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コジキジゲン

「訳(譯)語田(おさだ)・幸玉の宮」の所在の字・・・

2018-05-21 02:00:49 | 古事記字源

 ・・・「沢=さわ・タク=澤=氵+睪(罒幸)」・・・「皐」・・・「訳=わけ・とく・ヤク・エキ=譯(罒幸)」・・・「訳(譯)語田=おさだ」・・・「大津が謀叛の疑いをもたれ大和(やまと)で磯城(シキ)の訳(譯)語田(をさだ)の家を引き出されて、磐余(いはれ)の池の堤で処刑され、二上山に葬られた(大津皇子、24才)」・・・「訳(譯)語田(おさだ)という地名は現在は残っていないが、今の戒重(カイジュウ)という地区にあったらしい」・・・それにしても「訳(譯)語田(おさだ)」は、ナゼ、「訳(譯)語田(わけゴだ・とくゴだ・トゴデン・ヤクゴデン・エキゴデン)」とヨマないんだか・・・
 をさだ=訳(譯)語田=他田
    =長田=長多=蓬田
    =納田=押田=治田
    =織田(おだ、おりた、おた、おさだ)
    =尾定=小佐田・・・「御沙汰」?
 御沙汰=おさた・ゴサタ
     天皇や貴人の命令・指図
     おさばき・ご処置
     最高権力者の指示・命令
     権力意思に基づいて
     行われる官府や裁判などの指示、命令
ーーーーー
 「訳(譯)語田・幸玉宮」の所在地・・・譯の語を田(かる)
                   幸の玉の宮(キュウ)
 桜井市「戒重」・・・戒(いましめ・カイ)が重(かさなる)
 または「太田」・・・太(ふとい・おほ・タイを田(かる・デン)
 という二つの説
 地名は平安時代に
 「他田(オサダ)」・・・他(ほか・あだし・タ)を田(かる・デン)
             他所(よそ)
 と表記
 奈良時代に
 「他田(オサダ)」臣の姓氏があった
 「敏達天皇一年(ユリウス暦572年4月30日)
  欽明天皇の第二子
  訳(譯)語田皇子が即位し
  第三十代・敏達天皇」
 「敏達天皇・沼名倉太玉敷
   訳(譯)語田(他田=おさだ)」
 「訳(譯)語田渟中倉太珠敷尊
 (おさだのぬなくらふとたましきのみこと
  日本書紀)
  沼名倉太玉敷命
 (ぬなくらふとたましきのみこと
  古事記)」
 「大永四年(1524)戒重-春日神社を
  長田(おさだ)宮」とも
 「朱鳥一(686)年八月封400戸を加えられ
  同年九月、天武天皇が亡くなると
  十月二日、
  新羅僧「行心」らに
  唆(そそのか)されて謀反を企て
 「訳(譯)語田(桜井市-戒重)」
  の家で死を賜った
  二十四歳
  即日、妃の
 「山辺皇女」・・・山(やま・サン)の辺(あたり・ヘン)
  は嘆いて殉死・・・巡視・荀子
           準指(準指導員)⇔「准南・淮南」史?

ーーーーー
 睾丸(Balls)とも呼ばれ、左右1対
 俗称は、金玉、玉、ふぐり(布久利)
 ↓↑
 睾=丿+睪=丿+罒+幸
     =丿+罒+一+辛
=丿+罒+一+立+十
  =さわ・たかい・コウ・カウ
   きんたま・男性の持つ生殖器官・精巣
   澤・水辺の低地・・・・澤(沢)⇔譯(訳)・・・睪=尺
   高いさま・広いさま
   異体字、睪(繁体字)=皐=皋
       皐(異体字)・・・「皐月(さつき)」の皐
             ・・・「皐魚の泣」の皐
                 親の死を嘆き悲しんで泣くたとえ
                 韓詩外伝(カンシガイデン)?
       皋(異体字)
   訓読み=さつき・さわ・きんたま・おお
       睾丸・睾然・睾蘇
       蘭=ラン(orchid)
       ギリシア語で睾丸を意味する
       ορχις (orchis)に由来
       イヌのフグリ
          陰嚢(ふぐり)⇔「河豚・鰒・鯸・鮐」詈(理)
          背嚢(ハイノウ)         罵詈雑言
             ふ-ぐり(くり)
             す-ぐり(くり)・・・栗=くり=庫裏
          ぐり=屈輪・倶利=堆朱、寺院建築などの
             蕨 (わらび) 形の曲線の連続文様
             ぐりぐり・デキもの・腫れモノ
          村主(す-ぐり)⇔勝(すぐり・かつ・ショウ)
                   勝海舟?
          古代の姓(かばね)の一
          韓・漢からの渡来人の統率者に与えられた
          酸塊(すぐり・サンカイ)
            =ユキノシタ科スグリ属植物の数種の総称
             ユキノシタ=雪の下=虎耳草(コジソウ)
             西洋スグリ(グズベリー・マルスグリ)
       果実の形状から
       アボカド
       スペイン語名aguacateは
       ナワトル語で睾丸を意味
       ahuacatl
       auacatl
       に由来との説もある・・・
 皐=皋=臯=曲がりくねった奥深い沢
  ↓↑
 九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢
  ↓↑
 鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ(詩経 小雅、鶴鳴)
 鶴の声は天に聞こえる
 賢人は身を隠しても
 その名声は広く世間に知れ渡る
  ↓↑
 鶴鳴之士=才能や能力があっても
      世のために使われることなく
      世間から認められていない賢者
      公職についていない賢者
 鶴鳴九皐=山奥に隠遁している賢者
      山の中から
      鶴の美しい鳴き声は聞こえるが
      姿を見ることは出来ない
     (後漢書-楊賜伝)
  ↓↑
  皐=皋=臯
   =曲がりくねった奥深い沢?
    ↓↑        ↓↑
 「沢(澤)三伯」
  ↓↑  ・・・さわじ姫=佐和遅姫
     佐波遲比賣命=沙本毘賣命
  ↓↑
 高野 長英
  文化元年五月五日(1804年6月12日)
   ~
  嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)
 江戸時代後期の医者・蘭学者
 通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)
 号は瑞皐(ずいこう)
 実父は後藤実慶
 養父は叔父・高野玄斎
 江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説く
 弾圧を受け死去
 1898年(明治三十一年)七月四日)
 正四位を追贈
 主著に
 『戊戌夢物語・わすれがたみ・三兵答古知機』
 など
 オランダ(阿蘭陀・和蘭陀)語の
 文献の翻訳も多(さわ・おほい・多)
  ↓↑
 仲間の
 伊東玄朴(名は淵
      妻はオランダ通訳の
      猪俣傳次衛門の
      長女・照)
 が
 長英を階段から突き落としたが
 長英は
 「GEVAARLIJK!(オランダ語で危ない!)」
 と叫んだ
 GEVAARLIJK=ヒゥヴァールリック
       ヘフぁーレク
       把付嗚呼例句?
         蛙鴉例句?
 DANGEROUS =デンジャぁラス
       伝 邪 蛙等素?
  ↓↑
 岩手県奥州市水沢(水沢市)で
 三偉人
 高野長英、後藤新平、斎藤実
 の一人
 ↓↑
 澤=沢=佐和=さわ=多
 ↓↑
 稲城の火責めの中で死んだ
 「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は
 「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった
 「藝」の漢字は
 聾唖(おし)の
 「佐波遲比賣命=沙本毘賣命」の皇子
 「品牟都和氣命=本牟智和氣御子」が
 「阿藝(あぎ)=今聞高往鵠之音、
  始爲-阿藝-登比」
 と声を発した時に
 記録されている「文字」
 「藝(ゲイ)→藝術、技藝」の類字に
 「芸(ウン)→香草、芸香(ウンコウ)」
 と読ませている漢字
 「阿藝」は「あぎ」ではなく
 「アウン=阿吽」である・・・?
 「大修館漢和辞典(731ページ)」
 には
 「本の虫食い」を防ぐ「防虫草」で
 「草刈・草ぎる→草薙・黄(きい)ばむ・多い」
 と説明
 「芸(藝)術」の「藝→芸(ゲイ)」は
 「新字体」・・・
 同じ「大修館漢和辞典(732ページ)」に
 「芸(ゲイ)」が記述されているが
 「藝」の漢字は無い
 「芸(ウン)←藝→芸(ゲイ)」
 は何時から?・・・
 「芸亭(ウンテイ)」は歴史では
 「石上宅嗣」が開設した
 日本最初の公開図書館である
 「芸編(ウンヘン)」は「書物」
 「芸閣(ウンカク)」は
 「書庫、書斎で、書籍、本の倉庫」である
 そして
 「芸省(ウンショウ)」は
 「秘書省・秘書局」で、「局=個室」・・・
 ↓↑
 泣沢女神(なきさわめのかみ)
 須佐之男命の
 御子(みこ)である
 八島士妖美神は、
 大山津見神の娘である
 木花知流比売(このはなちるひめ)をめとり、
 布波能母遅久奴須奴神
 (…その涙から
  泣沢女神(なきさわめのかみ)が生まれた
 ↓↑
 稲城の火責めの中で死んだ
 「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は
 「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった
 ↓↑
 参考は以下に断りも無く添付させて頂きました。申し訳ありません・・・「疑義のある記録文書解読」のお助けと思って・・・お許しを・・・
 ↓↑
ーー
 尾張国司
 多治
 比
 真人
 水守と
 面会
 『続日本紀』

 ・・・「多治比=タジヒ」とは「多くを治め比べる」か、「治」の音を採って異字にすれば「多字比」で「多くの字を比べる」、「多くの慈悲・自費」である。
 「おおはる」と言う地名も愛知にはある。「愛知県海部郡大治町」の「大治(おおはる)」である。名古屋市に隣接している。
ーー
 多治比真人嶋
 多治比真人嶋
 (たじひ・まひと・しま・624~701)
 嶋の次男
 「水守(みずもり)」
ーー
 「水主」と書いて「かこ」と読ませている場所も名古屋にある。「名古屋市水主町」である。そして「加古」は「過去」で、「賀古←古賀」である・・・「古賀謹一郎」は「蕃書調所(蛮書調所・ばんしょしらべしょ・1856年・安政三年)開所の頭取である・・・
ーー
 多治比(丹比)真人(たじひ・まひと)
 多治比真人嶋(たじひ・まひと・しま)は
 朝廷から
 文武四年(700)正月十三日
 老齢と勲功をねぎらい
 「霊寿の杖」と
 「輿」
 および
 「供人(従者)」を授与される
ーー
  ↑
 人麻呂の「死」に関する歌を
 「万葉集」に残した?
 多治比真人三宅麻呂の歌?
  ↓
ーー
 万葉集巻二、
 223~227に
 柿本人麻呂の最晩年の歌
 「鴨山五首」
 一連の歌の四首目
 丹比真人
 名闕(欠)く
 柿本朝臣人麻呂の意に擬へて
 報ふる
 歌一首

 荒浪に寄り来る玉を枕に置き
 吾ここにありと、誰か告げなむ
 226

   ↑
 この歌は
 多治比真人三宅麻呂の
 歌とする説があるらしく
 人麻呂の死は
 和銅二年ごろ
 敢えて名前を伏せる必要があった人物
 流罪になった三宅麻呂の可能性が大
ーーー
 天武十一年(682)~
 神護景雲二年(768)まで
 86年間に記載される
 多治比真人一族の名
 年代順
 嶋、麻呂、池守、水守、三宅麻呂、県守、夜部、広成、 吉備、吉提、広足、占部、屋主、多夫勢、伯、国人、
 家主、牛養、祖人、木人、犢養、土作、石足、乎婆売、 若日女、犬養、礼麻呂、鷹主、小耳、長野、乙麻呂、
 伊止、古奈祢
 総計三十三人
ーー
 ・・・それにしても、ナマエが「音」からの意味なのか、「文字」からの意味なのか、その双方なのか・・・「誕生地」、「誕生時」、「職業名」は「文字」から推察できるが・・・「小耳」は顔につく「耳の形の大小」なのか、「小耳に挟む」などと言うコトバがあるから「情報通」なのか、とにかく「33人」である・・・
ーー
 万葉集の時代の事件  
 天武元年(672)   壬申の乱
 天武十一年(682)  大津皇子の変
 天平元年(729)   長屋王の変
 天平十二年(740)  藤原広嗣の乱
 天平宝字元年(757) 橘奈良麻呂の変
 天平宝字八年(764) 藤原仲麻呂の乱
ーー  
 最初の人物
 多治比真人嶋
 ・・・多字(持・時・事・耳)比真人問
 は
 「宣化天皇の玄孫・日本書記」
 「三代実録」によると
 宣化天皇~恵波皇子~十一王
     ~多治比古王~多治比嶋
 の系図である
ーー
 恵波皇子を
 読めば、
 えなみ=めぐみなみ=ケイハオウジ
 とあまりひとつ=ジュウイチオウ
 おほはるひこ=タジヒコオウ
 「多治・比古・王」は
 「多治 彦  王」であろう。
 であるならば、
 「古」を欠落させた
 「多治比」は
 「多の治の比」で、
 「古(ふるい・いにしえ)」である
ーー
 大宝元年(701)
 正二位左大臣で死亡
 享年七十八歳
 真人の姓
 天武十二年(683)
 六十四歳の時
ー 
 「真人」は
 「天武天皇十三年(684)」に
 「八色の姓」の制定されたモノだが、
 第一真人、第二朝臣、第三宿禰、第四忌寸
 第五導師、第六臣、第七連、第八稲置
 コレ「以前」のものと比較すべきである・・・
ー  
 当時活躍していた者
 池守、水守、三宅麻呂、県守、広成、広足の
 六名
 池守は・・・池守???
 ↓↑    池田 筑 後 守  長発
      (いけだちくごのかみ ながおき)
       天保八年七月二十三日
      (1837年8月23日)
       ~
       明治十二年
      (1879年9月12日)
       ↓↑
       備中国松山藩
       井原(岡山県)の領主
       ↓↑
 ↓↑    元治元年(1864年)二月二十三日
       文久三年(1863年)
       第二次
       (第二回遣欧使節
        横浜鎖港談判使節団)
       遣欧使節団の
      「池田長発」隊
       仏艦ル・モンジュ号
       ↓↑
 ↓↑    文久二年十二月二十二日
       (1862年1月21日)
       第一次
       (第1回遣欧使節
        開市開港延期交渉使節))
       遣欧使節団の
       「竹内保徳」隊
       英国海軍の
       蒸気フリゲート、オーディン号
       ↓↑
       1862年9月22日
       リンカーン・奴隷解放宣言
       ↓↑
 ↓↑    文久二年九月十一日
       (1862年11月2日)
       幕府の
       第1回留学生が長崎を出帆
       (榎本武揚、赤松則良、西周
        ら15名)
       ↓↑
 ↓↑    ロンドン万国博覧会
        1862年5月1日~11月1日
       開催
       ↓↑
      「竹内保徳」隊
       文久二年十二月十一日
 ↓↑    (1863年1月30日)帰国
 嶋の第一子、
 広成は第五子
 広足は嶋の子
 「続日本紀」の記録
 嶋の子
 水守が第二子、
 三宅麻呂が第三子
 県守は第四子
 らしい・・・
ーーーーー
 太田 源三郎 (おおた げんざぶろう)?
 生年月日 1835年4月18日
 江戸時代 明治時代の通詞
      1895年没
 Mr.Ohataは静岡藩士
 1862年~1863年に
 ヨーロッパ使節・・・定役格通詞
 の通詞、通訳
 ↓↑
  竹内   下野   守  保徳
 (たけうち しもつけのかみ やすのり)
 外国奉行、正使
 ↓↑
 太田 源三郎
 横浜語学所の英学教授
 教育指導者として
 他の藩に派遣される
 という制度で
 静岡藩の御貸人として
 福井藩に雇われた
 横浜語学所が閉鎖してしまって
 浪人し
 勝海舟
 の世話で
 福井藩に斡旋した
 高橋是清
 は仙台藩から派遣されて来た
 数え年十二歳のときに
 横浜へ来て
 初めは横浜にいた通訳の
 太田源三郎
 の所から
 ヘボン塾に通った
 その後、働きながら
 実用的な英語の勉強をした
 ↓↑
 日下部太郎⇔旧名は八木八十八(やぎやそはち)
 22歳の時に海外旅行免許状
 (パスポート・幕府の免許状発行が
  4番目であることから
  当時日本でも留学創成期に
  渡米した)を携え渡米
 遊学先の長崎から
 ジャワを経てアメリカへ向かう
 この時に藩主の
 松平春嶽から
 日下部太郎の名を拝命
 (日下部は八木家の先祖の姓)
 ↓↑
 150日の航海の末
 ニュージャージー州
 ニューブランズウィック
 に到着
 ここで1年前に密航で海を渡っていた
 伊勢佐太郎
 と
 沼川三郎
 の兄弟に出迎えられる
 ↓↑
 ラトガース大学入学前に付属中学に入学し
 英語と基礎教育を受け
 ここの教師をしていた
 2歳年上でラトガース大学生でもあった
 ウィリアム・グリフィスと出会う
 23歳の時ラトガース大学に入学し
 2年に編入
 ↓↑
 グリフィス=「希利比士(グリヒス)」
 ウィリアム・エリオット・グリフィス
 (William Elliot Griffis)
 1843年9月17日~1928年2月5日
 アメリカ合衆国出身の
 お雇い外国人
 理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者
 ラトガース大学で
 福井藩からの留学生であった
 日下部太郎と出会い、親交を結ぶ
 その縁により
 明治四年(1871年)
 日本に渡り、福井藩の藩校明新館で
 同年3月7日~翌年1月20日まで
 理科(化学と物理)を教えた
 1876年
 アメリカで刊行した
 The Mikado's Empire
 (『ミカドの帝国』あるいは『皇国』)は
 第一部が日本の通史、第二部が滞在記
ーーーーー
 「聞く・話す」は表音文字
 「読み・書き」は漢字
 文字の「書く、読む」
 口頭の「聞く、話す」
 「聞く、話す」は表音文字で情報交換
 福沢と万次郎が
 『ウエブストル』を初めて輸入
 万延元年(一八六〇)
 咸臨丸がアメリカへ渡り
 福沢は通弁の中浜万次郎と一緒に買った
 安政二年
 ペリーが
 『ウエブストル』
 の字引を持ってき
 名村五八郎
 というオランダ通詞に与えた
 名村五八郎はそれで
 complaint(訴訟)という単語を引いた・・・

 訪米から戻った
 福沢は
 『西洋旅案内』
 『条約十一国記』
 を書き上げた
 (福沢が
  『条約十一国記』と題し
  国旗とその国の状況を紹介する本)
 慶応三年までに
 わが国と条約を交換した
 十一ヶ国
 アメリカ、オランダ、イギリス、ロシヤ
 フランス、ポルトガル、プロシヤ、スイス
 ベルギー、イタリー、デンマーク
 の各国について
 簡略な紹介をした小冊子
 ↓↑
 慶応三年冬に上梓
 表紙は本文と共紙の土佐半紙
 上部に黄色のリボン
 書名
 その下に
 北アメリカ合衆国
 と
 デンマークの国旗
 が描かれ
 見返しは
 太罫の匡郭の中を縦三行に割り
 「慶応三年丁卯仲冬/
  条約十一 国記/ 福沢氏蔵版」
 と記し、右側の刊年の下部に
 「福沢氏図書記」
 または
 「慶応義塾蔵版之印」
 の長方形朱印が押捺
 口絵二丁に
 条約各国の国旗を描き
 序文一丁、本文二十四丁
 ウラ表紙も本文と共紙の無地
 この書には京都の
 醍醐家で出版した偽版がある
 網代模様の
 地紋の濃藍
 または
 黄の厚表紙を用い
 左肩に子持罫の枠の中に
 「条約十一国記全」
 と記した題箋を貼り
 表紙の見返しは黄、緑
 または鼠色の和紙を用い
 太罫の枠の中を
 縦三つに割り、中央に
 「条約十一国記」
 と記し左右はブランク
 口絵も序文も本文も真版そのまま
 巻末の表紙ウラに
 此冊子旧冬
 於江戸版成然処依
 当春騒擾未弘両三冊流伝
 而巳求得之一読了欲令方
 今諸人亦一読故急翻刻為蔵版
 「醍醐家蔵版」と彫った
 大きな長方形朱印が押捺
 この本の表紙
 20星は厳密には
 1818年7月4日~1819年7月3日まで
 「星条旗」の紅白の条は
 1818年以来
 13本だが
 11本
 アメリカ合衆国の国旗
 星条旗(the Stars and Stripes)
 正式名は
 合衆国旗(Flag of the United States)
 白線と赤線の組み合わせの
 13本の横縞(赤7本と白6本)
 四角に区切った左上部(カントン)は
 青地に50の白い星が配置
 白は
 purity(純粋)
 innocence(純潔)
 赤は
 hardiness(たくましさ)
 valor(勇気)
 青は
 vigilance(戒心)
 perseverance(忍耐)
 justice(正義)
 縞模様は独立当時の
 13の入植地
 星は現在の州を表す
 現在のデザインは
 27代目
 今までに
 26回デザインが更新
 ↓↑
 「日の丸」の記録
 平安時代初期の
 延暦十六(797)年に編纂された
 「続日本紀」
 大宝元(701)年正月元旦の朝賀の儀
 「日像の旗」を掲げた・・・
ーーーーー
 多(おおの・おほの・タ)
 品治(ほんじ・ほむじ・ヒンチ)
 生年不詳~
 持統天皇十年 (696年八8月?)
 姓は
 臣、
 後に
 朝臣
 672年の壬申の乱で
 大海人皇子(天武天皇)側で戦い、
 莿萩野を守った

 「多品治(おほのほんじ)」は
 「多くの品(ほん)を治(おさ)む」である
 「多くのシナをハル」、
 これは
 「多くの本を修む」である。

 壬申の乱が勃発
 多品治は
 美濃国の
 安八磨郡(安八郡)の
 湯沐令
 (皇子の生計を支える
  封戸を管理する役職)
 大海人皇子は
 六月二十二日に、
 村国男依、
 和珥部君手、
 身毛広
 の
 三人を美濃国に先行するよう命じた
 任務は
 多品治と接触、連絡し、
 安八磨郡を挙兵させること
 美濃の兵三千が
 不破道を塞ぐ
 美濃国に入った
 大海人皇子は、
 七月二日に軍を
 数万の二手に分け
 一軍を伊勢国の
 大山越えで大和国へ、
 もう
 一軍を直接
 近江国に入らせることを命じ
 多品治は、
 紀阿閉麻呂、
 三輪子首、
 置始菟
 とともに
 大和に向かう軍を率いた
 この後、
 品治は別に命令を受け取り、
 三千の兵とともに
 莿萩野(たらの)に駐屯する
 莿萩野の位置は、
 伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部
 大和、伊賀、伊勢、美濃
 と続く連絡線のうち
 伊賀を守る位置
 田中足麻呂が
 近江と伊賀を結ぶ
 倉歴道を守る位置についた。

 これに対して
 大友皇子側の将、
 田辺小隅は、
 五日に倉歴を夜襲
 守備兵敗走、
 田中足麻呂
 は一人逃れた
 小隅の軍は翌日
 莿萩野を襲おうとしたが、
 多品治はこれを阻止し、精兵で追撃
 小隅は一人免れて逃げた
ーーーー
 日本書紀
 十二月四日に
 勲功の人を選び冠位を増し、
 小山位以上を与えた
 天武天皇十二年(638年)十二月十三日
 多品治は
 伊勢王、羽田八国(羽田矢国)
 中臣大島とともに、
 判官・録史・工匠
 といった部下を引き連れて全国を巡り
 諸国の境界を定めた。
 品治の位は
 小錦下
ーー
 天武天皇十三年(684年)十一月一日
 多臣など
 五十二氏に
 朝臣の姓を賜う
 天武天皇十四年(685年)九月十八日
 天武天皇は皇族・臣下と
 大安殿で博打
 このとき
 天皇は
 大安殿の
 中に、
 皇族と臣下は
 殿の前に位置し
 多品治は
 天皇の
 衣と袴を与えられた
 十人中の一人であった
ーー
 持統天皇十年(696年)八月二十五日
 多品治は
 直広壱と
 物を与えられた
 品治を
 太安万侶の父とする説がある
 (『阿蘇家略系譜』)
ーーーーー
 ・・・

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皐月(五月)のカンジ・・・躑躅(つつじ)に毒・・・?

2018-05-18 16:54:28 | 古事記字源

 ・・・16世紀ころから・・・1500年代~苗字の「大田」の漢字表記が「太田」に変化していった・・・ナゼ?「大(おほ・おお・ダイ)」が「太(ふとい・ぶとい・タイ)」に変化していったのか?・・・「大⇔太=タイ=他意・替・対・体・帯・台・鯛・tie(?)・・・」・・・「太閤=太閤下=摂政または関白の職を子弟に譲った人物・内覧(ナイラン⇔名意蘭=ないらん=内乱?)職に就き天皇に奉る文書などを先に見る役職」・・・タイコウ-ゲ(カ)?・・・
ーーーーー
 tie(?)
 …を(ひも=紐・綱などで)縛る・・・紐育=ニューヨーク
 …を(ひも=紐・綱などで)結ぶ
 …ゆわえる(with…)
 …をしっかりとくくる
 …人を縛りあげる
 …動物をつなぐ(up)
 …を縛りつける(down)
 …を(…に)つなぐ(to, onto…)
 tie up a package
 小包をしっかりくくる
 be tied hand and foot
 tie 【自動】
 ゲーム・試合で同点になる、引き分ける
ーーーーー
  帯=おび・たらし・タイ・・・帯方郡?
                獸帯=黄道帯
                  =zodiac(ゾウディアック)
                       象 出入鴉通区
       古事記・序文
         ↓↑
 「亦、於姓・・・また、姓に於いて名
    日・・・ジツ・ニチ・・・字通・似知・仁智?
       日(にちへん・にち)・曰(ひらび)
       ニチ・ジツ
       か・ひ・ひる・あき・はる
    下・・・ゲ・カ・・・・・解-化・外-科・乂-卦?
       下=丅+丶=一+ト
       カ・ゲ
    した・しも・もと
    さげる・さがる
    くだる・くだす・くださる
    おろす・おりる
       位置・地位・価値
    年齢などが低い
    劣っている
    時間・順序・物事の流れの後の方
    高い所から低い所へ移動する
    ある者のした
    支配の範囲
    命令を出す
    手をくだす・物事を行う
    謂・・・・言う
    玖沙訶、・くさか
    於名・・・名に於いて
    帶・・・・タイ・おび
    字・・・・ジ・あざ 
    謂・・・・言う
    多羅斯、・たらし
    如此之類、・・・この類いのごとく
    隨本不改」・・・本に倭(したが)って・・・隨本=隨書?
              従(したが)って・・・臣従
              遵(したが)って・・・遵法
              隨(したが)って・・・隨本=隋書?
                もとづいて
 隨=阝(阜)+左+月+⻌
 隋=阝(阜)+左+月=したがう
   付き従う・寄り添う
   追う
   聞き入れる・言いなりになる
   成り行きにまかせる
   したがって・だから・それゆえ
   その都度
   部下・付き添い
   易の六十四卦の一
   物と自分との違いのかたちを表す
   隋道=随道=隨道
   随道=ズイドウ=瑞道=隋同⇔髄如何⇔真髄・心髄・神髄
   隧道=ズイドウ=地中に掘った墓室に通じる通路
      ズイドウ=瑞同
      ↓↑
      吉兆=瑞光・瑞祥・瑞兆・瑞鳥・嘉瑞・奇瑞・祥瑞
      瑞西(スイス)
      瑞典(スウェーデン)
      ↓↑
   久坂玄瑞(ゲンズイ)
   天保十一年(1840年)五月誕生日不明
   ~
   元治元年七月十九日(1864年8月20日)
   幼名は秀三郎
   諱は通武
   字は「玄瑞」、「実甫」
   通称は誠、義助
     ↓↑
   高野 瑞皐(ズイコウ)=高野長英
   文化元年五月五日(1804年6月12日)
   ~
   嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)
    甲子(壬・ ・癸)⇔庚戌(辛・丁・戊)
   庚午(丙・ ・丁)⇔丁亥(戊・甲・壬)
   癸巳(戊・庚・丙)⇔戊子(壬・ ・癸)
     午未=空亡
   医者・蘭学者
   通称は悦三郎
   諱は譲(ゆずる)
   号は瑞皐(ズイコウ)
    皐=白+=+十+=
   コウ(カウ)
   さわ。岸辺
   「九皐」
   陰暦の五月
   さつき=皐月(コウゲツ)=早苗月・・・
       五月蝿(蠅)い=うるさい・煩い
   さつきつつじ=皐月躑躅・・・躑躅(テキチャク)?
   「羊躑躅(ヨウテキチャク)」
   「羊がその葉を食べると躑躅(テキチャク)して死ぬ
    それで羊躑躅という(陶弘景)」
   足+「鄭(酋大邑)=ねんごろ・かさなる・ていねい(丁寧)
             テイ・ジョウ」
   足+「蜀(罒勹虫)=いもむし・ショク・ゾク
            桑の葉などにつく昆虫の幼虫
            目を強調した毛虫・芋虫
   皐は
   白骨の頭の骨に
   四本足の獣のむくろ(骸)
   「白く輝く」
   転じて沢や岸、沼などの
   水辺を表す文字となった・・・「羊の白く輝く毛並み」?
                 五月は羊毛を刈り取る季節?
                 「皐」は毛を刈り取られた羊?
   揺れる水面の波形・・・?
  「呼ぶ、ゆっくりと呼ぶ」
  「ゆるやか・耕作・神に捧げる稲穂」
  ・・・「皐」はトンボの形象に見えたり
  「ヤゴ=水蠆⇔萬+虫」の形象にも見えるが・・・
  うるさい(五月蝿い・煩い)
  「はえ=蠅・蝿」?・・・
  「蠅伊呂泥(はえいろね)」は
  「倭迹々日-百襲姫」・・・百(百済)を
   ↓↑          襲(おそう
                 つぐ・受けつぐ・引きつぐ
                 あとをつぐ
                 かさねる)
               おそう=熊襲・襲撃・奇襲・強襲
                   逆襲・急襲
                つぐ=襲名・世襲・踏襲
              かさねる=重ね着・重ねた着物
                   襲衣
   ↓↑              因襲
   の母親で
  「意富-夜麻登-玖邇-阿礼-比売」
おほ-やまと-くに-あれ-ひめ・・・・大=おほ=太・多
  「皋=白+大+十=白+一+人」+十」は「皐」の異体字
   ヤゴ(水の蠆)=水(ミズ)の萬(ヨロズ)の
           中のム(私・己・邪=よこしま=横島)・・・
ーーーーー
 古事記・序文
     ↓↑
 ・・・於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、
 以
 和銅四年九月十八日、
 詔臣
 安萬侶、
 撰錄
 稗田阿禮
 所誦之勅語
 舊辭
 以
 獻上者、
 謹
 隨詔旨、子細採摭。
 然、上古之時、
 言意並朴、
 敷文構句、
 於
 字卽難。
 已
 因訓述者、
 詞不逮心、
 全
 以音連者、
 事趣更長。
 是以今、
 或一句之中、
 交用音訓、
 或一事之內、
 全以訓錄。
 卽、辭理叵見、
 以注明、
 意況易解、
 更非注。
 亦、
 於姓
 日
 下
 謂
 玖沙訶、
 於名
 帶
 字
 謂
 多羅斯、
 如此之類、
 隨本
 不改。
 ………
 和銅五年・・・和同(導)語撚?・・・銅=金+同=コンドウ=混同
 正月廿八日・・正解通念葉知字通?・・廿八日=念捌似曰(いわく)
 正五位・・・・正語彙
 上勳五等・・・状訓語等
 太・・・・・・おほの・ふとい・タイ
 朝臣
 安萬侶
ーーーーー
 『古事記』写本は32本
 最古の写本は
 『真福寺本-古事記』
 建徳二年(1371年)~翌、建徳三年(1372年⇔文中元年)にかけ
 真福寺の僧
 賢瑜・・・1344年~?・・・1371-1344=37
 が
 師
 信瑜・・・1333年~1382年 南北朝時代の僧
      正慶二年=元弘三年生まれ
      真言宗・尾張(愛知県)宝生院(真福寺)二世
      元弘の乱(元弘元年・1331年)
      後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府倒幕運動
      元弘三年・正慶二年(1333年)
      元弘三年(1333年)五月二十二日
      鎌倉幕府滅亡
      元弘三年=正慶二年(1333年)六月
      建武の中興
      元弘四年=建武元年(1334年)⇔「建武」の元号
 の命を受けて書写した・・・
 ↓↑
 干支辛亥
 日本
 南朝 建徳二年(1371年)・・・1372年は「壬子・文中元年」
 北朝 応安四年
    皇紀弐千参拾壱(2031)年
 ↓↑
 中国
 明王朝 洪武四年(1371年)
 鄭和(テイワ・1371年~1434年)
 イスラム教徒
 馬哈只の子として誕生
 中国明代の武将
 12歳の時に
 永楽帝に宦官として仕え
 軍功をあげ重用
 1405年~1433年
 南海への7度の大航海の指揮
 鄭和の船団は
 東南アジア、インド
 アラビア半島
 アフリカ東海岸の
 マリンディ(ケニアのマリンディ)
 まで到達
 本姓は馬
 初名は三保
 宦官の最高位、太監
 三保太監あるいは
 三宝太監の通称で知られる
 ↓↑
 夏   開熙五年(旧六月まで)
ーーーーー
 タイ
 大・太・歹・台・代 
 忕・旲・忲・豸・兌
 呆・汰・対・体・邰
 隶・抬・苔・岱・㤗
 祋・珆・迨・玳・殆
 帝・怠・胎・耐・退
 待・軑・泰・帯・菭
 陮・釱・帶・紿・梯
 堆・袋・逮・脱・跆
 鈦・躰・蒂・詒・棣
 替・貸・隊・搥・搋
 ?・瑇・碓・滞・㦅
 䃍・蓷・箉・䲦・臺
 滯・態・腿・颱・蔕
 對・憞・慸・磓・蝳
 䈚・隤・褪・駘・曃
 憝・跎・頺・頹・鮐  
 頽・黛・諦・㿉・薱
 艜・駾・薹・擡・戴
 懟・蹛・魋・鎚・譈
 蹪・蠆・穨・斄・鐜
 鐟・軆・鐓・㿗・體
 襶・靆
ーーーーー
 太田 道灌(おおた どうかん)
 生誕 永享四年(1432年)
 死没 文明十八年七月二十六日・・・文の明の拾捌年漆月弐拾陸日?
    (1486年8月25日)
 改名 鶴千代(幼名)→資長→道灌(法名)
 諱名 持資
ーーーーー
 16世紀ころから・・・1500年代~
 「大田」が
 「太田」に変化していった・・・ナゼ?
             草書での漢字「大」の「乀」が次の字へ
             「ゝ」と引き摺った?
             ・・・点(天)が膨張?・太陽・太陰
 「太田牛一」・・・「信長公記」の著者
    ・・・「牛一」=うしイチ・ゴイチ=「丑一・語位置」?
                      紐市
 池田家文庫本に
 慶長十五年(1610年)の
 太田牛一
 自身の記録
 織田信長の一代記
 戦国時代~安土桃山時代
 織田信長の旧臣
 太田牛一
 原本は
 江戸時代初期に成立
 信長の幼少時代から
 信長が
 足利義昭を奉じて
 上洛する前までを
 首巻とし
 上洛(永禄十一年(1568年)
 から
 本能寺の変(天正十年・1582年)・・・本の能の字の変
                   能事=ノウジ=農事
                   しなければならないこと
                   なすべきこと
 まで
 十五年の記録を
 一年一巻とし
 全十六巻(16冊)にまとめている
 ↓↑
 読み「信長記=しんちやうき」
    ・・・「新調・伸長・伸張・慎重・新潮」の記?
 写本を含め
 20種類以上が残され
 表題も
 『安土日記・安土記・信長記・信長公記』
 など様々で
 大名や公家などに
 写本で伝わり
 明治時代になって初めて刊行された
 太田自筆のものは3つ
 自筆本にはいずれも首巻がなく
 首巻は巻一〜巻十五より
 後に書かれた・・・
 ↓↑
 『永禄十一年記』(1巻)
  永禄十一年(1568年)の部分のみ
 尊経閣文庫所蔵
 (尊経閣文庫は他にも
 『信長記』15巻などを所蔵する)
 ↓↑
 池田本『信長記』(十五巻)
 岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵
 姫路城主・池田輝政に献上されたもの
 首巻なし。重要文化財。第十二巻のみ古写本
 ↓↑
 建勲神社本『信長公記』(十五巻)
 京都・建勲神社所蔵。首巻なし
 ↓↑
 町田本
 町田久成旧蔵本(所在不明)
 『我自刊我書』
 明治十三年(1880年)~十七年(1884年)
 甫喜山景雄が刊行
 後に『史籍集覧』に収められた
 近代デジタルライブラリーで閲覧可能
 ↓↑
 陽明本
 近衛家所蔵本。角川文庫版の底本
 ↓↑
 天理本
 天理大学附属天理図書館所蔵の写本
 ↓↑
 太安萬(万)侶
ーーーーー
 信長公記
 太田牛一
 時代 安土桃山時代、江戸時代
 生誕 大永七年(1527年)
 死没 慶長十八年(1613年)
 改名 天正九年(1581年)まで
    「信定」を名乗る
 別名 通称又助(又介)あるいは「和泉」
 墓所 仏日寺(大阪府池田市)
 官位 和泉守
 幕府 織豊政権
 主君 斯波義統、柴田勝家、織田信長
    丹羽長秀、丹羽長重、豊臣秀吉
    豊臣秀頼
 子 大田小又助・・・・・太田⇔大田
    大田又七郎牛次・・・太田⇔大田
   (子孫の加賀大田家では
        「大田」を名乗る)
 諱
 天正九年(1581年)までの文書では
 「信定」と署名
 その後の書状
 天正十七年(1589年)から
 「牛一」と署名し、晩年まで続けた
 信長の死んだ
 天正十年(1582年)前後に
 諱を変えた・・・
 平家語り
 一方流琵琶法師が名乗りの
 一文字の末尾に「一」を付けるので
 それに倣った・・・?
 ↓↑
 大永七年(1527年)
 尾張国春日井郡
 山田荘
 安食村(名古屋市北区)
 土豪の家に生まれ
 成願寺で僧侶
 還俗し
 斯波義統
 の家臣となる
 天文二十三年(1554年)七月十二日
 義統殺害の後
 那古野城の
 織田信長の保護を求めた遺児の
 斯波義銀に付いて
 織田家に行った・・・
 天文二十三年(1554年)
 信長の家臣
 柴田勝家に仕え
 足軽衆となる
 同年七月十八日
 「安食の戦い」に参加
 義統弔い合戦
 弓の腕を認められ
 信長の直臣となり
 弓3人
 鑓3人の「六人衆」の
 一員となり近侍衆
 永禄七年(1564年)
 美濃-斎藤氏の
 堂洞城攻略で
 二の丸の門近くの建物の屋根から
 弓を射て活躍
 信長に褒められ知行増
 後は
 近習の書記
 後
 安土城下で屋敷を持ち
 信長に近侍する官僚(吏僚)とし
 永禄十二年(1569年)~天正十年(1582年)
 丹羽長秀の与力
 京の寺社との間の行政担当
 同時代の
 『賀茂別雷神社文書』に
 同社から
 牛一に筆がしばしば贈られた記録
 他に筆を贈られているのは
 長束正家やその弟
 直吉
 ↓↑
 本能寺の変後
 長秀に2,000石で仕え
 柴田勝家との戦いのため
 坂本城に長秀に従い参陣
 後
 天正十三年(1585年)
 長秀没後は
 丹羽長重に加賀国松任で仕える
 公務は息子に譲り
 同地で一時隠居
 ↓↑
 豊臣秀吉に召し出され
 天正十七年(1587年)
 洛南の行政官僚
 寺社行政と検地なども担当
 山城国加茂六郷を検地
 天正十八年(1588年)
 淀城を拠点にし
 南山城と
 近江国
 浅井郡の代官も兼任
 ↓↑
 天正二十年(1590年)
 肥前国
 名護屋
 へ秀吉に従軍
 道中の
 人足や馬を
 配分する奉行に就く
 名護屋城の
 建築工事の差配
 ↓↑
 文禄元年(1592年)
 文禄の役
 城の留守番衆
 文禄三年(1594年)
 大阪に戻る
 文禄五年(1596年)五月九日
 豊臣秀頼の初の上洛に供奉
 後陽成天皇に
 『太閤御代度々御進発之記』を献上
 慶長三年(1598年)三月十五日
 醍醐の花見では
 秀吉の側室
 三の丸殿の警護を務めた
 同年三月十七日
 醍醐寺三宝院で
 門跡・義演から
 信長から秀頼までの
 記録を書いたと紹介され一部暗誦もした
 同年九月十八日
 秀吉の没後は
 豊臣秀頼に仕えた
 慶長六年(1601年)までに
 『関ヶ原合戦双紙』を
 徳川家康に献上し
 十一月七日
 中井宗茂にも進上
 慶長十一年(1606年)
 南禅寺
 金地院の河内
 真観寺領の代官になる
 慶長十二年(1607年)頃
 『関ヶ原合戦双紙』奥書で
 自分の著作をまとめ
 「五代之軍記」と名付ける
 慶長十六年(1611年)三月二十八日
 秀頼の家康との京都
 二条城での会見への上洛に供奉
 慶長十五年(1610年)
 84歳時の書もある
 大阪城東南の重臣の屋敷地区の
 大坂玉造で
 慶長十八年(1613年)
 病死
 大阪府池田市の
 佛日寺に
 子孫が立てた墓がある
 ↓↑
 信長・秀吉・秀次、秀頼、家康
 などの軍記・伝記を著述
 長篠の戦いを描いた
 屏風『長篠合戦屏風』は
 概ね、『信長公記』通り
 安土城についても
 細部まで正確に記録していたことが、
 加賀藩伝来の
 天守指図の発見で裏付けられた・・・
 ↓↑
 子孫
 嫡男の
 又七郎牛次は
 秀頼家臣の
 青木一重
 に仕え
 大坂夏の陣の
 豊臣氏滅亡後
 津藩の
 藤堂高虎
 に仕えるが
 摂津麻田藩の青木家に戻り
 麻田藩士として続いた
 子息の
 小又助は
 丹羽家、織田信雄、豊臣秀吉に仕え
 その孫の宗古が浪人後
 寛永十八年(1641年)より
 前田利常に仕え
 以来
 加賀藩士
 ↓↑
 著作
 『信長公記』
 (「信長記・安土記・安土日記」)
 『大かうさまくんきのうち』
 (「太田牛一雑記」)
 『関ヶ原合戦双紙』
 (「太田和泉守記」、「内府公軍記」)
 『高麗陣日記』
 『関東軍記』
 『別本御代々軍記』
 (「太田牛一旧記」)
 『太閤御代度々御進発之記』
 『豊国大明神臨時御祭礼記録』
 『今度之公家草紙』
 (「猪熊物語」慶長十五年)
 『新門跡大坂退散之次第』
 ↓↑
 太安万(萬)侶・太
 田       田
 牛       和
 一       泉
 ↓↑
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_1.pdf
 ↓↑
 信長公記 巻 首・天文三年~永禄十一年
           (1534年~1568年)
 信長公記 巻 一・永禄十一年(1568年)
 信長公記 巻 二・永禄十二年(1569年)
 信長公記 巻 三・元亀元年(1570年)
 信長公記 巻 四・元亀二年(1571年)
 信長公記 巻 五・元亀三年(1572年)
 信長公記 巻 六・天正元年(1573年)
 信長公記 巻 七・天正二年(1574年)
 信長公記 巻 八・天正三年(1575年)
 信長公記 巻 九・天正四年(1576年)
 信長公記 巻 十・天正五年(1577年)
 信長公記 巻十一・天正六年(1578年)
 信長公記 巻十二・天正七年(1579年)
 信長公記 巻十三・天正八年(1580年)
 信長公記 巻十四・天正九年(1581年)
 信長公記 巻十五・天正十年(1582年)
ーーーーー
 ・・・???・・・

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つむぎ=摘武儀・摘麦・津夢紀・・・都麦都・・・

2018-05-16 22:04:59 | 古事記字源

 ・・・「イスラエル(State of Israel・以色列・1948/5/14)建国から70年・2018年5月14日、米国は在イスラエル大使館を商都テルアビブからエルサレム(Jerusalem)に移転」・・・「禀准=稟准」・・・『英和・和英語彙』・・・「麦都思」・・・麦(むぎ・バク)の都(みやこ・ト)を思(おも・シ)う・・・「麦⇔都(バク⇔ト)」って?・・・「博徒(バクト)⇔賭博(トバク)⇔ばくち=博打・博奕」・・・「都⇔麦(つ⇔むぎ)」・・・?
ーーーーー
 麦=主+夂(攵)=麥=來(十+父)+夂
            來(十+人+人+八)
     夂=「後から行く(説文解字)」の意味
       「人」の両脚「ク」に「乀」を入れ
       「後に送りとどけるものがあること」
        を表した指事文字・・・??
        麥都・・・十字架と福音書の都・・・ベツレヘム
   バク・むぎ
   旧字、「麥=來+夂=麥」
   麦・麥・稞・麮・麺・麵・麪・麨
   大麦(おおむぎ)・烏麦(からすむぎ)
   蕎麦(キョウバク・そば)・玄麦(ゲンバク)
   原麦(ゲンバク)・小麦(こむぎ)
   米麦(ベイバク)
 ↓↑
 つむぎ
 万葵
 亜麦
 摘喜
 摘来
 摘武儀
 摘麦
 津夢紀
 津夢綺
 津麦
 積紀
 紡
 紡伎
 紡伎
 紡喜
 紡姫
 紡希
 紡希
 紡来
 紡煌
 紡生
 紡生
 紡祈
 紡稀
 紡紀
 紡絆
 紡綺
 紡金
 紬
 紬伎
 紬來
 紬凪
 紬喜
 紬妃
 紬姫
 紬季
 紬希
 紬希
 紬星
 紬樹
 紬武儀
 紬生
 紬祇
 紬祇
 紬稀
 紬稀
 紬紀
 紬綺
 紬衣
 紬記
 紬貴
 紬麦
 継南
 継未
 績
 績伎
 績伎
 績葵
 通夢稀
 通麦
 都夢紀
 都武儀
 都矛技
 都麦
ーーーーー
 ↓↑
 禀准=稟准=許可を受けること
    稟=申し上げる・ヒン・リン
      稟告
      天から授かる
      生まれつきの性質
      稟性・稟賦・気稟・天稟
      命令を受ける
      申し出る
      稟議・稟告・稟請
      「禀」は異体字
ーーーーー
 ↓↑
 准=なぞらえる・主たるものになぞらえる
   ならす
   準ずる・ゆるす・承認する
   ジュン
   准尉・准看護婦
 ↓↑
 淮=水+隹
   ワイ・エ(ヱ)・カイ(クヮイ)
  「隹」は元は「𠂤(タイ)」に共通し
  「堆・帷」に見られ
  「めぐる・あつめる」等の意味
   淮河(淮水)地名
   長江・黄河に次ぐ第三の大河
 ↓↑
 『淮南子(エナンジ・ワイナンシ』
 前漢の武帝の頃
 淮南王劉安(紀元前179年~紀元前122年)
 が学者を集めて編纂させた思想書
 呉音で「エナンジ」と読むのが一般的
 『淮南鴻烈(ワイナンコウレツ)』
 劉安・蘇非・李尚・伍被
 らが著作
 10部21篇
 『漢書』芸文志には
 「内二十一篇、外三十三篇」とあるが
 「内二十一篇」しか伝わっていない
 道家思想を中心に
 儒家・法家・陰陽家の
 思想を交えて書かれ
 一般的には雑家の書に分類
 注釈
 後漢の
 高誘『淮南鴻烈解』
 許慎『淮南鴻烈間詁』
 がある
ーー↓↑ーー
 ウォルター・ヘンリー・メドハースト=麦都思=麥都思
 (Walter Henry Medhurst)      麥=來(十父)+夊(夂・攵)
 1796年4月29日~1857年1月24日    麥(麦)都=エルサレム
 ↓↑                      (Jerusalem)
 丙辰(乙・癸・戊)⇔丙辰(乙・癸・戊)
 壬辰(乙・癸・戊)⇔辛丑(癸・辛・己)
 戊辰(乙・癸・戊)⇔壬子(壬・ ・癸)
  戌亥=空亡
 ↓↑
 会衆派のイギリス人宣教師
 中国学者、出版人
 上海にはいった最初の宣教師
 中国語訳聖書の翻訳・改訂・出版に尽力
 中国名は
 麦都思(Mài Dūsī・麦都思=メドハースト=バクトシ?)
 日本では
 『英和・和英語彙』の著者として知られている
 1856年
 上海を離れて帰国
 1857年1月22日に
 ロンドンに帰り着いた
 2日後に死亡
 出版物は
 中国語によるもの59種
 英語によるもの27種
 マレー語によるもの6種類
 ↓↑
 尚徳『東西史記和合』
 1829年
 盤古以来の中国の王統と
 アダム以来の西洋の歴史を
 上下2段に分けて対比したもの
 両者の古代史は
 洪水伝説があるなど一致
 堯とノア
 舜とセム
 が同一人物であるとした
 その後両者の歴史は分かれたが
 イギリスが広東に入ることによって
 再び堯舜の昔にかえるとした
 「尚徳」はメドハーストの偽名
 ↓↑
 尚徳『新増三字経』
 『三字経』形式で
 キリスト教の教えを説いたもの
 ↓↑
 A Chinese and English Dictionary.
 Batavia. (1842).
 漢英字典
 ↓↑
 English and Chinese Dictionary.
 Shanghai. (1847~1848).
 英漢字典
 ↓↑
 A dictionary of the Hok-këèn
  dialect of the Chinese language.
 Macao. (1832).
 福建方言字典
 ↓↑
 An English and Japanese,
 and
 Japanese and English vocabulary.
 Batavia. (1830).
 英和・和英辞典
 1857年に
 日本で『英語箋』の名で翻刻出版
 Philo-Sinensis (1835).
 ↓↑
 Translation of a comparative vocabulary
  of the Chinese,
 Corean, and Japanese languages.
 Batavia.
 朝鮮偉国字彙
 シーボルトがもたらした
 洪舜明『倭語類解』
 朝鮮人向けの日本語辞書を元にした
 朝鮮語と日本語の単語集
 ↓↑
 China, its state and prospects.
 Boston. (1838).
 中国の現状と展望
 A dissertation on the theology
  of the Chinese,
  with a view to the elucidation
  of the most appropriate term
  for expressing the Deity,
  in the Chinese language.
  Shanghai. (1847).
 ↓↑
 「God」を中国語でどう翻訳すべきかについて
 On the true meaning of the word Shin.
 Shanghai. (1849).
 漢字「神」の意味するところを
 『佩文韻府』をもとに考察した
 ↓↑
 メドハーストは初めて
 中国語の原文から『書経』を英訳
 The Shoo King, or the historical classic.
 Shanghai. (1846).
 ↓↑
 絹と茶の産地を訪れた旅行記の中で
 『農政全書』の抄訳も行った
 A glance at the interior of China
  : obtained during a journey
   through the silk and green tea
   districts taken.
   Shanghai. (1849).
ーーーーー
 批准=署名により
    内容が確定した条約に対して
    国家の権限ある機関が
    各国国内法 (憲法) 上の
    手続に従い行う
    最終的確認と確定的同意を与える行為
 批准(ratification)
 国家が条約に
 拘束されることに同意する手続き
 通常は議会の同意を得て
 元首等が裁可あるいは認証
 公布等を行うことにより
 国内において成立し
 多国間条約においては
 国際機関等の寄託者に批准書を寄託
 批准
 全権委員が署名して内容の確定した条約を
 条約締結権をもつ国家機関が確認し
 これに同意を与えること
 核兵器禁止条約を「批准」しない政府
 批准
 表奏の末尾に天子が可否の決裁を書き示す意
 「准」は許す意
 「批」=つきあわせて良否をきめる
     批正・批判・批評・高批
     比べて良し悪しを判定するの意
     指摘する・品定めする
 ↓↑
 「批准」=主権者が決裁する
     全権委員が署名した条約に対する
     当事国における
     最終的な確認・同意の手続き
     日本では内閣が行うが
     国会の承認を必要とする
 ↓↑
 条約や協定
 (国と国とのとりきめ。国際的なルール)
 を最終的に、国として確認・同意すること
 ratification(批准)
 ratify~(批准する)
 ↓↑
 「批」=強く打つ・ひっぱたく
     押す・押しのける
     触る
     開く
     誤りを指摘する・分析する
     示す・答える
     「𠜱=卑+刂(刀)」に通じて
        削るの意
     天子が表奏最後に決裁を書き示すこと
     「琵」と通じ琵琶⇔批把と書く
     平手打ちの意
     「人の言動・仕事などの
      誤りや欠点を指摘し)正す・改める」
     「𢱧」が本字(説文解字)
     「手を反(かへ)して
      擊つ(説文・巻十二)」
     「擊なり(玉篇)」
     「擊なり、推なり
      轉なり、示なり(広韻)」
      声符は比(𢱧の声符は𣬉)
      うつ・ふれる・ヘイ・ヒ・ビ  
      批准・批答・批判・批評
 ↓↑   異体字、「𢱧=扌+囟+比」
 批准
 ひとつの国家が
 国・地域をまたがる条約や協定に
 正式に拘束されることへの同意を表明する方法
 総称して「締結」と呼ばれる
 通常、個別の条約において規定され
 多国間条約の場合に
 「批准」や
 「受諾(acceptance)」
 「承認(approval)」
 「加入(accession)」
 による
 二国間条約の場合は
 批准、受諾、承認、加入のほか
 公文の交換
 批准は署名、議会における承認
 元首等による裁可・認証
 批准書の寄託を経る手続きで
 重要な多国間条約には
 条約に
 未署名の国(条約の交渉に参加しなかった国)
 に対して加入手続きを認めているほかは
 批准によらなければならない
 (ジェノサイド条約
  欧州人権条約、
  社会権規約
  自由権規約、
  ウィーン条約法条約
  包括的核実験禁止条約)
 条約に署名した国について
 批准書とよばれる
 国家の同意や確認を示す文書を作成し
 この文書を
 寄託または交換することによって
 当該国について条約の効力が生じる
ーーーーー
 ・・・???
ーー↓↑ーー
 1867年以前に
 中国に渡来した
 キリスト教宣教師12人名
 ↓↑
 馬士曼(Joshua Marshman)
     ヨシア
 馬礼遜(Robea Morrison)
        モリソン
 米 憐(William Milne)
     ウイリアム
 麦都思(Walter Henry Medhurst)

 約翰・斯莱特(John Slater)
        ジョン
 約翰・因斯(John Ince)
       ジョン
 撒母耳・米爾頓(Samuel Milton)
         サムエル ミルトン
 羅伯特・弗莱明(Robed Fleming)
            フェルミン
 喬治・H・赫特曼(George H.Huttman)
         ジョウジ ハットマン
 宏富礼(James Humphreys)
        ハンフレイ
 高大衛(David Collie)
     デビット
 基 徳(Samuel Kidd)
     サムエル キッド
ーーーーー
 ・・・???・・・漢字の名前には当然、メッセージが・・・でも、ダレに?・・・後に送りとどけるものがある・・・「福音」?・・・でも「パン」がなくちゃぁ~・・・

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ロンドンの夏の目の漱石・・・英和辞典は必要だった

2018-05-15 20:49:38 | 古事記字源

 ・・・「煙霧のロンドンの夏の目の漱石」・・・「霧の英和箋」・・・「霧の英和戦」・・・「霧の英和撰」・・・「霧の英和潜」・・・「霧の英和泉」・・・「霧の倫敦(ロンドン・London・龍動?)」・・・恒松郁生氏の『ロンドン漱石記念館』・・・「1900(明治三十三)年10月28日・夏目漱石の留学開始」・・・「ロンドン漱石記念館は 漱石の5番目の下宿先、ミス・リール家の前」にあるらしいが、ボクの興味は「夏目漱石」なんかじゃあなくて・・・「1999年7月7日、館長が競売で入手した」と新聞記事にあった「英和・和英辞書」・・・
 アメリカの「南北戦争=1861年~1865年」で、「英国歩兵第二十連隊バード中尉、1864年8月13日」は当時の日本に存在していた・・・
ーーーーー
   ロンドンの漱石記念館
   2016年9月28日閉館・・・・今年2018年の夏に再開館・・・?
   32年の歴史に幕
    ↓↑
   1999年7月7日
   「館長が競売で入手した」とある辞書
    ↓↑
    この辞書の内側のページには
   「英国歩兵第二十連隊バード中尉、
    1864年8月13日」
    ↓↑     ↓↑
      ・・・1864年・甲子
      日本(天保暦)
      文久三年十一月二十二日~文久四年 二月十九日
      元治元年 二月二十 日~元治元年十二月 三日
      皇紀2524年  ↓↑    ↓↑  ↓↑
      清王朝    ↓↑    ↓↑  ↓↑
    ↓↑同治二年十一月二十二日~同治三年十二月 三日
      同時・同事・童児・道寺
    ↓↑    ↓↑
      1864年2月6日
      横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節)出発
      横浜鎖港談判使節団
    ↓↑池田長発(筑後守)を正使
      河津祐邦(伊豆守)を副使
      河田 熙(相模守)を目付
      文久三年十二月二十九日~元治元年七月二十二日
      にかけて幕府がフランスに派遣した外交団
      第2回遣欧使節、池田使節団とも呼ばれる
    ↓↑
    と書き込みがあるらしい。右から
   「安政四年稟准」
   「井上修理校正」
   「英語箋」
   「一名 米語箋」
   「村上英俊閲」
    と印刷
    ↓↑
    禀准=稟准・・・ひんじゅん
       許可を申請する・極限準
  稟=うける・こめぐら・ふち
      もうす・ヒン・リン
      受ける・授かる・上から下に与える
      扶持・俸給・俸給としての穀物
      生まれつき・天からさずかった性質
      天稟(テンピン)
      申す・申し上げる
      こめぐら・食糧
      禀=㐭+示=亠+回+示=亠+囗+口+示
    ↓↑
    1864年4月22日
    米国で貨幣鋳造法成立
   (In God We Trustの刻印が義務化)
    ↓↑
    1864年11月8日
    米国大統領選挙で
    第16代アメリカ合衆国大統領
    エイブラハム・リンカーンが再選
    奴隷州11州と戦争中・・・
    ↓↑
    1864年11月21日(元治元年十月二十二日)
    鎌倉見物中の英国士官2名が浪士に斬殺される(鎌倉事件)
ーーーー↓↑ーーーー
 村上英俊閲
 『英語箋(竹戔・艹戔)』
 安政四(1857)年丁巳十月稟(禀)准
 英和・和英辞書は翻刻されたもの
 ↓↑
 原著はイギリス人宣教師で
 上海領事となる
 ウォルター・ヘンリー・メドハースト
 (1796~1857)
 1830年
 オランダ領バタビアで刊行
 An English and Japanese
   and
   Japanese and English Vocabulary
 ↓↑
 メドハーストは、
 日本語の知識を
 来日経験のある
 オランダ人からの情報をもとに
 この辞書の編纂事業を進めた・・・?
 彼自身は中国語やマレー語に通じ
 他にも聖書の中国語訳を行っている
 ↓↑
 日本で翻刻した
 村上英俊(1811~1890)は
 医学、漢学、蘭学
 に通じたフランス語学者
 「英語箋」辞書は
 2巻からなる
 和装本
 1600語を収録
 ↓↑
 a   b  c    d   e
 ヱー・ビー・スィー・ディー・イー
 f   g  h     i  j
 ヱフ・ジー・ヱィッチ・アイ・ゼイ
 k   l  m   n  o
 ケィ・ヱル・ヱム・ヱン・オー
 p   q  r   s  t
 ピー・キウ・アル・ヱス・ティー
 u   v   w       x    y
 ユー・フィー・ドゥブルュー・エッキス・ワイ
 z
 ズイー
 ↓↑
 箋=セン=籤
   slip (of paper)
   tag (usu. bamboo, wood, ivory, etc.)
   label
 ↓↑
 「英語箋」
 万延二 (1861)年刊
 英和・和英辞書
 ↓↑
 干支:辛酉
 日本(天保暦)
 万延元年十一月二十一日~万延二年 二月十八日
 文久元年 二月 十九日~文久元年十二月 一日
 皇紀2521年
 清王朝
 咸豊十年十一月二十一日~咸豊十一年十二月一日 朝鮮
 李氏朝鮮
 哲宗十二年
 ↓↑
 1861年
 1月14日(万延元年十二月四日)
 米国駐日総領事館の通弁官
 ヘンリー・ヒュースケン
 攘夷派薩摩藩士に殺害
 ↓↑
 1861年
 3月4日
 エイブラハム・リンカーン
 第16代米大統領に就任
 3月13日(万延2年2月3日)
 ロシア軍艦対馬占領事件
 ロシア軍艦
 ポサードニク号が
 対馬の
 尾崎湾に来航
 ↓↑
 1861年
 7月5日(文久元年5月28日)
 攘夷派水戸藩浪士ら
 英国駐日公使館(東禅寺)
 を襲撃(東禅寺事件)
 ↓↑
 1861年
 11月11日
 同治帝即位
 ↓↑
 上海領事イギリス人
 宣教師
 ウォルター・ヘンリー・メドハースト
 (1796-1857)が
 1830年にバタビアで刊行
 「An English and Japanese
    and
    Japanese and English Vocabulary」
 が
 「英語箋」の原著
 ↓↑
 1861年
 ドイツで
 始祖鳥の標本発表
ーーーーー
 攘夷事件
 以上も以下も参考、参照の原文は
 「wikipedia」・・・少々改作して添付・・・
 「・・・」の付け足しは「ボクの?」・・・
 ↓↑
 (1) 安政三年
   (1856年8月21日)
    1.1 ハリス襲撃未遂事件
 タウンゼント・ハリス襲撃未遂事件
 初代駐日領事
 安政三年七月二十一日
 (1856年8月21日)
 下田・・・・ゲデン=解傅(伝)
 玉泉寺・・・漁句撰字
 に
 領事館・・・両耳間⇔顔・面
       両字観⇔偏旁冠脚垂構繞
       (ヘンボウカンキャクスイコウニョウ)の七つ?
        変 貌 観 客  推 敲 二葉・・・?
 を構えた
 ハリス・・・葉理素?
 は
 大統領親書の提出のため
 江戸出府を望むが
 水戸藩の徳川斉昭ら
 攘夷論者が反対
 江戸出府は留保
 このハリスに対し
 水戸藩郷士
 らが
 ハリスの襲撃を計画
 安政三年十一月二十七日
 一同は自訴
 同四年四月四日投獄・・・444?・・・四四四・・・肆陌肆拾肆?
 ↓↑
 (2) 安政六年
   (1859年)
    2.1 ロシア海軍軍人殺害事件
    2.2 フランス領事館従僕殺害事件
 ロシア海軍軍人殺害事件
 東シベリア総督
 ニコライ・ムラビヨフは
 安政六年七月二十日
 (1859年8月18日)
 7隻の艦隊で江戸に来航
 日露国境策定の交渉を開始
 七月二十七日
 海軍少尉
 ロマン・モフェト
 水兵
 イワン・ソコロフ・・・言わん・云わん・謂わん?  
            其処賂附?
 および1人の
 まかない係が・・・・・真仮名意?
 横浜の波止場近くで
 数人の武装した
 日本人に襲われた
 モフェトとソコロフは死亡
 最初の外国人殺害事件
 ムラビヨフ・・・・・・務等備與附?
 は
 ラザフォード・オールコックの
 勧めにもかかわらず
 日本に賠償請求をしなかった
 6年後の
 慶應元年
 (1865年)
 水戸天狗党・・・見訳典具等砥
 の一人で
 敦賀に幽閉中であった
 小林幸八が
 実行犯であることを自供し
 五月に横浜で磔刑
 事件の幕府側責任者
 外国奉行の
 水野忠徳
 の態度が各国外交団から疎まれ
 文久遣欧使節の候補となりながら
 オールコックの同意が得られず
 使節に加わることができなかった
 ↓↑
 フランス領事館従僕殺害事件
 安政六年十月十一日
 (1859年11月5日)
 フランス副領事
 ジョゼ・ルーレイロ
 の従僕が横浜の外国人居留地で殺害
 従僕は清国人であったが
 服装から欧米人と間違えられた
 ↓↑
 (3) 安政七年
   (1860年)
    3.1 日本人通訳殺害事件
    3.2 フランス公使館放火事件
    3.3 オランダ船長殺害事件
 安政七年(1860年)
 日本人通訳殺害事件・・・???
 安政七年一月七日
 (1860年1月29日)
 イギリス公使
 オールコック付きの通訳
 小林伝吉(洋装し、有名だった)が
 江戸のイギリス公使館の門前で
 2人の侍に
 背後から刺されて殺害
 ↓↑
 フランス公使館放火事件
 伝吉殺害の
 翌一月八日
 フランス公使館が放火で焼失
 ↓↑
 オランダ船長殺害事件
 二月五日夜八時ごろ
 オランダ商船の船長
 ヴェッセル・デ=フォス
 と
 ナニング・デッケル・・・何務具・出通懸留?
 が横浜の街路上で斬殺
 イギリス・オランダ・フランス
 の三国が共同して
 被害者1名につき
 2万5千ドルの賠償金を日本に要求
 幕府は
 オランダに
 1,700両を支払
 ↓↑
 万延元年・・・?・・・蔓延?
 (1860年)
 フランス公使従僕傷害事件
 九月十七日の夕刻
 フランス公使
 ド・ベルクール
 の従僕で
 イタリア人の
 ナタール
 が、2人の武士に右腕を切られた
 ナタールはピストルで反撃し
 武士は逃げた
 ↓↑
 (4) 万延元年
   (1860年)
    4.1 フランス公使従僕傷害事件
    4.2 マイケル・モース事件
    4.3 ヒュースケン殺害事件
 マイケル・モース事件
 万延元年十月十五日
 (1860年11月27日)
 狩猟帰りの英国人
 マイケル・モースの従僕が
 役人らに捕らわれそうになった
 江戸城から十里以内での
 火器の使用は禁じられ
 外国人も例外ではなかった
 モースは従僕を助けようと
 役人らを銃でおどし
 もみ合っている間に
 銃が発射され役人の1人が負傷
 モースは捕縛され
 夜中になって釈放された
 領事裁判所において裁判にかけられ
 オールコックから
 1,000ドルの罰金と国外追放の判決
 モースは後に
 香港で
 オールコックに損害賠償の訴訟を起こし
 オールコックは敗訴
 モースに2,000ドルを支払った
 ↓↑
 負傷した役人は重傷
 家族が復讐をする噂が
 横浜の外国人居留地に広まった
 ↓↑
 ヒュースケン殺害事件
 ヘンリー・ヒュースケンは
 安政三年
 (1856年)から
 タウンゼント・ハリス
 の秘書兼通訳を務め
 ヒュースケンは有能な通訳で
 ハリスは他国の外交交渉にも
 ヒュースケンを貸し出していた
 万延元年十二月四日
(1861年1月14日)
 プロイセン王国使節宿舎であった
 芝赤羽接遇所(港区三田)から
 善福寺への帰途
 芝薪河岸の中の橋付近で
 攘夷派の薩摩藩士
 伊牟田尚平
 樋渡八兵衛
 らに襲われ
 翌日死亡
 幕府はヒュースケンの母
 ジョアンネ(ヨアンナ)に
 1万ドルの
 弔慰金を支払って事件を落着
 ヒュースケンは有名人であり
 事態を重く見た幕府は
 辻番所に
 外国人保護を訴える標識を立てたり
 外国御用出役の新設するなど
 外国人警護に努めたが
 その後も外国人に対する襲撃事件は続いた
 ↓↑
 (5) 文久元年
   (1861年)
    5.1 第一次東禅寺事件
 文久元年
 (1861年)
 第一次東禅寺事件
 文久元年五月
 イギリス公使
 オールコックは
 長崎から江戸へ陸路で旅
 尊攘派の志士らは
 「神州日本が穢された」と憤激し
 文久元年五月二十八日午後十時頃
 (1861年7月5日)
 水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名は
 東禅寺のイギリス公使館内に侵入し
 オールコック公使らを襲撃
 外国奉行配下で
 公使館の警備に就いていた
 旗本や郡山藩士
 西尾藩士らが応戦し
 邸の内外で
 攘夷派浪士と戦闘し
 双方に死傷者を出した
 オールコックは危うく難を逃れたが
 書記官
 ローレンス・オリファント
 長崎駐在領事
 ジョージ・モリソン
 が負傷
 攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗
 3人が討取られ
 1人が現場で捕縛
 現場から逃走した浪士も
 3人は切腹
 1人が捕らえられた
 事件後
 オールコックは幕府に対し抗議し
 イギリス水兵の公使館駐屯の承認
 日本側警備兵の増強
 賠償金1万ドルの支払いという条件で
 事件は解決
 事件後
 英国艦隊の軍艦が横浜に常駐
 ↓↑
 (6) 文久二年
   (1862年)
    6.1 第二次東禅寺事件
    6.2 生麦事件
    6.3 英国公使館焼打ち事件
 文久二年
 (1862年)
 第二次東禅寺事件
 東禅寺警備の
 松本藩士
 伊藤軍兵衛は
 東禅寺警備により
 自藩が多くの出費を強いられ
 外国人のために
 日本人同士が殺し合うことを憂い
 公使を殺害し
 自藩の
 東禅寺・・・トウゼンジ=当然(當然・当然・当前・陶然)事?
 警備の任を解こうと考え
 文久二年五月二十九日夜中
 (1862年6月26日)
 代理公使
 ジョン・ニールの
 寝室に侵入しようとしたが
 警備のイギリス兵
 2人に発見され戦闘
 伊藤はこれを倒したが自分も負傷
 番小屋に逃れ
 翌三十日に自刃
 幕府は警備責任者を処罰
 イギリスとの間に
 賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず
 紛糾するうちに
 生麦事件が発生
 幕府は
 翌文久三年四月
 生麦事件の賠償金とともに
 1万ポンドを支払い
 事件は解決
 ↓↑
 生麦事件
 文久二年八月二十一日
 (1862年9月14日)
 横浜近くの
 生麦村付近で
 薩摩藩主の父
 島津久光
 の行列に乱入した
 騎馬のイギリス人4人に
 供回りの藩士が斬りつけ
 チャールス・リチャードソン
 が死亡
 ウッドソープ・クラーク
 ウィリアム・マーシャル
 の2名が重傷
 賠償交渉がもつれ
 薩英戦争が勃発・・・薩英戦争
 ↓↑
 第一次
 東禅寺事件以後
 英国は横浜に艦隊を常駐
 が、
 東インド艦隊司令官
 ジェームズ・ホープは
 攘夷派の強力な取り締まりを
 幕府に促すため
 海上封鎖
 および
 一部砲台に対する限定的な攻撃を提案
 提案は後に本国政府の承認を得
 用意された艦隊が
 薩英戦争に転用
 ↓↑
 英国公使館焼打ち事件
 品川・・・・ヒンセン・・・貧賤・比武戦(撰)?
 御殿山・・・ゴテンサン・・誤伝纂(簒)?
 の地に
 公使館を建設することを要求
 猛反対が起きたが
 幕府は列国の要求を呑んだ
 新英国公使館は
 文久二年八月から
 品川御殿山に建設が開始
 十二月にはほぼ完成
 長州藩士
 高杉晋作
 は
 イギリス公使館の焼打ちを計画
 文久二年十二月十二日深夜
 警戒を突破し
 築中のイギリス公使館に潜入
 井上聞多(井上馨)
 伊藤俊輔(伊藤博文)
 らが焼玉を使ってこれに放火
 ↓↑
 (7) 文久三年
   (1863年)
    7.1 井土ヶ谷事件
 文久三年
 (1863年)
 井土ヶ谷事件
 文久三年九月二日
 (1863年10月14日)
 フランス陸軍横浜警備隊員
 陸軍少尉
 アンリ・カミュ・・・アルベール・カミュ(Albert Camus)?
               1913年11月7日~1960年1月4日
1913癸丑(癸・辛・己)⇔己亥(戊・甲・壬)
           0011癸亥(戊・甲・壬)⇔丙子(壬・ ・癸)
          ?0011壬戌(辛・丁・戊)月生?
           0007壬辰(乙・癸・戊)⇔辛卯(甲・ ・乙)
              午未=空亡  大運己未(丁・乙・己)
           フランスの小説家、劇作家、哲学者
           フランス領アルジェリア出身
           第二次世界大戦中に小説『異邦人』
           戦後は「ペスト」
 が
 同僚のフランス陸軍士官とともに
 馬で
 武蔵国
 久良岐郡
 井戸谷村
 十二天社
 (神奈川県横浜市南区
  井戸谷下町井戸谷橋付近)
 を通行中に斬殺
 フランス公使
 ド・ベルクール
 が幕府に強く抗議
 外国奉行
 竹本甲斐守を・・・・・・竹の本、甲斐の守り?
 特使として謝罪のために
 フランスに派遣するよう迫った
 苦慮した幕府が
 横浜鎖港
 談判使節団という名目で
 フランスに使節を派遣
 幕府は
 カミュの遺族に
 35000ドル支払った
 ↓↑
 (8) 元治元年
   (1864年)
    8.1 鎌倉事件
 元治元年
 (1864年)
 鎌倉事件
 元治元年十月二十二日
 (1864年11月21日)
 イギリスの
 横浜駐屯歩兵
 第20連隊付き士官
 ジョージ・ボールドウィン少佐
 ロバート・ニコラス・バード中尉
       ・・・賂バード・似凝らす・葉蛙度・注意(中位)?
 ↓↑↓↑
  ロバート
   ・・・ニコラス=問題の「バード」の
   「英和辞典=箋」・・・箋=竹+戈+戈=竹+戔
    英和辞典?
   「1999年7月7日水曜日
   「中日新聞・夕刊・E版」の記事
   「【ロンドン7日共同】
    幕末の鎌倉で攘夷(じょうい)浪人に
    殺された英国軍人の
    署名がある英和事典がこのほど、
    ロンドンの古書市場で見つかった。
    日英交渉史を研究している
    恒松郁生
    『ロンドン漱石記念館』・・・ロンドンの漱石記念館
                  2016年9月28日閉館
                  32年の歴史に幕
    館長が競売で入手した」とある。
    この辞書の内側のページには
   「英国歩兵第二十連隊バード中尉、
    1864年8月13日」
    と書き込みがあるらしい。右から
   「安政四年稟准」
   「井上修理校正」
   「英語箋」
   「一名 米語箋」
   「村上英俊閲」
    と印刷されている。
    そして、英語で、
 ↓↑     ↓↑
  ・AN・
  ・EINGLISH AND JAPANESE・
  ・AND・
  ・JAPANESE AND EINGLISH・
  ・VOCABULARY・
  ・COMPILED
     PROMANTIVE WORKS・
  ・BY・
  ・W,H.MEDHCRST・
  ・ ・
  ・BATAVIA・
  ・PRINTED BY
           LITHOGRAPNY・
 ↓↑↓↑
   と印刷されている
   ちなみにこの
  「バード中尉」は
  「1864年(元治元年)」の
  「十一月二十一日」に
  「鶴岡八幡宮前」で
  「鎌倉事件」にあって死亡した人物であった・・・
 ↓↑↓↑
    下関戦争
    攘夷を唱える長州藩が
    関門海峡で外国船を砲撃
    報復でイギリス海軍が
    フランスなどと共に
    下関の砲台を占拠
    帰国した井上と伊藤は事態収拾に奔走
 ↓↑ーーーーー↓↑
 の2名が鎌倉で惨殺
 幕府は
 蒲池源八
 稲葉丑次郎
 を捕縛
 十一月十八日
 横浜戸部の刑場で斬首
 十一月二十五日
 犯人の1人
 元谷田部藩士
 清水清次が捕縛
 十一月二十八日
 横浜市中引き回しの後
 翌十一月二十九日
 戸部にて
 イギリス守備隊分権隊の見守るなか斬首
 吉田橋にて梟首
 慶応元年九月十一日
 清水清次の共犯者
 旗本
 内藤豊助家来
 間宮一が
 戸部で斬首
 吉田橋で梟首
 ↓↑
 (9) 慶応二年
   (1866年)
    9.1 鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
      「鳶=とんび」の「小亀」?
   9.2 ハリー・パークス恫喝事件
 慶応二年
 (1866年)
 鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
 慶応二年二月
 酒に酔った2人のフランス水兵が
 港崎町の遊廓に入って乱暴
 乱暴を見かねた力士の
 鹿毛山の長吉が取り押さえ
 駆けつけた
 鳶職の
 亀吉が鳶口で殴打
 1人を即死させた
 亀吉は下手人として処刑
 鹿毛山は追放
 ↓↑
 ハリー・パークス恫喝事件
 慶応二年十一月二十五日
 (1866年12月31日)
 イギリス公使
 ハリー・パークス
 が江戸の郊外の品川を騎馬で通行中
 人吉藩士
 岩奥八右衛門
 が道の真ん中に立ちはだかり
 刀を少し抜いていて恫喝
 パークスと英国人護衛の特務曹長が
 これを拘束し英国公使館に連行して捕虜
 ↓↑
 (10)慶応三年
   (1867年)
    10.1 アーネスト・サトウ襲撃事件
    10.2 英国水兵殺害事件
       (イカルス号事件)
    10.3 ヘンリー・スネル襲撃事件
    10.4 英国水兵襲撃事件
 慶応三年
 (1867年)
 アーネスト・サトウ襲撃事件
 慶応三年三月二十五日
 (1867年4月29日)
 英国公使一行は
 大坂で新将軍
 徳川慶喜との会見に臨んだが
 通訳の
 アーネスト・サトウ
 と画家の
 チャールズ・ワーグマン
 は、その後陸路大坂から江戸に向かった
 四月二十四日
 サトウらは近くに
 例幣使(レイヘイシ)・・・例併史(詞)?
    ・・・例幣使=朝廷の伊勢神宮に捧げ物をもっていく使者
       江戸時代、朝廷は徳川家康の法要のために
       日光東照宮にも同じように勅使を派遣した・・・
 一行が
 来ているとの噂を聞いた
 予定では
 例幣使は
 掛川宿を・・・掛=カ・カイ・ケ・ケイ・かける
        川=セン・かわ
        宿=シュク・スク・かねてからの
     「掛川宿=カイセンスク=改選素句」?
 通過し
 次の宿に泊まることになっていたので
 彼らと遭遇しないよう
 英国人
 一行は先を急ぎ
 例幣使と出会う前に掛川宿に到着
 夜半、12人ほどの凶漢に宿が襲撃され
 護衛の侍が撃退し
 サトウらは難を逃れた
 彼らを襲ったのが
 例幣使一行だとわかったのは
 落としていった提灯によってであった
 数ヶ月後
 凶漢とこの事件に関係した
 他の3人の者が江戸に檻送
 審問を受け
 2人が死刑(うち1人は獄死)
 4人が遠島
 ↓↑
 英国水兵殺害事件(イカルス号事件)
 七月六日夜
 長崎で
 イギリス軍艦
 イカルス号の水兵
 ジョン・ホッチング
 ロバート・フォード
 の2人が泥酔し
 丸山の路上に寝込んでいるところを
 筑前藩士
 金子才吉
 に殺害
 金子は八日に自刃
 筑前藩がこれを秘匿
 明治元年(1872年)十月二十七日
 犯人が金子だったことが判明し
 被害者遺族に
 見舞金・・・舞=𠂉卌一舛
 ↓↑    舞=𠂉+卌+一+舛(タヰ)
         𠂉+卌+一夕+㐄
         ブ・ム・まい・まう・もてあそぶ
         まう・まわす
         はげます・奮い立たせる
         思いのままにあつかう
         無=𠂉+卌+一+灬=𤍍=亠+廿+廿+灬
             卌=四十・肆十・よそ・よそじ・forty
 ↓↑          廿=二十・弐拾・念
 が支払われ
 金子と同道していた
 6名の者が禁錮刑に処せられた
 ↓↑
 ヘンリー・スネル襲撃事件
 七月十五日
 オランダ人で
 プロイセンの
 シャルジェ・ダフェール公使の書記官
 ヘンリー・スネル
 ↓↑   兄はジョン・ヘンリー・スネル
     (John Henry Schnell・日本名は平松武兵衛
      1843年?~1871年?)
      弟はエドワルド・スネル
     (Edward Schnell
      1844年?~没年不詳)
 ↓↑   プロイセン出身・・・
 が弟の
 エドワード
 と馬車で
 江戸に戻ってきたところ
 沼田藩士
 三橋昌
 が馬の前に飛び出し
 スネルは馬首を廻らせ
 男に触れずに通り過ぎようとしたが
 馬車が斜め前に来たところ
 三橋は刀を抜き
 スネルの隣に座っていた
 エドワードに一撃を浴びせようとした
 スネルは拳銃で反撃
 誤って
 下駄商
 幸次郎の雇人
 淺次郎
 を傷つけてしまった
 事件から2日後の17日
 沼田藩は、書面をもって、
 幕府に
 三橋昌を拘禁したことを報告
 ↓↑
 英国水兵襲撃事件
 九月十一日
 土佐藩士
 島村雄二郎が
 長崎の江戸町において
 泥酔したイギリス人水兵
 エドワード・ウォーレン
 の頭部を切り
 アメリカ人
 ジョージ・アンダーソン
 にも腕に軽傷を負わせた
 島村は
 「その足ですぐに同藩の役人に自首」
 島村は
 自分に殺意はなく
 防御のための抜刀であったと主張
 事件は解決を見ぬまま
 幕府の崩壊で立ち消え・・・
 ↓↑
 (11)慶応四年
   (1868年)
    11.1 神戸事件
    11.2 堺事件
    11.3 パークス襲撃事件
 慶応四年
 (1868年)
 神戸事件
 慶応四年一月十一日
 (1868年2月4日)
 神戸(現・神戸市)
 三宮神社前で
 備前藩(岡山県)兵が隊列を横切った
 フランス人水兵らを負傷させ
 居留地(旧居留地)予定地を
 検分中の欧米諸国公使らに
 水平射撃を加え
 明治政府初の外交問題となり
 一時、外国軍が
 神戸中心部を占拠
 隊の責任者であった
 滝善三郎
 が切腹で解決
 ↓↑
 堺事件
 慶応四年二月十五日
 (1868年3月8日)
 フランス海軍
 コルベット艦
 デュプレクスが堺港に入り
 士官以下数十人の水兵が上陸
 市内を徘徊
 土佐藩軍艦府は警備の藩兵に取締を命じ
 帰艦を諭示させたが言葉が通じず
 水兵側は
 土佐の隊旗を倒伏して逃亡しようとした
 土佐藩側はこれを咄嗟に発砲
 フランス人11人を・・・十一?
 殺傷、海に落として溺死させた
 土佐藩側では
 フランス人が
 迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした
 遺体は十六日に引き渡しを終え
 フランス公使
 レオン・ロッシュは
 二月十九日
 に在阪各国公使と話し合い
 下手人斬刑・陳謝・賠償などの
 5箇条からなる抗議書を日本側に提示
 明治政府は事態を憂慮し
 イギリス公使
 ハリー・パークス
 に調停を求めたが失敗
 同月二十二日
 明治政府は
 賠償金15万ドルの支払い
 暴行者の処刑など全ての主張を飲んだ
 同月二十三日に
 大阪裁判所の宣告により
 堺の妙国寺で
 土佐藩士20人の刑の執行が行われた
 立ち会っていた
 フランス軍艦長
 デュプティ=トゥアールは
 フランス人の被害者数と同じ
 11人・・・十一?
 が切腹したところで
 外国局判事
 五代才助
 に中止を要請
 結果として
 9人が助命された
 処刑を免れた
 橋詰愛平ら9人は
 土佐の
 渡川(四万十川)以西の
 入田へ配流され
 庄屋
 宇賀佑之進
 預けとなり
 その後
 明治新政府の恩赦により帰郷
 自刃した土佐藩士は
 妙国寺内に厚く葬られ
 遭難したフランス人の碑も
 神戸市立外国人墓地に建てられた・・・
 ↓↑
 パークス襲撃事件
 慶応四年二月三十日
 (1868年3月23日)
 イギリス公使
 パークス一行は
 明治天皇に謁見するため
 宿舎の知恩院を出て
 御所に向かう途上
 2人の男に襲撃され
 護衛の
 中井弘蔵
 後藤象二郎
 が反撃、犯人の一人
 朱雀操
 を斬殺
 一人の犯人である
 三枝蓊
 も他の警護兵に重傷を負わされ
 逃走しようとした所を捕縛
 襲撃は失敗
 三枝は
 同年三月四日に斬首
ーーーーー
 万国を敵に回せば
  碬 卵
 (カンラン=石を投げて卵を割る)の勢い
 ↓↑
 三軍之衆
 可使必
 受敵
 而無敗者
 奇正是也
 兵之所加
 如以碬
  投卵者
 虚實是也
 ↓↑
 碬をもって
 卵に投ずるがごとくは
 虚実これなり
 ↓↑
 如以碬投卵者
 虚実是也
 固い石を卵に投げつけるように
 敵を打ち破ることができるのは
 敵のすき(虚)を
 実した軍(実)で
 攻撃する虚実の運用
 ↓↑
 碬=といし・カ・ゲ・ケ
   といし=砥石・研石
       砥=石+氐(氏+一
           テ=弖=弓+一)・・・?
   問い詞(史・氏)?
   高低があって平らでないさま
 ↓↑
 碬=石+叚
   丆+口+叚・・・丆=面?
   一+丿+口+叚
 ↓↑
 碬疵
 欠点、失敗、不足
 難・非・ぼろ・瑕瑾・デメリット
 疵瑕
 欠点・弊竇・欠缺・襤褸・不具合・粗製
 瑕・悪目・欠陥・難点・汚点・傷・疵・芥
 短所・不備・短・穴
 それが失敗の原因となる
 あるいは
 その効力を減少させる計画
 理論の法的文書の欠陥
 欠陥・汚点・短所・不備
 人体の上で
 概観を損なう特徴または欠陥
 小疵・瑕瑾・瑕・傷・疵
 適切でない
 欠陥があるという特性
 痛いところ・弱み・非・泣き処
 デメリット・疵瑕・欠点・足下
 失
 搦め手・悪目・泣所・難点・苦手
 傷・疵・咎
 芥もくた・泣き所・ウィークポイント
 足元・弱点・搦手・短所
 付け目・痛い所・短・鬼門
 ウイークポイント・足許
 まずい判断や
 怠慢、不注意を原因とする誤った行動
 躓き・過誤・ミステーク・ちょんぼ
 間違い・誤り・誤まり・謬り・間違え
 疵瑕・過失・ミステイク・過怠
 失・誤・謬・過ち・緩怠
 事誤り・間違・ミス・誤謬・謬錯・誤ち
 ↓↑
 凡戰者、以正合、以奇勝、故善出奇者
 無窮如天地、不竭如江河、終而復始
 日月是也、死而復生、四時是也、聲不過五
 五聲之變、不可勝聽也、色不過五、五色之變
 不可勝觀也、味不過五、五味之變、不可勝嘗也
 戰勢、不過奇正、奇正之變、不可勝窮也
 奇正相生、如循環之無端、孰能窮之
 ↓↑
 およそ戦いは、
 正をもって合っし、
 奇をもって勝つ
 ゆえに善く奇を出いだす者は
 窮まりなきこと天地のごとく
 竭(つき)ざること
 江河のごとし
 終わりてまた始まるは
 日月これなり
 死してまた生ずるは
 四時これなり
 声は五に過ぎざるも
 五声の変は勝あげて聴くべからざるなり
 色は五に過ぎざるも
 五色の変は勝あげて観みるべからざるなり
 味は五に過ぎざるも
 五味の変は勝あげて嘗なむべからざるなり
 戦勢は奇正に過ぎざるも
 奇正の変は勝あげて窮わむべからざるなり
 奇正のあい生ずることは
 循環の端なきがごとし
 たれかよくこれを窮わめんや
 ↓↑
 激水之疾、至於漂石者、勢也
 鷙鳥之疾、至於毀折者、節也
 是故善戰者、其勢險、其節短
 勢如彍弩、節如發機
 ↓↑
 激水の疾やくして石を漂だよわすに至るは
 勢なり
 鷙鳥(シチョウ)疾やくして
 毀折(キセツ)に至るは、節なり
 このゆえに善く戦う者は
 その勢は険にしてその節は短なり
 勢は弩ど彍くがごとく
 節は機を発するがごとし
 ↓↑
 彍=はる・はしる・クワク・カク
   弓をいっぱいに引く
   弘
 ↓↑
 彊=弓+畺
   つよい・しいて・キョウ・ゴウ
   通仮字、姜・疆
   異体字、强・疆・強=弓+厶+虫
   声 符、畺
 ↓↑
 亂生於治
 怯生於勇
 弱生於彊
 治亂數也
 勇怯勢也
 彊弱形也、
 ↓↑
 乱は治に生じ
 怯は勇に生じ
 弱は彊に生ず
 治乱は数なり
 勇怯は勢なり
 彊弱は形けいなり
ーーーーー
 朝廷に
 横浜鎖港談判使節の
 成功を約束している幕府は
 翌日の
 7月23日
 談判使節が
 フランスと結んできた
 パリ協定を直ちに破棄
 池田筑後守に
 六百石召上げと隠居蟄居を
 河津伊豆守に
 小普請入りと逼塞を
 河田相模守に
 小普請入りと閉門を申しつけ
 「不埒の至りに候」
 と
 使命不履行を厳しく罰した
 池田長発には
 幕閣に会い
 直接詳しい帰国報告をする機会をも
 与えなかった
 幕府は朝廷に
 「横浜鎖港をもって攘夷を始める」
 と約束してきたてまえ
 いかに
 池田筑後守の報告書が
 理に適っていようとも
 こうする以外の道は無かった・・・
ーーーーー
 幕末の交換レート
 1両=1.33ドル
 明治
 1両=1円=金1.5グラム
 現在
 金1gは約5000円
 1円=7,500円
 ↓↑
 300万ドル=225万円
      =現在の168億7500万円
 200億~300億くらい
 ↓↑
 当時の300万ドルは225万両
 1両の価値は現在の価値に換算し
 約2万円
 従って
 225万両は450億円
 ↓↑
 かけそば
 一杯16文(幕末には20文)
 浮世絵
 一枚絵16文
 現在のそばの値(500~600円程度)
 1文=31~38円見当
 1両=6000文
 186000円~228000円
 職人の日当換算
 文化文政期(19世紀初)
 職人の手間(日当)
 銀5匁4分
 現在の日当を大まかに2万円~3万円
 換算すると
 銀1匁=3700~5555円
 1両=銀60匁とし
 222000円~333300円
 この場合の
 1文=37~55円
 ↓↑
 一両の価値
 お風呂屋
 8文=200円
 スイカ
 40文=1,000円
 そば・うどん
 16文=400円
 床屋(髪結い)
 28文=700円
 酒(1升)
 250文=6,250円
 納豆
 4文=100円
 たばこ(14g)
 8文=200円
 お冷1杯
 4文=100円
 居酒屋・酒1合
 26文=650円
 串団子
 4文=100円
 駕籠
 (日本橋・三越前~吉原まで直線で約5km)
 200文=5,000円
 天ぷらそば
 32文=800円 
 ゆで卵1個
 18文=450円
 吉原揚げ代
 1両2分=150,000円
 鰻めし
 150文=2,625円
 ↓↑
 1800年を1ドルとして
 1865年は1.11倍
 2008年は0.08倍
 現在から考えれば
 1ドルは13.875倍
 13.875×20×89.8(今日のレート)
       =24919.5円≒¥25000
 ↓↑
 南北戦争直後
 1ドル=2500円~3000円
ーーーーー
 薩英戦争
 年月日
 1863年8月15日~1863年8月17日
ーーーーー
 馬関戦争
 1863年5月10日
     23日
      26日
 ↓↑
 孝明天皇の要望により
 将軍徳川家茂は
 文久三年五月十日
 (1863年6月25日)
 をもっての
 攘夷実行を約束
 長州藩は
 馬関海峡(関門海峡)
 を通過する外国船への砲撃実施
 戦後、
 長州藩は幕命に従ったのみと主張
 アメリカ・イギリス・フランス・オランダ
 に対する損害賠償責任は
 徳川幕府のみが負うこととなった
 ↓↑
 文久三年五月十日
 長州藩が馬関海峡を封鎖
 航行中の
 アメリカ・フランス・オランダ艦
 に対して無通告で砲撃
 約半月後の
 六月
 アメリカ・フランス軍艦
 が
 馬関海峡内に停泊中の
 長州軍艦を砲撃
 長州海軍に壊滅的打撃を与えた
 長州は砲台を修復した上
 対岸の
 小倉藩領の一部をも占領
 新たな砲台を築き
 海峡封鎖を続行
 ↓↑
 元治一年(1864年)七月
 イギリスは長州に対して
 懲戒的報復措置を決定
 フランス・オランダ・アメリカ
 の三国に参加を呼びかけ
 都合艦船17隻で連合艦隊を編成し
 8月5日~8月7日
 馬関(下関市中心部)と
 彦島の砲台を砲撃
 各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊
 馬関海峡の砲台を
 四国連合艦隊によって無力化され
 長州藩は
 以後列強に対する武力での攘夷を放棄
 海外から新知識や技術を積極的に導入し
 軍備軍制を近代化
 坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により
 慶応二年一月二十一日
 (1866年3月7日)
 薩摩藩と
 薩長同盟を締結
 ↓↑
 下関戦争(1863年)
 馬関戦争(1864年)四国艦隊下関砲撃事件
ーーーーー
 ・・・???・・・

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「エンドはオワリか?、ハテ」か?

2018-05-13 23:10:37 | 古事記字源

 ・・・「ブレンダ・リー(Brenda Lee・1944年12月11日~)」・・・「Brendaはゲルマン語で“flame(炎)”または“sword(剣・刀)”の意・エリザベス二世(英国の風刺雑誌 Private Eye の命名)・(米俗語)ばか・知的でない人」・・・?・・・「Brend」は「blend(混ぜる)のミススペル(misspell・misspelling・spelling error)=綴り間違い」・・・カンジ間違い・・・カンチチガイ・・・?
 「Brend」+「a」=「Brenda」・・・
 「flame(f'lAm)=炎」≠「frame(f'rAm)=枠・枠組み」・・・
 「ブ (武・部・分・侮・悔
     憮=がっかりする・失望する・驚きあきれる・憮然
     撫=愛撫
     嘸=さだめし・きっと・さぞかし
     嫵=妩=娬=媚びる
     舞・無・无・不)
  レン(鍊・煉・練・蓮・連(聯)・戀(恋)
     攣=つる・ひきつる・かかる・つながる・かがまる
       ひきつる・攣縮・痙攣(ケイレン)
     鎌=金+兼=かま・鎌足
  ダ (拿)
  リイ(理意・利意・李意)」・・・
 「The end of the world(1963)」・・・?・・・
 「地球の崩壊」なのか、「人間の崩壊」なのか・・・?・・・
 「人間」と言う動物は存在しないのカモ・・・
 「人の間」には「隙間」だけあるようだし・・・
 「人間(ニンゲン・呉音)」
 「人間(ジンカン・漢音)」
 「blend」
  +
 「lee=風の当たらない所・風下・陰」・・・
 「リー (Lee・Lea・Lei・Leigh・Li・Lie・Ly・Re・Ree・ Ri)・・・
  Lee=草地(牧草地・leah⇒meadow=メドウ)」・・・
 「The end of the world(1963)」・・・?
 「エンド」は「オワリ」か、「ハテ」か・・・?
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  Brenda Lee
 The end of the world(1963)
 ↓↑
 Uボートのサントラ
 ↓↑
 ゼロ地帯
 (1961年5月20日公開・イタリア/フランス)
 エディット(スーザン・ストラスバーグ)
        Susan Strasberg
 スーザン・ストラスバーグ
 (Susan Strasberg)
 1938年5月22日~1999年1月21日
 戊寅(己・丙・甲)⇔戊寅(己・丙・甲)
 丁巳(戊・庚・丙)⇔乙丑(癸・辛・己)
 甲寅(己・丙・甲)⇔癸酉(庚・ ・辛)
  子丑=空亡  大運己酉(庚・ ・辛)
 1955年、18歳
 ブロードウェイの舞台
 『アンネの日記』に主演
https://www.youtube.com/watch?v=SO3O57Ol2pw&t=540s
https://www.youtube.com/watch?v=SO3O57Ol2pw
https://www.youtube.com/watch?v=R4Y2M9-HDcQ
https://www.youtube.com/watch?v=QT7QbrEGMpc&t=80s
 1943年10月14日
 600人の囚人の
 約半数300人が脱出・・・100人が射殺
             全体で収容者16万7,000人が殺害・・・
 事件後
 ソビボール(Konzentrationslager Sobibor)強制
      (Vernichtungslager  Sobibor)絶滅
 収容所閉鎖
 ・・・「生き残った人間の子供」たちは同じようなコトを「他の生き残った人間とその子供」たちにもする・・・
 ↓↑
 ドリス・デイ・・・どうして「Doris」の「Day」なんだか?
 ↓↑
  Doris  Mary   Ann  von   Keppelhoff
 (ドリス・メアリー・アン・フォン・ケッペルホフ)
  ドイツ系アメリカ人
  センチメンタル・ジャーニー(Sentimental Journey)
 ドリス
 古代ギリシア中部の
 ペロポネソス半島に定住した
 ドーリア人(the Dorians)
 小アジア南西部の
 Caria の沿岸にあった
 地方の先住民を征服し
 ドーリア人が植民
 スパルタ都市国家を建国
  Lycurgus(リュクルゴス)
 は、諸国遍歴の末
 スパルタに「リュクルゴスの制度」を執行
 土地の均等配分・長老会設置・民会設置
 教育制度・常備軍の創設
 装飾品の禁止
 共同食事制
 を社会生活の基本とした
 ドリスは
 ギリシア神話で
 大洋神
 Oceanus(オルセーイス) の娘で海神
 Nereus の妻
 Nereid たちの母・・・???
 ↓↑
 Doris Day
 1922年4月3日~
 壬戌(辛・丁・戊)
 癸卯(甲・ ・乙)
 辛丑(癸・辛・己)
  辰巳=空亡
 Que sera sera ケ・セラ・セラ・・・化・施螺・施覶
 ↓↑       ラ=覶=𤔔+見=みる・ラ・ラン・レン
          異体字、覼
          声符「𤔔」、𤔔・𡡗・辭・𢿢・亂
             𤔔=爪+マ+冂+ム+又
             辭=𤔧=𤔔+亐
             亂=𤔔+乚
             辭=𤔔+辛
             異体字、辞・司・𤔧・𤔲
                 𦧦・辝・𨐕・辤・𨐲・𨾱
             簡体字、辞
             声符「𤔔」、𤔔・𡡗・𢿢・覶・辭
                𤔔=治也・幺子相亂、𠬪治之也
                  讀若亂同・一曰理也
                  𠬪部・𠭟
              古文𤔔(説文解字)
              一曰𤔔、理也
 ↓↑         
 「Que Será, Será」は
 「なるようになる・・・「運否天賦(ウンプテンプ)」
            「人間万事塞翁が馬」
  (Whatever will be, will be)」
 「なるようになる、先のことなど解らない」
 スペイン語だとされることもあるが
 スペイン語の文としては
 非文法的で、スペインで用いられた歴史もない
 専ら英語圏のみで
 擬似外国語として使われたフレーズ・・・
 ヒッチコック監督の
 「知りすぎていた男」の主題歌
 昭和32年(1957)ごろの流行語
 ↓↑
 ザ・ピーナッツ (The Peanuts)
 かわいい花
 情熱の花(カテリーナ・ヴァレンテ)
 月影のナポリ
 17歳よさようなら(フロ・サンダンス)
 イエロー・バード
 ウナ・セラ・ディ東京
 恋のフーガ
 ↓↑ ↓↑
 伊藤エミ(澤田 日出代)
 1941年4月1日~2012年6月15日
 辛巳(戊・庚・丙)⇔壬辰(乙・癸・戊)
 辛卯(甲・ ・乙)⇔丙午(丙・ ・丁)
 己卯(甲・ ・乙)⇔丁未(丁・乙・己)
  申酉=空亡   運戊戌(辛・丁・戊)
 ほくろあり
 1975年6月4日
 乙卯(甲・ ・乙)
 辛巳(戊・庚・丙)
 辛巳(戊・庚・丙)
 ザ・タイガースの・・・tiger=虎
 沢田研二と結婚
 1987年1月に離婚
 ↓↑
 伊藤ユミ(伊藤月子)
 1941年4月1日~2016年5月18日
 辛巳(戊・庚・丙)⇔丙申(己・壬・庚)
 辛卯(甲・ ・乙)⇔癸巳(戊・庚・丙)
 己卯(甲・ ・乙)⇔庚子(壬・ ・癸)
  申酉=空亡   運戊戌(辛・丁・戊)
 ほくろなし
ーーーーー
 ・・・???・・・

コメント
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