・・・武蔵寺(ぶぞうじ)・・・?・・・ムサシではないジ・・・?
・・・二刀流のオホタニ・・・
・・・しらぎ・・・
・・・二刀流のオホタニ・・・
・・・しらぎ・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/0e/4b16838f98366e35bbb798b31a21cf71.jpg)
『資治通鑑』巻百四
・・・「指示(私事・師事・支持・四時=寅刻)」通観?
太元二(377年)年条・・・体言、似撚・・・太安万侶?
高句麗とともに
『秦書』
太元二(377年)年
前秦に初めて
新羅が朝貢
382年
新羅王
楼寒(ロウカン・ヌハン)の朝貢
↓↑ ・・・楼=木+娄(米+女)
=樓=木+婁(口十口女)
・・・娄=婁
米=口+十+中
中+一+中
串+一
中+一
口+十
申・田・甲・由
甲申=甲子干支から二十一番目
猿女
卑弥呼(生年不明 - 242年~248年)
壬申=甲子干支から九番目
癸酉=甲子干支から十番目
樓=木+口+一+口+丨+女
たかどの・やぐら・ロウ
高い建物・楼閣・楼門
物見やぐら(矢倉)
望楼
茶屋・料理屋
遊女屋
妓楼(ギロウ)・紅楼(コウロウ)・高楼( コウロウ)
山楼(サンロウ)・酒楼(シュロウ)・鐘楼(ショウロウ)
城楼(ジョウロウ)・登楼( トウロウ)
↓↑ ↓↑
婁=ル・ロウ・つなぐ・つながれる
ひく・ひきよせる・ひきずる
牛をつなぐ
なぜ「婁」の漢字が繋ぐ、引摺るなのか?
妓楼=遊女を置いて、客と遊ばせる商売店舗
遊女を置いて、客を遊ばせる娼館
・・・「廓・郭・曲輪」に繋がれた娼妓が
客を引っ張る・・・楼閣・・・妓楼・・・?
・・・ the air pump・・・空気入れ・・・
・・・ふいご・吹革・鞴・韛=pair of bellows
・・・婁=送風器・・・
女の上で空気入れ「piston action=毌(貫)+中」
婁宿(ロウシュク
たたらぼし=蹈鞴星
ふいご=鞴座・吹子・鞴)
むなしい(虚しい)・中が空(から・空気)
二十八宿の一
合多技能、少疾病、好解医方
↓↑
新羅の前身
辰韓の
斯盧国であると
前秦に奏上
「楼寒=王号の麻立干」
「奈勿尼師今」に比定
奈勿尼師今・・・奈勿尼師今(なこつ にしきん・?~402年)
↓↑ 名乞 似詞記務?
奈(なんぞ)
勿(なかれ)
尼(あま)
師(シ)=𠂤(積み重なった土石)+一+巾
↓↑ ↓↑ 𠂤=阜・岐阜・曲阜=重なった丘
追撃・追伸・追い剥ぎ
丿+㠯(もちいる)+帀(めぐる)
丿+㠯+一+巾
いくさ・軍隊・周代で二千五百人の兵
手本となる人・教え導く人・軍師・恩師
みやこ・多くの人が集まる所・多くの人
ある専門の技術をもつ人・技芸のすぐれた人
もちいる・使う
㠯=もって・~によって・~で
もってする
おもう・おもんみる・考える
率いる
ゆえ・わけ・理由
すでに
↓↑ はなはだ・非常に・大
今(いま)=現在
↓↑ ↓↑
新羅の第17代の王(在位356年~402年)
姓は金氏
別名は那密(尼師今)
第13代・・・13日金曜日
ゴルゴダ(Golgotha )の磔刑の丘
アラム語で頭蓋骨
ラテン語 calva (頭蓋)
カルワリオ・カルヴァリー=髑髏
サレコウベ=曝首=風雨に曝(晒)された頭骨
味鄒尼師今の
甥(父は仇道葛文王の子の・・・仇の道の葛の文王
末仇角干(1等官の別名)・・・末の仇の角の干
母は金氏の休礼夫人)・・・・・礼を休(やすむ)・・・無礼
王妃は
味鄒尼師今の娘の
↓↑ 保反夫人・・・・・・・・・・・反を保(たもつ)
の即位(356年)が
新羅の建国元年
「梁の職貢図」では
「あるときは韓の属国
あるときは倭の属国」・・・倭の属国
と記述・・・
『晋書』巻97辰韓伝
普通二年(521年)・・・不通似撚(語念位置撚)?
新羅の
募秦王(法興王)が・・・募(つの)る秦(シン)の王
百済に随伴して初めて朝貢
前漢時代の
楽浪郡の故地に居
金天氏・白帝・・・・金(キム)の天(あま)の氏
白(いわく=磐句・曰く)の
帝(みかど・テイ=綴)
↓↑
新羅の王族
少昊金天氏・・・皇娥と黄帝の子
↓↑ 少昊(ショウコウ・ 少皥)
五帝の一人
姓は己
氏は金天氏
(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏)
名は摯(シ・鷙・質)、または玄囂
号は「昊・皞・皓・顥」とも
↓↑ 「朱宣・少昊(少昊とは太昊の徳行を継承したこと」
の子孫
東海の青陽に建国・・・・青陽県(せいようけん)
↓↑ 中国安徽省池州市の県
「東海」=渤海 (海域) ~黄海(Yellow Sea)
遼東半島と山東半島の間にある湾状の海域
~黄海(Yellow Sea)
中国天津、遼東半島、青島の東・・・「東海」
↓↑ ↓↑
青陽=韓国忠清南道の郡
青陽郡(チョンヤンぐん) - 韓国忠清南道の郡
朝鮮半島の西・・・「西海」
↓↑ 「東海」≠「日本海」
のちに都を
曲阜に置いた
『春秋左氏伝』
昭公十七年の項に
暦を作成
官名を
玄鳥氏、伯趙氏、青鳥氏、丹鳥氏
など、鳥類の名で呼んだ
↓↑
仙女
皇娥の仕事は天宮で
織物を織る事
仕事を休み
天の川をいかだで下り
神木
窮桑の木の下にたどり着き
黄帝と出会い
少昊を生んだ・・・
↓↑
新羅の
金氏王族
匈奴から渡来・・・
↓↑
朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系
↓↑
辰韓の
六村の長の一人が
蘿井(慶州市塔里面)の林で
馬の嘶くのが聞こえたので
近寄ったところ
馬が消え
大きな卵があった
卵を割ると幼児が出てきこれを
育て上げたが
10歳を越える頃に
六村の人たちは彼を王位につけた
卵が
瓠(ひさご)
↓↑・・・瓢箪(ウリ)は
豊臣秀吉の軍標・・・豊臣秀吉の出自はウリ?
秀吉の馬印=千成瓢箪
金のフクベ⇔服部
金のノレン⇔暖簾
ふくべ=瓢・瓠・匏
瓢箪 (ひょうたん)
ウリ科の夕顔
かんぴょう
干瓢=乾瓢
↓↑ 胡盧(ころ・葫盧・壺盧)
ほどの大きさで
辰韓の語で
瓠を表す
「朴」を
姓として名乗った・・・瓠=朴
↓↑
建国時に
倭人が
腰に瓠をぶら下げてを
渡って来たことから
瓠公
と称され
大輔という
役職名の重臣になった
瓠公が
瓠を腰にぶら下げて
海を渡ってきたことから
瓠公と
朴赫居世を同定
またはその同族・・・
朴(ボク・パク)
赫居世
(かくきょせい・きょせいかん)
赫 居 世 居西干
(かくきょせい きょせいかん)
紀元前69年?~後4年)
斯蘆国の初代の王
(在位:紀元前57年?~4年)
姓は朴
名は赫居世
↓↑
紀元前57年
13歳で・・・壹與・・・卑弥呼の後継
↓↑ 持統・・・天武に嫁す
歴山大王=亞歴山
13歳
都ペラから離れた
「ミエザの学園」で
アリストテレス
↓↑ の講義を受けた
↓↑ めぐみチャン拉致
ー↓↑ーーー
13歳
成宗(ソンジョン、せいそう)
天順元年七月三十日(1457年8月20日)
~
弘治七年十二月二十四日(1495年1月20日)
李氏朝鮮
第9代国王(在位1469年~1494年)
姓は李
名は娎
諡は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王
君号は者山君⇒乙山君
↓↑
第7代国王
世祖の第1王子
李暲(徳宗・トクジョン・とくそう)
(1438年~1457年)の第2王子
母は
懿敬世子・・・懿敬の世子・・・司馬懿・懿徳天皇
懿=懿=壹+恣=壹+次+心
=壹+冫+欠+心
十+一+冖+豆+冫+欠+心
嬪韓氏
(成宗即位時、昭恵王后と追尊
仁粹大妃(インスデビ・じんすいたいひ)
成宗が死去し
第1王子
燕山君
が即位してからは
仁粹大王大妃
(インスデワンデビ・じんすいだいおうだいひ)
(1437年~1504年)
前王
睿宗は叔父
士林派(サリム=朱子学の科挙官僚)を登用
↓↑
世祖~中宗の略系図
7世祖━┳李暲(徳宗)━━ 9成宗━┳10燕山君
┗8睿宗 ┗11中宗
↓↑
成宗は
世祖の長男である
懿敬世子(徳宗)と
王世子
嬪韓氏の二男として生まれた
↓↑
1469年11月28日
朝鮮国王に
↓↑
13歳で即位・・・十三歳
当初には
貞熹大王大妃の
垂簾聴政を受けた
全決定権は
申叔舟
韓明澮
などの元老が握った
1476年
元老大臣の院相制度を廃止
↓↑ 士林勢力の政治的基盤を作った
↓↑
成宗の治世
文化政策を拡大
1474年
『経国大典』を完成・頒布
1492年
『大典続録』『東国輿地勝覧』
『東国通鑑』『楽学軌範』
など編纂、刊行
「弘文館」を設置
賜暇読書(湖堂制度)を実施
僧侶たちを厳しく統制
寺院を閉鎖
崇儒抑仏政策を実践
鴨緑江周辺の
女真族を追い出し
豆満江地域の
女真族の巣窟を掃討
1494年12月24日
↓↑ 38歳で崩御
↓↑
1492年
干支 : 壬子
日本
延徳四年、明応元年七月十九日
中国
明 : 弘治五年
朝鮮
李氏朝鮮 : 成宗二十三年
↓↑ ↓↑
8月 2日クリストファー・コロンブス
スペインのパロスを出航
10月12日コロンブス、西インド諸島に到達
10月28日コロンブス、キューバに到達
ー↓↑ーーー
斯蘆国の初代の王
(在位:紀元前57年?~4年)
姓は朴
名は赫居世
↓↑
紀元前57年
↓↑
13歳で
王位
(王者=居西干と称された)
に就き
国号を
徐那伐とした
閼英井(南山の北西麓の羅井)に
龍(娑蘇夫人)現れ
その左脇(『三国史記』では右脇)
から生まれた
幼女が長じ
容姿端麗にして人徳を備えていたので
朴赫居世は
彼女(閼英夫人)を王妃とした
人々は
赫居世と
閼英夫人
とを二聖と称した
『三国史記』と『三国遺事』
によると
朴赫居世
と
閼英夫人
はともに
中国から
辰韓に渡来した
中国の王室の娘
娑蘇夫人の子・・・
↓↑
昔氏初代の
昔脱解(第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里の
多婆那国(兵庫北部等の本州)
の王妃が妊娠
七年たって
大きな卵を生み
不吉であるとして
箱に入れて海に流した
辰韓に流れ着き
老婆の手で箱が開けられ
中から一人の男の子が出てきた
箱が流れ着いたときに
鵲(カササギ)がそばにいたので
鵲の字を略して
「昔」を姓とし
箱を開いて生まれ出てきたので
「脱解」を名とした
長じて
第二代
南解次次雄の娘(阿孝夫人)の
女婿となり
のちに王位を譲られた
↓↑
新羅の祖
鵜草葺不合命
の子の
稲飯命(神武天皇の兄)
↓↑
天之日矛
日本から渡った
稲飯命の開いた
新羅王朝家の子孫
新羅の王族
朴氏・昔氏・金氏
の三始祖のうち
昔氏の始祖
脱解の出生については
倭国東北1千里という
昔脱解は船で渡った倭人
その出生地は
但馬(兵庫県北部)と推定・・・
天之日矛が祭られる
豊岡と一致・・・
752年(天平勝宝四年)
新羅王子
金泰廉
ら700余名の新羅使が来日
日本へ朝貢
使節団は
奈良の大仏の塗金用の金を貢いだ
王子の朝貢で
新羅は日本に服属した・・・
↓↑
・・・「指示(私事・師事・支持・四時=寅刻)」通観?
太元二(377年)年条・・・体言、似撚・・・太安万侶?
高句麗とともに
『秦書』
太元二(377年)年
前秦に初めて
新羅が朝貢
382年
新羅王
楼寒(ロウカン・ヌハン)の朝貢
↓↑ ・・・楼=木+娄(米+女)
=樓=木+婁(口十口女)
・・・娄=婁
米=口+十+中
中+一+中
串+一
中+一
口+十
申・田・甲・由
甲申=甲子干支から二十一番目
猿女
卑弥呼(生年不明 - 242年~248年)
壬申=甲子干支から九番目
癸酉=甲子干支から十番目
樓=木+口+一+口+丨+女
たかどの・やぐら・ロウ
高い建物・楼閣・楼門
物見やぐら(矢倉)
望楼
茶屋・料理屋
遊女屋
妓楼(ギロウ)・紅楼(コウロウ)・高楼( コウロウ)
山楼(サンロウ)・酒楼(シュロウ)・鐘楼(ショウロウ)
城楼(ジョウロウ)・登楼( トウロウ)
↓↑ ↓↑
婁=ル・ロウ・つなぐ・つながれる
ひく・ひきよせる・ひきずる
牛をつなぐ
なぜ「婁」の漢字が繋ぐ、引摺るなのか?
妓楼=遊女を置いて、客と遊ばせる商売店舗
遊女を置いて、客を遊ばせる娼館
・・・「廓・郭・曲輪」に繋がれた娼妓が
客を引っ張る・・・楼閣・・・妓楼・・・?
・・・ the air pump・・・空気入れ・・・
・・・ふいご・吹革・鞴・韛=pair of bellows
・・・婁=送風器・・・
女の上で空気入れ「piston action=毌(貫)+中」
婁宿(ロウシュク
たたらぼし=蹈鞴星
ふいご=鞴座・吹子・鞴)
むなしい(虚しい)・中が空(から・空気)
二十八宿の一
合多技能、少疾病、好解医方
↓↑
新羅の前身
辰韓の
斯盧国であると
前秦に奏上
「楼寒=王号の麻立干」
「奈勿尼師今」に比定
奈勿尼師今・・・奈勿尼師今(なこつ にしきん・?~402年)
↓↑ 名乞 似詞記務?
奈(なんぞ)
勿(なかれ)
尼(あま)
師(シ)=𠂤(積み重なった土石)+一+巾
↓↑ ↓↑ 𠂤=阜・岐阜・曲阜=重なった丘
追撃・追伸・追い剥ぎ
丿+㠯(もちいる)+帀(めぐる)
丿+㠯+一+巾
いくさ・軍隊・周代で二千五百人の兵
手本となる人・教え導く人・軍師・恩師
みやこ・多くの人が集まる所・多くの人
ある専門の技術をもつ人・技芸のすぐれた人
もちいる・使う
㠯=もって・~によって・~で
もってする
おもう・おもんみる・考える
率いる
ゆえ・わけ・理由
すでに
↓↑ はなはだ・非常に・大
今(いま)=現在
↓↑ ↓↑
新羅の第17代の王(在位356年~402年)
姓は金氏
別名は那密(尼師今)
第13代・・・13日金曜日
ゴルゴダ(Golgotha )の磔刑の丘
アラム語で頭蓋骨
ラテン語 calva (頭蓋)
カルワリオ・カルヴァリー=髑髏
サレコウベ=曝首=風雨に曝(晒)された頭骨
味鄒尼師今の
甥(父は仇道葛文王の子の・・・仇の道の葛の文王
末仇角干(1等官の別名)・・・末の仇の角の干
母は金氏の休礼夫人)・・・・・礼を休(やすむ)・・・無礼
王妃は
味鄒尼師今の娘の
↓↑ 保反夫人・・・・・・・・・・・反を保(たもつ)
の即位(356年)が
新羅の建国元年
「梁の職貢図」では
「あるときは韓の属国
あるときは倭の属国」・・・倭の属国
と記述・・・
『晋書』巻97辰韓伝
普通二年(521年)・・・不通似撚(語念位置撚)?
新羅の
募秦王(法興王)が・・・募(つの)る秦(シン)の王
百済に随伴して初めて朝貢
前漢時代の
楽浪郡の故地に居
金天氏・白帝・・・・金(キム)の天(あま)の氏
白(いわく=磐句・曰く)の
帝(みかど・テイ=綴)
↓↑
新羅の王族
少昊金天氏・・・皇娥と黄帝の子
↓↑ 少昊(ショウコウ・ 少皥)
五帝の一人
姓は己
氏は金天氏
(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏)
名は摯(シ・鷙・質)、または玄囂
号は「昊・皞・皓・顥」とも
↓↑ 「朱宣・少昊(少昊とは太昊の徳行を継承したこと」
の子孫
東海の青陽に建国・・・・青陽県(せいようけん)
↓↑ 中国安徽省池州市の県
「東海」=渤海 (海域) ~黄海(Yellow Sea)
遼東半島と山東半島の間にある湾状の海域
~黄海(Yellow Sea)
中国天津、遼東半島、青島の東・・・「東海」
↓↑ ↓↑
青陽=韓国忠清南道の郡
青陽郡(チョンヤンぐん) - 韓国忠清南道の郡
朝鮮半島の西・・・「西海」
↓↑ 「東海」≠「日本海」
のちに都を
曲阜に置いた
『春秋左氏伝』
昭公十七年の項に
暦を作成
官名を
玄鳥氏、伯趙氏、青鳥氏、丹鳥氏
など、鳥類の名で呼んだ
↓↑
仙女
皇娥の仕事は天宮で
織物を織る事
仕事を休み
天の川をいかだで下り
神木
窮桑の木の下にたどり着き
黄帝と出会い
少昊を生んだ・・・
↓↑
新羅の
金氏王族
匈奴から渡来・・・
↓↑
朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系
↓↑
辰韓の
六村の長の一人が
蘿井(慶州市塔里面)の林で
馬の嘶くのが聞こえたので
近寄ったところ
馬が消え
大きな卵があった
卵を割ると幼児が出てきこれを
育て上げたが
10歳を越える頃に
六村の人たちは彼を王位につけた
卵が
瓠(ひさご)
↓↑・・・瓢箪(ウリ)は
豊臣秀吉の軍標・・・豊臣秀吉の出自はウリ?
秀吉の馬印=千成瓢箪
金のフクベ⇔服部
金のノレン⇔暖簾
ふくべ=瓢・瓠・匏
瓢箪 (ひょうたん)
ウリ科の夕顔
かんぴょう
干瓢=乾瓢
↓↑ 胡盧(ころ・葫盧・壺盧)
ほどの大きさで
辰韓の語で
瓠を表す
「朴」を
姓として名乗った・・・瓠=朴
↓↑
建国時に
倭人が
腰に瓠をぶら下げてを
渡って来たことから
瓠公
と称され
大輔という
役職名の重臣になった
瓠公が
瓠を腰にぶら下げて
海を渡ってきたことから
瓠公と
朴赫居世を同定
またはその同族・・・
朴(ボク・パク)
赫居世
(かくきょせい・きょせいかん)
赫 居 世 居西干
(かくきょせい きょせいかん)
紀元前69年?~後4年)
斯蘆国の初代の王
(在位:紀元前57年?~4年)
姓は朴
名は赫居世
↓↑
紀元前57年
13歳で・・・壹與・・・卑弥呼の後継
↓↑ 持統・・・天武に嫁す
歴山大王=亞歴山
13歳
都ペラから離れた
「ミエザの学園」で
アリストテレス
↓↑ の講義を受けた
↓↑ めぐみチャン拉致
ー↓↑ーーー
13歳
成宗(ソンジョン、せいそう)
天順元年七月三十日(1457年8月20日)
~
弘治七年十二月二十四日(1495年1月20日)
李氏朝鮮
第9代国王(在位1469年~1494年)
姓は李
名は娎
諡は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王
君号は者山君⇒乙山君
↓↑
第7代国王
世祖の第1王子
李暲(徳宗・トクジョン・とくそう)
(1438年~1457年)の第2王子
母は
懿敬世子・・・懿敬の世子・・・司馬懿・懿徳天皇
懿=懿=壹+恣=壹+次+心
=壹+冫+欠+心
十+一+冖+豆+冫+欠+心
嬪韓氏
(成宗即位時、昭恵王后と追尊
仁粹大妃(インスデビ・じんすいたいひ)
成宗が死去し
第1王子
燕山君
が即位してからは
仁粹大王大妃
(インスデワンデビ・じんすいだいおうだいひ)
(1437年~1504年)
前王
睿宗は叔父
士林派(サリム=朱子学の科挙官僚)を登用
↓↑
世祖~中宗の略系図
7世祖━┳李暲(徳宗)━━ 9成宗━┳10燕山君
┗8睿宗 ┗11中宗
↓↑
成宗は
世祖の長男である
懿敬世子(徳宗)と
王世子
嬪韓氏の二男として生まれた
↓↑
1469年11月28日
朝鮮国王に
↓↑
13歳で即位・・・十三歳
当初には
貞熹大王大妃の
垂簾聴政を受けた
全決定権は
申叔舟
韓明澮
などの元老が握った
1476年
元老大臣の院相制度を廃止
↓↑ 士林勢力の政治的基盤を作った
↓↑
成宗の治世
文化政策を拡大
1474年
『経国大典』を完成・頒布
1492年
『大典続録』『東国輿地勝覧』
『東国通鑑』『楽学軌範』
など編纂、刊行
「弘文館」を設置
賜暇読書(湖堂制度)を実施
僧侶たちを厳しく統制
寺院を閉鎖
崇儒抑仏政策を実践
鴨緑江周辺の
女真族を追い出し
豆満江地域の
女真族の巣窟を掃討
1494年12月24日
↓↑ 38歳で崩御
↓↑
1492年
干支 : 壬子
日本
延徳四年、明応元年七月十九日
中国
明 : 弘治五年
朝鮮
李氏朝鮮 : 成宗二十三年
↓↑ ↓↑
8月 2日クリストファー・コロンブス
スペインのパロスを出航
10月12日コロンブス、西インド諸島に到達
10月28日コロンブス、キューバに到達
ー↓↑ーーー
斯蘆国の初代の王
(在位:紀元前57年?~4年)
姓は朴
名は赫居世
↓↑
紀元前57年
↓↑
13歳で
王位
(王者=居西干と称された)
に就き
国号を
徐那伐とした
閼英井(南山の北西麓の羅井)に
龍(娑蘇夫人)現れ
その左脇(『三国史記』では右脇)
から生まれた
幼女が長じ
容姿端麗にして人徳を備えていたので
朴赫居世は
彼女(閼英夫人)を王妃とした
人々は
赫居世と
閼英夫人
とを二聖と称した
『三国史記』と『三国遺事』
によると
朴赫居世
と
閼英夫人
はともに
中国から
辰韓に渡来した
中国の王室の娘
娑蘇夫人の子・・・
↓↑
昔氏初代の
昔脱解(第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里の
多婆那国(兵庫北部等の本州)
の王妃が妊娠
七年たって
大きな卵を生み
不吉であるとして
箱に入れて海に流した
辰韓に流れ着き
老婆の手で箱が開けられ
中から一人の男の子が出てきた
箱が流れ着いたときに
鵲(カササギ)がそばにいたので
鵲の字を略して
「昔」を姓とし
箱を開いて生まれ出てきたので
「脱解」を名とした
長じて
第二代
南解次次雄の娘(阿孝夫人)の
女婿となり
のちに王位を譲られた
↓↑
新羅の祖
鵜草葺不合命
の子の
稲飯命(神武天皇の兄)
↓↑
天之日矛
日本から渡った
稲飯命の開いた
新羅王朝家の子孫
新羅の王族
朴氏・昔氏・金氏
の三始祖のうち
昔氏の始祖
脱解の出生については
倭国東北1千里という
昔脱解は船で渡った倭人
その出生地は
但馬(兵庫県北部)と推定・・・
天之日矛が祭られる
豊岡と一致・・・
752年(天平勝宝四年)
新羅王子
金泰廉
ら700余名の新羅使が来日
日本へ朝貢
使節団は
奈良の大仏の塗金用の金を貢いだ
王子の朝貢で
新羅は日本に服属した・・・
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天平宝字二年(758年)
「安禄山の乱」
藤原仲麻呂は
国防を厳にすることを命じ
天平宝字三年(759年)
新羅が
日本の使節に無礼をはたらき
仲麻呂は新羅征伐の準備
軍船394隻
兵士4万700人
の動員遠征計画
遠征は
孝謙上皇と仲麻呂
との不和により不発
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身分序列
「真骨・六頭品・五頭品・四頭品
平人のそれぞれ男女」
7世紀中葉に成立していた
王族中心の身分序列
「骨制度(聖骨・真骨)」に対して
「頭品制度」
「骨制度・頭品制度」
をあわせて
「新羅の骨品制度」・・・
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承和九年(845年)
太宰大弐
藤原衛(ふじわらのまもる)
は新羅人の越境禁止を進言
以後
帰化を申請する場合でも
漂着民に
食料衣服を与えて追い返せとした
『貞観格(じょうがんきゃく)』
にも収められ
以後の対新羅外交の基本方針になった
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「神武王」・・・神武王
新羅の
第45代の王(在位:839年)
姓は金
諱は祐徴
第38代
元聖王の曾孫
父は
上大等
金均貞
母は朴氏の
真矯夫人
王妃は
貞継夫人
839年1月19日
先代の
閔哀王を殺して
王位に就く
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870年
王都が地震・洪水
その冬に再び疫病
873年
飢餓と疫病
王は民に穀物を与えて救済
政情は不安定
874年5月
伊飡の
近宗が反乱
近衛兵を派遣して撃破
875年7月8日
景文王は死去
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貞観十一年(869年)5月26日
(ユリウス暦7月9日)
貞観地震
肥後地震が発生
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後高句麗の武将
王建は
後百済との戦争で何度も勝利
しかし
弓裔には嫌われ
命を狙われた
弓裔は宮殿を再建
自分を弥勒菩薩と呼ばせて
観心法で
人の心を見ることができると言い
反対派を粛清
王建は
弓裔の暴政に対して
政変を起こし
弓裔を追放
918年
高麗を興した
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・・・???・・・
「高麗にんじん」・・・つづく・・・