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自己暴露・・・

2014-07-19 12:53:17 | 古事記字源

 ・・・ロシア(露西亜)の国連大使「なぜ民間機の飛行許可したのか」・・・まるで自分からミサイル発射し撃墜したと云っているようなモノ・・・とにかく、「露西亜」は「ヨーロッパの自由諸国家」とマッタク異質な「独裁国家」であるらしい・・・
ーーーーー
 YOMIURI ONLINEより抜粋添付・・・
  ↓
 【ニューヨーク=水野哲也】
 国連の安全保障理事会は18日、事件に関する緊急会合を開き、「完全で独立した国際的な調査」を求める報道機関向け声明を発表した。国連はフェルトマン事務次長を近くロシアとウクライナに派遣するほか、国連機関の国際民間航空機関(ICAO)も真相究明に関与させる方針だ。
 会合では、ウクライナのセルゲーエフ国連大使が、「ロシアが武装勢力に武器を提供するなどの支援をしていなかったら、悲劇は起きていなかった」として、ロシアを批判。これに対し、ロシアのチュルキン国連大使は、「なぜウクライナ航空当局は、軍事衝突が起きて地対空ミサイルが稼働しているような地域への民間機の飛行を許可したのか」と反論した。チュルキン氏は、国際的な事故調査の必要性には同意しながらも、「公平で開かれた調査が必要だ。調査への圧力があってはならない」と欧米各国をけん制した。事故調査が迅速に行われるかどうか、予断を許さない状況だ。
 2014年07月19日 10時41分
  Copyright © The Yomiuri Shimbun
ーー
 TOKYOU Webより抜粋添付・・・
  ↓
 ミサイルをロシアに移送か
 証拠隠滅とウクライナ
 2014年7月19日 10時08分
 【キエフ共同】
 ウクライナ内務省は18日、マレーシア航空機の撃墜に使用されたとみられるブク地対空ミサイルを載せたトレーラーが同国東部で同日早朝にロシア国境に向けて移動する様子をひそかに撮影したと発表、映像と写真をホームページで公開した。
 アバコフ内相は「分析を続けているが、恐らくマレーシア航空機を撃墜したブクとみられる」と主張、「恐ろしい犯罪の痕跡を隠そうとしている」と述べ、親ロシア派武装勢力が撃墜の証拠隠滅を図っていると批判した。
 映像は18日午前4時50分ごろ、ウクライナ東部ルガンスク州のクラスノドンを通ってロシア国境方面に向かう車両をとらえた。
ーーーーー
 TOKYOU Webより抜粋添付・・・
  ↓
 福島第一原発
 不明略語
 戸惑う現場
  ↓
 「KY」
 「空気が読めない」ではなく
 「危険予知」の意味
 「TBM(ツールボックスミーティング)」
 作業前に話し合うこと
 「CBA(チェック・ビフォー・アクション)
 行動する前に確認の略
 「一人では作業しない」
 「指さし確認をする」などと同義標語
 ・・・「暗号」はダレのモノか・・・
 「ナク(納苦)すんだ! ヒューマンエラー」・・・
ーー↓ーーー
 TOKYOU Webより抜粋添付・・・
  ↓
 終戦前日、国は見捨てた
 旧満州・葛根廟事件
 生存者が証言集
  ↓↑
 ・・・
 事件から六十九年。日本では嫌中感情が広がりつつある。大島さんは「生存者は皆どこかで中国人に助けられている。大陸の広い心を持った中国を嫌いにはなれない」と話し「武器をかざせば敵ができ、抑止力にはならない。憲法の戦争放棄を実践してきた戦後をさらに延ばし、外交や交流に力を注いでほしい」と願う。
  ↓↑
 「大陸の広い心を持った中国(人)」・・・「大陸中国一般人」と「大陸中国共産党(?)」を「混同」してはダメでしょう・・・「習近平」は若い頃、中国農村地区で「苦労」したらしいが、「農村」でナニを学んだろう・・・「集金兵」、「習勤兵」・・・「何人種・何民族」、「人間・人類」と云うコトバで一般化しては「戦争」も見えなくなる・・・日本語の「人類・人間・種族・民族」とは「特殊、個別的」な個々人の諸集団としての「存在」で、具体的に、現実的に「実存在」するのは「諸個人」でしかない。「一把一絡げの人間」は存在しない・・・
 ボクの父親系の伯父さんは関東軍に徴兵され、終戦後「シベリヤ抑留」で兎に角、日本へ生きて帰還した・・・
 ボクの母親系の伯父さんは「南方ビルマ戦線」の生き残りである・・・
 二人とも「90歳余」以上、日本で生き延びた・・・無口な敗戦帰還兵の「現地戦争、戦場」での体験談を聴いたのは、その前後である・・・敵に対しても、味方に対しても「むごい(惨・酷)」・・・ハナシであった。
  ↓↑
 「葛根廟事件」
 1945年8月14日昼、
 旧満州の
 葛根廟(現在の内モンゴル自治区)
 に向けて南下する
 避難民
 約1300人が
 旧ソ連軍の戦車隊に襲われた。
 多くは非武装の女性や子どもで、
 9日のソ連侵攻後、
 関東軍に見捨てられた
 民間人が犠牲となった例とされる。
 関係者が口を閉ざすなどして
 正確な被害実態が分かっていない。
 助かったのは百数十人とみられ、
 うち
 30人以上は中国残留孤児となった。
ーーーーー
 ・・・「関係者が口を閉ざす」とは「秘密にする」という事だが・・・かっての「月刊誌・公明(?)」では戦場に於ける兵士だった人物の「自己暴露記事」が掲載されていたのを読んだコトがある・・・「人間」が生きてココまで「自己暴露」できるハズがないと思うほどの他者に対する「残虐さ・残酷さ」・・・
 当時、執筆掲載された「自己暴露記事」は、毎晩、生き残って「悪夢」にうなされて寝ている「自分」から逃げたかったのカモ・・・だが、「懺悔」・・・それで「解放」されたと「幻想」を与えるのが「宗教」・・・居直るのが「国家」・・・

 

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「カミのチカラ」は「紙(幣)の主税(ちから)」

2014-07-18 21:36:58 | 古事記字源

 ・・・「戦争」って、コレだろう・・・「戦争に関係の無い人々が殺された」のではない。「戦争」は地球上の人間を繋いでいるのだ・・・ナニで繋がっているのかって・・・「カネ」である・・・パレスチナ紛争(戦争)、「イスラエル、ガザに地上進攻」・・・紛争の原因は「カミ」ではない「カネ」である・・・「ダレのカネ」なのか・・・アンタやオレが「信用、信仰しているカネへの幻想」である・・・
ーーーーー
 「msn・産経ニュース」から抜粋
 ↓
 ウクライナ保安局は17日、東部でのマレーシア航空機墜落に関連し、地元の親ロシア派武装勢力のメンバーがロシア軍幹部に「撃墜を報告した」とする会話の盗聴記録を公表した。保安局は、親露派が民間機を軍用機と誤認して撃墜した証拠と主張しているが、真偽は不明。
 欧米メディアによると、公表された会話の一つは墜落20分後のものとされ、親露派勢力の指揮官とされる人物がロシア軍の情報将校に「われわれは飛行機を撃墜した。機体を捜索、写真撮影に向かっている」と報告。「どのぐらい前のことだ」との質問に「約30分前だ」と答えている。
 別の会話は親露派勢力同士のもので、「飛行機は空中でばらばらに破壊された。われわれは最初の犠牲者を見つけた。一般市民だ。民間機なのはほぼ百パーセント確実だ」などのやりとりが聞かれたという。(共同)
ーーーーー
  ウクライナ軍と親ロシア派武装組織の戦闘が続くウクライナ東部で17日に起きたマレーシア航空機墜落の惨事は、多数の外国人乗客が犠牲となったことで、各国を紛争に直接巻き込む結果を招いた。責任の所在を追及する国際世論が高まるのは確実で、和平の見通しが立たない紛争の行方に重大な影響を及ぼしそうだ。
 墜落原因をめぐり親ロ派がロシア製兵器を使用したと確認されれば、兵器や人員の供給を続けているとされるロシアのプーチン政権の責任を問う圧力は一層、強まる。一方、ウクライナ軍による誤認攻撃と判明すれば、発足間もないポロシェンコ政権の武装勢力掃討は失速の危機に直面する。
ーーーーー
 ウクライナ政権も親ロ派も17日、ともに関与を否定した。墜落現場は親ロ派の支配領域とみられ、親ロ派が今後、原因をめぐる調査でウクライナ政権への協力を拒めば、プーチン政権も親ロ派の扱いをめぐり複雑な立場に追い込まれそうだ。(共同)
ーー↓↑
 17日のニューヨーク株式市場のダウ工業株30種平均は、マレーシア航空機墜落や中東情勢の緊迫で投資家のリスク回避姿勢が強まって5営業日ぶりに大幅反落し、前日比161・39ドル安の1万6976・81ドルで取引を終えた。
 旅客機墜落の報道を受けてダウは一気に値を下げた。ウクライナ情勢が悪化すると欧州の景気が冷え込み、米経済へも悪影響を及ぼすと懸念が高まった。撃墜されたかどうかが不確かな中「リスクを避けるための反射的な売り注文が広がった」(市場関係者)。
 イスラエルがパレスチナ自治区ガザへの地上侵攻に踏み切ったと伝わったことも、相場を押し下げた。
 ダウの下落幅は5月15日に記録した167・16ドル以来約2カ月ぶりの大きさとなり、節目の1万7千ドルも4営業日ぶりに割り込んだ。(共同)
ーーーーー
 ・・・「戦争」でカネが動く・・・「カネ」で戦争が始まる・・・「脱法ハーブ・飲酒」運転で「殺人車」を走しらせる・・・

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「ダレの愛」を壊すのか・・・

2014-07-17 20:10:54 | 古事記字源

 ・・・「現実戦争」も「戦争映画」も世の中に蔓延している・・・「戦争は英雄と英霊をつくりだす」・・・「戦争はすべての愛を壊す」とは結果論である。「私は貝になりたい」と云う映画があった・・・戦地に出征する前に「夫婦・家族」の「緊張した愛」があった。戦地から帰還した後にも「安堵した愛」があった。そして、「戦犯死刑」・・・彼にとっては「戦争がすべての愛を壊した」のだ。「戦争はダレの愛を壊した」のか・・・
 時間軸の「過去-現在-未来」のプロセスでは・・・「戦争はすべての愛憎を育む」だろう。しかも「戦争でスベテの愛を壊された」か、どうかは「?」である・・・
 「戦争=愛+憎」・・・before and after ・・・different in b and a・・・?・・・different depending on the person・・・
 市民社会の「人間」間でも、国際間の「国家」間でも、相手があっての「殺傷・殺人」であり、「殺さない・殺させない」は自分自身の主観的な信念、信条の「決意表明」である。
 が、「殺す・殺したい」は「相手の立場の決意」であるかもしれず、自分自身の「決意の埒外」にある・・・
 「同胞隣人の脳ミソの憎しみ」、「隣国の支配階級、指導者の脳ミソの憎しみ」は「仇討ち」だけでは済まされない「心情」なのだ。「心情」とは「理屈」ではない。理屈で云えば「やられた方に脳ミソにこびり付いた恐怖と怒り」である。「恐怖」の払拭は「理屈」では不可能である。「怒り」の払拭は仕返してもまだ残る・・・そして「許す」とは「諦め」かも・・・これらに「介在」するモノは「掟」と「法」、「宗教」であるが、「公平な法」はないし、「法」のホトンドは事後処理の約束事である。
 「怨念」がなくても「人」は「人」を殺傷する存在である・・・
 「君主、親兄弟の仇討ち」と「責任切腹」は「日本武士道の真髄」である。「恨みを果たすコト」が「義務」なのか・・・「切腹」には「恨み」はないらしい・・・中世、前近代、階級社会では「諦める」しかない・・・現代では「カネ=賠償金」の多寡で諦める・・・
 帝國日本に合併された朝鮮半島の居住民の一部は「帝國日本軍」として戦って「終戦」をむかえた。神風特攻隊には「日本国籍人」としての「朝鮮飛行兵」がいた。「南京攻略」にも・・・
 大陸中国の「共産党(民族主義者?)」は「国家として戦勝」したわけではないうちに「戦争」が終わった。「戦勝」で終わったのは「中国国民党政府」である。
 大陸中国、南北朝鮮、両者とも戦争決着の「戦勝なき終戦」の「国家指導者の憾みと、その彼らに煽られた被支配の居住民の怨恨」であろう・・・
 「寛大な心情」になったは「特殊戦勝国のアメリカの軍事司令官」である。西欧戦線では「アイゼンハワー」であり、極東戦線では「マッカーサー」であった。「アメリカ政府指導者」ではない。「アイゼンハワー」も「マッカーサー」も、「心情」とともに、「ブルジョア民主主義アメリカ人としての信条、信念」を有していた。
 「敗戦国の帝國日本の支配階級指導者」は「敗戦結果の占領軍権力」に恐れおののいていたのである。だが、「マッカーサー」は寛大であった。今現在、「プチブル民主主義の政治体制」の中で「自虐史観批判」で「自由にモノが云える人間」の原点は「帝國日本敗戦」と「日本国憲法」である。どこが「自虐史観」なのか・・・「自由にモノが云えなくなるコトを望んでいる」のか・・・裏腹に「人民憲法」を画餅の餅としている「大陸中国」に憬れているのカモでは・・・
ーーーーー
 ・・・「戦争はすべての愛を壊す」・・・「愛」とはナンナンだろうかネッ・・・「愛」だけでは語れない・・・「愛憎」・・・
 

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生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利?

2014-07-17 00:01:53 | 古事記字源

  ・・・原発事故は起こった。起こって「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」はマモレなかったのである。しかも、後のマツリでナニをマモったのか?マモっているのか?・・・原発稼動は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」をまもらないコトが前提である・・・「(某国が)他国(アメリカ)への攻撃に自衛隊が(某国に)反撃する集団的自衛権の行使」以前に、今現在、「日本国民」と云われている個々人の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」はまもられているのか?・・・「日本国民」とはダレのコトか?・・・
 「(某国が)他国(アメリカ)への攻撃に自衛隊が反撃している時」は既に「交戦戦争」である。「他国(アメリカ)が某国の攻撃を抑止」できなかった結果の「自衛隊の(某国への)反撃」である・・・「安倍総理大臣は、行使容認は限定的なもので、抑止力を高めるためだ」と云っているが「(某国へ)反撃する集団的自衛権の行使」とは「敵国の攻撃を抑止できなかった、あるいは、できないコト」が前提である・・・
 「集団的自衛」とは「某敵国に対する自国と他国の軍事同盟」である。「軍事同盟」で「自国」を「衛(マモる)コト」が出来るのか?
 「自衛」として「敵国攻撃の抑止力を高めるため」には「自国の軍拡」しかない・・・「抑止」とは攻撃される前の「抑止力」なのか、攻撃された後の「抑止力」なのか・・・当然であるが「軍拡」の極限とは「核兵器」である。だが「核兵器」を持っても「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」をまもらないし、「戦争」の「抑止力」にはならない・・・核の傘・・・敵対国家は原爆搭載のミサイル飛来の猜疑と不安の中で「戦争」したし、生活した。
 「集団的自衛権」とは「ダレの権利」をマモろうとしているのか・・・そもそも「集団的自衛権」の「集団」とは「軍事同盟」である。「自国民の集団」ではない。「他国民と自国民の集団で、自国の自衛」とは都合がいい・・・
 戦国時代は「裏切り(寝返り)の時代」である。
  ↓
 寝返り
 味方を裏切って敵方につくこと
 かっての
 ヨーロッパ諸国、
 そして
 中国周辺国家、
 朝鮮半島は支配階級の寝返りの連続である
 階級国家の支配階級はすべからく
 寄らば大樹のカケ(ゲ)である・・・
 裏切られ、騙されるのは
 その領地内の居住民(被支配階級)である
  ↓
 「敵」とはダレなんだか・・・
 「核保有国」が「生命、自由及び幸福追求に対する個々人(自国民)の権利」をまもっては来なかったし、今現在も、まもってはいない・・・もちろん、他国民に甚大な被害を与えてきた・・・アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、大陸中国、インド、パキスタン、北朝鮮などは「核保有国」である。コレラの国々の「国民(?)」って「生命、自由及び幸福追求に対する国民(?)の権利」をマモられているのか・・・「核保有国の被爆死者」をブログで調べれば・・・ワカルかも・・・
 「日本国」は
 「核被爆国」で、
 「核原発保有国」で、
 「核原発事故国」である・・・ 
ーーーーー
 「ブログ記事」から部分抜粋し、添付したモノ
  ↓
 (1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
  ↓
 (ア)我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
 (イ)仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。
  ↓
 3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置
  ↓ 
(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。
 この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
  ↓
 (3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。
 我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。
  ↓
 こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
ーーーーー
 ・・・「国民を守るために万全を期す必要」・・・
 ・・・「問題意識」ですか・・・論理的には「日本国憲法上、許容されると考えるべきであると判断」は出来ない、でしょう・・・無理・・・
 モチロン、「原発稼動」も・・・
 「トモダチ作戦」は
 「国家間の軍事同盟の結果」とは思わない?
 「自衛隊災害救助」は「日本国憲法違反」とは思わない?
 「自衛隊は秩序維持部隊」ではなく
 「災害救助隊、支援隊」として活動した?
 「自衛隊」は「軍隊」ではないから?
 「軍隊の存在しない国家」には「軍事同盟」はない?
 「自衛隊」は
 「特殊なアメリカ保護の属州国家的公務員」である?
 「日本国」は「アメリカの保護国」である?
 「日本国」は「独立国家」ではない?
 「日本の国際的安全保障」は
 「アメリカの軍事力の支配下」にある?
 「アメリカの属州的日本国保護の安全保障力」が低下?
 「日本」は「独立国家」になりたい?
 「こ臭い連合」では
 「敵国」であるのに支出金はアメリカに次ぐ
 なぜ、
 「南北朝鮮国家」が
 「半島領土の分断戦争」をし、
 「大陸中国政府」が
 「台湾政府」を蹴って
 「国際連合」加盟国家となったのかネッ
ーーーーー
 ・・・???・・・ 

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ペテロ(岩)・シモン(漁師)・如水

2014-07-15 23:04:07 | 古事記字源

 ・・・サッカー(蹴球・蹴鞠)をTVで観戦した後、昼過ぎまで寝込んだ。3時過ぎ、自転車で町役場を訪ね、用事を済まし、その後、運動を兼ねて石狩川の流れを見学しようと思い立ち、河に架かる橋に向かった。途中に旧仙台藩「岩出山」領主であった「伊達邦直公上陸の碑」なるものが存在していた。「戊辰戦争」後に開拓調査に舟で石狩川を登ってやって来た場所らしいが、当時は原野だったので諦めて引き返したらしい。今現在は広大な水田に青々と稲の絨毯を敷き詰めている・・・
 ・・・眺めた石狩川(いしかりがわ)、流石(さすが)に雄大。アイヌ語の意味が不明らしいが、
 「イシカリ(塞がる)」
 「イシカラペツ(美しく・作る・川)」
 「イシカラアペツ(回流川)」
 などの説があるらしい・・・
 石狩川は蛇行の多い河川で、
 アイヌ語の音節分解で
 「イ・シカラ・ペツ
 (i-sikar-a-pet)
 (それを・回流する・〈過去形語尾〉・川)」
 明治二年
 1868年
 石狩川の河川開発の開拓使設置
 ・・・アイヌ語源は置いといて、
 「石(いし・いわ・セキ)
  +
  狩(かる・かり・シュ)」
 の漢字がナゼ当てられたのか・・・松浦武四郎、最上徳内、あるいは間宮林蔵・・・「石狩(セキシュ)→砂利の採掘」・・・「セキシュ=隻手・赤手・咳主」で、「咳の主は仙台岩出山領主」であった「伊達邦直」・・・ゴホン、ゴホン・・・
 1898年(明治三十一年)九月
 石狩川流域の大洪水が発生
 浸水で112名が死亡
 1899年(明治三十二年)
 「第一期北海道拓殖計画」
 石狩川治水事業に着手
 事業の中心的人物は
 岡崎文吉
 アメリカ方式の
 自然を生かした治水方法を採用
 大規模な人為的改変を加えず、
 水防林や堤防整備・護岸補強を行い
 自然を最大限残しながら治水事業
 洪水時の水位を下げるために
 放水路を建設し、
 洪水調節を図った
 1910年(明治四十三年)
 石狩川治水事務所設置
 「石狩川第一期治水工事事業」開始
 生振と篠路を結ぶ放水路事業
 泥炭地で・・・・泥炭地→黒い泥炭の地?
 難工事
 1917年(大正六年)
 内務技官の
 沖野忠雄
 を派遣
 河川工学分野の第一人者
 河川に対し大規模な改修を加える
 フランス流河川工学
 1918年(大正七年)
 岡崎は石狩川治水事務所長を退任
 沖野が所長職に就任
 石狩川の治水は
 「捷水路主義」の河川改修
 1922年(大正十一年)
 「夕張川新水路工事」
 1936年(昭和十一年)に完成
 河川蛇行の直線化
 1934年(昭和九年)
 「石狩川第二期治水工事事業」
 「幾春別川新水路工事」を開始
 1921年(大正十年)より実施していた
 「美唄川新水路工事」と共に
 三笠市・岩見沢市の治水を図った
 石狩川本川の捷水路工事は
 江別から月形、さらに上流へ向けて
 堤防整備と共に実施
 太平洋戦争によって中断
ーー↓ーー
 ・・・水攻めの基本は「治水工事」・・・「備中高松城水攻め」は「黒田如水(孝高・官兵衛・シメオン天正十三年洗礼)」・・・「シメオン(Simeon)」は、「旧約聖書・創世記」の「ヤコブとレアの第二子」、古代ユダヤの男性名で、原義は「聞く、耳を傾ける」・・・標音(?→しめおん・閉め音・〆音→3、3、7拍子)・・・「シメオン」がギリシャ語化されたものが「シモン」・・・キリスト12使徒のリーダー、「ペトロ(岩)」の元の名が「漁師(魚獲り)のシモン」・・・「民族主義者、熱心党」の「シモン」・・・
 試問の諮問で、指紋・・・「1911年(明治四十四年)」に警視庁が「指紋制度」を採用・・・
  ↓
 黒い田圃の水の如・・・?
  ↓
 多可郡
 黒田城
 黒田氏初代・黒田重光
 「播磨国風土記」に「黒田里」の記載
 「土黒きをもって名となす=以土黒為名」
 類似の地名由来
 「出雲国風土記」
 「意于(おう)郡
  黒田驛
  郡家の西北二里に
  黒田村あり、
  土體(つち)の色黒し、
  故に黒田=土體色黒、故云黒田」と記載
  ↓
 「播磨国風土記」の黒田里
  ↓
 ・・・袁布(をふ)山というのは、むかし、宗形(宗像)大神の奥津島比賣命が、伊和(いわ)大神の子を懐妊して、この山に到来していった、「わが産むべき時はおわった(我可産之時訖)」と。ゆえに「袁布山」という。支閉(きへ)丘というのは、宗形大神が「わが産むべき月は尽きた(我可産之月盡)」と。ゆえに「支閉丘」というのである・・・
 「訖(おわる・ついに・いたる・キツ・コチ)」は「袁布(ヲフ)→長い振袖(長袖)?→ロングスリーブス(long sleeves)→布(ハンカチ)を振るのは別れ?」・・・オワル?
 「盡(尽・つくす・つきる・ジン・シン)」は「支閉(キヘ)→支を閉じる→十二支の最後は亥(北西)」・・・キエ?・・・これは、「支閉(シヘイ・シヘ)」で、はないのか・・・十二支を閉じる→綴じる紙(史・詞)・・・
  ↓
 「盡=尽・ジン・シン・つくす・つきる」→尽力
 「儘=侭・ジン・シン・まま・ことごとく」→我侭
 「燼=ジン・シン」→燼滅
  ↓
 「意宇(おう・イウ)」
 国引き神話
 出雲国は小さく作ってしまったので、
 ミズオミツノ(水臣津野命)が
 島根半島を朝鮮半島から引いてきた
 国引き神話
 国引きがおわると、
 ミズオミツノは
 「今は國引き訖へつ(今者國者引訖)」
 といって、
 「意宇(おう)の杜(もり)」に杖を衝き立てて、
 「意惠(おゑ)」と言った
 ゆえに
 「意宇(おう)」という「終(おわり)」の意味
 出雲の「意宇=訖」も、
 播磨の「袁布=訖」と同じく、
 「訖(おえる・終)=言+乞」という文字の読み・・・
 「播磨国風土記」
 宍禾郡御方里条に、
 「伊和村
  本名
  神酒」
 「伊和(於和)村」の
 本名は
 「神酒(みき・シンシュ)村」の地名由来
 「於和(おわ)村」
  ↓
 伊和大神が
 国作りをおわって(国作訖)
 のちに
 「於和(おわ)」と
 「拝みき(於我美岐)」
  ↓
 「黒田里の神話」
  ↓
 我可産之時訖
 我可産之月尽
 は「今にも産まれそうだ」・・・?
 伊和大神の子を懐妊していた
 オキツシマヒメは、
 臨月のとき、
 「袁布山・支閉丘」=「播磨国黒田里」
 に出坐していた
 伊和大神
  ↓
 播磨一宮・伊和神社の祭神で、
 オホナムチ(大己貴神、大汝命)、
 アシハラシコヲ(葦原醜男)、
 大国主命
  ↓
 宗形大神・オキツシマヒメ
 宗像の三姉妹神の一人
 「天照大神」と「須佐之男命、素戔鳴尊」が、
 ウケヒ(誓約)をして
 「天照大神」が
 「須佐之男命、素戔鳴尊」の
 剣をとって産んだ
 宗像三姉妹神
 「オキツシマヒメ」は、
 「古事記」では
 「タギリヒメ(多紀理比賣)」とあり、
 大国主命の
 妻
 多紀理比賣の産んだ子が、
 「賀茂大神」の
 「アヂスキタカヒコネ(味耜高彦根神)」
  と
 「シタテルヒメ(下照姫神)」
ーー
 前回、「中国大返し」で、「豊臣秀吉の生年月日の干支」を欠落させたが、その追加でオマケである。
 「尾張(おわり)-中村(なかむら)村」の「百姓」、「草履取り」の「足軽(足軽)=徒歩(かち)」もチャンスに走りに、走った・・・ナゼ、「豊臣」の姓を「賜(たまわ)」ったのか・・・「豊国」とは九州の「豊後・豊前」、地理的には、現在の九州の北東部に位置し、「福岡県東部」、「大分県全域」・・・以前にも書き込んだが、「大分(おおいた)」の地名漢字は怪しい・・・「オオブ」は「大府(愛知県大府市)」・「大部(香川県小豆郡土庄町大部)」・・・「おぶ=みず・白湯(さゆ)」、「おぶ=背負う(おんぶ)」、「おぶ(尾部)」・・・「out of~」・・・「あぅとぶ(?)」・・・「underwater dive(ダイブ)」・・・頭から飛び込んでサッカーボールを会わせ、ゴールに叩き込む・・・ヘッディング・・・?
  ↓
 大分(おおいた・ダイブ・ダイブン)
  ↓
 県名は、県庁所在地の郡名に由来
 古く
 「碩田(おほきだ)国」の名
 「豊後国風土記」に
 「大分郡」と見られることから、
 「おほきだ」が転じて
 「おほ(おお)いた」になった・・・?
 「豊後国風土記・景行天皇」の記録に
 「広大なる哉、この郡は。よろしく
  碩田国(おおきた)と名づくべし」・・・?
 ・・・元々「景行天皇」自体が怪しいのである・・・
 「碩田(セキデン)」が「おおきた」と訓むのも怪しい・・・
 「碩(セキ)」は「堰(せき)」と同源・・・?
 「のどや気管が刺激を受けたとき、
  呼気が急激に吐き出される現象・・・?
 ならば「咳(せき)」だろう・・・
 「しわぶき」とは
 「わざと咳(せき)をすること・咳(せき)ばらい」で
 ゴホン、ゴホンである・・・「わざと」とは何かを知らせる合図である。
 「碩学者」とは「学問を広く深く身につけること・また、その人」
  「大家・権威・碩儒」で
 「碩学大儒(セキガクタイジュ)とは
 「学問の奥義を究めた大学者のこと・・・であるらしい。
 漢字分解では
 「碩」=「石+頁」である・・・
 「インテリ」が「石の頁」である・・・「碩田」は「セキデン=碩学の田圃」か、「碩学の伝承」であろう・・・「大分」、大きく分けたモノは「領地」か「血縁・縁戚」者を分けたのだ。ナニを分けたのか?「豊国=豊後(ぶんご)・豊前(ぶぜん)」である。「豊臣=豊の臣」とは「黒田如水」で、黒田の領地は「豊国」であり、「ブンゴ(文語)・ブンゼン(文前)」であり、「文吾(ブンゴ)」は「ぶぜん(憮然)」なのだ・・・?
 いずれにしても「大分(おおいた・おほいた)」は「幕末、明治インテリの産物」である・・・「意富(イフ)」の漢字を「おほ」と読ませているのはナゼか?
 1968年
 金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)が後円部分から発掘
 1978年
 鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が判明
 鉄剣には
 「辛亥の年七月中記」という年紀
 「辛亥(シンガイ)年」は
 「471年」か、「531年」・・・
 干支年は60年サイクルであるから
 「411・351・291・
  231・171・111・51」年、そして、
 「-9」年でもある・・・
  ↓
 「稲荷山古墳鉄剣銘文」にある「意富比垝」の漢字を一般的には「おほひこ」と訓じているらしいが、
 「垝(キ・やぶれる・だい)」=「土(十一)+危(厃卩)」で、
 音読なら
 「イフヒキ」である。
 「垝」の類字は「垝、姽、恑、洈、桅、祪、脆、蛫(かみきりむし)、跪、觤、詭、頠」・・・ボクの緩和字典には無いモノが多い・・・「頠(ギ)」が「危+頁」ならば「危ない頁(ページ・大貝)」である。意味は基本的には「偏+旁」の合体の意味である。
  ↓
 詭(いつわる)・・・詭弁
 恑(キ)・・・・・・横心危
 陒(けわしい・嶮しい)・・・
 跪(ひざまつく・蟹の足)・・・跪伏・跪拝
 佹(さからう・怪しい・重なる・こじ付け)・・・佹弁=詭弁
  ↓
 「意富比垝」は「古事記」に記録されてイル「大毘古命」との説があるが、5世紀中葉期(?)らしい「埼玉県第2位の規模の稲荷山古墳出土の鉄剣」の漢字は「訓読の当て字の字義」ではなく、「音読の音と字義」であろう。「万葉仮名」を「漢字音」の借用だけと考えるのはナンセンスである。
 当時の「倭人(帰化人・渡来人)である知識人」は漢字文字自体の意味知識を学んだ後に刻印した。ここでは「文字が前(さき)にありき」である。しかる後に文字(漢字)選択し、記録されたのだ・・・漢字自体の意味が重ねられているの当然だろう・・・
 幕末、明治のアイヌは「文字」を有していなかった。ここでは「音声(コトバ)が前(さき)にありき」である。聞き取って記録したのは「倭人」である。
 ・・・「ワッカナイ=稚内(わっかない)」は、北海道、宗谷総合振興局の所在地の市名で、アイヌ語の「ヤム・ワッカ・ナイ(冷たい水の沢)」である。「モンベツ=紋別」は、北海道北東部、オホーツク海に面する市名で、アイヌ語「モ‐ペッ(静かな川)」で、「ベツ」は川である。オマケに「宗谷」である・・・
  ↓↑
 「確かな文献に拠る限り、
  大分の方が古く、
  碩田は
  大分地名の意味付けに
  後から作られた説話」・・・?
  「大分」の漢字記録があったとしても
 「おほいた・おおいた」と訓じていたのか?
 「おほわけ・ダイブン」・・・
 明治四年
 廃藩置県時、
 「県の中心部に位置した大分郡からとったもの」
 であるらしいが、
 「大分」の字義は「大」を「分けた」のであり、
 「おほいた」の訓義は
 「おほ(大・多・緒補・尾保)」の
 「いた(板・入た・居た・伊田・易拿)」・・・
 「豊国=豊前+豊後」
  ↓↑
 天正十五年(1587年)七月三日
 「豊前」は
 「黒田如水(孝高・官兵衛・シメオン天正十三年洗礼)」
 の領地である
 本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする
 豊前国の中の六郡(宇佐郡半郡は大友吉統領)、
 およそ十二万石(太閤検地後十七万石以上)を与えられ、
 中津城の築城を開始した
 「黒田如水(孝高・官兵衛・シメオン)」は
 「豊国(豊前+豊後)」の半分の「豊前」のアルジになったのだ。
 ウイッキペデアによれば
 「備中高松城水攻めと中国大返しは孝高の献策などといった話は、黒田家の命において寛文十一年(1671年)に編纂を開始された『黒田家譜』(貝原益軒著、1688年)以降の逸話」であるらしい・・・
 「おもひおく、
  言の葉なくて、
  つひにゆく、
  みちはまよわじ、
  なるにまかせて」
 ・・・ナニを言いたいのか?、「黒田官兵衛、孝高」は・・・
ーーーーー
 豊臣秀吉
 生誕 天文六年二月六日
    (1537年3月17日)?
    丁 酉(庚・ ・辛)
      沖
    癸 卯(甲・ ・乙)
      破
    丙 午(丙・ ・丁)寅卯=空亡
    劫財-偏財・正財
    正官-偏印・印綬
    比肩-比肩・劫財
    ↓↑
 死没 慶長三年八月十八日
    (1598年9月18日)
    戊 戌(辛・丁・戊)
    辛 酉(庚・ ・辛)
    辛 未(丁・乙・己)
        偏印-害
    正官-沖
    正官-支合(丁)
ーーーーor
    天文五年一月一日
    (1536年2月2日)?
    乙 未(丁・乙・己)
      沖(己)
    己 丑(癸・辛・己)
      害
    戊 午(丙・ ・丁)子丑=空亡
    正官-印綬・正官・劫財
    劫財-正財・傷官・劫財
    比肩-偏印・印綬
     ↓↑
 死没 慶長三年八月十八日
    (1598年9月18日)
    戊 戌(辛・丁・戊)
    辛 酉(庚・ ・辛)    
    辛 未(丁・乙・己)
    比肩-破
    傷官-三合(辛)
    傷官-支合(丁)
     ↓↑
 改名 木下藤吉郎・木下秀吉
    羽柴秀吉
    藤原秀吉
    豊臣秀吉
 別名 元吉・日吉丸
 渾名 木綿藤吉
    猿・禿鼠
    豊太閤
 神号 豊国大明神
    ↓
    豊臣→とよとみ→豊聡耳(とよとみみ・とよさとみみ)
            厩戸皇子・聖徳太子・上宮王
            用明天皇第二皇子
            上宮之厩戸豊聡耳命
            法主王
            豊聡耳聖徳豊聡耳法大王
            上宮太子聖徳皇
            厩戸豊聰耳聖徳法王
            上宮厩戸
            厩戸皇太子
            厩戸王
ーーーーー
 本能寺の変
 天文十年六月二日
 1582年6月21日
 壬午年
 丙午月
 戊寅日
 (三合丙-比肩)
 ↓ 
 偏官
 比肩
 食神
 ↑
 丙午生日
ーーー
 壬午年
 丙午月
 戊寅日
 (三合丙-偏印)
 ↓
 偏財
 偏印
 比肩 
 ↑
 戊午生日  
ーーーーー
 以下はウイッキペデアの原文より参照、参考、抜粋し、少々改作添付したモノ・・・
  ↓
 天正十四年
 1586年9月9日
 賜、
 豊臣氏(『押小路文書』)・・・??
 ↓
 秀吉は
 大陸侵攻(唐入り)の準備
 周辺諸国や
 スペイン・ポルトガルの
 植民地に対し服属入貢を要求
 海外進出の構想
 天正十五年(1587年)
 5月9日
 秀吉夫妻に仕える
 「こほ」という女性への書状で
 「かうらい(高麗)国へ御人しゆつか(はし)
  かのくに(国)も、
  せひはい(成敗)申つけ候まま」
 との記録・・・?
 九州平定の延長として
 高麗(朝鮮)平定の計画
 明国への出兵は
 織田信長の構想・・・
 6月1日
 本願寺
 顕如に宛てた
 朱印状で
 「我朝之覚候間
  高麗国王
  可参内候
  旨被仰遣候」
 と記録
 「我朝之覚」とは
 先例のことを指し、
 「神功皇后の三韓征伐」の
 三韓服従の誓約
 あるいは
 天平勝宝二年(752年)
 孝謙天皇による
 新羅国王への入朝命令・・・
 この先例(我朝之覚)に倣って
 高麗(朝鮮)国王は
 諸大名と同じように
 朝廷(秀吉)への
 出仕義務があると考え、
 直後に
 李氏朝鮮に
 対馬の
 宗氏を介して
 服属入貢を要求
ーーーーー
 ・・・豊臣秀吉は「倭国王族」が「高麗、新羅、百済」等との「王族血縁関係」を踏まえていたのではないのか・・・

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