
縄=糸+甲+甩
異体字は
繩=糸+黽・䋲・绳・𦃻
鼂錯=晁錯
諸侯王の勢力を削減で反発を招き
呉楚七国の乱
反乱鎮圧のためと称して殺された
本来の表記は鼂錯
晁錯は略字
↓↑
後漢の創始者の
光武帝-劉秀
蜀漢の創始者の
昭烈帝-劉備
は景帝の末裔と称した
↓↑
同名の皇帝
呉 (三国) の
景帝(孫休、在位258年~264年)
↓↑
西晋の司馬師=諡号は
最初「武公」→「忠武公」
司馬昭が晋王となると諡号は
「景王」、「世宗」
「景帝」と追号
↓↑
前趙(漢)の皇族
劉亮(景帝)は
玄孫の
劉曜によって「景帝」と追号
劉曜=前趙(漢)
第5代皇帝(在位318年~329年)
字は永明
父は劉緑
母は胡氏
弟に劉暉
↓↑
晋書
唐、太宗の命により編纂
魏志、魏略、後漢書、
隋・唐代に
晋代の史料を整理構成
司馬炎(晋の武帝)により
晋が建国され
泰始元年(西暦265年)の朝貢に先立って
文帝と
諡された
司馬昭時代の
倭の遣使
↓↑
泰始元年⇔泰始 (晋)=西晋の元号(265年~274年)
晉-武帝-太始初
↓↑
泰始元年(U西暦265年6月10日)=(G西暦265年6月10日)
(神功皇后)38年5月11日
↓↑
乙酉(庚・ ・辛)
壬午(丙・ ・丁)
癸亥(戊・甲・壬)
↓↑
壱与の三度目の遣使
帯方郡使、張政の帰国は
魏末期、
司馬昭時代の最初の遣使・・・
↓↑
司馬懿(宣帝)→司馬師(景帝)→司馬昭(文帝)
→司馬炎(武帝、晋建国)
司馬師
建安十三年(208年)~正元二年(255年)
河内郡温県-出生地 許昌-死没地
字は子元
↓↑
251年8月10日
(神功皇后)51年7月7日
西暦251年8月10日
辛未(丁・乙・己)
丙申(己・壬・庚)
庚戌(辛・丁・戊)日曜日
司馬懿
が亡くなると
↓↑
「伊尹既に卒するも、伊陟事を嗣ぐ」
撫軍大将軍として
「魏王朝」の全権を掌握
「西晋王朝」が建つと
世宗の廟号
景帝の諡号
↓↑
景初二年六月=238年6月10日
戊午(丙・ ・丁)
戊午(丙・ ・丁)
辛丑(癸・辛・己)日曜日
↓↑
倭の女王、
大夫-難升米
等を遣わし郡に詣り
天子に詣りて朝献せんことを求む
太守-劉夏、
使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ
その年十二月、詔書して
倭の女王に報じていわく、
「親魏倭王卑弥呼に制詔す。
帯方の
太守-劉夏、使を遣わし
汝の大夫、難升米
次使、都市牛利
を送り、
汝献ずる所の
男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を
奉り以て到る。
汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。
これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。
今汝を以て
親魏倭王となし、
金印紫綬を仮し、
装封して
帯方の太守に付し仮綬せしむ。
汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
↓↑
・第7代皇帝 武帝(劉徹)
・第8代皇帝 昭帝(劉弗陵)
・第9代皇帝 宣帝(劉詢)
・第10代皇帝 元帝(劉奭)
・第11代皇帝 成帝(劉驁)
・第12代王 哀帝(劉欣)
・第13代王 平帝(劉衎)
・後漢
初代皇帝 光武帝(劉秀)
↓↑ ↓↑
ーーーーー
・・・???・・・
第 六代 景帝皇帝(劉啓)諡号は孝景皇帝
↓↑ ・・・孝=十一ノ一了子
↓↑
第十二代 景行天皇 大足彦忍代別
オオタラシヒコオシロワケ
景行元年7月11日~同60年11月7日
↓↑
景保・・・・・・・高橋景保・・・???
通称、作左衛門
字、子昌
号、蛮蕪・観巣・Globius(球体・ラテン語で世界)