山師・・・古代~明治時代の地質学者・・・和銅
・・・新しい物は慣れるまでは使いずらい・・・
機能が類似していても使い方の仕様が可なり異なっている・・・
貼り付けている絵は「ホームビルダー」で作ったモノだが・・・
これが起動せず使い物にならなくなった・・・
↓↑
「頁=一+ノ+目+ハ=ケツ・おおがい・ページ=page」
頁(おおがい・いちのかい)
ケツ
ヨウ
かしら
ページ
こうべ・人間の頭
ページ=書物の一枚の紙の片面
紙を数えるときに用いる
「葉(ヨウ)」と
同音であることから・・・?
↓↑
頁(かしら)
頁(ページ)
頁岩(ケツガン)
堆積岩の一
粘土が水底で
堆積した地層、岩相の岩
↓↑
一枚岩(いちまいいわ)
割れ目などがない一つの大きな岩
↓↑
花崗岩(カコウガン)・・・化工元(頑)
深成岩の一種・・・・・・・申請願
石英
長石
雲母
などからなる
主に
白色で黒や灰の点がある
固いことから
土木や建築などに使われる
御影石・・・・・・・・・・音型尺(釋・釈)
↓↑
火山岩(カザンガン)・・・渡辺
「崋山・華山」願
火成岩の一種・・・・・・・仮性元
溶岩が
冷えて固まってできたもの
玄武岩・・・・・・・・・・言部頑
安山岩・・・・・・・・・・暗算願
読み書きソロバン
算盤・十露盤
↓↑
火成岩(カセイガン)
マグマ(magma)が・・・万求磨
冷めてできた岩石の総称
石英や長石などから構成
火山岩と深成岩に大別
↓↑
奇岩(キガン)・・・・・基岩・祈願・記元
変わった形をしている岩
変成岩・・・・・・・・・編成頑
↓↑
凝灰岩・・・・・・・・・業界願・行改元
(ギョウカイガン)
堆積岩の一種・・・・・・泰碩願
火山灰の凝結した岩
↓↑
磐余彦=いわれ=神武天皇
神武天皇
辛酉年一月一日~神武天皇七十六年三月十一日
在位 同
明治時代の計算
即位日
西暦
ユリウス暦
紀元前660年2月18日
グレゴリオ暦
紀元前660年2月11日・・・貳解通壱拾壱字通?
660÷60=11・・・・十一=一一
壱拾壱=壹足壹
イチひろうイチ
位置拾一・位地卑陋移置
鄙陋
干支歴 辛酉年・丙寅月・庚辰日・土曜日
「神佑・深憂・神有」念
↓↑
諱 彦火火出見(ひこほほでみ)
肥後火火出見?
狭野(さぬ)
若御毛沼命
豊御毛沼命
始馭天下之天皇
↓↑
多重の書籍=本の多重のページ
諸石
↓↑
岩井の乱
磐井の乱
527年(継体二十一年)
朝鮮半島南部へ出兵しようとした
近江毛野
率いるヤマト王権軍の進軍を
筑紫君
磐井(『日本書紀』筑紫国造)
がハバミ(阻み・はばみ)・・・葉羽見?
翌528年(継体二十二年)十一月・・・22年11月・・・?
物部 麁鹿火(もののべ の あらかび・あらかい)
もの述べ 新 化備・合等解?
麁=々+鹿=粗・・・粗末
麁(あらい)
麁(おおきい)
麁(くろごめ)
麁(ほぼ)
麤(本字)=鹿+鹿+鹿=ロク+ロク+ロク
肌理(きめ)があらい・粗末な・おおきい
ほぼ
玄米
ス・ソ・ゾ
あらい、はなれる
(木・棒・柱・管・毛・胴・首
など
棒状のものの周りが)
太い・・・ふとい⇔符問い・・・負土肥?
太安万侶
太歳星=木星=辰星=ユピテル・Jupiter
太初・太祖・太子・太古・太鼓
太平・太山
太陽・太陰
太(タイ)
日本語
「アマリにも」
海女里
海毎里
「ハナ-ハダしい」
花環・鼻輪・洟瑞
塙 葉拿恣意
↓↑ ↓↑
塙 保己一
華(崋)輪 保記位置?
渡辺崋山
英和 補記意知?
↓↑ ↓↑
小関三英(こせき さんえい)
天明七年六月十一日
1787年7月25日
~
天保十年五月十七日
1839年6月27日
1833年6月(45歳)壬寅正官
┣支合
丁┏未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔己亥食神
丁┣未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔庚午正財・支合
丁┣未(丁乙己) ・食神冠帯⇔辛亥偏財
丙┗午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔甲午印綬・自刑
寅卯空亡
両神相生格
↓↑ ↓↑
医者・蘭学者
名 好義
幼名 弁助
通称 良蔵
号 鶴斎・鶴洲・篤斎
出羽国(山形県)庄内地方・鶴岡 出身
コンスブルフの内科書を和訳
「泰西内科集成」
天保三年(1832年)
和泉国
岸和田藩医
幕府
天文方
阿蘭陀書籍和解御用=翻訳係
尚歯会に参加
渡辺崋山に
「耶蘇伝」を口訳した
ナポレオン・ボナパルト伝記
リンデン著の
「那波列翁伝」翻訳
他に
「新撰地誌」
「西医原病略」
「輿地誌」
↓↑ ↓↑
塙 保己一(はなわ ほきいち)
延享三年五月五日(1746年6月23日) ・・・?
~
文政四年九月十二 日(1821年10月7日)
1821年3月(74歳)壬寅・食神
10月7日死亡
丙┏ 寅(戊丙甲)偏官・偏財 絶⇔辛巳・劫財・空亡・害
三合丙
甲┣ 午(丙 丁)偏財・印綬沐浴⇔丁酉・正官
冲
庚┣ 子(壬 癸) ・傷官 死⇔己未・印綬・害
冲
壬┗ 午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔庚午・比肩・自刑
辰巳空亡
↓↑ ↓↑
1746年6月22日・・・?
丙┏ 寅(戊丙甲)⇔辛巳・食神・空亡・害
三合丙
甲┗ 午(丙 丁)⇔丁酉・偏印
己 亥(戊甲壬)⇔己未・比肩
↓↑ ↓↑
国学者
幼名 丙寅年生まれにちなみ
寅之助
失明後に 辰之助
一時期 多聞房
雨富検校に入門後・・・雨の富の検校
千弥(せんや)
保木野一(ほきのいち)
保己一(ほきいち)
と改名
『群書類従』『続群書類従』編纂
総検校・贈正四位
四男 国学者の
塙 忠宝
・・・伊藤博文と山尾庸三に
文久二年(1862年)
十二月二十一日
暗殺された
↓↑ ↓↑
塙 保己一は
武州
児玉郡
保木野村(埼玉県本庄市児玉町保木野)
に誕生
塙は師の
雨富須賀一の本姓
荻野(おぎの)氏の出自
近世に帰農した百姓の家系
父 宇兵衛
母 加美郡
木戸村(上里町藤木戸)
名主
斎藤理左衛門家の娘
きよ
弟 卯右衛門(うえもん)
↓↑
磐井は
物部 麁鹿火
によって鎮圧された
↓↑
527年(継体二十一)六月三日
ヤマト王権
近江 毛野
6万人の兵を率い
新羅に奪われた
南加羅の
喙己呑(トクコトン)
喙=ついばむ
己=おのれ・よこしま
呑=呑(のみ)込む
奪回するため
任那
へ向かって出発
新羅は
筑紫(九州地方北部)
磐井(日本書紀・筑紫国造磐井)
へ贈賄
ヤマト王権軍の妨害要請
磐井は
火の国(肥前国・肥後国)
豊の国(豊前国・豊後国)
を制圧し
倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
近江毛野軍の進軍と交戦
磐井は
近江毛野に
「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ
お前などの指示には従わない」
と言った・・・同僚・・・?
↓↑
継体天皇
・・・15代応神天皇の5世孫
越前国の領主
諱 男大迹(ヲホド)
別称 袁本杼命
彦太尊
雄大迹天皇
乎富等大公王
父 彦主人王
母 振媛
皇后 手白香皇女
夫人 尾張 目子媛 ほか
は
大伴金村
物部麁鹿火
巨勢男人
らに将軍の人選を諮問
物部麁鹿火
が推挙され
同年八月一日
麁鹿火が将軍に任命
↓↑
528年11月11日・・・5+2+8=15=壱拾五
伍陌貳拾(足)捌
十一・壱拾壱・壹拾壹
壱=十+一+冖+匕
壹=十+一+冖+豆
磐井軍
と
麁鹿火
率いるヤマト王権軍が
筑紫三井郡(福岡県小郡市・三井郡付近)
で交戦
磐井軍敗北
磐井は
物部麁鹿火に斬殺・・・
↓↑
『筑後国風土記』逸文
磐井が
豊前の
上膳県へ逃亡
その山中で死んだ
同年12月
磐井の子
筑紫葛子
葛(くず・カツ)・・・葛城・葛木
子(シ・ス・・・・・・葛城皇子?
こ・ね・こ・さね
しげ・しげる
たか・ただ
たね
ちか・つぐ・とし
ね・み・みる・やす)
は連座から逃れるため
糟屋(福岡県糟屋郡付近)
の屯倉をヤマト王権へ献上
死罪を免ぜられた
↓↑
529年3月
ヤマト王権(倭国)
再び
近江毛野
を
任那の
安羅へ派遣
新羅との領土交渉
↓↑
『筑後国風土記』逸文
磐井の墓に関する記事
『古事記』
袁本杼命(男大迹王・継体天皇)の没年
丁未四月九日(527年5月26日?)
筑紫君
石井(いわい)
が天皇の命に従わないので
物部 荒甲(物部 麁鹿火)
大伴 金村
を派遣し
石井を殺害・・・
『国造本紀』
磐井
と
新羅
の関係を示唆する記録
ー↓↑ーー
岩石論・・・「古事記・ガンセキ論」・・・?
メドゥーサ
(Medoūsa・メデューサ)=目動作
↓↑
・・・石化⇔化石・アンモナイト=菊石
医師化? 巻貝の化石
古生代シルル紀末期(orデボン紀中期)
~
中生代
白亜紀末
3億5000万年前後の期間に
海洋に広く繁栄した
オウムガイ亜綱
(Nautiloidea)の中から分化した
軟体動物
頭足類の分類群の一
北海道三笠博物館の
展示アンモナイト
ギリシア
羊角神アンモーン(Ammōn)
「アンモーンの角(ラテン語: cornu Ammonis)」
アモン大神殿
エジプト南東部
ナイル川東岸
ルクソールにある
カルナック神殿の中核神殿
テーベの守護神
アモンが
太陽神ラーと結合
カルナック神殿
中王国時代(紀元前2055~1650年頃)
センウセルト1世(紀元前1965~1920年頃)
プトレマイオス朝(紀元前332~32年)
ローマ支配時代(紀元前30~後395年)
まで継続
カルナック神殿
アメン神をその頂点とする新王国時代の
テーベ三柱神崇拝の中心地
↓↑
アメン大神殿
都市テーベ
中王国時代
第11王朝(紀元前2055~1985年頃)
第11王朝
国家神
モンチュ
第11王朝による小さな八柱神
アメンについて記録
第1中間期(紀元前2181~2055年頃)
テーベのア
第12王朝(紀元前1985~1795年頃)
王朝の守護神モンチュに代わり
国家神となった
アメン=雄羊や鵞鳥(がちょう)
アメンの名は隠すという動詞の
「imen」に由来
エジプト語の意
「隠された者・隠された神」
アメンの称号「その姿・神秘なる者」
豊饒神ミン
太陽神ラー
などと習合
↓↑
アメン大神殿建設工事
テーベが統一された古代エジプトの首都
第18王朝(紀元前1550~1295年頃)
新たな建設は
第19王朝(紀元前1295~1186年頃)
セティ1世(紀元前1294~1279年頃)
ラムセス2世(紀元前1279~1213年頃)
着工され
列柱室の建設は
第18王朝の間に始まった・・・
↓↑
女王ハトシェプスト(紀元前1473~1458年頃)
記念物を建造
ヒクソスの占領中に破壊されていた
女神ムトのかつての神域を再構築
カルナック「赤い祠堂」は「聖舟祠堂」とされ
2基のオベリスクの間に建っていた・・・
↓↑
西暦323年
コンスタンティヌス1世(306~337年)
キリスト教徒の信仰を認め
356年
コンスタンティウス2世(337~361年)
異教神殿の閉鎖
カルナック神殿は
大部分が放棄され
トトメス3世祝祭殿の中央の間に
キリスト教会を建設
↓↑
アメン大神殿
ピネジェム1世の巨像(もとラムセス2世像)
アメン大神殿(アメン=ラーの神域)は
神殿複合体の神域内のうち最大で
テーベ三柱神(アメン、ムト、コンス)
の最高神である
アメンに捧げられている
↓↑
アンモナイト(ammonite)
アンモン(ammon)=太陽神
+
アイト(ite)=石
アンモン
頭に渦を巻いた角を持ち
その角と化石の形が似ている
アンモニウム(ammonium)
エジプトの
アモン神殿の近くから
アンモニウム塩が産出した事による命名
↓↑
中国 明代
李時珍(1518~1593)
『本草綱目』(1596)に
石蛇・石燕・石蟹
など、「化石」の記録
↓↑
メドゥーサの
見たものを石に変える能力を持つ
頭髪は無数の毒蛇
イノシシの歯
青銅の手
黄金の翼
腰に蛇をまいた姿
イノシシの胴体と馬の下半身
の合体した姿で描かれる・・・
↓↑
海神
ポセイドーンの愛人
ポセイドーンとの間に
天馬ペーガソス
巨人クリューサーオール(黄金の剣の意)
↓↑
ペルセウスによって
首を切り落とされ
切り落とされたメドゥーサの首から
滴り落ちた血は
ペルセウスによって
2つの瓶に集められ
アテーナーに献上された
右側の血管から流れて
右の瓶に入った血は
死者を蘇生
左側の血管から流れて
左の瓶に入った血は
人を殺す力があった
アテーナーは
死者を蘇生させるメドゥーサの血を
アスクレーピオスに授け
彼はこの血を混ぜた薬を使用
↓↑
コリントスの先住民族の女神
デーメーテールと同一神・・・
両神共にポセイドーンとの間に
馬形の神霊
アレイオーン
ペーガソス
を産んでおり
ポセイドーンとは夫婦だった・・・
↓↑
元々美少女
メドゥーサは
海神ポセイドーンと
アテーナーの神殿で交わり
アテーナーの怒りをかい
醜い怪物にされてしまった
ペルセウスに討ち取られた首は
アテーナーの
山羊皮の楯
アイギス
(aegis・イージス)・・・医意字素?
に嵌め込んだ
↓↑
美少女で
自分の髪を自慢して
アテーナーと美を競って
髪の毛を蛇に変えられた
↓↑
ペルセウスは
鏡のように磨き抜かれた盾を見ながら
曲刀(ハルペー・不死身殺しの武器)で
眠っている
メドゥーサの首を掻っ切った
メドゥーサの首から出た血は
空駆ける天馬
ペーガソスを生んだ
ポセイドーン
と
メドゥーサ
の子である黄金剣を持った巨人
クリューサーオール
も生まれた・・・
↓↑
ペルセウスが
空飛ぶ翼のあるサンダルで
海を渡っている際
包んであったメドゥーサの首から血が滴り落ち
それが赤いサンゴになった
切り落としたメドゥーサの首から滴る血が
砂漠に落ち
サソリなどの猛毒の生き物が生まれた・・・
↓↑
ペルセウスは
海から突き出た岩に
縛り付けられた
アンドロメダーを発見
母親カッシオペイアが
娘アンドロメダーの方が
海の
ニュンペーより美しいと公言し
海神ポセイドーンの怒りに触れ
海の怪物
ケートス(クジラ・海竜姿の怪物)
の生贄にされるため
岩に磔になっていた
ペルセウスは
メドゥーサの首を取り出し
怪物を石に変えた
ペルセウスは
アテーナー女神に
メドゥーサの首を贈り
アテーナーは
自分の盾
アイギスに
メドゥーサの首をつけ
最強の盾とした・・・
↓↑
ポンペイ遺跡から発掘された
「イッソスの戦い」のモザイク画に
メドゥーサの胸当てを付けた
アレクサンダー大王が描かれている
↓↑
肝硬変
肝臓へ門脈からの血流狭窄
腹壁静脈怒張が
臍を中心として
放射状に蛇行して見られる状態を
メデューサの頭と呼ぶ・・・
ー↓↑ーー
地質論・・・知質論
慕維廉(W.Muirhead)
『地理全志』の翻刻本が刊行
安政六年(1859)
↓↑
箕作阮甫
寛政十一年九月七日
1799年10月5日
~
文久三年六月十七日
1863年8月1日
津山藩士、蘭学者
名 貞一・虔儒
字 痒西
号 紫川・逢谷
が
『地質辮證』
蘭書から訳述
文久元年~二年(1861~1862)
明治五年から
文部省の教育施策
翻訳
地質学書刊行
ー↓↑ーーー
幕府天文台翻訳員
ペリー来航時
米大統領国書を翻訳
対露交渉団の一員
蕃書調所の首席教授
幕臣
「安政五カ国条約」に携わった
医学雑誌
『泰西名医彙講』
『外科必読』
『産科簡明』
『和蘭文典』
『八紘通誌』
『水蒸船説略』
『西征紀行』
訳述書は99部160冊余り
分野は
医学・語学・西洋史・兵学・宗教学
↓↑
日本で初めて
「地質学」という言葉を作り
地質学・鉱物学書の
『日本記聞 下』を著
その書の中に
「密涅刺羅義(ミネラロギ)」
という見出しで
ドイツ語原著
『フリードリヒ・シェドラー博士の自然の本
物理学、天文学、化学
鉱物学、地質学
植物学、動物学
生理学
の科学の基礎入門』
から
「鉱物学」の抄訳がある・・・
↓↑ ↓↑
「諳 厄利亜語林 大 成
(あんげりあごりんたいせい)」
本木 庄左衛門(正栄)
が中心になって編纂した
日本初の英和辞典
文化11年(1814年)に完成・・・文化壱拾壱撚?
編纂には本木の他
通詞の
馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保
らが当たった
↓↑
古賀 謹一郎
(こが きんいちろう)
文化13年11月11日
1816年12月29日
~
明治17年(1884年)
10月31日
儒学者・官僚
本姓 劉
諱 増(まさる)
筑後守
字 如川
号 謹堂・茶渓
沙蟲老人
↓↑
天保七年(1836年)
大番役
天保十二年(1841年)
書院番
家塾 久敬舎を父より引き継ぐ
弘化三年(1846年)31歳
昌平黌(昌平坂学問所)
儒者見習
翌年、儒者・15人扶持
↓↑
漢訳蘭書による独学で西洋の事情を習得
米国への漂流者から欧米の事情を取材した
『蕃談』を著す(書写本にて流布)
昌平坂学問所の教官
同僚
佐藤一斎、林復斎、安積艮斎
昌平黌
家塾久敬舎
儒学上の門人
阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進)
大野右仲、秋月悌次郎、河井継之助
白洲退蔵、平田東助
↓↑
嘉永六年(1853年)
ロシアのプチャーチン艦隊の来航
応接掛
目付
筒井政憲
川路聖謨
に随行して長崎でロシア使節との交渉
翌年ロシア艦再来日
伊豆下田で交渉を行い
日露和親条約の締結
↓↑
蕃書調所設立
安政二年(1855年)8月30日
謹一郎は阿部より
洋学所頭取(校長)に任命
蘭書翻訳・教育機関の構想を練り
勝麟太郎
らとともに草案作成
9月蕃書調所設立案を提出
安政四年(1857年)正月
蕃書調所が正式開設
↓↑
蕃書調所頭取(校長)として
国内の著名な学者を招聘
蘭学者
「箕作阮甫」を教授として招いた
教授見習
三田藩 の川本幸民
周防出身の手塚律蔵
村田蔵六(大村益次郎・当時は宇和島藩出仕)
薩摩藩 の松木弘庵(寺島宗則)
西 周助(西周)
津田真一郎(津田真道)
箕作秋坪
中村敬輔(中村敬宇)
加藤弘之
幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用
↓↑
蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが
英語の隆盛を鑑み
英語・フランス語・ドイツ語
の教授も行わせた
入獄中の
「堀達之助」の才能を惜しみ
便宜を図って出獄させ
日本最初の
英和辞典
『英和対訳袖珍辞書』
を作らせた
↓↑
文久二年(1862年)五月
御留守居番就任
蕃書調所(洋書調所)→開成所)
の頭取を解任された
慶応二年(1866年)
製鉄所奉行
翌年に目付
筑後守に補任
江華島を巡る
フランス
と
李氏朝鮮
の紛争の仲介任務を託されるが未遂
緒方洪庵の墓碑銘を記す
慶応三年(1867年)十月
大政奉還
滝川具挙
などと共に上京の命
↓↑
大学校(昌平黌、蕃書調所の後身)
の教授として新政府から招聘されたが
徳川家の駿府転封に伴い
静岡へ移住
中村敬宇(正直)
と漢詩の応酬を行う
明治初期のベストセラー
中村の
『西国立志編』
(サミュエル・スマイルズのSelf-Helpの訳書)
に序文を寄せた
リンネの植物学書などの洋書をまとめた
『蕈説』
(キノコに関する言説をまとめた書)
などを著作
↓↑
明治六年(1873年)
東京に戻る
明治十七年(1884年)8月20日
高畠五郎が暑中見舞いに訪れ
長茄子、南瓜
球形の
白甜瓜などを持参
胃管狭窄により
弟子の
吉田賢輔に看取られて
67歳で死去
ーーーーー
・・・???・・・
「プラトン古事記をカタル」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog-1
「月間の日干支サイクル」
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
「年月日時×大運干支命式表の組織化」
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a2.html
・・・新しい物は慣れるまでは使いずらい・・・
機能が類似していても使い方の仕様が可なり異なっている・・・
貼り付けている絵は「ホームビルダー」で作ったモノだが・・・
これが起動せず使い物にならなくなった・・・
↓↑
「頁=一+ノ+目+ハ=ケツ・おおがい・ページ=page」
頁(おおがい・いちのかい)
ケツ
ヨウ
かしら
ページ
こうべ・人間の頭
ページ=書物の一枚の紙の片面
紙を数えるときに用いる
「葉(ヨウ)」と
同音であることから・・・?
↓↑
頁(かしら)
頁(ページ)
頁岩(ケツガン)
堆積岩の一
粘土が水底で
堆積した地層、岩相の岩
↓↑
一枚岩(いちまいいわ)
割れ目などがない一つの大きな岩
↓↑
花崗岩(カコウガン)・・・化工元(頑)
深成岩の一種・・・・・・・申請願
石英
長石
雲母
などからなる
主に
白色で黒や灰の点がある
固いことから
土木や建築などに使われる
御影石・・・・・・・・・・音型尺(釋・釈)
↓↑
火山岩(カザンガン)・・・渡辺
「崋山・華山」願
火成岩の一種・・・・・・・仮性元
溶岩が
冷えて固まってできたもの
玄武岩・・・・・・・・・・言部頑
安山岩・・・・・・・・・・暗算願
読み書きソロバン
算盤・十露盤
↓↑
火成岩(カセイガン)
マグマ(magma)が・・・万求磨
冷めてできた岩石の総称
石英や長石などから構成
火山岩と深成岩に大別
↓↑
奇岩(キガン)・・・・・基岩・祈願・記元
変わった形をしている岩
変成岩・・・・・・・・・編成頑
↓↑
凝灰岩・・・・・・・・・業界願・行改元
(ギョウカイガン)
堆積岩の一種・・・・・・泰碩願
火山灰の凝結した岩
↓↑
磐余彦=いわれ=神武天皇
神武天皇
辛酉年一月一日~神武天皇七十六年三月十一日
在位 同
明治時代の計算
即位日
西暦
ユリウス暦
紀元前660年2月18日
グレゴリオ暦
紀元前660年2月11日・・・貳解通壱拾壱字通?
660÷60=11・・・・十一=一一
壱拾壱=壹足壹
イチひろうイチ
位置拾一・位地卑陋移置
鄙陋
干支歴 辛酉年・丙寅月・庚辰日・土曜日
「神佑・深憂・神有」念
↓↑
諱 彦火火出見(ひこほほでみ)
肥後火火出見?
狭野(さぬ)
若御毛沼命
豊御毛沼命
始馭天下之天皇
↓↑
多重の書籍=本の多重のページ
諸石
↓↑
岩井の乱
磐井の乱
527年(継体二十一年)
朝鮮半島南部へ出兵しようとした
近江毛野
率いるヤマト王権軍の進軍を
筑紫君
磐井(『日本書紀』筑紫国造)
がハバミ(阻み・はばみ)・・・葉羽見?
翌528年(継体二十二年)十一月・・・22年11月・・・?
物部 麁鹿火(もののべ の あらかび・あらかい)
もの述べ 新 化備・合等解?
麁=々+鹿=粗・・・粗末
麁(あらい)
麁(おおきい)
麁(くろごめ)
麁(ほぼ)
麤(本字)=鹿+鹿+鹿=ロク+ロク+ロク
肌理(きめ)があらい・粗末な・おおきい
ほぼ
玄米
ス・ソ・ゾ
あらい、はなれる
(木・棒・柱・管・毛・胴・首
など
棒状のものの周りが)
太い・・・ふとい⇔符問い・・・負土肥?
太安万侶
太歳星=木星=辰星=ユピテル・Jupiter
太初・太祖・太子・太古・太鼓
太平・太山
太陽・太陰
太(タイ)
日本語
「アマリにも」
海女里
海毎里
「ハナ-ハダしい」
花環・鼻輪・洟瑞
塙 葉拿恣意
↓↑ ↓↑
塙 保己一
華(崋)輪 保記位置?
渡辺崋山
英和 補記意知?
↓↑ ↓↑
小関三英(こせき さんえい)
天明七年六月十一日
1787年7月25日
~
天保十年五月十七日
1839年6月27日
1833年6月(45歳)壬寅正官
┣支合
丁┏未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔己亥食神
丁┣未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔庚午正財・支合
丁┣未(丁乙己) ・食神冠帯⇔辛亥偏財
丙┗午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔甲午印綬・自刑
寅卯空亡
両神相生格
↓↑ ↓↑
医者・蘭学者
名 好義
幼名 弁助
通称 良蔵
号 鶴斎・鶴洲・篤斎
出羽国(山形県)庄内地方・鶴岡 出身
コンスブルフの内科書を和訳
「泰西内科集成」
天保三年(1832年)
和泉国
岸和田藩医
幕府
天文方
阿蘭陀書籍和解御用=翻訳係
尚歯会に参加
渡辺崋山に
「耶蘇伝」を口訳した
ナポレオン・ボナパルト伝記
リンデン著の
「那波列翁伝」翻訳
他に
「新撰地誌」
「西医原病略」
「輿地誌」
↓↑ ↓↑
塙 保己一(はなわ ほきいち)
延享三年五月五日(1746年6月23日) ・・・?
~
文政四年九月十二 日(1821年10月7日)
1821年3月(74歳)壬寅・食神
10月7日死亡
丙┏ 寅(戊丙甲)偏官・偏財 絶⇔辛巳・劫財・空亡・害
三合丙
甲┣ 午(丙 丁)偏財・印綬沐浴⇔丁酉・正官
冲
庚┣ 子(壬 癸) ・傷官 死⇔己未・印綬・害
冲
壬┗ 午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔庚午・比肩・自刑
辰巳空亡
↓↑ ↓↑
1746年6月22日・・・?
丙┏ 寅(戊丙甲)⇔辛巳・食神・空亡・害
三合丙
甲┗ 午(丙 丁)⇔丁酉・偏印
己 亥(戊甲壬)⇔己未・比肩
↓↑ ↓↑
国学者
幼名 丙寅年生まれにちなみ
寅之助
失明後に 辰之助
一時期 多聞房
雨富検校に入門後・・・雨の富の検校
千弥(せんや)
保木野一(ほきのいち)
保己一(ほきいち)
と改名
『群書類従』『続群書類従』編纂
総検校・贈正四位
四男 国学者の
塙 忠宝
・・・伊藤博文と山尾庸三に
文久二年(1862年)
十二月二十一日
暗殺された
↓↑ ↓↑
塙 保己一は
武州
児玉郡
保木野村(埼玉県本庄市児玉町保木野)
に誕生
塙は師の
雨富須賀一の本姓
荻野(おぎの)氏の出自
近世に帰農した百姓の家系
父 宇兵衛
母 加美郡
木戸村(上里町藤木戸)
名主
斎藤理左衛門家の娘
きよ
弟 卯右衛門(うえもん)
↓↑
磐井は
物部 麁鹿火
によって鎮圧された
↓↑
527年(継体二十一)六月三日
ヤマト王権
近江 毛野
6万人の兵を率い
新羅に奪われた
南加羅の
喙己呑(トクコトン)
喙=ついばむ
己=おのれ・よこしま
呑=呑(のみ)込む
奪回するため
任那
へ向かって出発
新羅は
筑紫(九州地方北部)
磐井(日本書紀・筑紫国造磐井)
へ贈賄
ヤマト王権軍の妨害要請
磐井は
火の国(肥前国・肥後国)
豊の国(豊前国・豊後国)
を制圧し
倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
近江毛野軍の進軍と交戦
磐井は
近江毛野に
「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ
お前などの指示には従わない」
と言った・・・同僚・・・?
↓↑
継体天皇
・・・15代応神天皇の5世孫
越前国の領主
諱 男大迹(ヲホド)
別称 袁本杼命
彦太尊
雄大迹天皇
乎富等大公王
父 彦主人王
母 振媛
皇后 手白香皇女
夫人 尾張 目子媛 ほか
は
大伴金村
物部麁鹿火
巨勢男人
らに将軍の人選を諮問
物部麁鹿火
が推挙され
同年八月一日
麁鹿火が将軍に任命
↓↑
528年11月11日・・・5+2+8=15=壱拾五
伍陌貳拾(足)捌
十一・壱拾壱・壹拾壹
壱=十+一+冖+匕
壹=十+一+冖+豆
磐井軍
と
麁鹿火
率いるヤマト王権軍が
筑紫三井郡(福岡県小郡市・三井郡付近)
で交戦
磐井軍敗北
磐井は
物部麁鹿火に斬殺・・・
↓↑
『筑後国風土記』逸文
磐井が
豊前の
上膳県へ逃亡
その山中で死んだ
同年12月
磐井の子
筑紫葛子
葛(くず・カツ)・・・葛城・葛木
子(シ・ス・・・・・・葛城皇子?
こ・ね・こ・さね
しげ・しげる
たか・ただ
たね
ちか・つぐ・とし
ね・み・みる・やす)
は連座から逃れるため
糟屋(福岡県糟屋郡付近)
の屯倉をヤマト王権へ献上
死罪を免ぜられた
↓↑
529年3月
ヤマト王権(倭国)
再び
近江毛野
を
任那の
安羅へ派遣
新羅との領土交渉
↓↑
『筑後国風土記』逸文
磐井の墓に関する記事
『古事記』
袁本杼命(男大迹王・継体天皇)の没年
丁未四月九日(527年5月26日?)
筑紫君
石井(いわい)
が天皇の命に従わないので
物部 荒甲(物部 麁鹿火)
大伴 金村
を派遣し
石井を殺害・・・
『国造本紀』
磐井
と
新羅
の関係を示唆する記録
ー↓↑ーー
岩石論・・・「古事記・ガンセキ論」・・・?
メドゥーサ
(Medoūsa・メデューサ)=目動作
↓↑
・・・石化⇔化石・アンモナイト=菊石
医師化? 巻貝の化石
古生代シルル紀末期(orデボン紀中期)
~
中生代
白亜紀末
3億5000万年前後の期間に
海洋に広く繁栄した
オウムガイ亜綱
(Nautiloidea)の中から分化した
軟体動物
頭足類の分類群の一
北海道三笠博物館の
展示アンモナイト
ギリシア
羊角神アンモーン(Ammōn)
「アンモーンの角(ラテン語: cornu Ammonis)」
アモン大神殿
エジプト南東部
ナイル川東岸
ルクソールにある
カルナック神殿の中核神殿
テーベの守護神
アモンが
太陽神ラーと結合
カルナック神殿
中王国時代(紀元前2055~1650年頃)
センウセルト1世(紀元前1965~1920年頃)
プトレマイオス朝(紀元前332~32年)
ローマ支配時代(紀元前30~後395年)
まで継続
カルナック神殿
アメン神をその頂点とする新王国時代の
テーベ三柱神崇拝の中心地
↓↑
アメン大神殿
都市テーベ
中王国時代
第11王朝(紀元前2055~1985年頃)
第11王朝
国家神
モンチュ
第11王朝による小さな八柱神
アメンについて記録
第1中間期(紀元前2181~2055年頃)
テーベのア
第12王朝(紀元前1985~1795年頃)
王朝の守護神モンチュに代わり
国家神となった
アメン=雄羊や鵞鳥(がちょう)
アメンの名は隠すという動詞の
「imen」に由来
エジプト語の意
「隠された者・隠された神」
アメンの称号「その姿・神秘なる者」
豊饒神ミン
太陽神ラー
などと習合
↓↑
アメン大神殿建設工事
テーベが統一された古代エジプトの首都
第18王朝(紀元前1550~1295年頃)
新たな建設は
第19王朝(紀元前1295~1186年頃)
セティ1世(紀元前1294~1279年頃)
ラムセス2世(紀元前1279~1213年頃)
着工され
列柱室の建設は
第18王朝の間に始まった・・・
↓↑
女王ハトシェプスト(紀元前1473~1458年頃)
記念物を建造
ヒクソスの占領中に破壊されていた
女神ムトのかつての神域を再構築
カルナック「赤い祠堂」は「聖舟祠堂」とされ
2基のオベリスクの間に建っていた・・・
↓↑
西暦323年
コンスタンティヌス1世(306~337年)
キリスト教徒の信仰を認め
356年
コンスタンティウス2世(337~361年)
異教神殿の閉鎖
カルナック神殿は
大部分が放棄され
トトメス3世祝祭殿の中央の間に
キリスト教会を建設
↓↑
アメン大神殿
ピネジェム1世の巨像(もとラムセス2世像)
アメン大神殿(アメン=ラーの神域)は
神殿複合体の神域内のうち最大で
テーベ三柱神(アメン、ムト、コンス)
の最高神である
アメンに捧げられている
↓↑
アンモナイト(ammonite)
アンモン(ammon)=太陽神
+
アイト(ite)=石
アンモン
頭に渦を巻いた角を持ち
その角と化石の形が似ている
アンモニウム(ammonium)
エジプトの
アモン神殿の近くから
アンモニウム塩が産出した事による命名
↓↑
中国 明代
李時珍(1518~1593)
『本草綱目』(1596)に
石蛇・石燕・石蟹
など、「化石」の記録
↓↑
メドゥーサの
見たものを石に変える能力を持つ
頭髪は無数の毒蛇
イノシシの歯
青銅の手
黄金の翼
腰に蛇をまいた姿
イノシシの胴体と馬の下半身
の合体した姿で描かれる・・・
↓↑
海神
ポセイドーンの愛人
ポセイドーンとの間に
天馬ペーガソス
巨人クリューサーオール(黄金の剣の意)
↓↑
ペルセウスによって
首を切り落とされ
切り落とされたメドゥーサの首から
滴り落ちた血は
ペルセウスによって
2つの瓶に集められ
アテーナーに献上された
右側の血管から流れて
右の瓶に入った血は
死者を蘇生
左側の血管から流れて
左の瓶に入った血は
人を殺す力があった
アテーナーは
死者を蘇生させるメドゥーサの血を
アスクレーピオスに授け
彼はこの血を混ぜた薬を使用
↓↑
コリントスの先住民族の女神
デーメーテールと同一神・・・
両神共にポセイドーンとの間に
馬形の神霊
アレイオーン
ペーガソス
を産んでおり
ポセイドーンとは夫婦だった・・・
↓↑
元々美少女
メドゥーサは
海神ポセイドーンと
アテーナーの神殿で交わり
アテーナーの怒りをかい
醜い怪物にされてしまった
ペルセウスに討ち取られた首は
アテーナーの
山羊皮の楯
アイギス
(aegis・イージス)・・・医意字素?
に嵌め込んだ
↓↑
美少女で
自分の髪を自慢して
アテーナーと美を競って
髪の毛を蛇に変えられた
↓↑
ペルセウスは
鏡のように磨き抜かれた盾を見ながら
曲刀(ハルペー・不死身殺しの武器)で
眠っている
メドゥーサの首を掻っ切った
メドゥーサの首から出た血は
空駆ける天馬
ペーガソスを生んだ
ポセイドーン
と
メドゥーサ
の子である黄金剣を持った巨人
クリューサーオール
も生まれた・・・
↓↑
ペルセウスが
空飛ぶ翼のあるサンダルで
海を渡っている際
包んであったメドゥーサの首から血が滴り落ち
それが赤いサンゴになった
切り落としたメドゥーサの首から滴る血が
砂漠に落ち
サソリなどの猛毒の生き物が生まれた・・・
↓↑
ペルセウスは
海から突き出た岩に
縛り付けられた
アンドロメダーを発見
母親カッシオペイアが
娘アンドロメダーの方が
海の
ニュンペーより美しいと公言し
海神ポセイドーンの怒りに触れ
海の怪物
ケートス(クジラ・海竜姿の怪物)
の生贄にされるため
岩に磔になっていた
ペルセウスは
メドゥーサの首を取り出し
怪物を石に変えた
ペルセウスは
アテーナー女神に
メドゥーサの首を贈り
アテーナーは
自分の盾
アイギスに
メドゥーサの首をつけ
最強の盾とした・・・
↓↑
ポンペイ遺跡から発掘された
「イッソスの戦い」のモザイク画に
メドゥーサの胸当てを付けた
アレクサンダー大王が描かれている
↓↑
肝硬変
肝臓へ門脈からの血流狭窄
腹壁静脈怒張が
臍を中心として
放射状に蛇行して見られる状態を
メデューサの頭と呼ぶ・・・
ー↓↑ーー
地質論・・・知質論
慕維廉(W.Muirhead)
『地理全志』の翻刻本が刊行
安政六年(1859)
↓↑
箕作阮甫
寛政十一年九月七日
1799年10月5日
~
文久三年六月十七日
1863年8月1日
津山藩士、蘭学者
名 貞一・虔儒
字 痒西
号 紫川・逢谷
が
『地質辮證』
蘭書から訳述
文久元年~二年(1861~1862)
明治五年から
文部省の教育施策
翻訳
地質学書刊行
ー↓↑ーーー
幕府天文台翻訳員
ペリー来航時
米大統領国書を翻訳
対露交渉団の一員
蕃書調所の首席教授
幕臣
「安政五カ国条約」に携わった
医学雑誌
『泰西名医彙講』
『外科必読』
『産科簡明』
『和蘭文典』
『八紘通誌』
『水蒸船説略』
『西征紀行』
訳述書は99部160冊余り
分野は
医学・語学・西洋史・兵学・宗教学
↓↑
日本で初めて
「地質学」という言葉を作り
地質学・鉱物学書の
『日本記聞 下』を著
その書の中に
「密涅刺羅義(ミネラロギ)」
という見出しで
ドイツ語原著
『フリードリヒ・シェドラー博士の自然の本
物理学、天文学、化学
鉱物学、地質学
植物学、動物学
生理学
の科学の基礎入門』
から
「鉱物学」の抄訳がある・・・
↓↑ ↓↑
「諳 厄利亜語林 大 成
(あんげりあごりんたいせい)」
本木 庄左衛門(正栄)
が中心になって編纂した
日本初の英和辞典
文化11年(1814年)に完成・・・文化壱拾壱撚?
編纂には本木の他
通詞の
馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保
らが当たった
↓↑
古賀 謹一郎
(こが きんいちろう)
文化13年11月11日
1816年12月29日
~
明治17年(1884年)
10月31日
儒学者・官僚
本姓 劉
諱 増(まさる)
筑後守
字 如川
号 謹堂・茶渓
沙蟲老人
↓↑
天保七年(1836年)
大番役
天保十二年(1841年)
書院番
家塾 久敬舎を父より引き継ぐ
弘化三年(1846年)31歳
昌平黌(昌平坂学問所)
儒者見習
翌年、儒者・15人扶持
↓↑
漢訳蘭書による独学で西洋の事情を習得
米国への漂流者から欧米の事情を取材した
『蕃談』を著す(書写本にて流布)
昌平坂学問所の教官
同僚
佐藤一斎、林復斎、安積艮斎
昌平黌
家塾久敬舎
儒学上の門人
阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進)
大野右仲、秋月悌次郎、河井継之助
白洲退蔵、平田東助
↓↑
嘉永六年(1853年)
ロシアのプチャーチン艦隊の来航
応接掛
目付
筒井政憲
川路聖謨
に随行して長崎でロシア使節との交渉
翌年ロシア艦再来日
伊豆下田で交渉を行い
日露和親条約の締結
↓↑
蕃書調所設立
安政二年(1855年)8月30日
謹一郎は阿部より
洋学所頭取(校長)に任命
蘭書翻訳・教育機関の構想を練り
勝麟太郎
らとともに草案作成
9月蕃書調所設立案を提出
安政四年(1857年)正月
蕃書調所が正式開設
↓↑
蕃書調所頭取(校長)として
国内の著名な学者を招聘
蘭学者
「箕作阮甫」を教授として招いた
教授見習
三田藩 の川本幸民
周防出身の手塚律蔵
村田蔵六(大村益次郎・当時は宇和島藩出仕)
薩摩藩 の松木弘庵(寺島宗則)
西 周助(西周)
津田真一郎(津田真道)
箕作秋坪
中村敬輔(中村敬宇)
加藤弘之
幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用
↓↑
蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが
英語の隆盛を鑑み
英語・フランス語・ドイツ語
の教授も行わせた
入獄中の
「堀達之助」の才能を惜しみ
便宜を図って出獄させ
日本最初の
英和辞典
『英和対訳袖珍辞書』
を作らせた
↓↑
文久二年(1862年)五月
御留守居番就任
蕃書調所(洋書調所)→開成所)
の頭取を解任された
慶応二年(1866年)
製鉄所奉行
翌年に目付
筑後守に補任
江華島を巡る
フランス
と
李氏朝鮮
の紛争の仲介任務を託されるが未遂
緒方洪庵の墓碑銘を記す
慶応三年(1867年)十月
大政奉還
滝川具挙
などと共に上京の命
↓↑
大学校(昌平黌、蕃書調所の後身)
の教授として新政府から招聘されたが
徳川家の駿府転封に伴い
静岡へ移住
中村敬宇(正直)
と漢詩の応酬を行う
明治初期のベストセラー
中村の
『西国立志編』
(サミュエル・スマイルズのSelf-Helpの訳書)
に序文を寄せた
リンネの植物学書などの洋書をまとめた
『蕈説』
(キノコに関する言説をまとめた書)
などを著作
↓↑
明治六年(1873年)
東京に戻る
明治十七年(1884年)8月20日
高畠五郎が暑中見舞いに訪れ
長茄子、南瓜
球形の
白甜瓜などを持参
胃管狭窄により
弟子の
吉田賢輔に看取られて
67歳で死去
ーーーーー
・・・???・・・
「プラトン古事記をカタル」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog-1
「月間の日干支サイクル」
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
「年月日時×大運干支命式表の組織化」
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a2.html