亜流=亞流・・・三流・・・
あら、まぁ~
あら、不思議・・・
↓↑
「安全保障条約」=「危難保障条約」・・・?
「不安全保障条約」=「不可侵条約」⇔「日ソ可侵条約」?
「日米安保条約」⇔「日米不安保条約」?
↓↑
中国独立 1949年10月1日
己丑・癸酉・甲子・甲子(乙丑)
印綬
三合辛 正官格
↓↑
日本独立 1951年9月8日・SF平和条約
1952年(昭和27年)4月28日執行
壬辰・甲辰・甲辰・甲子・(乙丑)
比肩
透干乙 偏財(劫財)
↓↑
略称 日中平和友好条約
署名 1978年8月12日 中国(甲子) 日本(甲辰)
戊午(丙 丁)食神・ 比肩帝旺・・・偏財・・・偏財
庚申(戊壬庚)偏財・ 食神 病・・・偏官・・・偏官
丙午(丙 丁) ・ 比肩帝旺・・・食神・・・食神
甲午(丙 丁)偏印・ 比肩帝旺・・・劫財・・・劫財
寅卯空亡
締結場所 北京
↓↑
発効 1978年10月23日 中国(甲子) 日本(甲辰)
戊午(丙 丁)比肩・ 劫財帝旺・・・偏財・・・偏財
壬戌(辛丁戊)偏財・ 比肩 墓・・・偏印・・・偏印
┏戊午(丙 丁) ・ 劫財帝旺・・・偏財・・・偏財
┗癸丑(癸辛己)正財・ 劫財 養・・・傷官・・・傷官
子丑空亡
↓↑
「日中平和友好条約」
「中华人民共和国和日本国和平友好条约」
↓↑
1972年9月
国交回復時の日中共同声明の文面を基本的に踏襲
第1条
主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉
第2条
反覇権
第3条
両国の経済的、文化的関係の発展
第4条
条約の第三国との関係
国交回復から
6年が過ぎてから
平和条約交渉が妥結したのは
「反覇権」条項と
「第三国」条項での論議
「日中修好条約」⇔「日中修悪条約」?
↓↑
荒・粗・新
あら=安楽・安良・新良・阿羅・阿良・亜良・・・
阿蘇・・・麻生・浅茅・阿相
↓↑
亜=亞=亚=𠄮=つ(次)ぐ・準じる・第二番目
亜熱帯・亜流
無機酸で酸素原子が少ない・亜硫酸
亜細亜(アジア)・亜州・東亜
亚⇔晋(すすむ)・並(ならぶ)・普(あまねし)
亜= ̄+口+‖+_
 ̄+中+_
亞= ̄+十+_
↓↑
漢字辞典 亞は墓室の形で凶礼・凶事の意
説文解字 悪はその心情・人の局背の形に象る
字通 旧字は亞に作り、陵墓の墓室の平面形
漢字源 建物や墓をつくるために
地下に四角く掘った土台を描いたもの
異体字
亞=䢝 丫 亚 垭 埡 堊 娅 婭 桠 椏 𠄮 𡌥 𡹄 𡹅 𣉩 𩭯
↓↑
安=宀+女
↓↑
やすい・やすらか・おだやかなさま・落ち着いているさま
やすんじる・やすんずる・落ち着かせる・安心させる
やすんじる・やすんずる・楽しむ
「いずくんぞ」=「どうして」の意を表す
「いずくに」「いずくにか」と読み
「どこ」「どこに」と場所を問う意を表す
やすい・物の値段がやすい
やすい・たやすい・容易である
↓↑
安に 居て危を思う
あんにいてきをおもう
平和の時でも
常に災難・危機に対する備えを忘れないようにすること
現世安穏、後生善処
↓↑
『ウィキペディア(Wikipedia)』
↓↑
「安羅(あら・アラ)」・・・あんら?
↓↑
朝鮮歷史
考古学
櫛目文土器時代 8000BC~1500BC
無 文土器時代 1500BC~300 BC
↓↑
伝説 檀君朝鮮
↓↑
古朝鮮 箕子朝鮮
燕
辰国 衛氏朝鮮
↓↑
原三国
辰韓
弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡
濊貊 沃沮
↓↑
三国
伽耶
42~562
百済
高句麗
新羅
↓↑
南北国
唐熊津都督府
安東都護府
↓↑
統一新羅
鶏林州都督府
↓↑
676~892
安東都護府
↓↑
668~756
渤海
↓↑
698~926
後三国
新羅
~935
後百済
↓↑
892~936
後高句麗
↓↑
901~918
遼
女真
↓↑
統一王朝
高麗
918~
金
元遼陽行省
(東寧・双城・耽羅)
↓↑
元朝
高麗
1356~1392
↓↑
李氏朝鮮
1392~1897
↓↑
大韓帝国
1897~1910
↓↑
日本統治時代の朝鮮
1910~1945
↓↑
連合軍軍政期
1945~1948
アメリカ占領区
ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948~
朝鮮民主主義人民共和国
1948~
↓↑
安羅(あら)
3世紀=6世紀中頃
韓国
威安郡
に存在していた小国家
任那
伽耶
を構成する国の1つ
↓↑
初出記録
広開土王碑文(好太王碑文)
400年頃
朝鮮半島
任那
加羅
安羅
(加羅諸国)
この2国が代表的な国で
侵入してきた
高句麗軍に反撃するほどの強力な軍事力があった
加羅諸国は
倭と協力して
高句麗
新羅
と対立
↓↑
『日本書紀』初見
神功皇后49年(369年?)春3月条
神功皇后に遣わされた
荒田別
鹿我別
によって、他の加羅諸国と共に平定された
↓↑
継体天皇23年3月(529年?)
近江毛野
が遣わされ
百済からは
将軍
君尹貴
麻那甲背
麻鹵
などが派遣
新羅からは位の高い人は派遣されず
夫智奈麻礼
奚奈麻礼
などが派遣され
毛野の「詔勅」を伝えられた
↓↑
欽明天皇2年4月(541年か)
安羅の
次旱岐夷呑奚
大不孫
久取柔利
は
任那日本府の
吉備臣(欠名)
とともに
百済に行き
任那復興についての
聖明王
の詔書を聴き受けた
↓↑
同年7月
百済が
任那日本府と
新羅が
計略を通わしているという情報を手に入れ
前部
奈率鼻利莫古
奈率宣文
中部
奈率木刕眯淳
紀臣
奈率弥麻沙
らが
安羅に派遣され
任那の再建について会合
任那日本府の
河内直
移那斯
麻都
の排除が主張された
↓↑
欽明天皇5年3月(544年か)条
安羅人は
日本府を天(父)と思っており
「百済本記」によれば
任那は
安羅を父と
日本府を本と思っていた・・・
印支弥とともに
任那日本府の構成員であった
阿鹵旱岐(あろかんき)は
「安羅の旱岐」であると考えられている・・・
↓↑
欽明天皇13年5月8日(552年か)
百済、加羅、安羅は
中部德率
木刕今敦
河内部
阿斯比多(あしひた)
などを日本に派遣して
「高句麗と新羅は
臣国(わたしの国)と
任那を滅ぼそうとしているため
兵を借りて
先に高句麗と新羅を攻めたい」
と主張した
↓↑
欽明天皇23年(562年か)1月
他の任那構成国とともに
新羅に滅ぼされた
↓↑
任那日本府
の記事は
雄略天皇紀
欽明2年~15年、(541年~554年)
任那の内
金官地方は新羅に併合され
任那日本府の実態は
「安羅日本府」であった・・・
「任那日本府」の古訓は
「ミマナノヤマトノミコトモチ(任那倭宰)」
実態を表す言葉としては
「在安羅諸倭臣等
(アラニハベルモロモロノヤマトノマエツギミタチ)」
・・・
↓↑
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(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・・・絵字符都・・・『埃及』(42)
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エメラルドブルーの謎 (碧き眼の人形伝説) 奈井江 五郎
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
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ボクの「古事記字源」の発端・・・
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干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
↓↑
メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
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モウ君の総合目次
↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
↓↑
古事記と虎関師錬
↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・