2025年1月31日・午前1時30分・金曜日・・・
昨日の朝8時に起きて、窓の外はの天気はイイ・・・
TVの天気予報での水曜日、木曜日の
ドカ雪を覚悟していたが、
この地域には雪が全然振ってこない・・・
昼間・・・ウトウト・・・
あっという間に今日なった・・・
昼型人間になったと思っていたが
今現在は
夜型人間に戻ったみたい・・・
PCの調子具合の速度ダウン
予期していた
「憂鬱な水曜日」は
15日、22日の水曜ではなく
「29日の水曜日」にやってきた
明日は「2月1日」で
PC速度は
「イチ、ニッ、サン」
と唱える呪文で検索画面が表示されるハズだが・・・
節分はすぐやってくる・・・
PCに「憑依したノロマ魂鬼」・・・?
↓↑
鬼室集斯(鬼室福信の子、縁者
集(隹+木)の斯(其+斤)・・・
あんた、善行寺の「住魂鬼」なんだろう・・・?
ブツブツヒトリボッチでナニ、呟いているんだか・・・
陥没事故・・・
28日午前9時50分ごろ
埼玉県八潮市二丁目
県道交差点で道路が陥没
2トントラック1台が陥没穴に転落
陥没は直径約10メートル
深さ約10メートル
29日午前1時10分ごろ
クレーンでトラックを引き上げようとしていたが新たな陥没発生
30日午前2時半過ぎ
穴は更に拡大
↓↑
百済における官位は達率
日本亡命帰化後の
官位は
小錦下・学職頭)・・・学の職の頭
小錦下 (ショウキンゲ)
664年~685年までの
冠位
26階中12位
上が 小錦中
下が 大山上
天智天皇三年(664年)二月九日
「冠位26階の制」
で
「小花上」
と
「小花下」 の2階を
「小錦上・小錦中・小錦下」
の3階に改定
↓↑
大化三年(647年)
「小錦」
という冠位があって
大化五年(649年)
小花上
と
小花下に分割され
↓↑
小錦下などはその名を復活継承した
↓↑
天武天皇十四年(685年)一月二十一日
冠位の命名方法が一新し廃止
身分的な
「大夫の下限」で
後の
「従五位下」と同じ意味で使用
↓↑
大夫(たいふ・だいぶ・たゆう)
古代中国における身分呼称
周代~春秋戦国時代
身分呼称
領地を持った貴族(王族・公族も含む)
↓↑
大夫は
卿の下位
士の上位
周代
周王室
および
諸侯に仕える小領主は
大夫
その上級が
卿と呼ばれ
国政に参加
諸侯が横暴な場合
大夫らにより追放されることもあり
主君を脅かし得る地位を得るようになった
↓↑
後代
大夫の中に衰退する者も現れたが
その後
有力
「農民層」
が新たに
「士」
という階級を形成
地位を得るようになった・・・
↓↑
春秋時代
晋
地方県の「長官=大夫」
後に諸国もこれに倣い
中央集権的な
郡県制へと移行
↓↑
唐の官制で
従二品
より
従五品下
の総称
↓↑
現在の中国語で
「医者(:zh:大夫)」の呼称
↓↑
日本
「太夫(たゆう)」
とも表記
律令制で
太政官においては
三位以上
寮においては
↓↑
寮(リョウ・つかさ)
律令制における役所の種類
そこで働く官司たち
↓↑
古代中国
周朝の
卿事寮(ケイジリョウ)=立法行政を担う機関
太史寮(タイシリョウ)=宮廷内の祭祀を司った機関
↓↑
日本
寮
職や司と共に主に
各省
中務省
式部省
治部省
民部省
宮内省
のもとで「事務」を行った
「散位寮」は廃止
散位(サンイ・サンニ)=散官
位階のみで官職を持たないもの
京官・外官
文官・武官
の別があり
散位の大半は退職者
五位以上の散位は
散位寮に長上(常勤)し
六位以下のうち
在京のものは
散位寮に分番(交替勤務)し
他は国府に分番し
他の官司の
手伝い、使者としての事務を行う
武散位(武官の散位)は
兵部省の管理をも受ける
↓↑
四度使(よどのつかい)
の一つ
朝集使が
在京中のときはその管理
寛平八年(896年)
式部省に併合
以後散位の事務も
式部省で行われた
↓↑
寮の職員
左・右馬寮
左・右兵庫
独立した寮もある
左・右兵庫は
普通、「寮を語尾」につけない・・・?
↓↑
大寮
小寮
職員数や官位によって
さらに
2等級に分類
↓↑
四等官
基本職員
↓↑
頭(長官)
助(次官)
允(判官)
属(主典)
↓↑
大寮の官位
頭(従五位上)
助(正六位下)
大允(正七位下)
少允(従七位上)
大属(従八位上)
少属(従八位下)
↓↑
小寮の官位
頭(従五位下)
助(従六位上)
允(従七位上)
大属(従八位下)
少属(大初位上)
↓↑
寮一覧
大寮
大舎人寮(中務省)・・書記記録
↓↑
図書寮
↓↑
内匠寮・・・・・・土木建築
↓↑
大学寮(式部省)・・文部省
↓↑
雅楽寮(治部省)・・音楽
↓↑
玄蕃寮
↓↑
諸陵寮・・・・・・墳墓管理
↓↑
主計寮(民部省)・・税務
↓↑
主税寮・・・・・・大蔵省
↓↑
木工寮(宮内省)
↓↑
左・右馬寮(独立)
↓↑
左・右兵庫(独立)
↓↑
兵庫寮(独立)
↓↑
斎宮寮(独立)
↓↑
少寮→大寮
縫殿寮
内蔵寮
↓↑
小寮
陰陽寮(中務省)
散位寮(式部省)
大炊寮(宮内省)
主殿寮
典薬寮
掃部寮
↓↑
四位以上
中国(日本)以下の
国司においては
「五位以上」
の官吏の称
時代が下ると
「五位の通称」
転じて
身分のある者への呼びかけ
人物の呼称
↓↑
朝鮮
『魏略』の逸文
「箕子(キシ=季氏・起始)」
岸氏
竹の其の子
・・箕乃・観諏
其=甘+ー+ハ
甘(あまい
甜・天意・海女意・贏)
筑紫・都築・土筆・・・美濃・三野
↓↑
「箕子(キシ)」
殷王朝の政治家
「文武 丁」の子
「帝 乙」の弟
「帝 辛(紂王)」の叔父
「箕の国」に封じられたので
「箕子」と呼ばれる
名は
「胥余」・・・
朝鮮で
「箕子朝鮮」建国
『史記・宋微子世家』
「武王 既 克殷
訪問 箕子
於是 武王 乃
封 箕子・・・箕子=竹+其+ー+了
於 朝鮮…」
「殷」王朝出自の「中国人≠漢人」
殷=㐆+几+殳
白+勹+几+又
=㐆=イン
帰る・すがる・帰依する
身をかえす・からだの向きをかえる
蒑=艹+殷=イン・オン
野菜の名・草が青々としている
溵=氵+殷=イン・オン
川の名
慇=殷+心=イン
いたむ・憂える・心を痛める
ねんごろ・丁寧・心がこもっている
慇慇(インイン)
慇懃(インギン)
慇憂(インユウ)
慇懃無礼(インギンブレイ)
馬鹿慇懃(バカインギン)
慇懃(インギン)を通じる
慇懃(インギン)を通ずる
磤=石+殷=イン
雷鳴・雷の轟き響く音
獅子の咆哮
磊(ライ)
↓↑
「箕子」・・・竹+其(甘+一+八)
朝鮮人に アマいのイチを捌(さばく)
礼儀・農業・田作・養蚕・織機
を教え
犯禁八条を施行し民を教化
朝鮮人は、箕子を崇拝し
祠廟を建て
四季を通じて祭祀をおこなった
↓↑
紀元前数世紀ころ
朝鮮半島
「箕国」は当時の
「殷の最北端」
北方異民族(土方・鬼方・艮・丑寅)の地域で
箕子は畏服させることに成功
功績を認められて中央に戻り
「帝 乙・帝 辛」
に仕えた
農事・商業・礼法などに通じ
箕子が政治を執っている間に
殷は大いに栄えた
↓↑
「帝辛」が象牙の箸を作ったと聞き
贅沢が止められなくなってしまうと
危惧(憂い)し、贅沢をやめるように諫言
↓↑
「帝辛」が暴君化すると
「比干」とともに「帝辛」を諫めるが
聞き入れらず「殷」の行く末を憂え
発狂し、「帝辛」に幽閉された
↓↑
武王(周王)が
殷を倒すと
箕子を招聘し
政治について問い
該博さに驚嘆し
武王は
箕子を
崇めて家臣とせず
朝鮮に封じた
「朝鮮侯 箕子」
殷の遺民を率いて東方へ赴き
礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め
「犯禁八条」
を実施して民を教化し
「箕子朝鮮」を建国
↓↑
「箕子」
が
「武王」
に
「洪範九疇」
を教え
後の
「李氏朝鮮」
で中華文明の保持者
朝鮮の先王の道の創始者として
祀られ聖人となる
特に
「平壌(ピョンヤン・ヘイジョウ)」
は箕子朝鮮の都として認識され
平壌に殷代の田制である
「井田制の痕跡」があり
「箕子」が残したことだと認識
李氏朝鮮初期から
箕子を祀る祠堂があった・・・
夷狄である古朝鮮が
箕子から犯禁八条を教えられ
箕子の教えの
「洪範九疇」
を君・臣が誠に受け容れて実行するならば
李氏朝鮮の儒学者の考え方えおなり
小中華思想の根拠となった
李氏朝鮮の実学者である
「安鼎福」
は
「中華文明=礼・文」
の保持者として箕子を崇め
箕子の「礼・文」を継承した朝鮮こそが
「中華」であると主張・・・
「箕子の子孫」
「準王」は
「衛満」
に王権を簒奪され
南走して
「辰国」
に行き
韓王となった
↓↑
箕子の歴史的背景
中国古代の
殷・周金属文化圏では
紀元前10世紀以後
山東の
「斉の箕族」
が
殷・周の権威のもとで
朝鮮西部に接する
「遼寧」
で活動し
「燕・斉人」
の東来は、古くから存在
北京市
順義県
河北省東部
遼西大凌河
で
「其」や「箕侯」という
銘の西周初の
箕子の時代の青銅器が多数発掘
箕子と関係づけられる説
↓↑
「君朝鮮」
「箕子朝鮮」
の二つの伝説は
数千年に渡って多くの軋轢
↓↑
麦秋の嘆
箕子は周に参朝
殷の廃墟、破壊された宮殿跡に
麦が生い茂っているのを見て
感傷に堪えず号泣しようとしたが
周への気兼ねから
「麦秋の詩」
を作って詠歌し
「殷の民」
はこの詩を聞いて、みな涙を流し
亡国の嘆きを
「麦秋の嘆」
と呼ぶようになった
↓↑
麥秀歌
「麥秀漸漸兮,禾黍油油
彼 狡僮(帝辛)兮,不與我好兮」
↓↑
「礼治」の典型を示し
「犯禁八条」を制した箕子は
周室に連なる政治家と登場したが
周室こそが儒教における理想国家であり
周室に由来する箕子が
儒教の系譜において歴史的息吹を与えらた
しかし
箕子は「周人」ではなく
「殷」一族
華夷論からすれば「夷」
「箕子」
「殷の文武 丁の子」
「殷 帝 乙の弟」
「殷 帝 辛の叔父」
『史記』殷本紀
「箕子」
は殷室直系の一族で
甥である「殷 帝辛」に恐怖し
自ら狂人を装って「殷 帝辛」から遠ざかり
「周 武王」が「殷 帝辛」を伐つと
箕子は釈かれた
「箕子」の高潔さは
『史記・宋微子世家』
で詳らかであり
「周 武王」
もこれを知り
高く崇めるところであり
「周 武王」
に対して
「天帝が禹に伝授したと言われる
『洪範九疇』によって
人の倫を確立しなければなりません」
と説き
「周 武王」
は
『洪範九疇』なる儒家思想を
「周公旦」からではなく
「箕子」から教わり
「周公旦」
が
「魯」
に封じられた時期に
「箕子」
は朝鮮に封じられ
「周公旦」
が認識していない
儒家思想を朝鮮に導入
↓↑
朝鮮政治思想の嚆矢を
「箕子朝鮮」の始祖
「箕子」の
「犯禁八条」
にある・・・
↓↑
李氏朝鮮の
「張志淵」
は、朝鮮を征服した後
箕子朝鮮を建国した中国
「殷王朝の政治家箕子」
について
↓↑
「檀君之季,殷太師 箕子 避周以來,
以 洪範九疇 之道,
教化 東方」
↓↑
張志淵
朝鮮儒教淵源
「洪範者 即 易象之原理,
而 儒教 之宗祖也,
自古 聖帝哲王 修身 齊家 治國
天下之大經大法,
皆具 於 洪範一書」
↓↑
朝鮮儒教淵源
「箕子」
「洪範九疇」は『易』の原理
儒教の根本の教義
「箕子」はそれを
殷王朝を滅ぼし
周王朝を建国した
周武王に伝えるとともに
朝鮮にももたらし
「八條之教」
によって朝鮮人を教化したえと
『史記』に記されている
張志淵はそれを
「洪範九疇」とみている・・・
↓↑
李氏朝鮮
初代国王
「李成桂」
が
1392年
明が冊封した
高麗王
「禑王
昌王
恭譲王」
を廃位して高麗王位を簒奪し
「高麗王」
を称した後
明に使節を送り
「権知
高麗国事としての地位を認められたが
洪武帝は
王朝が交代したことで
国号を変更するよう命じた
李成桂は
重臣達と共に国号変更を計画し
朝鮮
と
和寧
の二つの候補を準備し
洪武帝に選んでもらった
和寧は
「李成桂」
の出身地名で
北元の本拠地
カラコルムの別名でもあったので
洪武帝は
前漢の武帝にほろぼされた
王朝(衛氏朝鮮)の名前であり
平壌付近の古名である
「朝鮮」を選んだ
そして
「李成桂」
を権知朝鮮国事に封じ
朝鮮は正式な国号となり
朝鮮は
衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮
の正統性を継承する意味があり
国号変更以前から
それを意識する儀式が行われていた
↓↑
新王朝が擬定した朝鮮の国号
朝鮮初の
檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した
箕子朝鮮を継承する意図があり
首都が
漢陽に置かれたのは
檀君朝鮮
と
箕子朝鮮の
舞台であったため
檀君と箕子を直結させ
正統性の拠り所にした・・・
「洪武帝」
は、新王朝が箕子の伝統を継承する
「忠実な属国」
となり
自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような
賢君になりたいと祈念
↓↑
李氏朝鮮
太祖
李成桂
建国前に
北方民族を懐柔するための
榜文のなかで
「堯と並び立つ武王が
箕子を朝鮮に封じ
遼河の西の疆域を下賜した」
と主張
「箕子,始興教化之君」
を語り
「李成桂」
は祭祀問題について
「箕子が朝鮮に封じられ
文化の礎となった
前朝(高麗王朝)の始祖は
三韓統一に尽力した人物なので
祭田を設けて祭祀をおこなうのが妥当」
↓↑
「箕子」
の子孫は朝鮮侯を世襲
東周が衰退すると
王を僭称し
周王朝を尊んで
燕を攻撃しようとしたが
「大夫の礼(人名)」
が朝鮮王を諌め
王は攻撃を中止し
燕に「礼」を派遣し
燕は朝鮮を攻めなかった
衛氏朝鮮
「稗王」
「太子」が
おり
「大夫」
「大臣」
「相」
「将軍」
が合議で国家運営
↓↑
日本の
「大夫」
『後漢書・東夷伝』
『魏志・倭人伝』
中国へ派遣された倭人の使者が自ら
「大夫」と称していた・・・
↓↑
「大夫」
日本の律令制度に設定
『公式令』の規定で
太政官
三位以上の官吏
寮
四位以上の官吏
「中国以下の国司」
五位以上の男性官吏を指す称号
大夫は「だいぶ」と読み(東宮大夫)
単に五位を意味する場合には
「たいふ」と読み分ける・・・
訓読み
「まえつきみ」・・・
五位以下相当の官職者が
五位に叙せられた時
官職の下に
「大夫」と付記
五位にありながら
「散位=無官」の者は
「無官大夫」と称され
従五位下の者は
唐名で
「朝散大夫(チョウサンタイフ)」
唐の
従五品下の雅名
「百済鎮将 劉仁願
遣二
朝散大夫 郭務悰」
↓↑
日本
従五位下の唐名・古代の官職・従五位下の別称
朝散大夫=隋・唐代の従五品下の雅称
従五位下の唐名
↓↑
朝散郎=チョウサンロウ(古代の官職)
古代の官職・従七位上の別称
従五位下の唐名=太夫
↓↑
女官・・・音名の咸(関)
五位・・・語彙・語意・語異・呉委
以上・・・移譲・委譲・移乗・異常
囲繞=イジョウ・イニョウ
まわりを取り囲むこと
ぐるっと・ぐるり
囲い・囲み・囲む・囲う
包囲・遠巻き・取り巻く
=囲遶
仏辺、旋繞の意
仏(象)に右肩を向けて
右回りに回って敬礼すること
内侍司(ないしのつかさ)
日本の律令官制における役所の一
令によって定められた
後宮十二司の一
女官のみによって構成
職掌
内侍司の女官
天皇に近侍し
奏請と伝宣(内侍宣)
宮中の礼式等を司った
天皇の秘書役
学問・礼法に通じた有能な女性
三種の神器のひとつ
八咫鏡を模した神鏡が
温明殿(内侍所)に安置
この神鏡を守護捧持する
神鏡を
「内侍所」
とも呼ぶ
内侍司の女官
平城天皇
大同二年(807年)
大幅に相当する位が引き上げられ
「薬子の変」
の遠因ともなった・・・
平安時代半ば以降
後宮十二司の組織が再編
内侍司が唯一の
後宮官司となる
「長官」の
「尚侍」
は皇妃に準ずる
「次官」の
「典侍」
も天皇の
「侍妾」
としての性格を備えていた・・・
構成
尚侍(ないし・ショウジ)
四等官における
内侍司の長官(カミ)に相当
准位(男性官人の官位相当に相当する)は
従五位
のち
従三位
定員は2名
多く摂関家の娘が選任
元来
奏請・伝宣の職掌は
尚侍のみのもので
典侍以下が扱うことはできなかった
10世紀末頃
皇妃に準ずる扱いとなり
実際の女官としての業務は
典侍以下が担った
平安時代後期
~
鎌倉時代
尚侍は任命されなくなった
典侍(ないしのすけ・テンジ)
四等官における
次官(スケ)に相当
准位は
従六位のち
従四位
定員は4名
大納言・中納言を中心に
公卿の娘が多く選ばれた。
掌侍(ないしのじょう・ショウジ)
四等官における判官(ジョウ)に相当
准位は
従七位のち
従五位
定員は正官4名
権官2名の計6名
通常「内侍」ばこの「掌侍」のことを指す
天皇移動の際に
剣璽を捧げ持ち随行
第一位
上臈の掌侍を
「勾当内侍(コウトウのナイシ)」
または
「長橋局(ながはしのつぼね)」
という
尚侍や典侍が形式化した後
内侍司の実務は
奏請・伝宣
を含め
「勾当内侍」
を中心に取り仕切られ
江戸時代になると
渉外においては制度上は
「上臈」の「大典侍」よりも権力をもった
「女孺(にょじゅ・にょうじゅ)」
内侍司の下級女官
定員は100名
掃除などの雑務一般にあたった
↓↑
女房
命婦
更衣
女蔵人
東豎子
↓↑
命婦
~
の者
者=耂+日
↓↑ 土+㇒+日
十+一+ノ+日
↓↑ 者=耂+丶+日
=シャ・ハ・もの
「耂=老=耂+匕(ノ+乚)
(匕・七・匕(匙)
𢍺? ヒ=牝=女)
戈=弋+ノ+丶
弋=𢍺
=𢍻=丂+弋
丂=コウ
=考=土+ノ+丂
=たくみ
=巧=エ+ー+勹
ㄅ・ㄣ(コウ)
丂=ー+勹
=ー+ノ+𠃌
𠃌(刀の刃)
司=𠮛+𠃌
「𠮛=𠫔=ー+ム=旨」
𠮛=旨=「匕・匕・七」+日+𠃌
刀=𠃌+ノ
=⺈=刂
⺈=彑・彐
気がさまたげられる?
弋=𢍺=𢍼?・・・戈
弋=𢍺
=ヨク [漢]・イキ [呉]
いぐるみ
=ー+㇂+丶=七+丶・・・
=ヨク・イキ
いぐるみ=鳥をとる道具
弋射・遊弋
ぐるぐる動き回る
うかぶ・くい・くろい・とる
上端に
又(丫=ア・Y=ワイ)
のついた棒杙(ぼうぐい)
の形をした矢に
紐をつけて放つ
弋射(ヨクシャ)の
獲物をからめとる意
ー↓↑ーー
干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
昨日の朝8時に起きて、窓の外はの天気はイイ・・・
TVの天気予報での水曜日、木曜日の
ドカ雪を覚悟していたが、
この地域には雪が全然振ってこない・・・
昼間・・・ウトウト・・・
あっという間に今日なった・・・
昼型人間になったと思っていたが
今現在は
夜型人間に戻ったみたい・・・
PCの調子具合の速度ダウン
予期していた
「憂鬱な水曜日」は
15日、22日の水曜ではなく
「29日の水曜日」にやってきた
明日は「2月1日」で
PC速度は
「イチ、ニッ、サン」
と唱える呪文で検索画面が表示されるハズだが・・・
節分はすぐやってくる・・・
PCに「憑依したノロマ魂鬼」・・・?
↓↑
鬼室集斯(鬼室福信の子、縁者
集(隹+木)の斯(其+斤)・・・
あんた、善行寺の「住魂鬼」なんだろう・・・?
ブツブツヒトリボッチでナニ、呟いているんだか・・・
陥没事故・・・
28日午前9時50分ごろ
埼玉県八潮市二丁目
県道交差点で道路が陥没
2トントラック1台が陥没穴に転落
陥没は直径約10メートル
深さ約10メートル
29日午前1時10分ごろ
クレーンでトラックを引き上げようとしていたが新たな陥没発生
30日午前2時半過ぎ
穴は更に拡大
↓↑
百済における官位は達率
日本亡命帰化後の
官位は
小錦下・学職頭)・・・学の職の頭
小錦下 (ショウキンゲ)
664年~685年までの
冠位
26階中12位
上が 小錦中
下が 大山上
天智天皇三年(664年)二月九日
「冠位26階の制」
で
「小花上」
と
「小花下」 の2階を
「小錦上・小錦中・小錦下」
の3階に改定
↓↑
大化三年(647年)
「小錦」
という冠位があって
大化五年(649年)
小花上
と
小花下に分割され
↓↑
小錦下などはその名を復活継承した
↓↑
天武天皇十四年(685年)一月二十一日
冠位の命名方法が一新し廃止
身分的な
「大夫の下限」で
後の
「従五位下」と同じ意味で使用
↓↑
大夫(たいふ・だいぶ・たゆう)
古代中国における身分呼称
周代~春秋戦国時代
身分呼称
領地を持った貴族(王族・公族も含む)
↓↑
大夫は
卿の下位
士の上位
周代
周王室
および
諸侯に仕える小領主は
大夫
その上級が
卿と呼ばれ
国政に参加
諸侯が横暴な場合
大夫らにより追放されることもあり
主君を脅かし得る地位を得るようになった
↓↑
後代
大夫の中に衰退する者も現れたが
その後
有力
「農民層」
が新たに
「士」
という階級を形成
地位を得るようになった・・・
↓↑
春秋時代
晋
地方県の「長官=大夫」
後に諸国もこれに倣い
中央集権的な
郡県制へと移行
↓↑
唐の官制で
従二品
より
従五品下
の総称
↓↑
現在の中国語で
「医者(:zh:大夫)」の呼称
↓↑
日本
「太夫(たゆう)」
とも表記
律令制で
太政官においては
三位以上
寮においては
↓↑
寮(リョウ・つかさ)
律令制における役所の種類
そこで働く官司たち
↓↑
古代中国
周朝の
卿事寮(ケイジリョウ)=立法行政を担う機関
太史寮(タイシリョウ)=宮廷内の祭祀を司った機関
↓↑
日本
寮
職や司と共に主に
各省
中務省
式部省
治部省
民部省
宮内省
のもとで「事務」を行った
「散位寮」は廃止
散位(サンイ・サンニ)=散官
位階のみで官職を持たないもの
京官・外官
文官・武官
の別があり
散位の大半は退職者
五位以上の散位は
散位寮に長上(常勤)し
六位以下のうち
在京のものは
散位寮に分番(交替勤務)し
他は国府に分番し
他の官司の
手伝い、使者としての事務を行う
武散位(武官の散位)は
兵部省の管理をも受ける
↓↑
四度使(よどのつかい)
の一つ
朝集使が
在京中のときはその管理
寛平八年(896年)
式部省に併合
以後散位の事務も
式部省で行われた
↓↑
寮の職員
左・右馬寮
左・右兵庫
独立した寮もある
左・右兵庫は
普通、「寮を語尾」につけない・・・?
↓↑
大寮
小寮
職員数や官位によって
さらに
2等級に分類
↓↑
四等官
基本職員
↓↑
頭(長官)
助(次官)
允(判官)
属(主典)
↓↑
大寮の官位
頭(従五位上)
助(正六位下)
大允(正七位下)
少允(従七位上)
大属(従八位上)
少属(従八位下)
↓↑
小寮の官位
頭(従五位下)
助(従六位上)
允(従七位上)
大属(従八位下)
少属(大初位上)
↓↑
寮一覧
大寮
大舎人寮(中務省)・・書記記録
↓↑
図書寮
↓↑
内匠寮・・・・・・土木建築
↓↑
大学寮(式部省)・・文部省
↓↑
雅楽寮(治部省)・・音楽
↓↑
玄蕃寮
↓↑
諸陵寮・・・・・・墳墓管理
↓↑
主計寮(民部省)・・税務
↓↑
主税寮・・・・・・大蔵省
↓↑
木工寮(宮内省)
↓↑
左・右馬寮(独立)
↓↑
左・右兵庫(独立)
↓↑
兵庫寮(独立)
↓↑
斎宮寮(独立)
↓↑
少寮→大寮
縫殿寮
内蔵寮
↓↑
小寮
陰陽寮(中務省)
散位寮(式部省)
大炊寮(宮内省)
主殿寮
典薬寮
掃部寮
↓↑
四位以上
中国(日本)以下の
国司においては
「五位以上」
の官吏の称
時代が下ると
「五位の通称」
転じて
身分のある者への呼びかけ
人物の呼称
↓↑
朝鮮
『魏略』の逸文
「箕子(キシ=季氏・起始)」
岸氏
竹の其の子
・・箕乃・観諏
其=甘+ー+ハ
甘(あまい
甜・天意・海女意・贏)
筑紫・都築・土筆・・・美濃・三野
↓↑
「箕子(キシ)」
殷王朝の政治家
「文武 丁」の子
「帝 乙」の弟
「帝 辛(紂王)」の叔父
「箕の国」に封じられたので
「箕子」と呼ばれる
名は
「胥余」・・・
朝鮮で
「箕子朝鮮」建国
『史記・宋微子世家』
「武王 既 克殷
訪問 箕子
於是 武王 乃
封 箕子・・・箕子=竹+其+ー+了
於 朝鮮…」
「殷」王朝出自の「中国人≠漢人」
殷=㐆+几+殳
白+勹+几+又
=㐆=イン
帰る・すがる・帰依する
身をかえす・からだの向きをかえる
蒑=艹+殷=イン・オン
野菜の名・草が青々としている
溵=氵+殷=イン・オン
川の名
慇=殷+心=イン
いたむ・憂える・心を痛める
ねんごろ・丁寧・心がこもっている
慇慇(インイン)
慇懃(インギン)
慇憂(インユウ)
慇懃無礼(インギンブレイ)
馬鹿慇懃(バカインギン)
慇懃(インギン)を通じる
慇懃(インギン)を通ずる
磤=石+殷=イン
雷鳴・雷の轟き響く音
獅子の咆哮
磊(ライ)
↓↑
「箕子」・・・竹+其(甘+一+八)
朝鮮人に アマいのイチを捌(さばく)
礼儀・農業・田作・養蚕・織機
を教え
犯禁八条を施行し民を教化
朝鮮人は、箕子を崇拝し
祠廟を建て
四季を通じて祭祀をおこなった
↓↑
紀元前数世紀ころ
朝鮮半島
「箕国」は当時の
「殷の最北端」
北方異民族(土方・鬼方・艮・丑寅)の地域で
箕子は畏服させることに成功
功績を認められて中央に戻り
「帝 乙・帝 辛」
に仕えた
農事・商業・礼法などに通じ
箕子が政治を執っている間に
殷は大いに栄えた
↓↑
「帝辛」が象牙の箸を作ったと聞き
贅沢が止められなくなってしまうと
危惧(憂い)し、贅沢をやめるように諫言
↓↑
「帝辛」が暴君化すると
「比干」とともに「帝辛」を諫めるが
聞き入れらず「殷」の行く末を憂え
発狂し、「帝辛」に幽閉された
↓↑
武王(周王)が
殷を倒すと
箕子を招聘し
政治について問い
該博さに驚嘆し
武王は
箕子を
崇めて家臣とせず
朝鮮に封じた
「朝鮮侯 箕子」
殷の遺民を率いて東方へ赴き
礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め
「犯禁八条」
を実施して民を教化し
「箕子朝鮮」を建国
↓↑
「箕子」
が
「武王」
に
「洪範九疇」
を教え
後の
「李氏朝鮮」
で中華文明の保持者
朝鮮の先王の道の創始者として
祀られ聖人となる
特に
「平壌(ピョンヤン・ヘイジョウ)」
は箕子朝鮮の都として認識され
平壌に殷代の田制である
「井田制の痕跡」があり
「箕子」が残したことだと認識
李氏朝鮮初期から
箕子を祀る祠堂があった・・・
夷狄である古朝鮮が
箕子から犯禁八条を教えられ
箕子の教えの
「洪範九疇」
を君・臣が誠に受け容れて実行するならば
李氏朝鮮の儒学者の考え方えおなり
小中華思想の根拠となった
李氏朝鮮の実学者である
「安鼎福」
は
「中華文明=礼・文」
の保持者として箕子を崇め
箕子の「礼・文」を継承した朝鮮こそが
「中華」であると主張・・・
「箕子の子孫」
「準王」は
「衛満」
に王権を簒奪され
南走して
「辰国」
に行き
韓王となった
↓↑
箕子の歴史的背景
中国古代の
殷・周金属文化圏では
紀元前10世紀以後
山東の
「斉の箕族」
が
殷・周の権威のもとで
朝鮮西部に接する
「遼寧」
で活動し
「燕・斉人」
の東来は、古くから存在
北京市
順義県
河北省東部
遼西大凌河
で
「其」や「箕侯」という
銘の西周初の
箕子の時代の青銅器が多数発掘
箕子と関係づけられる説
↓↑
「君朝鮮」
「箕子朝鮮」
の二つの伝説は
数千年に渡って多くの軋轢
↓↑
麦秋の嘆
箕子は周に参朝
殷の廃墟、破壊された宮殿跡に
麦が生い茂っているのを見て
感傷に堪えず号泣しようとしたが
周への気兼ねから
「麦秋の詩」
を作って詠歌し
「殷の民」
はこの詩を聞いて、みな涙を流し
亡国の嘆きを
「麦秋の嘆」
と呼ぶようになった
↓↑
麥秀歌
「麥秀漸漸兮,禾黍油油
彼 狡僮(帝辛)兮,不與我好兮」
↓↑
「礼治」の典型を示し
「犯禁八条」を制した箕子は
周室に連なる政治家と登場したが
周室こそが儒教における理想国家であり
周室に由来する箕子が
儒教の系譜において歴史的息吹を与えらた
しかし
箕子は「周人」ではなく
「殷」一族
華夷論からすれば「夷」
「箕子」
「殷の文武 丁の子」
「殷 帝 乙の弟」
「殷 帝 辛の叔父」
『史記』殷本紀
「箕子」
は殷室直系の一族で
甥である「殷 帝辛」に恐怖し
自ら狂人を装って「殷 帝辛」から遠ざかり
「周 武王」が「殷 帝辛」を伐つと
箕子は釈かれた
「箕子」の高潔さは
『史記・宋微子世家』
で詳らかであり
「周 武王」
もこれを知り
高く崇めるところであり
「周 武王」
に対して
「天帝が禹に伝授したと言われる
『洪範九疇』によって
人の倫を確立しなければなりません」
と説き
「周 武王」
は
『洪範九疇』なる儒家思想を
「周公旦」からではなく
「箕子」から教わり
「周公旦」
が
「魯」
に封じられた時期に
「箕子」
は朝鮮に封じられ
「周公旦」
が認識していない
儒家思想を朝鮮に導入
↓↑
朝鮮政治思想の嚆矢を
「箕子朝鮮」の始祖
「箕子」の
「犯禁八条」
にある・・・
↓↑
李氏朝鮮の
「張志淵」
は、朝鮮を征服した後
箕子朝鮮を建国した中国
「殷王朝の政治家箕子」
について
↓↑
「檀君之季,殷太師 箕子 避周以來,
以 洪範九疇 之道,
教化 東方」
↓↑
張志淵
朝鮮儒教淵源
「洪範者 即 易象之原理,
而 儒教 之宗祖也,
自古 聖帝哲王 修身 齊家 治國
天下之大經大法,
皆具 於 洪範一書」
↓↑
朝鮮儒教淵源
「箕子」
「洪範九疇」は『易』の原理
儒教の根本の教義
「箕子」はそれを
殷王朝を滅ぼし
周王朝を建国した
周武王に伝えるとともに
朝鮮にももたらし
「八條之教」
によって朝鮮人を教化したえと
『史記』に記されている
張志淵はそれを
「洪範九疇」とみている・・・
↓↑
李氏朝鮮
初代国王
「李成桂」
が
1392年
明が冊封した
高麗王
「禑王
昌王
恭譲王」
を廃位して高麗王位を簒奪し
「高麗王」
を称した後
明に使節を送り
「権知
高麗国事としての地位を認められたが
洪武帝は
王朝が交代したことで
国号を変更するよう命じた
李成桂は
重臣達と共に国号変更を計画し
朝鮮
と
和寧
の二つの候補を準備し
洪武帝に選んでもらった
和寧は
「李成桂」
の出身地名で
北元の本拠地
カラコルムの別名でもあったので
洪武帝は
前漢の武帝にほろぼされた
王朝(衛氏朝鮮)の名前であり
平壌付近の古名である
「朝鮮」を選んだ
そして
「李成桂」
を権知朝鮮国事に封じ
朝鮮は正式な国号となり
朝鮮は
衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮
の正統性を継承する意味があり
国号変更以前から
それを意識する儀式が行われていた
↓↑
新王朝が擬定した朝鮮の国号
朝鮮初の
檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した
箕子朝鮮を継承する意図があり
首都が
漢陽に置かれたのは
檀君朝鮮
と
箕子朝鮮の
舞台であったため
檀君と箕子を直結させ
正統性の拠り所にした・・・
「洪武帝」
は、新王朝が箕子の伝統を継承する
「忠実な属国」
となり
自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような
賢君になりたいと祈念
↓↑
李氏朝鮮
太祖
李成桂
建国前に
北方民族を懐柔するための
榜文のなかで
「堯と並び立つ武王が
箕子を朝鮮に封じ
遼河の西の疆域を下賜した」
と主張
「箕子,始興教化之君」
を語り
「李成桂」
は祭祀問題について
「箕子が朝鮮に封じられ
文化の礎となった
前朝(高麗王朝)の始祖は
三韓統一に尽力した人物なので
祭田を設けて祭祀をおこなうのが妥当」
↓↑
「箕子」
の子孫は朝鮮侯を世襲
東周が衰退すると
王を僭称し
周王朝を尊んで
燕を攻撃しようとしたが
「大夫の礼(人名)」
が朝鮮王を諌め
王は攻撃を中止し
燕に「礼」を派遣し
燕は朝鮮を攻めなかった
衛氏朝鮮
「稗王」
「太子」が
おり
「大夫」
「大臣」
「相」
「将軍」
が合議で国家運営
↓↑
日本の
「大夫」
『後漢書・東夷伝』
『魏志・倭人伝』
中国へ派遣された倭人の使者が自ら
「大夫」と称していた・・・
↓↑
「大夫」
日本の律令制度に設定
『公式令』の規定で
太政官
三位以上の官吏
寮
四位以上の官吏
「中国以下の国司」
五位以上の男性官吏を指す称号
大夫は「だいぶ」と読み(東宮大夫)
単に五位を意味する場合には
「たいふ」と読み分ける・・・
訓読み
「まえつきみ」・・・
五位以下相当の官職者が
五位に叙せられた時
官職の下に
「大夫」と付記
五位にありながら
「散位=無官」の者は
「無官大夫」と称され
従五位下の者は
唐名で
「朝散大夫(チョウサンタイフ)」
唐の
従五品下の雅名
「百済鎮将 劉仁願
遣二
朝散大夫 郭務悰」
↓↑
日本
従五位下の唐名・古代の官職・従五位下の別称
朝散大夫=隋・唐代の従五品下の雅称
従五位下の唐名
↓↑
朝散郎=チョウサンロウ(古代の官職)
古代の官職・従七位上の別称
従五位下の唐名=太夫
↓↑
女官・・・音名の咸(関)
五位・・・語彙・語意・語異・呉委
以上・・・移譲・委譲・移乗・異常
囲繞=イジョウ・イニョウ
まわりを取り囲むこと
ぐるっと・ぐるり
囲い・囲み・囲む・囲う
包囲・遠巻き・取り巻く
=囲遶
仏辺、旋繞の意
仏(象)に右肩を向けて
右回りに回って敬礼すること
内侍司(ないしのつかさ)
日本の律令官制における役所の一
令によって定められた
後宮十二司の一
女官のみによって構成
職掌
内侍司の女官
天皇に近侍し
奏請と伝宣(内侍宣)
宮中の礼式等を司った
天皇の秘書役
学問・礼法に通じた有能な女性
三種の神器のひとつ
八咫鏡を模した神鏡が
温明殿(内侍所)に安置
この神鏡を守護捧持する
神鏡を
「内侍所」
とも呼ぶ
内侍司の女官
平城天皇
大同二年(807年)
大幅に相当する位が引き上げられ
「薬子の変」
の遠因ともなった・・・
平安時代半ば以降
後宮十二司の組織が再編
内侍司が唯一の
後宮官司となる
「長官」の
「尚侍」
は皇妃に準ずる
「次官」の
「典侍」
も天皇の
「侍妾」
としての性格を備えていた・・・
構成
尚侍(ないし・ショウジ)
四等官における
内侍司の長官(カミ)に相当
准位(男性官人の官位相当に相当する)は
従五位
のち
従三位
定員は2名
多く摂関家の娘が選任
元来
奏請・伝宣の職掌は
尚侍のみのもので
典侍以下が扱うことはできなかった
10世紀末頃
皇妃に準ずる扱いとなり
実際の女官としての業務は
典侍以下が担った
平安時代後期
~
鎌倉時代
尚侍は任命されなくなった
典侍(ないしのすけ・テンジ)
四等官における
次官(スケ)に相当
准位は
従六位のち
従四位
定員は4名
大納言・中納言を中心に
公卿の娘が多く選ばれた。
掌侍(ないしのじょう・ショウジ)
四等官における判官(ジョウ)に相当
准位は
従七位のち
従五位
定員は正官4名
権官2名の計6名
通常「内侍」ばこの「掌侍」のことを指す
天皇移動の際に
剣璽を捧げ持ち随行
第一位
上臈の掌侍を
「勾当内侍(コウトウのナイシ)」
または
「長橋局(ながはしのつぼね)」
という
尚侍や典侍が形式化した後
内侍司の実務は
奏請・伝宣
を含め
「勾当内侍」
を中心に取り仕切られ
江戸時代になると
渉外においては制度上は
「上臈」の「大典侍」よりも権力をもった
「女孺(にょじゅ・にょうじゅ)」
内侍司の下級女官
定員は100名
掃除などの雑務一般にあたった
↓↑
女房
命婦
更衣
女蔵人
東豎子
↓↑
命婦
~
の者
者=耂+日
↓↑ 土+㇒+日
十+一+ノ+日
↓↑ 者=耂+丶+日
=シャ・ハ・もの
「耂=老=耂+匕(ノ+乚)
(匕・七・匕(匙)
𢍺? ヒ=牝=女)
戈=弋+ノ+丶
弋=𢍺
=𢍻=丂+弋
丂=コウ
=考=土+ノ+丂
=たくみ
=巧=エ+ー+勹
ㄅ・ㄣ(コウ)
丂=ー+勹
=ー+ノ+𠃌
𠃌(刀の刃)
司=𠮛+𠃌
「𠮛=𠫔=ー+ム=旨」
𠮛=旨=「匕・匕・七」+日+𠃌
刀=𠃌+ノ
=⺈=刂
⺈=彑・彐
気がさまたげられる?
弋=𢍺=𢍼?・・・戈
弋=𢍺
=ヨク [漢]・イキ [呉]
いぐるみ
=ー+㇂+丶=七+丶・・・
=ヨク・イキ
いぐるみ=鳥をとる道具
弋射・遊弋
ぐるぐる動き回る
うかぶ・くい・くろい・とる
上端に
又(丫=ア・Y=ワイ)
のついた棒杙(ぼうぐい)
の形をした矢に
紐をつけて放つ
弋射(ヨクシャ)の
獲物をからめとる意
ー↓↑ーー
干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
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