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コジキジゲン

「禽・禽・禽」・「寅・寅・寅」・「飛羅・杜羅・トラ」

2018-05-12 16:53:56 | 古事記字源

 ・・・「とりとりとり」・・・「とらとらとら」・・・「禽・禽・禽」・・・「寅・寅・寅」・・・「飛羅・杜羅・トラ」・・・「虎・虎・虎」・・・  トラ、トラ、トラ・・・「虎列刺(コレラ)」、ネズミ、ネズミ、ネズミ・・・「黒死病(コロリ)」、ムシ、ムシ、ムシ・・・「鵡詞・六史・無視・無死・無私・蒸し・武士・節・務試・夢誌」・・・
 ↓↑
 虎=虍=とら・コ・ク
     𧆞・乕・𠂰・𢁺・虝・𧇂・𪊖・𪋕・𢋪・𠪳
  虎=⺊+乛+丿+七+丿+乚
    虎、ネコ科ヒョウ属の動物の総称
    勇猛なさま
    猛猛(たけだけ)しいさま
    凶暴なさま
    虏=虍+力=とりこ・リョ・ロ・ル
      虜=⺊+乛+丿+七+男
      生きたまま捕える
      捕まえて縄を掛ける
      殺して捕まえるのは「獲」
      縛って自由に動けなくする
      自由を奪う
 ↓↑
ーーーーー
 ナタリー・ポートマン
 (Natalie Portman)
 1981年6月9日~)
 辛酉(庚・ ・辛)
 甲午(丙・ ・丁)
 戊午(丙・ ・丁)
  子丑=空亡
 ↓↑
 ホイットニー・ヒューストン
 (Whitney Elizabeth Houston)
 1963年8月9日~2012年2月11日
 癸卯(甲・ ・乙)⇔壬辰(乙・癸・戊)
 庚申(己・壬・庚)⇔壬寅(己・丙・甲)
 甲申(己・壬・庚)⇔壬寅(己・丙・甲)
  午未=空亡  大運甲子(壬・ ・癸)
 ↓↑
 I WILL ALWAYS LOVE YOU
  島津亜矢
 https://www.youtube.com/watch?v=LIup4t-fRx4
ーー↓↑ーー
 「イエロー・バード」
 作家ケビン・パワーズの
 デビュー作
 ↓↑
 ポルシェ
 「イエロー・バード」
 ↓↑
 ザ・ピーナッツ
 「イエローバード」
 ↓↑
 イエロー・バード
 作詞:Keith Bergman
 訳詞:音羽たかし
 作曲:N.Luboff
 ↓↑
 Brothers Four
 Yellow bird (1960) 黃鸝鳥
 ↓↑ 
 Yellowbird(1957)
 James Randall
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 The Brothers Four - Yellow Bird
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 History of Yellow Bird
 Harry Belafonte, Lawrence
ーーーーー
 レオン・・・レオン
     仏: Léon [leɔ̃]
     西: León [leˈon]
     英、独: Leon 英語: [ˈliːɔn, ˈliːən]
     ドイツ語: [ˈleːɔn])
     男性の名前
     ゲルマン語=「雷」
     ギリシア語・ラテン語=「ライオン」
 Léon
 The Professional
 監督  リュック・ベッソン
 脚本  リュック・ベッソン
 製作  パトリス・ルドゥー
 出演者 ジャン・レノ
     ナタリー・ポートマン
     ゲイリー・オールドマン
 音楽  エリック・セラ
 撮影  ティエリー・アルボガスト
 編集  シルヴィ・ランドラ
 上映時間110分(劇場版)
     133分(完全版)
ーーーーー
 https://www.youtube.com/watch?v=_r2M16hAf4s
ーー↓↑ーーー
 ロバート・
 ニコラス・
 バード中尉(23歳)
 ↓↑
 鎌倉事件
 元治元年・・・
   元治元年=元字願(眼・磐・岩)念?
 十月二十二日
   ・・・・拾解通弐拾弐似知
 (1864年11月21日)
 相模国
 鎌倉郡
 大町村(神奈川県鎌倉市御成町)
 イギリス人士官2名が
 日本武士に斬殺
 ↓↑
 イギリス人士官の殺害
 横浜駐留中の
 イギリス陸軍
 第20連隊
 第2大隊所属の
 ジョージ・ウォルター・ボールドゥィン少佐(34歳)
 ロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)
 は騎馬で江ノ島~鎌倉を巡遊
 2人が
 大仏の見物を終え
 金沢方面に向かう途中
 昼七つ時(午後3~4時)頃
 若宮大路近くの路上(御成町4丁目付近)
 で2人の武士に斬りつけられた
 ↓↑
 ボールドゥィン少佐は
 四肢に深傷を受け
 脇腹から背中にかけての傷が致命傷で即死
 ↓↑
 バード中尉は
 右腕と左膝、首などに重傷
 現場近くの民家に運ばれ
 地元の医師による治療を受けたが
 夜暮れ四つ(午後10時)頃死亡
 ↓↑
 生麦事件
 や
 井土ヶ谷事件
 などの外国人殺傷事件が続発
 犯人未逮捕のまま
 ↓↑
 白昼公然とイギリス人士官2名が惨殺
 横浜居留地の外国人社会に強い衝撃
 ↓↑
 イギリスの駐日公使
 ラザフォード・オールコックは
 四国艦隊下関砲撃事件の事後処理のため
 帰国予定である自身の出発までに
 犯人の逮捕と処罰を求める強硬な要求
 これに応じて
 老中水野忠精らが
 オールコックら各国公使に対し
 イギリス公使の出発までに
 事件を解決する事を書面で確約
 ↓↑
 犯人は
 2人組の若い武士と判明
 蒲池源八
 稲葉紐次郎
 の処刑
 清水清次
 の捕縛
 相模国
 高座郡
 羽鳥村(神奈川県藤沢市羽鳥)
 で起こった強盗事件の犯人として
 神奈川奉行所に召し捕られた
 自称浪人の無宿
 蒲池源八(26歳)
 稲葉紐次郎(23歳)
 を取り調べた際
 彼らの首領で逃亡中の浪人
 清水清次(25歳)が
 イギリス人殺害事件の犯人であるとの供述
 オールコックは
 同種の事件の再発を防止するため
 見せしめとして2人を獄門に処し
 その罪状を公布
 処刑に際し
 駐留イギリス軍の士官を
 立ち合わせる事を求めた
 ↓↑
 幕府側は
 2人の処刑は
 日本の法律に従って行うとして通常の死罪
 牢内での斬首のみ
 刑に際して
 イギリス軍士官の立ち合い
 横浜市中の各所に
 罪状書の掲示を認めた
 ↓↑
 蒲池と稲葉は
 10月18日(12月16日)
 強盗およびイギリス人士官殺害事件の連累
 被害者が所属の
 第20連隊の士官や
 イギリス公使館員、
 外国人多数の立ち合いのもと
 戸部の牢屋敷において死罪に処せられた
 処刑の翌日
 千住の遊廓に潜伏中の
 清水を捕縛
 十一月二十五日(12月23日)
 に清水は供述
 高橋藤次郎なる人物と意気投合
 2人で
 八幡宮門前近くで待ち伏せして
 イギリス人を殺害
 犯行後は高橋と別れて江戸に逃れ
 蒲池、稲葉と出会い
 3人で京に上るための費用として
 羽鳥村の富農から金150両を脅し取った
 ↓↑
 横浜で清水の処刑の段取りについて
 幕府とイギリス側の協議
 処刑は横浜で行われる事
 鎌倉を始めとする
 外国人遊歩区域の各所
 に罪状書を掲示
 十一月三十日(12月28日)
 清水は
 戸部の鞍止坂刑場にて
 外国人や日本人の見守るなか斬首
 首は吉田橋に晒された
 第20連隊所属の通訳官
 ラクラン・フレッチャー
 らによれば
 清水の態度は非常に快活で堂々とし
 引き回しの際には見物の群衆に向かって
 自分はかって
 水戸では高名な役人であり
 その遺体は故郷の
 水戸に手厚く葬られるだろうなどと
 語って役人に制止され
 また辞世と思われる和歌や詩吟などを
 大声で口ずさんでいた・・・
 帰国を延期していた
 オールコックは
 清水の取り調べの完了とともに
 代理公使を務める
 チャールズ・A・ウィンチェスター横浜領事に
 後事を託し
 十一月二十七日(12月25日)に横浜を出港
 ↓↑
 清水清次
 青森出身の浪人や
 肥後藩の元足軽、
 一橋慶喜の家来・・・
 フレッチャーも
 清水には
 水戸または
 常陸の訛りがあったと証言
 明治政府が編纂した
 「続通信全覧」に収録された風説書
 身元について
 「細川玄蕃頭(常陸谷田部藩主細川興貫)
  元家来
  清水清次」
 と記されている
 間宮一の捕縛
 供述を裏付ける証拠も得
 幕府は間宮を犯人と断定
 九月十一日(10月30日)
 鞍止坂刑場で処刑
 吉田橋にて梟首
 ↓↑
 真犯人の
 間宮一(はじめ)が自首し
 幕府は大いに困惑
 やむを得ず逮捕するが
 間宮一は共犯者である
 井田普之助の名前も出す
 井田普之助のゆくえは不明
 幕府は
 蒲池源八、稲笹丑之助、清水清次郎
 が冤罪であったことを隠すため
 間宮一
 一名のみを秘密裏に処刑
 井田普之助は後日別件で逮捕・処刑した
 ↓↑
 間宮の供述によって
 姫路藩主
 酒井忠績の元家来で
 旗本
 根来五左衛門に仕える
 飯田(井田)晋之介という人物が共犯者
 ↓↑
 慶応二年二月二十五日(1866年4月9日)
 イギリス政府は
 間宮一の処刑について満足
 事件は落着
 ↓↑
 アーネスト・サトウの記録中
 特に一章を設けて
 「ボールドウィン
  と
  バードの殺害」
 が詳しく記録
 明治政府からは発禁扱い
 戦後になるまで翻訳が公刊されず
 現在は岩波文庫で坂田精一訳を利用できる・・・
 この事件の一部始終は
 横浜居留地に住んだ
 イラストレイテッド・
 ロンドン・ニュースの
 特派員記者
 チャールズ・ワーグマンの
 イラストで残っている
 ↓↑
 「鳶の小亀事件(フランス水兵殺害事件)」
 慶応二年(1866)二月
 酒に酔った
 ふたりのフランス人水兵が
 太田町7、8丁目から
 埋め埋めて地の
 坂下町を騒いで歩き
 遊廓に入り娘を強姦しようとしたところ
 かけつけてきた
 鳶の小亀が
 持っていた鳶口で
 水兵ひとりを殺害した事件
 小亀の引き回しの日に
 沿道に横浜の芸者、 鳶職たちが総出で繰り出し
 木遺音頭を唄い
 小亀の冥土への花道を飾った・・・
ーー↓↑ーーー
http://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2018/05/01/%E3%80%8C%E7%8F%BE%E5%AD%98%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98%E4%BA%BA%E3%83%BB%E3%80%8C%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%80%8D%E3%83%BB1%E3%83%BB55

http://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2018/05/01/%E3%80%8C%E7%8F%BE%E5%AD%98%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98%E4%BA%BA%E3%83%BB%E3%80%8C%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%80%8D%E3%83%BB3%E3%83%BB55y-%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%83%81%E3%80%81%E3%80%8C%E7%8F%BE%E5%AD%98%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%81%AF

 「現存・古事記」と江戸時代の知識人
 「蛮社のコジキ」・(3)・(55y)
  スナワチ、「現存・古事記」は

 「1999年7月7日水曜日」の「中日新聞・夕刊・E版」の記事には「【ロンドン7日共同】幕末の鎌倉で(じょうい)浪人に殺された英国軍人の署名がある英和事典がこのほど、ロンドンの古書市場で見つかった。日英交渉史を研究している恒松郁生『ロンドン漱石記念館』館長が競売で入手した。」とある。この辞書の内側のページには「英国歩兵第二十連隊バード中尉、1864年8月13日」と書き込みがあるらしい。右から

 「安政四年稟准」、
 「井上修理校正」、
 「英語箋」、
 「一名 米語箋」、
 「村上英俊閲」

 と印刷されている。そして、英語で、

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・AN ・
  ・EINGLISH AND JAPANESE ・
  ・AND ・
  ・JAPANESE AND EINGLISH ・
  ・VOCABULARY ・
  ・COMPILED PROMANTIVE WORKS・
  ・BY ・
  ・W,H.MEDHCRST ・
  ・ ・
  ・BATAVIA ・
  ・PRINTED BY LITHOGRAPNY ・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 と印刷されている。ちなみにこの「バード中尉」は「1864年(元治元年)」の「十一月二十一日」に「鶴岡八幡宮前」で事件にあって死亡したらしいのだ。外国人が絡んでくる事件は「1792年」の「北方の海」からであった。

 ・・・「幕藩体制」の政治的動揺は「海(うみ・わた・あま・カイ)」からの「外圧(解亜柘)」である。1789年(寛政一年)5月には「クナシリ島」で「蝦夷・アイヌの倭人に対する叛乱」が起こった。そして「二丸不正貸付金問題」で「奥女中の多数」が処罰されたのだ。1792年(寛政四年)五月の「林友直(子平)」の「海国兵談」に対する「禁固」はその前兆であった。

 1792年(寛政四年)・・・6月安房嶺岡牧場で「白牛酪」の製造
 ↓ 9月ロシア使節ラクスマンが「大黒屋光大夫」
 ↓             を送って根室にくる。
 ↓
 1803年・・・7月アメリカ船「ナガサキ」が長崎に入港
 1804年・・・ロシア使節「レザノフ」が長崎に入港
 1809年・・・~1814年まで
         「ナポレオン戦争」によりオランダ船入港
         中絶。
 1811年・・・6月ロシア艦長「ゴロウニン」を捕虜とする
 1813年・・・「尾藤二州(約山)」の死没。
 1814年・・・6月イギリス船「シャーロット号」が長崎に入港
 1815年・・・2月千姫150回忌法会を伝通院で、
           家嗣百回忌法会を増上寺で行う。
         4月家康二百回忌法会を日光山で行う。
         4月「塙(はなわ)保己一」、家斉に謁見。
           「杉田玄白」の「蘭学事始」。
         5月阿蘇山噴火
           盛岡南部藩で一揆・
         7月朝鮮飢饉

 1816年・・・4~8月疫病流行・
 1823年・・・7月プロシャ人「シーボルト」の来朝
 1823年・・・「シーボルト」が長崎で「鳴滝塾」を開塾
 1829年・・・10月「シーボルト事件」
            「天文方」の「高橋景保」が連座
 1837年・・・2月「大塩平八郎の乱」
 1838年・・・10月「高野長英」の「夢物語」
 1839年・・・・・「蛮社の獄(蛮舎の獄)」
         5月
         「高野長英」、「渡部登(華山)」等が逮捕
         「小関三英」自殺
 1849年・・・6月「佐賀藩医・楢林宗建」が
         「蘭法」で「種痘」をする
          佐賀藩主「鍋島斉正」が全藩内に実施させる
         12月「佐倉藩」も「種痘」実施の奨励
 1850年・・・10月『高野長英』が暗殺(撲殺)
 1858年・・・2月「江戸・案針」橋より出火
         5月「伊東玄朴」ら「神田お玉ヶ池」に
         「種痘所」を設置
         8~9月江戸「コレラ病(暴瀉病)」で
          死者二万八千人余
         十一月
         「塙(はなわ)次郎(塙保己一の子ども)」を
         「小十人格」とする
         「亜」とは「次」で
         「亜相」は「大納言・御史大夫」
         「亜流」とは同類の系統。模倣者である
         「亜=亞」
 1861年・・・12月「遣欧使節」として
         「竹内保徳」、「松平康直」らが
          イギリス軍艦「オージン号」で品川を出発
 1862年・・・3月「竹内保徳」が「ナポレオン三世」に謁見
         4月「麻疹」が流行
         7月「竹内保徳」等が
         ロシア皇帝「アレクサンドル二世」に謁見
         9月オランダに
         「榎本武楊」、
         「津田真道」、
         「西周(あまね)」等を派遣
 1862年・・・「塙次郎」が「廃帝史実」の調査の疑いで暗殺
 1863年・・・12月「鎖港談判交渉」に「池田長発」等34名を
         「フランス」に派遣
         「池田筑後守」「川津伊豆守」「河田相模守」
         「田辺太一」「田中廉太郎」「西吉十郎」
         「斎籐次郎太郎」「須藤時一郎」
         「塩田三郎」「谷津勘四郎」「堀江六五郎」
         「益田鷹之助」
         「杉浦愛蔵」「横山敬一」「矢野次郎兵衛」
         「松濤権之丞」「尺振八」「益田進」
         「山内六三郎」「原田吾一」「小泉保右エ門」
         「大関半之助」「金上佐助」「岩松太郎」
         「別所三郎」
         「高橋留三郎」「玉木三弥」「菅波恒」「三宅復一」
         「名倉予何人」・・・「奥州棚倉藩士」
         「森田弥助」「浦本時蔵」
         「乙骨亘」「青木梅蔵」等
         (ココに記した人名は「小学館発行」、
          「鈴木明」氏の
          著作「維新前夜」から抜粋したモノ)
 1866年・・・10月25日幕府師弟「英国留学生12名」出発
        学生取締役は
       「川路太郎」、「中村敬輔」
        留学生は
       「箕作大六」「箕作奎吾」「市川森三郎」
       「林重三郎」「杉徳次郎」「成瀬錠五郎」
       「外山捨八」「億川一郎」「福沢英之助」
       「伊東昌之助」「安井真八郎」「岩佐源二」等
       (ココに記した人名は「新人物往来社発行」
        「宮永孝」氏の著作
        「慶応二年幕府イギリス留学生」から抜粋)

 ・・・「鎖国」は「倭人種」を延命させる「一つの方法」であるカモ。「経済」、「政治」、「地理」に於て「鎖国」は「betterの方策」であるカモ(?)。「国の領海の際(きわ)」から孤立、独立し、延命させるのだ・・・
 もう、充分に「腐るほどモノ」はある。リサイクルも出来る。他国に賣るモノ(商品)は必要ない。
 ないのは「エネルギー」と「原材料」、「食料」等だ、と、「日本人種の延命思想」であるらしいが、コレラのモノは総て日本国内に「豊富に存在」する・・・
 「富の配分」さえきっかり出来れば「飢餓」で死ぬヒトなどはイナイのだ・・・もちろん「地球規模」でもそうである・・・
ーーーーー
 ・・・???

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君子豹変=クンシヒョウヘン=訓詞剽変

2018-05-11 20:28:40 | 古事記字源

 ・・・「君子豹変=クンシヒョウヘン=訓詞剽変」・・・?・・・「姉小路公知の豹変」・・・ナンで、「アネの公示の狡知」?・・・「巧遅は拙速に如(し)かず」・・・
 コウチ=狡智・巧知・巧緻
     高知・高地・高置・高値・・・高麗・高句麗からの帰化
     芸西・・・高知県安芸郡芸西村・本地域を構成する主な
          岩石群は、枕状溶岩・赤色チャート・多色凝灰岩
          剪断された泥岩からなり、これらの岩石群が
          ブロック状に入り混じって複雑な構造を呈し
          メランジュ(混在岩)帯と呼ばれている
          芸西(小惑星)=芸西(2571 Geisei)は
                 1981年10月23日
                 関勉が
                 高知県芸西村で発見した小惑星
     拘置
     河内・川内・荒地・鴻池
     耕地・好地・交地
     甲地・・・・・・・・・・・・甲府・甲斐・山梨
                      カイ=蝦夷
     幸地
     古内
     後置・構築・・・?
 ・・・高知県=土佐・・・
ーーーー↓↑ー
    土佐藩
 戦国時代末期は
 長宗我部氏・・・長曽我部・ 長曾我部とも
 ↓↑      本姓は秦氏
         家紋は「七つ酢漿草(かたばみ・片喰・鳩酢草)」
         長宗我部盛親は
         慶長十九年(1614年)~同慶長二十年(1615年)の
        「大坂の陣」で豊臣方に与し、豊臣方が敗れ
         盛親、盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた
         長宗我部国親の四男・親房が
        「島(島親益)」氏を名乗り、その子孫である
        「島親典」が土佐藩に下級藩士として仕えた
         再び長宗我部を名乗ったのは明治維新後・・・?
         ・・・「島大臣」は「蘇我蝦夷」だが・・・
         元親の三女で佐竹親直に嫁いだ
 ↓↑     「阿古姫」は大坂の陣で
         伊達政宗に捕えられ助命され二人の息子と共に
         仙台藩に仕えた・・・
         阿古姫は伊達家の侍女として中将と称し
         教養豊かで弁が立ったため政宗ので近侍を務めた
         息子二人も小姓とし
         二男の輪丸(賀江忠次郎)は
         のちに重臣
         四保柴田氏を継いで・・・四保?
         柴田朝意と名乗った・・・朝意?
         朝意は
         奉行職(家老に相当)を務めた
         寛文十一年(1671年)・・・寛文十一年
                    カンブン拾壹(壱)撚?
         伊達騒動の際に
         (寛文事件とも)
         酒井忠清邸で
        「原田宗輔(原田甲斐)・・・甲斐?
         元和五年・1619年
           ~
         寛文十一年三月二十七日
         1671年5月6日)」
         は
         江戸の
         酒井雅楽頭邸で
         行われた評定の席で
         上訴の主である
         伊達安芸(伊達宗重)・・・安芸?
         を斬り殺し
         柴田朝意・・・・・・・・・朝意?
 ↓↑      と斬り合って死亡」・・・・?
 が統治
 長宗我部盛親が
 慶長五年(1600年)
 「関ヶ原の戦い」
 でにおいて西軍に与して改易
 徳川に与した
 遠江掛川城主
 山内一豊が
 土佐国20万2600石を与えられ
 明治時代初頭まで
 山内氏が治めた
 ↓↑
 「一領具足(戦国時代,土佐国(高知県)
       長宗我部氏によって行われた農兵制度
       のちには土佐藩郷士の別名
       兵農未分離の地侍)」
  と呼ばれた長宗我部氏旧臣が、山内氏に馴染まず
  反乱を繰り返したため
  山内氏は
  藩内の要衝に
  重臣を配して反乱に備えた
  中村の山内康豊(2万石)
  佐川に深尾重良(1万石)
  宿毛に山内可氏(7000石)
  窪川に山内一吉(5000石)
  本山に山内一照(1300石)
  安芸に五藤為重(1100石)
  を配し
  藩政の中枢を
  山内家家臣(上士)で独占し
  長宗我部氏旧臣(郷士)との
  二重構造を幕末まで続けた
 ↓↑
 一豊は
 長宗我部氏(浦戸藩)の旧城である
 浦戸城に入城
 城下町には狭かく
 高知城と城下町の建設
 藩政が確立した
 二代・山内忠義の時代
 野中兼山を登用し
 新田開発、殖産興業に努めたが
 兼山は政敵の恨みを買って失脚
 ↓↑
 宝暦期(1751年~1764年)以降
 一揆、農民の他領への逃散
 九代・山内豊雍
 による質素倹約、藩政改革(天明の改革)
 十三代・山内豊熈は
 「おこぜ組」と呼ばれる
 馬淵嘉平
 の改革派を起用、藩政改革
 失敗した
 十五代豊信(容堂)が
 吉田東洋を起用し改革断行
 東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い
 武市瑞山の
 土佐勤王党によって暗殺
 後
 勤王党は
 容堂(豊信)の報復を受け
 瑞山の切腹や党員の処刑、弾圧解散
 東洋の門下より
 後藤象二郎
 板垣退助
 岩崎弥太郎
 らを
 郷士の
 坂本龍馬
 中岡慎太郎
 などが輩出
 坂本
 後藤を通じ
 容堂から
 十五代将軍・徳川慶喜へ献策され
 大政奉還
 (慶応三年十月十四日(1867年11月9 日)
 江戸幕府第十五代将軍
 徳川慶喜
 が政権返上を
 明治天皇に奏上
 翌十五日に天皇が奏上を勅許)
ーー↓↑ーー
 ヒョウヘン=豹変・氷片・平辺・病変・別府弁
       平編銅線(平編線・平編組線・TBC)⇔評編同撰?
    ↓↑
  朔 平 門 外 の変・・・・サク 平 文外の変?
 (さくへいもんがいのへん)
 文久三年五月二十日
 (1863年7月5日)
 尊王攘夷を唱える過激派公家
 姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が
 禁裏朔平門外の
 猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺
 猿ヶ辻の変
 ↓↑
 姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)
 天保十年十二月五日(1840年1月9日)
 ~
 文久三年五月二十日(1863年7月5日)
 ↓↑
  姉小路公知の
  養子に
  姉小路公義
 (万里小路博房 男、次代)
 (までのこうじ ひろふさ
  文政七年六月二十五日(1824年7月21日)
  ~
  明治十七年(1884年)二月二十二日)
  江戸時代後期の公卿
  万里小路正房の子
  明治元年(1868年)
  従三位・権中納言に叙任
  後は
  京都裁判所総督
  宮内大輔
  皇太后宮大夫
  などを務め
  明治十七年(1884年)
  六十一歳で死去
  博房の死去から約5か月後の7月7日
  子の通房に伯爵が叙爵された
  妻は
  森長義の娘・貞子
  子に
  万里小路通房など
 ↓↑
 事件二日後の二十二日
 薩摩藩邸に潜伏していた
 土佐浪士の
 那須信吾が姉小路邸を訪れ
 遺棄された刀が
 薩摩藩士
 田中新兵衛のものであると証言
 これを受けて姉小路家は
 京都守護職・町奉行に対し
 田中を犯人として告訴
 二十六日
 武家伝奏
 坊城俊克
 三条実美
 の依頼により
 京都守護職の会津藩は
 東洞院蛸薬師の田中の寓居を急襲
 田中新兵衛
 仁礼源之丞
 下僕の太郎を逮捕
 坊城邸へ連行
 しかし会津藩は京都守護職の職掌上
 容疑者の逮捕までは行ったが
 薩摩藩との関係悪化を恐れ
 拘留・取調は拒否・・・
 ↓↑
 文久三年八月十八日
 1863年9月30日
 八月十八日の政変
 会津藩・薩摩藩
 を中心とした
 公武合体派が
 長州藩を主とする
 尊皇攘夷派と急進派公卿を
 京都から追放した事件
 文久の政変
 堺町門の変とも
 ↓↑
 文久三年(1863年)朝廷内において
 三条実美
 姉小路公知
 ら急進派が朝議を左右
 二月に
 国事参政と
 国事寄人の
 二職が設けられ
 急進派が登用され実権を握った
 学習院では
 草莽の者でも時事を建言できることとなり
 これに出仕する尊攘派の
 真木和泉(久留米藩士)
 久坂玄瑞(長州藩士)
 らが朝廷に影響力を持つ
 二月
 足利三代木像梟首事件
 三月から四月
 天皇の攘夷祈願のため
 賀茂・石清水行幸
 五月十日・・・5/10
 攘夷決行の日と
 参内した将軍
 徳川家茂に約束させた
 五月十日・・・5/10
 長州藩は
 下関海峡で
 アメリカ商船を砲撃し
 長州藩が欧米艦隊から報復攻撃
 将軍家茂も
 六月には京を離れ江戸に帰った
 長州藩の窮状を
 天皇による
攘夷親征の実行(大和行幸)が
 尊攘急進派によって企てられ
 天皇が大和国の
 神武天皇陵・春日大社に
 行幸して親征の軍議をなし
 次いで
 伊勢神宮に行幸するというものであった
 この行幸に関し
 真木らは討幕の実行まで視野に入れていた・・・
 ↓↑
 八月四日の朝議
 長州藩の攘夷砲撃に非協力的であった
 小倉藩の処分を幕府の頭越しに決定したが
 池田慶徳(鳥取藩主)らが強く反発
 池田らは
 大和行幸に反対するため参内し
 天皇への直接面会を要求し
 取り次いだ
 議奏らを驚愕させた
 ↓↑
 孝明天皇
 熱心な攘夷主義者ではあったものの
 急進派の横暴を快く思っておらず
 攘夷の実施についても
 幕府や諸藩が行うべきものと考えていた
 天皇は
 三条らを排除するため
 島津久光らに期待
 薩英戦争 薩英戦争
 ↓↑  (文久三年旧暦七月二日~四日
      1863年8月15日~17日)
      文久二年旧暦八月二十一日(1862年9月14日)
      武蔵国橘樹郡生麦村で発生した
      生麦事件の解決と補償を
      英国艦隊を背景に迫り
      攘夷実行の名目のもと
      兵制の近代化の実力で阻止しようとする
      薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突
 ↓↑   ↓↑
      生麦事件
      文久二年八月二十一日(1862年9月14日)
      武蔵国
      橘樹郡
      生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で
      薩摩藩主
      島津茂久(忠義)の父
      島津久光の行列に乱入した
      騎馬のイギリス人たちを
      供回りの藩士たちが
      殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件
      この事件の処理は政治問題となり
      薩英戦争(文久三年七月)が起こった
 ↓↑
 を背景に
 久光の上京は難航
 ↓↑
 大和行幸の詔
 八月十三日に発せられ
 前後して
 会津藩
 と
 薩摩藩を中心とした公武合体派は
 中川宮朝彦親王を擁して
 朝廷における
 尊攘派を一掃する計画を画策
 八月十五日
 松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと
 高崎正風(薩摩)
 秋月悌次郎(会津)が
 中川宮を訪れて計画を告げ
 翌十六日に
 中川宮が参内して天皇を説得
 翌十七日に
 天皇から
 中川宮に密命が下った
 ↓↑
 会津藩は兵1500名を動員
 薩摩藩兵は150名
 他に
 藩主稲葉正邦が京都所司代であった淀藩
 徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩
 ら諸藩が政変に協力
 ↓↑
 文久三年八月十八日午前一時頃
 中川宮
 松平容保
 近衛忠熙(前関白)
 二条斉敬(右大臣)
 近衛忠房父子
 らが参内
 早朝4時頃
 会津・薩摩・淀藩兵により
 御所九門の警備配置が完了
 在京の諸藩主にも参内を命じるとともに
 三条ら尊攘急進派公家に
 禁足と他人面会の禁止を命じ
 国事参政、国事寄人の二職が廃止
 八時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内
 諸藩兵がさらに九門を固めた
 ↓↑
 朝議によって
 大和行幸の延期
 尊攘派公家
 長州藩主
 毛利敬親・定広父子の処罰等を決議
 長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ
 京都を追われる
 十九日
 長州藩兵千余人は失脚した
 三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧
 壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉
 の公家7人とともに
 妙法院から長州へと下った(七卿落ち)
 ↓↑
 変後、孝明天皇は
 「去十八日以後申出儀者真実之朕存意」
 としてこれまでの勅命を自ら否定
 ↓↑
 政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮
 十月
 島津久光が大兵を率いて入京
 松平慶永・山内豊信ら
 公武合体派大名がこれに続き
 翌文久四年一月にかけ
 久光・慶永・豊信・松平容保
 一橋慶喜・伊達宗城
 による参預会議が成立
 朝廷内で
 鷹司輔煕が関白を罷免
 親幕的な
 二条斉敬がこれに代わった
 長州藩は
 同年6月の
 池田屋事件をきっかけに
 京都へ出兵
 禁門の変(7月)で
 会津・薩摩らと戦火を交えた
ーー↓↑ーー
 豹変
 「易経」の
 「君子豹変す、
  小人は面を革(あらた)む」
 豹の斑文がくっきりしているように
 君子ははっきりと過ちを改める
 人の態度や性行ががらりと変わること
 よいほうへ変わるの意
 「易経革卦」
 「豹の毛が季節によって抜けかわり
  斑紋も美しくなること」
 から性質・主張などが急激に変化すること
 それまでの性質や状態とは
 大きな変化を見せる
 大きく変化する
 様変わりする
 一変する
 変わり果てる
 激しく変わる
 激変する
 激動の
 大きく様変わる
 激しく変動する
 変貌を遂げる
 劇的に変化する
 打って変わる
 がらりと変わる
 それまでの言動と逆のことを急に行うこと・・・言行不一致
 手の平(ひら)を翻す
ーーーーー
 ・・・???・・・

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皿嘗めた猫が科を負う、って?

2018-05-08 20:18:52 | 古事記字源

 ・・・「嘗=過去の経験を表す助字」・・・ナめルな・・・「舌、口に触れる・侮る事・物を舌で触れる事・馬鹿にする、みくびるコト」・・・「ナメル(ヘブライ語 Nammer)は、イスラエル・エアロスペース・ インダストリーズが開発した試作戦闘機」、「ナメル=ナメル(Namer, ヘブライ語)は、メルカバ戦車の車体を基礎としたイスラエルの装甲兵員輸送車・イスラエル国防軍武器科によって開発、製造・2008 年夏以降、本車は少数がイスラエル国防軍に就役・ナメルとは「ヒョウ」の意味で、Nagmash(APC)、Merkavaの綴りの略語」・・・

 「エナメル(enamel)=陶磁器の釉薬・エナメル(enamel)=塗料の一。エナメルペインと、ラッカーエナメル・金属・陶器・ガラス器などの表面に焼きつけるガラス質の塗料・琺瑯 (ホウロウ)・ エナメル革」・・・
 「いなめる=否むに可能などを表す、ル・レルが付いた形・否めない、と否定形で用い、否認することができない、肯定せざるを得ない、断ることができない、否定できない、などの意味」・・・
 「要(かなめ)=物事の最も大切な部分・要点・肝心要・扇の骨をとじ合わせるために、その末端に近い部分に穴をあけてはめ込む釘・蟹(かに)の目・要黐(かなめもち)の略」・・・・
 「つなめ=綱目・綱にできた結び目・・・つなみ(津波)?」・・・
ーーーーー
 嘗=龸+口+旨・・・龸=はばへん・つち・て=小+冖
 嘗=尚+旨・・・・尚=たっとぶ・とうとぶ・なお・重んじる
           尚古・尚歯・尚武・好尚・・・尚歯会
          なお=猶・尚・・・猶太・・・以色列
            以前の状態がそのまま続いているさま
            相変わらず・やはり・まだ
            状態や程度がいちだんと進むさま
            さらに・もっと・いっそう
            現にある物事に
            付け加えるべきものがあるさま
            あとに「ごとし」を伴って
            ちょうど・あたかも
 嘗=⺌+冖+口+旨
 嘗=龸+口+匕+日
 嘗=⺌+冖+口+匕+日
 嘗=ショウ(シャウ)・ジョウ(ジャウ)
   なめる=舐(千口氏)める・甞(尚甘)める
   かつて
   味をみる
   臥薪嘗胆
   試してみる
   嘗試
   秋、新穀を神に供える祭
   大嘗祭
 嘗=なめる・あじわう・嘗味・嘗胆
   こころみる・ためす・嘗試
   かつて
   過去の経験を表す助字
   新しくとれた穀物を神に供える祭り・新嘗祭
   神嘗(かんなめ・シンショウ)
   新嘗(にいなめ・シンショウ)
   嘗て(かつて)
   嘗試(ショウシ) ・嘗胆(ショウタン)
   嘗(な)める
   嘗=尚+旨
   異体字、尝(簡体字)
       甞(別字)
   臥薪嘗胆
   嘗の隠語=「おすのタカ・弟鷹(だい)」?
         兄鷹(しょう)=雄のタカ
         雄よりも
         大きい雌のタカを
         弟鷹 (だい) というのに対する
          鷹=たか・オウ・ヨウ・hawka falcon
            ワシ(鷲・Eagle)
            タカ(鷹・Hawk)
     鷲=わし・シュウ・ジュ
       ⇔嘗=ショウ(シャウ)・ジョウ(ジャウ)
   嘗の名のり「ふる」
   大嘗 (おおにえ) の祭
   神嘗祭 (かんなめさい)
   新嘗祭 (にいなめさい)
 ↓↑
 嘗=龸+口+旨
 嘗=⺌+冖+口+旨
 嘗=龸+口+匕+日
 嘗=⺌+冖+口+匕+日
   なめる・舌で味わう
   こころみる・ためす
   かつて・過去・以前
   その年に
新しく収穫した穀物を
神に供える秋の祭り
 ↓↑
 皿嘗めた猫が科を負う
 さらナメたネコがトガをおう
 悪事をはたらいた主犯が罪を逃れ
 悪事に少しだけ関係した小者が罰せられるたとえ
 皿の上の魚を食べた猫はとっくに逃げ
 そのあと
 皿を嘗めただけの猫が罪を着せられる
 類語
 米食った犬が叩かれず
 糠食った犬が叩かれる
 ↓↑
 塩を売っても手を嘗めろ
 シオをうってもテをナメめろ
 塩を売る商人が、
 手に付いた塩も無駄にせず嘗めるように
 細かな事にも注意し
 無駄のないように気をつけよ、という戒め
 ↓↑
 辛酸を嘗める
 シンサンをナメる
 辛く苦しい目に遭うこと
 「辛酸」は、辛い目や苦しい思いのこと
 ↓↑
 ちょっと嘗めたが身の詰まり
 ちょっとナメたがミのツマり
 ほんのちょっとだけ、と
 軽い気持ちで手を出したため
 どうにもならない
 窮地に追い込まれること
 ↓↑

 嘗女(なめおんな)
 江戸時代の絵本読本
 『絵本小夜時雨』五之目録にある奇談
 「阿州(阿波国・徳島県)の奇女」
 に登場する怪女
 「猫娘」、・・・ビョウジョウ?
 天保元年(1830年)の
 狂歌本『狂歌百鬼夜興』には
 「舐め女(なめおんな)」
 の名
 阿州(阿波国・徳島県)
 蜂須賀家政が
 阿波に封ぜられ
 蜂須賀氏は改易されることなく
 江戸時代を通じて
 阿波国徳島藩・富田藩(徳島藩支藩)
 および
 淡路国の国主として
 阿波・淡路の
 二国を治めた
 国府は
 名方郡
 徳島市国府町と推定
ーーーーー
 ???・・・なめるなョナッ・・・???・・・

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戦友・・・岸壁の母・・・ヨイトマケの唄

2018-05-07 23:42:22 | 古事記字源

 ・・・前回、貼り付けたモノの漢字「鄧=登+阝」が「蠟=虫+巤」に文字化けていた・・・蠟=ワックス(wax)=蜡・蝋・・・何を唄っても上手い歌手って、本当に「天才」・・・「星」も「理論」どうりに出ているのが不思議に思う・・・
ーー↓↑ーー
 島津・亜矢
 ↓↑
 岸壁の母
 旅愁
 麗人抄
 マイ・ウェイ
 島津亜矢/布施明
 Unchained・Melody
 出世坂(16歳)
 青い珊瑚礁
 裏町酒場
 逢いたくていま(MISIA)
 糸
 ヒーロー
 あなたに逢いたくて~Missing・You~
 Mary・Jane
 望郷じょんから
 さくら
 飾りじゃないのよ涙は
 哀愁列車
 I・Will・Always・Love・You
 ヨイトマケの唄
 浪曲子守唄
 ジェラシー
 飾りじゃないのよ涙は
 恋人よ
 勝手にしやがれ
 戦友
 都会の雀
 兄弟仁義
 おてもやん
 黒田節
 人生劇場
 古城
 桃色鴉
 温故知新
 大器晩成
 ↓↑
ーーーーー
 「卑湛」?・・・ナゼ、名前が「卑湛」なんだか?
 『三国志』
 巻十七・張郃伝・・・ナゼ、
          「巻(カン)十七・張の郃」の傅なんだか?
 ↓↑             重漆・葉瑠の合の阝(邑・ユウ)
 張郃は・・・郃=合+阝(邑)・・・張政=調整
 武将でありながら
 儒学を愛好し
 同郷の儒学者である
 「卑湛」・・・湛=たたえる・タン・チン
          しずむ・たたへる
     (氵=サン隋)+甚=はなはだ)卑しい
         纂隋、 甚だ賎しい???
      卑湛=卑弥呼をミズに沈ませる?
         卑弥呼を神代にタタエル?
      ・・・道教の儒学者が「卑湛(ヒタン・悲嘆)」?
 を推挙し、詔で称えらえた
 「張郃
  雖
  武將
  而
  愛樂儒士
  嘗薦同鄉
  (卑)湛
  經明行修・・・九年(1076)三月甲戌(十九日)
 ↓↑      進士の策問に律義と断案を試験
         哲宗の
         元祐元年(1086)
         夏四月辛亥(二十四日)
         司馬光が
 ↓↑      経明行修科を設けるよう訴えた
   「經の明行を修」・・・經は明王朝の行(瓊)を修
      明王朝(1368年~1644年)
      朱元璋が元を逐って建国
      元末の天暦元年(1328年)
      濠州の
      鐘離(安徽省鳳陽県)の
      貧農の末子として生まれた
      飢饉・凶作が頻発し
      家族は飢え死にし
      彼(朱元璋)は托鉢僧とし流浪し
 ↓↑   コジキ(乞食)をしながら生き延び
      その後
      至正十一年(1351年)
      白蓮教徒が各地で反乱
      紅巾の乱が勃発
      朱重八(朱元璋)は
      系紅巾軍の一派
      郭子興
      の旗下で頭角を現し
      養女の
      馬氏(馬皇后)を妻に貰った
 ↓↑   ↓↑
      洪武帝(コウブテイ)
      朱重八(シュジュウハチ)
      朱興宗(シュコウソウ)
      紅 巾(コウキン)軍に参加し
      朱元璋(シュゲンショウ)と改名
      字を
      国 瑞(コクズイ)
      ↓↑
   ・・・經を明(あきらか)に行を修(おさむ)
 ↓↑  詔曰「…今將軍外勒戎旅
     內存國朝
     朕嘉將軍之意
     今、擢(卑)湛為博士」・・・擢=抜擢=えらばれる
 ↓↑
 張郃
 劉備(蜀)が
 警戒する魏将
 関羽を大敗させた
 楽進
 張郃で
 諸葛亮
 ら蜀の将兵は
 張郃を恐れた
 ↓↑
 功績があった魏将
 張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃
 ↓↑
 「(張)郃
  雖
  武將
  而
  愛樂儒士
  嘗薦(ショウスイ)・・・嘗=かつて・こころみる・なめる
  同鄉
  卑湛
  經明行修
  詔曰
 「…今將軍外勒戎旅
  內存國朝.朕嘉將軍之意,今擢湛為博士」
 (魏の張郃は武将ながら儒者を尊び
  同郷の
  卑湛を経明行修に推薦し
  卑湛は博士となった」・・・
 ↓↑
 「顰蹙(ヒンシュク)をかう」
 ↓↑
 「卑=甶+ノ+十
    甶(フツ・フチ・ヒ)=鬼、亡霊の頭
    囟(ひよめき・シン・シ)
     =嬰児の頭蓋骨の割れ目
    囟=丿+龱(囗乂・囗乄)・・ 思
           恩=因+心
           知恩・報恩の者・・・恩師
      異体字、𠈀・𠔋・𠙷・𠚁・䏤・𦞤
          𩒦・䪿・𩔙・顖・𩕄・𦥓
    傀儡(カイライ)
  卑=ひくい・いやしい
    地位や身分が低い
   「卑賤(ヒセン)・尊卑(ソンピ)」
    心がいやしい・下品な
   「卑屈・卑俗」
    いやしめる・さげすむ
   「卑下」
    自分のことをいうときの謙称
   「卑見」
    ちかい・身近な
   「卑近」
    書きかえ
   「鄙(ヒ)」の書きかえ字
    下卑(ゲビ)・尊卑(ソンピ)・野卑(ヤヒ)
    卑官(ヒカン)・卑怯(ヒキョウ)
    卑金属(ヒキンゾク)・卑屈(ヒクツ)
    ↓↑
    卑=いやしい・いやしむ・いやしめる
      身分や地位が低い・価値が劣る
      「卑賤・卑属・卑金属・尊卑」
      品性が劣る・下品
      「卑俗・卑劣・卑猥・野卑」
      低い位に置く・いやしめる
      へりくだる
      「卑称・自卑・男尊女卑」
      「卑官・卑見」
      土地が低い・「卑湿」
      「鄙」の代用字
 ↓↑
 α+卑
 鼙・鵯・髀・顰・鞞・陴・錍・郫・貏
 豍・諀・裨・蠯・螷・蜱・薭・萆・脾
 聛・粺・簲 簰・篺・箄・稗・禆・碑
 睥・痺・琕・猈・牌・焷 渒・椑・朇
 捭・庳・崥・婢・埤・啤・俾・䴽・䱝
 䰦・䫌・䡟・䠋・䚜
 ↓↑
 「鵯=卑+鳥=ひよどり・ヒヨドリ・ヒエドリ
        鵯・Hypsipetes amaurotis)
        スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属」
 ↓↑
 天水太守、「鄧艾」・・・「鄧=登+阝」→「蠟」
       ↓↑
 「鄧=登+阝」が「蠟=虫+巤」に文字化け
          蠟=ワックス(wax)=蜡・蝋
 鄧=登+阝(邑⇔阜)・・・異体字=邓
 鄧=登+阝
 文字化け
 蠟 ⇔鄧
 蠟艾⇔鄧艾(トウガイ)・・・当該?
     艾=もぐさ・ガイ
 「登+阝」=春秋時代の国名・河南省鄧州
       地名・姓
       「鄧小平トウショウヘイ」
 ↓↑       
 鄧(登+阝)・-・中国の春秋時代の諸侯国の一つ
 曼姓・小国であり何度か都を遷した
 楚に滅ぼされた
 ↓↑
 国名、姓
 「曼姓の國・南陽に屬す
  (登+阝)=邑に从ひ登聲(説文解字・巻六)」
 ↓↑
 「登+阝+艾」は
 蜀の平定
 屯田制と運河開通への貢献
 地図作成で全国各地へ派遣され地図を作成
 それを元に「済河論」を著し
 水害対策と食料備蓄の両方を達成
 蜀進攻の際
 天険の陰平を突破し
 綿竹等を攻略
 劉禅を降伏させた
 略奪を行わなかったため
 蜀の民に称えられた・・・
 ↓↑
 忘年の交わり
 三国志演義
 鄧艾(登+阝+艾)が
 陳泰と
 結んだ
 彼は
 毌丘倹の反乱鎮圧に参加した後
 姜維の北伐軍と戦い
 狄道(テキドウ)の戦いで
 王経の窮地を救い
 共闘した
 陳泰から評価され
 10歳以上年齢の離れた
 彼ら(鄧艾の方が年上)は
 「忘年の交わり(年齢差を越えた交わり)」
 を結んだ
 ↓↑
 彼の最期
 蜀を平定した後
 独断専行を繰り返し
 共に蜀を平定した
 鍾会に束縛され
 謀反人として都へ運ばれる途中
 殺害された
 ↓↑
 兵の指揮権は
 鄧艾と鍾会の二人に分けられ
 鄧艾が身勝手な行動をし
 周囲から非難をされ
 鍾会は鄧艾を捕縛し
 全ての指揮権を手中に収めた
 彼はその後
 姜維と共に魏へ反逆
 ↓↑
ーーーーー
 鄧艾(?~264)
 三国時代の武将
 字は士載
 蜀漢平定の功労者
 実力者ながら吃音者
 ↓↑
 蜀の戦線で功績
 劉禅を降伏させ
 蜀の平定に貢献
 任地の地図作りを好み
 「いつか役立つ時が来る」と言っていた
 姜維の
 蜀軍を迎え撃った
 「段谷の戦い」で、地図の戦術的効力を実証
 吃音で
 司馬昭から
 からかわれた・・・
 ↓↑
 「鄧(トウ)艾」は
  30代後半~40代まで
 徴税・農業分野の地方役人で
 上計吏となった
 ↓↑
 吃音者は書くことで評価
 地図などを書いて
 状況を把握し
 上司(司馬仲達)に認められた
 ↓↑
 「燕雀いずくんぞ
  鴻鵠の志しを知らむや
 (陳勝=秦の反乱首謀者)」
  ギョウ(業=大里)からやってきた
  石苞(セキホウ)という少年との会話
 「雀と雲雀には、鸛(こうのとり)や
  白鳥の気持が判らない
  小人には大人の大望を理解できない」と・・・
 鄧艾は、
 石苞の好意を察し
 二人は、地図を元にした溝掘りを
 上司の典農司馬へ願い出
 典農部民の位を得た
ーーーーー
 生活費を金策・・・
 1903/8/14~1951/1/30
 癸卯(甲・ ・乙)⇔庚寅(己・丙・甲)
 庚申(己・壬・庚)⇔己丑(癸・辛・己)
 甲戌(辛・丁・戊)⇔庚午(丙・ ・丁)
 申酉=空亡
 ↓↑
 「キンはニッポンをナス」って・・・?
 ・・・キンは日を成・・・斤日生?・・・斤=おの=斧=小野・尾野
 1912年4月15日~1994年7月08日?
 ↓↑
 ・・・コンは正す日・・・今生日?
 1941年2月16日~2011年12月17日?
 ↓↑
 ・・・キンは正す恩・・・筋生怨?
 1984生年1月8日?
 癸亥(戊・甲・壬)
 乙丑(癸・辛・己)
 壬寅(己・丙・甲)辰巳=空亡
 ↓↑
 ・・・キンは与す正・・・禁與姓?
 1987年9月26日        ?
 丁卯(甲・ ・乙)
 己酉(庚・ ・辛)
 戊寅(己・丙・甲)申酉=空亡
ーー↓↑ーー
 ヨーロッパ・ピクニック計画
 1989年8月19日
 オーストリア共和国
 ブルゲンラント州に食い込む
 ハンガリー人民共和国領
 ショプロンで開かれた政治集会
 ピクニック事件
 ↓↑
 ベルリンの壁
 1989/11/9
 己巳(戊・庚・丙)
 乙亥(戊・甲・壬)
 癸酉(庚・ ・辛)戌亥=空亡
 ↓↑
 ニューヨーク
 2001年9月11日
 辛巳(戊・庚・丙)
 丁酉(庚・ ・辛)
 丁丑(癸・辛・己)申酉=空亡
 ↓↑
 2011/3・11
 辛卯(甲・ ・乙)
 辛卯(甲・ ・乙)
 乙丑(癸・辛・己)戌亥=空亡
 ↓↑
 熊本地震
 2016年4月14日21時26分
 丙申(己・壬・庚)
 壬辰(乙・癸・戊)
 丙寅(己・丙・甲)戌亥=空亡
 戊戌(辛・丁・戊)
ーー↓↑ーー
 カナリア諸島
 緯度:北緯27.92度
 火山島の
 休火山
 テイデ(Teide)
 or
 ピコ・デル・テイデ
 カナリア諸島の
 テネリフェ島にある
 スペイン領内最高峰の火山
 テイデ山=玄武岩の盾状火山の上に形成された
      成層火山
      最新の噴火
      1909年11月
 テネリフェ島自体が
 地球で第三位の規模を持つ火山島
 テイデ(Teide)
 ピコ・デル・テイデ(Pico・del・Teide)
 テイデという名前
 グアンチェ族の言葉で
 「エチェイデ(Echeide)=地獄」に由来
 ↓↑ ハワイ
 緯度:北緯21.05度
ーーーーー
 島津・亜矢
 1971年(昭和46年)3月28日
 辛亥(戊・甲・壬)
 辛卯(甲・ ・乙)
 壬子(壬・ ・癸)寅卯=空亡
 ↓↑
 1971年金曜日から始まる平年
 干支・:・辛亥(かのと・いのしし)
 昭和46年
 ↓↑
 4月5日・-・エトナ火山噴火
 エトナ火山(Etna)
 イタリア南部シチリア島の東部にある活火山
 旧名は
 モンジベッロ・(Mongibello)・
 ヨーロッパ最大の活火山
 アルプスを除いたイタリアでは最も高い山
 イタリアにある3つの活火山の内で
 2番目に高い
 ヴェスヴィオ山の
 3倍近くもある
 ↓↑
 8月15日
 ニクソン・ショック
 (アメリカが金とドルの交換停止)
 8月23日
 実尾島事件
 韓国が実尾島(シルミド)で
 訓練を行っていた特殊部隊員が叛乱
 10月25日
 中華人民共和国が国連加盟
 中華民国(台湾)は事実上の追放
 (アルバニア決議)
 11月11日
 川崎市生田で科学技術庁が実施した
 崖崩れ再現実験が失敗
 15人が死亡
 11月27日
 ソ連の火星探査機マルス2号が火星に衝突
 火星に到達した初の人工物
 12月2日
 ソ連の火星探査機マルス3号が探査機による
 初の火星着陸に成功
 ↓↑
 阪神・淡路大震災
 1995年1月17日5時46分52秒
 甲戌(辛・丁・戊)
 丁丑(癸・辛・己)
 戊申(己・壬・庚)寅卯=空亡
 甲寅(己・丙・甲)
ーーーーー
 ・・・???・・・

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「金有り哉」・・・キラウエア(Kilauea)火山爆発

2018-05-05 21:11:31 | 古事記字源

 ・・・米ハワイ州ハワイ島、3日噴火、4日も午後5時(日本時間4日正午)前に地表に熔岩噴出、マグニチュード(M)6.9 の地震、キラウエア(Kilauea)火山爆発・・・
 Hawai'i=Ha(ハ)=息、呼吸
      Wai(ヴァイ)=水
      'i(イ)=霊魂・魂魄・spirit
 「火の鳥=Phoenix・フェニックス」は飛びったったのかな・・・
 「Dinah Shore - Blue Canary・青いカナリア」は
 「ダイナ・ショア」だった・・・
 「黄色い鳥」、「Canary Yellow?」・・・
 「マリーゴールドイエロー=カナリアイエロー」・・・?
 キラウエア=ハワイ語で「噴き出す・多くまき散らす」意味・・・「カナリア」・・・「金有り哉」・・・「唄(口+貝・ウタ)を忘れたカネリア」・・・「忘れたウタを思い出す」・・・災害、人災は忘れた頃にヤってくる・・・
 「カナリア諸島(スペイン語=Islas Canarias)・アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上にある、スペイン領の7つの群島・カナリアス諸島とも」・・・

 ランサロテ・フエルテベントゥラ
 グランカナリア
 テネリフェ・ゴメラ・ラパルマ
 イエロ (フェロ)
 の7島と周辺の小島から成る

 ラスパルマス・カナリア諸島
 緯度:北緯27.92 °
 経度:西経15.38 °
ーーーーー
 焉(エン)=「正+鳥」の会意
 ↓↑    美しい鳥
   焉の助字の意は仮借
   原意は
  「嫣=女+焉」・・・嫣然⇔婉然・宛然・艶然
     容貌が美しい・器量よし・あでやか
     色彩が鮮やかな・嫣紅
     鮮やかな赤の
     嫣然=笑顔がつやっぽい
        にっこりほほえむさま
        嫣然一笑
 ↓↑「黄色い鳥」の象形・・・種類?

   ・・・ヒヨコ(雛・ひな)
   ひよこ(雛)
   にわとり(鶏・鷄・雞・二和鳥)のヒナ鳥
 ↓↑↓↑   ↓↑
       矮鶏(チャボ)・・・矮(𠂉一人)=矢+委(禾女)
       ↓↑     「𠂉=かみ(髪・神)挿(指)しの
               一=初めの
               人=人(ひと)は
               禾=能義(退き)の
               女=おんな」は
       ↓↑     「卑弥呼」・・・?
       烏骨鶏(ウコッケイ)・・・香良洲の酷刑?
       羽色は白か黒で
       皮(ヒ・かわ)、肉(ジク・にく)、骨(コツ・ほね)
       ↓↑比・掛倭    字句・似句    呼通・保音
       は暗紫色
 ↓↑    ↓↑
      「烏(からす・ウ)」の訓読みは
      「烏んぞ=いずくんぞ=焉んぞ=奚ぞ」で
       同義として使用
   ↓↑
  「にわとり」は卵を何個か産んだ後に抱卵するが
   品種改良で現在の養鶏種では
   採卵用の鶏として
   抱卵をしないように改良されている
 ↓↑    ↓↑
     「黄色い鳥」の象形・・・種類?
      カナリア
      canaria
      金糸雀
 ↓↑    ↓↑
      コウライウグイス
      Oriolus chinensis
      高麗鶯(こうらいうぐいす)は
      黄色のウグイス(鶯)
 ↓↑    ↓↑
     「ホーホケキョ」・・・法、法華経?
      が
      他の鳥に対する縄張り宣言
      巣にエサを運ぶメスに対する
     「縄張り内に危険なし」の合図
     「ケキョケキョケキョ」・・・氣去?
      が
      侵入した者や外敵への威嚇
 ↓↑    ↓↑
      キンケイ
      Oriolus chinensis
      錦鶏=金鶏
      胸が赤いが、全身黄色い鳥もいる
 ↓↑    ↓↑
      ヤマキヌバネドリ
      Harpactes oreskios
      山絹羽根鳥
 ↓↑    ↓↑
      ひわ・・・比和(倭)・悲話・秘話・比話(把)・肥話
      アトリ(集鳥)科の小鳥の総称
      集鳥=あとり
         花鶏(あとり)=臘觜(ロウシ)鳥
                =獦子(カッシ)鳥
                =Finches(フィンチ)
     「金翅雀」・「鶸(ひわ)」
      スズメに似た
      黄色い翅(はね)の鳥
      頭部は黒っぽい
 ↓↑         
   助字、「于是・於此」と同義
   文末に置いて
   比較の表現に使われ
   意味が軽くなり語気を示す置き字
 ↓↑訓は「いずくんぞ」
 焉(エン)=いずくんぞ・なんぞ・ここに
       いずくにか・これ
       ようすを表す語に添える助字
       状態を示す
       溘焉 (コウエン) ・忽焉 (コツエン)
        「ここに」の意を添える助字
       終焉(シュウエン)
       少焉 (しばらく・しばらくして)
 ↓↑    焉爾 (のみ)
 烏焉魯魚(ウエンロギョ)
 字を書き間違えること
 文字の誤り
 写し誤り
 「烏」と「焉」
 「魯」と「魚」
 字形の類似
 魯魚焉馬
 烏焉馬
 烏焉
 ↓↑
 焉=「於是・於此」の意を表し
   文末におかれる
   「ここに」と読む
   「於是・於此」の意を表し、文末におかれる
   形容詞につける助詞
   状態をあらわす
   類義語は然、似
   「や・か」と読み
   「~か・~であろうか」
   「少焉(ショウエン)
   「頃焉(ケイエン)」
   の連綿字・・・連綿=切れ目なく延々と続く様
   燕(エン・つばめ・鷰・鳦・乙鳥)
   に似た
   黄色い鳥・・・?・・・
 ↓↑↓↑↓↑
   カナリア
   (金糸雀)=スペイン語の「canaria(カナアリア)」
         ラテン語で「犬」を意味する「canis」
         カナアリア
         仮名有 蛙(鴉・ア)は
        「犬・狗・戌=狗奴国(くなこく)」の
        「卑彌弓-呼素
            -不和」
          ・・・不倭=不破・不窪・付和・附和
        「其八年、
太守
王頎(斤頁)
         ↓↑・・王頎(オウキ)
             頎=端正・端整・キ・ゲ・キン・コン
               みめかたちがよい
         ↓↑  頎⇔斤+頁⇔斧の頁⇔小野の頁
         到官。
 ↓↑    ↓↑↓↑
         王頎
         姓は王
         名は頎(斤頁)
         字は孔碩・・・碩=おおきい・すぐれる・セキ
         青州東莱郡の生まれ
         245年
         玄菟郡の太守
         丸都から逃走した
         高句麗王
         位宮を
         毋丘倹に命ぜられ追撃
         沃沮を通り
         粛慎の南端までたどり着き
         石碑を建てた
         道中の老人の話
        「東の海の彼方の島に流れ着くと
         言葉が通じず
         七月に童女を
         海に沈める習慣を持った国があった
         他に女ばかりで
         男のいない国もある」と・・・
         248年
         帯方郡
         太守に就く
         倭の女王
         卑弥呼は
         狗奴国の男王の
         卑弥弓呼と戦争状態
         その旨を
         帯方郡に
         載斯烏越などの
         使者のを遣わし知らせてきた
         王頎は
         塞曹掾史(守備役人)の
         張政を派遣し
         難升米に
         仮に
         詔書・黄憧を
         受け渡し檄文で告諭した
         263年
         天水太守
         蠟艾に命ぜられて
         姜維の本陣に
         進軍、追撃し
         姜維を破った
         (魏書・毋丘倹伝、東夷伝、蠟艾伝)
 ↓↑  ↓↑  ↓↑
         王頎(斤頁)は
         蠟艾に命ぜられ
         一万五千の兵を率いて
         諸軍と協力し
         姜維を漢中から撤退させ
         沓中では姜維と刃を交え
         負けて撤退
        (演義)
 ↓↑  ↓↑  ↓↑
         王頎(斤頁)は
         蜀が平定されると
         蠟艾に
         益州の
     ↓↑  ↓↑ 益州・・・四川盆地と漢中盆地一帯
            前漢末
            公孫述が益州を占拠したが
            光武帝に攻め滅ぼされた
            後漢の益州
            漢中郡・巴郡・広漢郡・蜀郡・犍為郡
            牂牁郡・越巂郡・益州郡・永昌郡・広漢属国
            蜀郡属国・犍為属国
         ↓↑ の12郡国118県を管轄
         長官に任命された
     ↓↑  ↓↑
         帯方郡の太守
         と
         天水郡の太守・・・歴任・・・
     ↓↑天水郡・・・漢代~唐代
       甘粛省天水市一帯に設置
       紀元前114年(前漢の元鼎三年)
       天水郡設置
       天水郡は
       涼州に属し
       平襄・街泉・戎邑道・望垣
       罕幵・綿諸道・阿陽・略陽道
       冀・勇士・成紀・清水・奉捷
       隴・豲道・蘭干
       の16県を管轄
       王莽のとき
       填戎郡と改称
       後漢が建国後
       天水郡の称に戻され
       74年(永平十七年)
     ↓↑漢陽郡と改称
 ↓↑      ↓↑
        「其八年、
太守(大帯群)
王頎(斤頁)
倭女王
卑彌(ひみ)・・・彌=弓+爾=ビ・ミ
         -呼(こ)

狗奴國・・・・狗(いぬ・ク)の奴の國
         男王
卑彌弓(ひみきゅう)
         -呼(こ・?)
         素(?)
 ↓↑      ↓↑
(呼素)・・・・?
 ↓↑      ↓↑
不和、・・・・「呼素、不和=不破」?
遣倭         和にあらず・破れず?
載斯
烏越・・・・・烏越(ウエツ・香良洲越え?)

         詣郡、
説相攻撃状。

塞曹掾史
張政

因齎・・・齎した=もたらした
         詔書・黄幢、
拜假

升米

檄告喩之。」
 ↓↑      ↓↑
         狗奴國?=鹿児島=薩摩=隼人
             可児州=カニス(canis)=鹿児島?
                 蟹 巣
             ・・・猿蟹合戦・・・秀吉vs島津?
             猿(握り飯)と、蟹(柿の種)が
             食料交換をメグッて蟹が殺され
             子蟹が猿に殺された親蟹の敵を討つため
            「栗・臼・蜂・牛の糞」の助太刀で
            (句理・得諏・葉知・得史の文)?
             敵討ちを果たしたハナシ
             同様の説話は
             中国の少数民族の
            「ヒヨコの仇討ち」があるらしい・・・
             比余語(比予後・比横)
         「canis=狗・犬」ではなく
         「海豹・水豹=あざらし」との説も・・・
ーーーーー
 連綿語
 二音節からなる単純語
 (語源的に複数の要素に分割できない語)
 をいう名称
 一音節目の
 頭の子音と
 二音節目の
 頭の子音が
 一致する双声、あるいは
 一音節目と二音節目で
 頭の子音以外が一致する畳韻を持つ
 「逍遥(めぐりあるく)」や
 「酩酊(酔っているさま)」
 のように、一音節目と二音節目で、
 部首を同じくする
 形声文字を使って書くものが多い
 が、
 「猶予」や
 「参差(ふぞろいな様)」
 のような語もある
 一つの語に複数の表記がある
 「匍匐(ホフク)」は、
 古典では
 「匍伏・蒲伏・伏服・俯伏」と記録
 固有語だけでなく
 借用語で
 二音節の単語も含む・・・同音異字はドウか?
 ↓↑
 連綿語・・・連麺・練緬
 ↓↑
 齷齪(アクセク)=気をもみ行為を急ぐさま
    偓 促・悪塞く
 慇懃(インギン)=ねんごろなさま
    印 銀・韻吟
 鸚鵡(おうむ)=鳥の名
    雄 武・王蟲・桜夢
 膃肭(おっとつ)=膃肭臍(おっとせい)
    乙 凸・乙津戸津
 邂逅(カイコウ)=偶然性や一回性の出会い
    開 港・海幸・海溝・開校・開講・開口
 傀儡(カイライ)=あやつり人形
    魁 蕾・界雷
 矍鑠(カクシャク)=壮健な老人
    各 尺・客酌・格釈
 混沌(コントン)=無秩序・混乱した状態
    渾 沌=今頓
 珊瑚(サンゴ)=生物の名
    産 後・三語・山後・纂語・蚕子
 獅子(しし)=動物の名・ライオン
    刺史・史誌・宍・肉
 芍薬(シャクヤク)=植物の名
    綽  約・釈訳
 憔悴(ショウスイ)=疲れ切った顔つきのさま
    小  水・将帥・傷忰
 逍遥(ショウヨウ)=めぐり歩き、散策する
    小  葉・商用・床用・賞用・小用・昇陽・・・
 鶺鴒(セキレイ)=鳥の名
    関 礼・籍令・籍戻・・・
 齟齬(ソゴ)=くいちがい
    祖語・十川
 躊躇(チュウチョ)=ためらうさま
    虫  除・冲貯・・・
 丁寧(テイネイ)=親切な人への応対
    叮 嚀・綴婦負
 蟷螂(トウロウ)=カマキリ・蟷螂の斧
    螳 螂・燈籠・灯篭
 髑髏(ドクロ)=頭の骨
    読 路・毒蕗
 徘徊(ハイカイ)=あちこちを歩き回るさま
    俳 諧・廃回・誹諧
 溌剌(ハツラツ)=釣られた魚のはねるさま
    溌 溂
 篳篥(ひちりき)=笛の一種
    小童力・飛馳利器
 葡萄(ブドウ)=植物の名・・・匍匐(ホフク)
    無道・武道・武堂
 鳳凰(ホウオウ)=想像上の鳥
    法皇・訪欧・芳翁・・・
 彷彿、髣髴(ホウフツ)=ぼんやりと見えるさま
    日本語では「~を彷彿・髣髴とさせる」で
    「何となく~を思わせる・~を連想する」
 匍匐(ホフク)=はう(這う・匍う・貼う)
    匍伏・蒲伏・伏服・俯伏・・・保福・屠く
 酩酊(メイテイ)=非常に酔っているさま
    明 帝・迷亭・名庭
 滅裂(メツレツ)=支離滅裂
    烕 烈
 魍魎(モウリョウ)=魑魅魍魎・化け物、妖怪
    猛 龍・網漁・毛量
 朦朧(モウロク)=ぼんやりとしているさま
    耄 碌・毛録 
 猶予(ユウヨ)=留保された(短い)時間
    有余・優依・悠依
 林檎(リンゴ)=植物の名・果実
    苹果・凜吾・倫伍・輪語
 連綿(レンメン)=長く連なるさま
 轆轤(ロクロ)=回転器具の名
    鹿 路・賂句路
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 ・・・ウタを忘れたカナリアの色って・・・青黄赤・・・

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