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コジキジゲン

彼理=伯理=恐怖に訴える方が 友好に訴えるより 多くの利点があるだろう

2022-08-16 13:36:55 | 古事記字源

亜米利加の恫喝・・・カツアゲ(喝上げ)・・・ぺるり=熊おやじ=彼理=伯理)

  恐怖に訴える方が
  友好に訴えるより
  多くの利点があるだろう

魯西亜プーチンの殺戮・強奪・・・オレの辞書にはウソの概念は無い


 1794年4月10日
 ~
 1858年3月4日
      大運1852年10月(58歳)甲戌偏官
 甲 寅(己丙甲)偏官・比肩長生⇔戊午比肩
 戊┏辰(乙癸戊)比肩・正官冠帯⇔甲寅偏官
 戊┗戌(辛丁戊)  ・傷官 墓⇔丙申偏印
 戊 午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔甲午偏官
   辰巳空亡 旧3/11(翼宿)  氏宿
 ↓↑
 State of Rhode Island
 and
 Providence Plantations
 2020年
 State of Rhode Island
 に変更
 「ロードアイランド
  及び
  プロビデンス・プランテーション州」
 プランテーション=植民地・農園・・・
 ロードアイランド
 を「ロード島=アクィドネック島」
 ナラガンセット湾の島
 ニューポート郡に属する
 プロビデンス・プランテーション
 ロードアイランド州
 の起源となった植民地集落の名で
 ロードアイランド
 などの周辺地域に農地を開拓
 ↓↑
 州名
 アイランド
 アメリカ合衆国本土
 2つの開拓地の統合で生じ
 ロードアイランド植民地は
 ナラガンセット湾に浮かぶ
 アクィドネック島と呼ばれる場所で
 ニューポート市近くに設立
 プロビデンス・プランテーション
 プロビデンス市がある地域に
 ロジャー・ウィリアムズ
 が設立した植民地の名前
 ↓↑
 アクィドネック島⇔ロード島
 1524年
 探検家
 ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ
 が
 ナラガンセット湾口近くある島の存在を記録
 オスマン帝国の
 ロドス島(ギリシャに属する)に擬えられた
 後のヨーロッパ人探検家は
 ヴェラッツァーノ
 が名付けた島を正確に特定できなかった
 地域に入植した
 ピルグリムが
 ベラッツァーノ
 の
 ロードス島は
 アクィドネック島と想定
 ↓↑
 1610年代
 アドリアン・ブロックが
 アクィドネック島の側を通り
 1625年の旅行記で
 「赤みを帯びた島」と表現
 17世紀のオランダ語で
 「赤み=ロドリッチ(rodlich)」
 「赤み」が秋の紅葉からきたものか
        岸の赤い粘土からきたもの・・・
 ↓↑
 ヴェラッツァーノ記念碑
 プロビデンス市
 アクィドネック島
 悪意 怒音通句当・・・?
 ↓↑
 1637年
 ロジャー・ウィリアムズによる
 その名前は
 1644年に公式に適用
 「アクスネックは今後
  アイル・オブ・ロードス
  あるいは
  ロード・アイランド
  と呼ぶことにする」
 1646年には既に法的文書で使用
 オランダの地図で
 1659年
 「レッド・アイランド
  Roodt Eylant」
 と表示
 ↓↑
 ロジャー・ウィリアムズは
 マサチューセッツ湾
 植民地を追い出された
 神学者
 信仰と政治の寛容さを求め
 他の者達と共に
 自由な領主植民地として
 「プロビデンス・プランテーション」
 を設立
 「プロビデンス」
 は神の摂理を表し
 「プランテーション」
 は植民地を表す

 嘉永六年
 1853年7月14日
 ペリー提督一行
 嘉永七年(1854年)
 横浜への黒船来航
 ↓↑
 1852年11月13日(嘉永5年10月3日)
 ペリーは
 海軍長官
 ケネディから訓令
 対日使命遂行のため
 広範な自由裁量権の行使
 日本沿岸
 隣接大陸や諸島の探検
 行く先々の諸国や諸地方の
 社会・政治・商業状況
 商業対象として
 できうる限りの情報の収集
 ↓↑

 1851年1月
 日本遠征の独自の基本計画を
 海軍長官
 ウィリアム・アレクサンダー・グラハム
 に提出
 任務成功のために
 4隻の軍艦
 3隻は大型の蒸気軍艦
 中国人に対したのと同様に
 日本人に対しても
 「恐怖に訴える方が
  友好に訴えるより
  多くの利点があるだろう」
 と・・・
 オランダが妨害することが想定され
 長崎での交渉は避ける
 東インド艦隊所属の
 「サスケハナ」
 「サラトガ(帆走スループ)」
 「プリマス(USS Plymouth)」
 蒸気艦4隻
 帆走戦列艦1隻
 帆走スループ2隻
 帆走補給艦3隻
 からなる
 合計13隻の大艦隊の編成を要求
 予定した本国艦隊の
 蒸気軍艦4隻のうち、使用できるのは
 「ミシシッピ」のみで
 戦列艦は除外され
 代わりに西インドから帰国した
 蒸気フリゲート
 「ポーハタン」が加わった

 老中首座
 「阿部正弘」
 1852年7月21日
 嘉永五年六月五日)
 オランダ商館長
 ヤン・ドンケル・クルティウス
 は
 長崎奉行に
 「別段風説書(幕末出島未公開文書)」
 を提出した
 アメリカが日本との
 条約締結を求め
 艦隊を派遣することが記載
 中国周辺にある
 アメリカ軍艦5隻
 アメリカから派遣される
 予定の4隻の艦名とともに
 司令官が
 オーリック
 から
 ペリーに代わったこと
 また艦隊には
 陸戦用の兵士と兵器を搭載
 との噂があると告げていた
 出航は4月下旬以降
 と言われていると伝えた・・・

 6月25日付
 オランダ領
 東インド総督
 バン・トゥイスト
 からの
 長崎奉行宛の親書
 (『大尊君長崎御奉行様』)
 を提出
 アメリカ使節派遣に対処する
 オランダの推奨案として
 「長崎港での通商を許し
  長崎へ駐在公使を受け入れ
  商館建築を許す
  外国人との交易は
  江戸、京、大坂、堺、長崎
  の5か所の商人に限る」
 など
 合計10項目
 通商条約素案が示されていた
 1844年
 の親書のあとも
 開国されなかったため
 オランダ国王は失望しているが
 戦争になれば
 オランダ人にも
 影響がおよびかねないなどの懸念を表明

 老中首座
 阿部正弘
 夏ごろには
 溜間詰の譜代大名にこれらを回覧
 海岸防禦御用掛(海防掛)
 にも意見を訊いた
 通商条約は結ぶべきではない
 との回答
 長崎奉行も
 オランダ人は信用できないとした
 (以前に
  オランダ風説書で
  イギリスの
  香港総督
  ジョン・バウリング
  の渡航が予告されたがそれはなく
  すべての情報が
  正しいわけではなかった)
 幕府は
 三浦半島の防備を強化するため
 川越藩
 彦根藩
 の兵を増やした程度で
 情報は奉行レベルまでの
 幕府上層部に留めおかれ
 来航が予想される
 浦賀の
 与力などには伝えられていなかった
 外様の
 「島津斉彬」
 には年末までに口頭で
 この情報が伝えられた・・・
 斉彬は翌年の
 アメリカ海軍
 東インド艦隊の
 琉球渡航以降の動静を
 阿部正弘に報告
 両者は危機感を持った・・・
 が幕府内では少数派・・・

 アメリカ政府は
 ペリーの日本派遣を決定
 オランダ
 ヘーグ
 に駐在するアメリカ代理公使
 フォルソム
 を通じ
 通商交渉使節の派遣
 と
 その平和的な目的を
 オランダ政府が
 日本に通告してくれるよう依頼
 しかし
 この書簡(1852年7月2日付)は
 クルティウス
 が日本に向け
 ジャワを出発したあとに
 バン・トゥイスト
 の手元に届いたため
 日本には届いていない
 翌年
 ペリーが来航した
 1853年(嘉永六年)提出の
 「別段風説書」
 では
 ペリー派遣の目的は
 通商関係を結ぶことが目的の
 平和的なものであると述べている・・・

 ミシシッピ号
 1852年11月24日
 58歳
 マシュー・カルブレース・ペリー
 司令長官
 兼
 遣日大使
 を乗せた蒸気
 フリゲート
 「ミシシッピ号」
 単艦で
 ノーフォーク
 を出港
 一路アジアへと向かった
 ペリーはタカ派の大統領
 フィルモア(ホイッグ党)
 から
 琉球の占領も
 やむなしと言われていた・・・

 ミシシッピは大西洋を渡り
 マデイラ島(12月11日~15日)
 セントヘレナ島(1853年1月10日・11日)
 南アフリカ
 ケープタウン(1月24日~2月3日)
 インド洋
 モーリシャス(2月18日~28日)
 セイロン(3月10日~15日)
 マラッカ海峡
 ~
 シンガポール(3月25日~29日)
 マカオ・香港(4月7日~28日)
 を経て
 5月4日
 上海に到着
 この間、各港で石炭補給
 香港で
 プリマス(帆走スループ)
 サプライ(帆走補給艦)
 と合流
 上海で蒸気フリゲート
 サスケハナ
 と合流
 米大統領は
 民主党の
 ピアース
 の下で
 ドッピン海軍長官は
 侵略目的の武力行使を禁止
 航海途上の
 ペリーには届いていなかった・・・
 なお
 マカオにて
 サミュエル・ウィリアムズ
 を漢文通訳として
 上海で
 アントン・ポートマン
 をオランダ語通訳として雇用
 日本への航海途中に
 フィルモア大統領親書の
 漢文版
 および
 オランダ語版を作成
 ↓↑
 琉球来航
 サスケハナ号・・・猿飛 佐助?
          鼻・洟
          端・塙
          華・花
          葉名・波奈
 1853年6月
 首里城
 上海で
 サスケハナ
 に旗艦を移したペリー艦隊は
 5月17日出航
 5月26日
 琉球王国(薩摩藩影響下)の
 那覇沖に停泊
 ペリーは首里城への訪問を打診
 琉球王国側はこれを拒否
 ペリーはこれを無視し
 武装した兵員を率いて上陸
 市内を行進しながら
 首里城まで進軍
 ↓↑
 琉球王国は
 武具の持込と兵の入城だけは
 拒否するとして
 ペリーは
 武装解除した士官数名とともに入城
 ペリー一行は北殿で
 茶と菓子程度でもてなされ
 開国を促す大統領親書を手渡した
 場所を城外の
 大美御殿に移し
 酒と料理でもてなされた
 ペリーは感謝し
 返礼に
 王国高官を
 「サスケハナ」
 に招待し
 同行の
 フランス人シェフの料理を振る舞った
 ↓↑
 王国が用意したもてなしは
 清の
 冊封使に対するもてなしよりも
 下位の料理を出すことで
 暗黙の内に
 ペリーへの
 拒否(親書の返答)を示していた
 『琉球王国評定所文書』
 に記録
 ↓↑
 小笠原探検
 ペリーは艦隊の一部を
 那覇に駐屯させ
 6月9日に出航
 6月14日~6月18日
 小笠原諸島を探検
 ペリーは小笠原の領有を宣言
 イギリスから抗議
 ロシア船も抗議のために
 小笠原近海へ南下
 宣言はうやむやになった
 日本は
 林子平著
 『三国通覧図説』
 の記述を根拠として
 領有を主張
 水野忠徳
 を派遣して
 八丈島住民などを
 移住させることで
 イギリス
 ロシア
 アメリカ
 など列強諸国に
 領有権を認めさせた
 ↓↑
 ペリーは
 6月23日
 に一度琉球へ帰還
 再び艦隊の一部を残したまま
 7月2日
 に大統領からの親書を手に
 3隻を率いて日本へ出航した

 1853年7月11日
 江戸湾を調査する
 ミシシッピ号艦長
 サイラス・ベント
 Silas Bent
 サラトガ号
 合衆国
 水師
 提督口上書(嘉永六年六月八日)
 左より
 ヘンリー・アダムス副使(艦長)
 ペリー水師提督
 アナン軍使(司令官)
 ↓↑
 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)17時
 浦賀沖に停泊
 艦隊は旗艦
 「サスケハナ(蒸気外輪フリゲート)」
 「ミシシッピ(蒸気外輪フリゲート)」
 「サラトガ(帆走スループ)」
 「プリマス(USS Plymouth 同)」
 の4隻
 大砲は計73門
 臨戦態勢
 浦賀奉行
 戸田氏栄
 は米艦隊旗艦
 サスケハナ
 に対して
 浦賀奉行所
 与力
 中島三郎助
 を派遣
 ペリーの渡航が
 徳川将軍に
 アメリカ合衆国大統領親書
 を渡すことが目的であることを把握
 サスケハナ
 に乗艦するために
 中島は「副奉行」と詐称
 ペリー側は幕府側の
 階級が低すぎるとして
 親書を預けることを拒否
 7月9日(嘉永六年六月四日)
 浦賀奉行所
 与力
 香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ね
 ブキャナン艦長
 アダムス参謀長
 ペリー の副官
 コンティー
 と会見
 親書は最高位の役人にしか渡さないと拒否
 香山は4日の猶予をくれるように頼み
 ペリーは3日なら待とうと答え
 「親書を受け取れるような
  高い身分の役人を派遣しなければ
  江戸湾を北上して
  兵を率いて上陸し
  将軍に
  直接手渡しすることになる」
 と脅した
 ↓↑
 ペリーは艦隊所属の各艦から
 1隻ずつの武装した短艇を派遣
 浦賀湊内を測量
 7月11日(嘉永六年六月六日)
 早朝から測量艇隊は
 江戸湾内に20キロほど侵入
 護衛にミシシッピ号がついた
 7月12日
 「姑く耐認し枉げて其意に任せ
  速やかに退帆せしめ後事をなさん」
 との見地から国書を受領し
 返事は
 長崎オランダ商館長
 を通じて伝達するよう
 浦賀奉行
 井戸弘道
 に訓令
 第12代征夷大将軍
 徳川家慶は病床
 老中首座
 阿部正弘は
 7月11日に
 「国書を受け取るぐらいは
  仕方ないだろう」
 と
 7月14日
 ペリー一行の
 久里浜上陸を許し
 下曽根信敦
 率いる幕府直轄部隊に加え
 陸上を
 川越藩
 彦根藩
 海上を
 会津藩
 忍藩
 が警備するなか
 浦賀奉行の
 戸田氏栄
 井戸弘道
 が
 ペリー
 と会見
 ↓↑
 ペリーは
 大統領フィルモアの親書
 提督の信任状
 覚書
 などを手渡した
 幕府は
 「将軍が病気であって
  決定できない」
 とし
 返答に1年の猶予を要求
 ペリーは
 「返事を聞くために
  1年後に再来航する」
 と告げた
 ↓↑
 7月15日
 浦賀より20マイル北上し
 江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み
 将軍に充分な威嚇を示してから
 小柴沖に引き返した
 ↓↑
 7月17日
 江戸を離れ
 琉球に残した艦隊に合流
 イギリスの植民地
 香港へ帰った
 ↓↑
 佐久間象山
 吉田松陰
 見物
ー----
 東晋
 「葛洪」の著作
 『抱朴子』内篇(地眞篇)
 「經世濟俗」という語が現れ
 「經世濟民」とほぼ同義で使用
 隋代
 「王通」の
 『文中子』礼楽篇
 「皆
  有 經濟之道
  謂 經世濟民」
 とあり
 「經濟」が
 「經世濟民」の略語として使用
 『晋書』殷浩伝(唐)
 『宋史』王安石伝論(元)
 などにも
 「經濟」が記録
 政治・統治・行政一般を意味する
 清末
 「戊戌の政変」後
 儒教的教養によらず
 在野の有為な人材を登用するために
 新設された
 科挙の新科目
 「経済特科」も同義
 「經濟」
 の語を書名とした
 「太宰春台」の
 『経済録』(18世紀前半)
 「凡(およそ)
  天下國家を治むるを經濟と云
  世を經め民を濟ふ義なり」
 「經世濟民(經濟)の學」は
 経済学、政治学・政策学・社会学
 広範な領域
 ↓↑
 江戸後期
 貨幣経済が浸透し
 「經濟」のなかでも
 「社会生活を営むのに必要な
  生産・消費・売買などの活動」
 と強調されるようになった
 「economy」
 幕末期
 イギリスなどから
 古典派経済学の文献が輸入
 「経済」=「economy」の訳語として使用
 1862年(文久二年)
 「堀達之助」
 らの
 『英和対訳袖珍辞書』で
 「economy=家事する、倹約する」
 「political economy」
 に「経済学」の訳語
 「神田孝平」訳の
 『経済小学』(1867年(慶応三年)刊)
 で「経済学=ポリチャーエコノミー」
 「福沢諭吉」の
 『西洋事情 外篇』巻の3
 「経済学」の語
 1866年(慶応二年)刊の
 『西洋事情 初篇』巻の1に
 「経済論」の語がある
 ↓↑
 「生産品→市場商品=流通交換市場売買商品」
 「経済(学)」=「経済」=「貨殖興利」
 「民を済(すく)ふ」
 という規範的な意味は稀薄となり
 新しい用法は
 本来の意味の
 「經濟」という語を
 生み出した中国(清)にも
 翻訳を通じて逆輸出され
 以後東アジア文化圏全域で定着
ー----
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の  移転先・・・
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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「隋・唐」⇔「高句麗⇔百濟⇔新羅」⇔「倭国」への難民渡来帰化人の三竦み

2022-08-12 19:09:03 | 古事記字源

 ウシにヒカれて・・・ゼンコウ字・・・毎理・・・ 

 ↓↑

『日本書紀』巻14
 大泊瀬幼武天皇
 雄略天皇
 二十年冬

 ↓↑
 廿年冬
 高麗王
 大發軍兵
 伐盡 百濟
 爰有小許遺衆
 聚居 倉下(へすおと)
 兵糧既盡
 憂泣茲深
 ...百濟記云
 蓋鹵王 乙卯年冬
 狛(高句麗)大軍來
 攻 大城七日七夜
 王城降陷
 遂 失 尉禮(百済)國
 王及
 大后
 王子等
 皆沒敵手
 ↓↑
 501年
 武寧王即位
 熊津
 を中心とする
 南朝
 倭国
 との関係を深め
 領内に22の拠点を定め
 王の宗族を派遣し地域支配を強化
 『日本書紀』
 日本から百済へ
 任那四県を割譲
 513年
 伽耶地方の有力国
 伴跛から
 己汶
 帯沙を奪い
 南西部での支配を確立
 伽耶地方の中枢に迫った
 ↓↑
 武寧王
 南朝
 梁に新羅使を同伴して入朝
 新羅や伽耶諸国を付庸
 倭国へは
 五経博士を派遣
 倭国への
 軍事支援要請
 技術者の派遣
 は百済の継続的な対倭政策

 泗沘時代(538–642年)
 聖王
 538年
 熊津~泗沘(忠清南道扶余郡)に遷都
 両方とも
 錦江沿いにある都市
 国号を
 南扶余
 と改名
 高句麗と同じく
 夫余を祖とし
 高句麗への対抗を意識した国号
 ・・・同族相争う・・・新羅も・・・
 百済は西側から加羅に勢力を拡大
 新羅は東側から加羅に勢力を拡大
 倭国は伽耶地方を藩屏とした
 ↓↑
 金官国
 524年
 新羅の伽耶地方侵攻
 倭国へ救援要請
 倭国は
 近江毛野臣を派遣
 527年
 「磐井の乱」
 で渡海できず
 529年
 毛野臣は
 伽耶の一国
 安羅に到着し調停を目指して
 百済
 新羅
 の双方に参会を求めたが
 倭国の調停に期待せず
 毛野臣
 は有効な手段を講じることなく
 532年
 金官国滅亡
 安羅は
 倭国の毛野臣を排除し
 百済に援軍を要請し
 531年
 百済軍が安羅に駐屯
 ↓↑
 50年頃
 百濟は
 北方国境地帯の城の奪い合いで
 高句麗と全面的な衝突
 倭国に
 兵糧、武具、軍兵の支援を求めた
 『日本書紀』
 551年
 漢城を
 高句麗から奪回
 552年
 漢城を放棄
 新羅が
 漢城を占領
 聖王は倭国からの支援を見返りに
 諸博士や仏像・経典などを贈る
 554年
 大伽耶、倭国からの援軍
 554年
 新羅の函山(管山)城
 を攻撃したが
 伏兵にあって戦死
 ↓↑
 百済
 威徳王即位
 562年までに
 伽耶地方の大半が新羅に落ちた
 威徳王は王弟
 恵を倭国に派遣し
 親百済政策の維持と援軍の出兵を働きかけたが
 倭国の
 「蘇我稲目」
 は国内を重視し、援軍の派兵には同意しなかった
 新羅が
 「任那の調(みまなのみつき)」
 を倭国に送付し
 577年
 百済が
 新羅に侵攻した際
 倭国の軍事援助は得られず
 威徳王は
 伽耶の奪回はできず
 579年
 を最後に
 新羅への武力行動に慎重になった
 ↓↑
 589年
 隋が中国を統一
 589年
 百濟は使者を派遣
 598年
 隋の高句麗遠征に参加
 高句麗は隋軍を撃退し
 百済領への侵攻
 百済は隋に対して更なる高句麗征討を要請
 602年
 百済は
 新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)
 を攻撃
 603年
 高句麗が新羅領北漢山城(ソウル市鍾路区新営)攻撃
 倭国は
 「任那の調」の実施を求め
 591年と602年に筑紫への駐兵を行い
 新羅への軍事的圧力
 倭国から
 百済と高句麗に
 新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣
 『日本書紀』
 ↓↑
 高句麗が突厥との同盟を意図
 隋が
 611年、613年、614年
 高句麗遠征を行ったが失敗
 618年
 隋朝が崩壊
 唐王朝
 611年
 百濟は
 隋による高句麗遠征の隙を狙い
 新羅を攻撃
 一城を占領
 624年
 百済は
 高句麗、新羅と同じく唐に入朝
 冊封を受けた
 ↓↑
 642年
 前年即位の百済の
 義慈王が自ら兵を率いて
 新羅に侵攻
 40余りの城を陥落させた
 百済は
 「金春秋」
 の娘婿とその子供らを全員殺害
 643年
 高句麗と和睦
 新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指した
 義慈王
 は国内でも専制的な体制構築
 ↓↑
 642年
 高句麗で
 「淵蓋蘇文」
 がクーデター
 新羅で
 善徳女王
 金春秋
 金庾信
 結束による権力体制が成立
 倭国
 舒明天皇死亡
 皇極女帝即位
 蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が実権
 ↓↑
 百済は
 高句麗と
 新羅への侵攻を続け
 善徳女王
 死後
 「金春秋(武烈王)」
 は唐への援軍要請を繰り返した
 唐は
 高句麗征討で
 高句麗の同盟国
 百済を倒し
 高句麗の背後を抑える意図で
 660年
 水陸合わせ13万の大軍を
 百済へ進行させ
 新羅の
 「金庾信」
 の指揮下で出兵
 ↓↑
 660年3月
 唐の
 「蘇定方」将軍
 の軍が山東半島から海を渡って
 百済に上陸
 7月
 王都
 泗沘が占領され
 義慈王は
 熊津に逃れたが
 降伏
 百済は滅亡
 ↓↑
 百済の遺臣
 鬼室福信
 黒歯常之
 僧道琛
 などが反乱
 倭国に人質の
 百済王子
 「扶余豊璋」
 帰国させ
 「阿倍比羅夫」
 らの救援軍を派遣
 斉明天皇は
 筑紫国
 朝倉
 橘広庭宮に遷都
 ↓↑
 「豊璋」は百済王に推戴されたが
 「鬼室福信」
 と対立し、これを殺害
 唐本国から
 「劉仁軌」
 の率いる
 唐の増援軍が到着
 663年
 倭国の水軍と
 「白村江(白馬江)」
 で決戦
 倭国大敗
 亡命を希望する百済貴族を伴って帰国
 豊璋は密かに高句麗に逃れたが
 668年
 高句麗滅亡
 ↓↑
 百済滅亡後
 百済の高官たちが
 新羅に降った
 660年
 論功行賞では
 佐平の
 忠常、常永
 達率の
 自簡
 などの百済遺臣に
 新羅の地位が与えられた

 百濟王子
 「豊璋」の弟
 「善光(禅広)」・・・「善光寺」
 の子孫は
 倭国朝廷から
 百済王(くだらのこにきし)
 の姓を賜り
 日本の氏族としての
 「百済王氏」
 を中心として倭国に根付いた
 豊璋は高句麗の滅亡後
 唐に捕縛
 流刑
 最終的に唐へと渡った
 百済王族、貴族もいた
 西安や洛陽で発見された
 「入唐百済人の墓」によって明らかとなっている
 百済王子 扶余隆
 百済武将 黒歯常之、祢軍
 など6人の百済人とその子孫たちの墓が
 2016年現在、合わせて10か所発見
 彼らは唐に仕え
 3世代にわたり
 その動向が
 墓誌に残されていた・・・
 ↓↑
 善光寺(ぜんこうじ)
 7月15日
 施餓鬼会(せがきえ)
 7月と8月の2回執行
 お盆に合わせ
 三界万霊有縁無縁の諸精霊が
 極楽へと生まれることを祈願する
 7月31日
 盂蘭盆会(うらぼんえ)
 6月と7月の2回執行
 僧侶が鳴らす双盤に合わせ
 妻戸台の
 大太鼓が参詣者によって叩かれる
 8月15日
 施餓鬼会(せがきえ)
  7月と8月の2回執行
 お盆に合わせ
 三界万霊有縁無縁の諸精霊が
 極楽へと生まれることを祈願
 ↓↑
 善光寺(ぜんこうじ)
 長野県
 長野市
 元善町
 無宗派の単立仏教寺院
 本尊=一光三尊阿弥陀如来
 は日本最古の絶対秘仏
 開帳は前立本尊で行う
 ↓↑
 山号
 「定額山(じょうがくさん)」
 天台宗の「大勧進」と25院
 浄土宗の「大本願」と14坊
 「大本願」=尼寺
 浄土宗=大本山善光寺大本願の法主
 ↓↑
 「四門四額(しもんしがく)」
 東門=「定額山善光寺」
 南門=「南命山無量寿寺」
 北門=「北空山雲上寺」
 西門=「不捨山浄土寺」
 ↓↑
 宗派の別なく宿願が可能な霊場
 女人禁制があった旧来の仏教の中では
 稀な女性の救済が挙げられる
 ↓↑
 三国渡来の絶対秘仏の霊像
 丈一尺五寸の本尊
 一光三尊阿弥陀如来像
 が本堂
 「瑠璃壇」厨子内に安置
 七年に一度の御開帳で
 金銅阿弥陀如来
 及
 両脇侍立像(前立本尊)
 が絶対秘仏の本尊の分身として公開
 ↓↑
 百観音(西国三十三所
     坂東三十三観音
     秩父三十四箇所)
 の番外札所
 結願寺の
 秩父三十四箇所の
 三十四番水潜寺で
 「結願したら
  長野の善光寺に参る」
 ↓↑
 本堂
 宝永4年(1707年)竣工
 設計
 甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当
 本尊
 阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置
 ↓↑
 仁王門
 鐘楼・梵鐘
 雲上殿
 大勧進
 大本願
 釈迦堂
 宝物館
 ↓↑
 ぬれ仏(延命地蔵尊)
 享保7年
 善光寺聖・法誉円信
 が全国から喜捨を集めて造立
 明暦の大火の
 「八百屋お七」の霊を慰めたもの
 「百屋お七のぬれ仏」
 ↓↑
 六地蔵
 爪彫如来
 親鸞が滞在した際に残した
 爪彫りの
 阿弥陀如来・・・
 ↓↑
 御供所
 仏に献ずる供物を調理したり
      寺僧が集まったりする
 ↓↑
 法然堂
 法然が宿泊
 法然の像を安置
 ↓↑
 六字名号碑
 融通念仏を血脈に加えた時の石碑
 ↓↑
 牛に引かれて善光寺参り
 思いがけず他人に連れられて
 ある場所へ出掛けること
 他人の誘いや思いがけない偶然で
 よい方面に導かれること
 ↓↑
 昔、長野の善光寺近くに住んでいた
 不信人で欲深い老婆が
 さらしていた布を
 隣の家の牛が
 角に引っかけて
 走り出したのを見て
 その牛を追っていくうちに
 善光寺にたどり着き
 それがきっかけで
 度々善光寺に参詣するようになり
 信仰の道に入ったという言い伝え
 ↓↑
 「牛に引かれて善光寺詣り」
 Goslings lead the geese to water.
 (雛がガチョウを水辺に連れて行く)
 ↓↑
 欲深い老婆は牛を追いかけ
 善光寺まで来てしまった
 善光寺の金堂前で、ふと足元を見ると
 牛のよだれが垂れて
 そのよだれが文字のように見え
 書かれていたのは
 「うしとのみ
  おもひはなちそ
  この道に
  なれをみちびく
  おのが心を
 (牛とのみ、思い過ごすな、仏の道に
  汝をみちびく、己が心を)」
 という文字
 ↓↑
 老婆は、欲を捨てて信仰の道に入る
 布を探すことは辞めて家に帰り
 信心深く過ごしていた
 お参りした観音堂で
 観音様の足元に
 牛に奪われた布が置いてあるのを見つけ
 老婆は
 牛と思ったのは観音様の化身だった
 さらに信心深くなり
 極楽往生を遂げることができた・・・
 ↓↑
 からすの赤ちゃん
 作詞・作曲
 海沼 實(かいぬま みのる)
 1909年(明治42年)1月31日
 ~
 1971年(昭和46年)6月13日
  ↓↑
 海沼實
 1932年(昭和7年)に上京
 東洋音楽学校(東京音楽大学)入学
 護国寺に
 「音羽ゆりかご会」を創設
 「お猿のかごや」
 (1938年(昭和13年)作詞 山上武夫)
 を出し同郷の作曲家
 「草川信」
 に師事して作曲を学んだ
 ↓↑
 「からすの赤ちゃん」
 「三苫やすし」作詞の
 「なぜな啼くの」
 に作曲するも
 「細田義勝」
 による作品が一足先に世に出て
 同作品に即興的な作詞を施して発表した
 発表時
 「三苫」に遠慮して
 作詞者名に
 「矢島邦子」
 としているが
 母方の叔父に当たる
 「矢島邦」をもじったもの
 戦後レコード化されて大ヒット
 ↓↑
 からすの赤ちゃん
  (作詞=海沼實)
 ↓↑
 からすの
 赤ちゃん   なぜなくの
 こけこっこの おばさんに
 あかいお帽子 ほしいよ
 あかいお靴も ほしいよと
 かあかあ   なくのね
 ↓↑
 めえめえ
 山羊(やぎ)さん なぜなくの
 お里の      母さんに
 おねむに     なったよ
 あまいおっぱい  頂戴(ちょうだい)ねと
 めえめえ     なくのね
 ↓↑
 迷子の鳩さん   なぜなくの
 みみずく     おじさんに
 夜路(よみち)は こわいよ
 ほおずき提灯   かしとくれと
 ほろほろ     なくのね
 ↓↑
 狐の赤ちゃん   なぜなくの
 三日月      おばさんに
 木の葉でかんざし 買っとくれ
 小石で花ぐし   買っとくれと
 こんこん     なくのね
 ↓↑
 原詩
 「三苫 やすし」
 「なぜなくの(啼くの)」
 ↓↑
 お山の 鴉は  なぜなくの
 夕焼け お日さんに 言うことにゃ
 赤い  ぞんぞ 頂戴な
 赤い  帯   頂戴なと
 カアカア    なくのね
 ↓↑
 田圃の 蛙は  なぜなくの
 雨降り お月さんに いうことにゃ
 傘を  かして 頂戴な
 みのを かして 頂戴なと
 ゲッコゲッコ  なくのね
 ↓↑
 牧場の 子馬は なぜなくの
 父さん お馬に いうことにゃ
 お靴を 買って 頂戴な
 お鈴を つけて 頂戴なと
 ヒンヒン    なくのね
 ↓↑
 かわいい お人形  なぜなくの
 お眼めが さめると いうことにゃ
 おいしい おめざを 頂戴な
 早く   起こして 頂戴なと
 マアマア なくのね
 ↓↑
 烏 なぜ啼くの
 烏は山に
 可愛七つの
 子があるからよ
 可愛 可愛と
 烏は啼くの
 可愛 可愛と
 啼くんだよ
 山の古巣へ
 行って見て御覧
 丸い眼をした
 いい子だよ
 (1995年に著作権消滅)
 ↓↑
 大正10年(1921年)
 児童文学雑誌
 『金の船』7月号
 に掲載
 ↓↑
 からす なぜ鳴くの
 からすは山に
 可愛い七つの
 子があるからよ

 可愛い 可愛いと
 からすは鳴くの
 可愛い 可愛いと
 なくんだよ
 ↓↑
 山の古巣(ふるす)に
 行って見て御覧
 丸い眼をした
 いい子だよ
 ↓↑
 ウシに曳かれて善光寺・・・長野県への移民は「百濟」から・・・
 ↓↑
 吉備津比古・・・ナゼ、吉の備えなのか・・・?
         漢字からすれば
        「吉師・吉士・吉志・岸」で「新羅」系だろう 
 ↓↑
 『日本書紀』
  彦 五十 狭芹 彦  命
 (ひこいさ せり ひこのみこと)
  吉備津 彦  命
 (きびつ ひこのみこと)
  ↓↑
 『古事記』
  比古 伊佐 勢理 毘古 命
 (ひこ いさ せり ひこのみこと)
     伊邪 那岐・伊弉 諾・・・奘=さかん=左官・佐官
     伊邪 那美・伊弉 冉
           ・・・冉=ゼン・ネン
              しなやか
              ゆく・すすむ・ゆっくりと進む
              ひげなどのように
              やわらかに
              ゆっくりと伸び進むさ
     冉=冄=髯=髟+冉・・・
       植物ならウリ科の「冉=蔓・つる・子づる・孫づる)」
  ↓↑
  大 吉備津 日子 命
 (おほきびつ ひこのみこと)
 その他の表記
 吉 備 都 彦
 ↓↑
 第7代
 孝霊天皇
 と
 妃の
  倭   国 香媛
 (やまとのくにかひめ
  絙  某 姉・・・倭迹迹日百襲姫命の母
 (はえ いろ ね)
  ・・・絙=糸+亘=くみひも・カン・ガン・コウ
       ゆるい・緩(ゆる)む・・・弛(たる)む
       組みひも・印綬
       大縄・太い綱・・・注連縄・〆縄
     某=甘+木・・・海女・海人・海部
 碆(はえ)=波+岩=バエ・ハエ=はや・・・?
         岩礁(ガンショウ)=礁(べー)
礁=石+焦(こげる・こがす・あせる)
          =石+隹+灬
         碓=石+隹=うす・タイ・・・小碓命
 潮岬付近から
 紀伊水道、四国南岸を経て
 九州東岸の
 都井岬に至る海域の
 「ハエ・ハヤ・ハイ・ベー」
 呼ばれる岩礁名・・・?
 日置(へき)・・・日本(ひのもと)?
 日=ニチ・ジツ・ひ・か・・・ヘ?
 蠅=蝿=はえ=生え・映え・栄え
     這え虫・・・
     蛆(うじ)虫から
     蝿が生える
     蚕=蛆蒸=うじむし=繭玉=絹糸
          桑ムカデ・・・扶桑=倭・大和・日本
          宇治=ウジ=氏・右治
          むし=無視・無死・無私・蟲・ムカデ
  ↓↑
  絙  某  弟
  蠅  伊呂 泥・・・妹
  蠅  伊呂 杼
 (はえ いろ ど)
  共に
  「和知都美命」の女(むすめ)
 ↓↑
  意富 夜麻登  玖邇 阿礼  比売  命
 (おほ やまと  くに あれ  ひめの みこと)
  イフ ヤマトウ クジ アレイ ヒバイ メイ
 との間に生まれた皇子
 ↓↑
 同母兄弟姉妹
 『日本書紀』
 「倭 迹迹日百 襲 媛命
  夜麻登登 母母曽 毘売」
 「倭 迹迹 稚屋 姫命
  倭 飛羽矢若屋 比売」
 『古事記』
 2人に加え
 「日子 刺肩別 命」
 を記載
 異母兄弟
 吉備氏関係の
 稚   武    彦 命
 若日子 建 吉備津日子命
 ↓↑
 『日本書紀』
 「四道将軍」
 崇神天皇
 十年
 九月九日条
 吉備津彦を
 西道に派遣
 ↓↑
 大彦命を
 北陸に派遣
 ↓↑
 武渟川別
 東海に派遣
 ↓↑
 丹波道主命
 丹波に派遣
 ↓↑
 崇神天皇
 十年
 九月
 二十七日条
 武埴安彦命
 その妻の
 吾田媛
 の謀反
 ↓↑
 五十狭芹彦命(吉備津彦命)
 が
 吾田媛を
 ↓↑
 大彦命・・・阿倍(阿部)の祖
 と
 彦国葺
 が
 武埴安彦命
 を討った
 ↓↑
 崇神天皇
 十年
 十月
 二十二日
 に出発し
 崇神天皇
 十一年四月二十八日
 に平定報告
 ↓↑
 崇神天皇
 六十年七月十四日条
 吉備津彦
 と
 武渟川別
 は
 出雲振根
 を誅殺
 ↓↑
 『古事記』
 孝霊天皇の時
 弟の
 「若日子建吉備津彦命
 (稚  武   彦命)」
 とともに派遣されたのは
 針間(播磨)の
 「氷河之前」
 に忌瓮(いわいべ)を設置
 針間を道の口として
 「吉備国」
 を平定
 崇神天皇段での
 派遣の説話はない・・・
 ↓↑
 墓・霊廟
 「大吉備津彦命」の墓
 岡山県
 岡山市
 中山
 茶臼山
 古墳
 墳丘長108メートルの
 前方後円墳
 ↓↑
 吉備津神社(岡山県岡山市、備中国一宮)
 吉備津彦命の霊廟
 吉備津神社社伝
 吉備の中山の麓に
 茅葺宮を建て
 281歳で死亡
 ↓↑
 後裔
 氏族
 弟の
 「稚武彦命」
 を吉備臣(吉備氏)祖とする
 『古事記』
 「吉備津彦命」
 を
 吉備上道臣の祖
 稚武彦命
 を
 吉備下道臣
 笠臣の祖とする
 ↓↑
 『続日本紀』
 天平神護
 元年(765年)
 五月
 二十日条
 播磨国
 賀古郡の
 馬養造人上が
 「仁徳天皇の御宇に
  吉備津彦の苗裔の
  上道臣
  息長借鎌が
  播磨国
  賀古郡
  印南野に住み
  その6世孫の
  上道臣
  牟射志
  が聖徳太子に仕えて
  馬司に任ぜられたので
  『庚午年籍』
  では馬養造とされたが
  これは誤りであるから
  印南野臣の姓を賜りたい」
 と言上し
 「印南野臣」
 が賜姓された
 ↓↑
 『新撰姓氏録』
 和泉国未定雑姓
 椋椅部首
 「吉備津彦五十狭芹命」の後
 『先代旧事本紀・国造本紀』
 国造
 志賀 高穴穂朝(成務天皇)の御世
 吉備臣同祖の
 吉備都命六世孫の
 「午佐自命」
 を国造に定め
 豊後国
 国埼郡
 国前郷
 周辺にあたる
 葦分国造
 纏向日代朝(景行天皇)の御世
 吉備津彦命の子の
 「三井根子命」
 を国造に定めた
 肥後国
 葦北郡
 葦北郷周辺
 ↓↑
 吉備津神社(岡山県岡山市・備中国一宮)
 の縁起
 吉備津彦命が吉備平定にあたって
 「温羅(うら・うんら・おんら)」
 という鬼を討った
 吉備津彦命は
 犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)
 楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
 留玉臣命(とめたまおみのみこと)
 という3人の家来とともに討ち
 その祟りを鎮めるために
 「温羅」の首を吉備津神社の釜の下に封じた
 「桃太郎」のモチーフ・・・
 吉備津神社の
 鳴釜神事は
 上田秋成の
 『雨月物語』中の
 「吉備津の釜」に記録
 ↓↑
 吉備は
 「真金(まかね)吹く吉備」で
 鉄の産地
 温羅は製鉄技術の渡来人
 鉄文化を象徴する人物
 吉備津神社の本来の祭神は
 「温羅」・・・
 ↓↑
 全国の吉備津彦命を祀る
 神社
 吉備津神社(岡山県岡山市) 備中国一宮・総本社
 吉備津彦神社(岡山県岡山市)備前国一宮
 吉備津神社(広島県福山市) 備後国一宮
 田村神社(香川県高松市)  讃岐国一宮
 吉備津神社         岡山県周辺に分布
 御崎神社          岡山県周辺に分布
 艮御崎神社
 (うしとらみさきじんじゃ
  うしとらおんざきじんじゃ)岡山県周辺に分布
 ↓↑
 吉備津彦の三人の家来
 犬養縣主(犬)岡山県笠岡市の「縣主神社」
 猿女君 (猿)岡山市北区の「鼓神社(二宮鼓神社)」
 鳥飼臣 (雉)岡山県都窪郡早島町の「鶴崎神社」
 ・・・説
 「鬼」=牛(うし・ゴ)=都怒我阿羅斯等
            (つぬがあらしと)
             古代朝鮮人物
             加羅国王の息子
            「都怒賀阿羅斯止」
            「都怒何阿羅志止」
            「都奴加阿羅志等」
             と表記
            別名
            「于斯岐阿利叱智干 岐
            (うしきありしちかんき)」
 ↓↑
 「備後」
 名称と由来
 吉備(きび)国を
 備前国(ビゼン⇔美作国も再分割)
 備中国(ビチュウ)
 備後国(ビンゴ)
 に三分して設置
 平安時代の
 『和名類聚抄』に
 「備後国
 (きびのみちのしりのくに)」
 と読む
 ↓↑
 明治維新の直前の領域
 広島県
 府中市
 庄原市
 世羅郡
 神石郡の全域
 +
 福山市の大部分
 (大門町の一部を除く)
 尾道市の大部分
 (瀬戸田町各町・因島洲江町・因島原町を除く)
 三次市の大部分
 (秋町・粟屋町を除く)
 三原市の一部
 (大和町萩原・大和町福田・大和町蔵宗
  大和町篠・大和町上徳良
  大和町
  下徳良
  &
  円一町、宮沖、皆実、宮浦、頼兼、大畑町
  八幡町垣内、久井町坂井原、久井町羽倉
  久井町泉以東)
  東広島市の一部(豊栄町飯田・豊栄町吉原)
  岡山県笠岡市の一部(用之江の一部)
  島根県
  仁多郡
  奥出雲町の一部(八川字三井野)
 ↓↑
 7世紀後半
 吉備国を
 備前国(後に美作国も再分割)
 備中国
 備後国
 に三分して設定
 ↓↑
 海岸部
 瀬戸内海の中間点に位置
 鞆の浦(福山市)
 尾道(尾道市)
 港として栄え続けた
 神護景雲二年(768年)
 全国から
 9人の善行の者が選ばれ
 終身の田租が免ぜられる表彰
 備後国
 葦田郡
 の人で
 網引公金村
 8歳で父に代わって公務に就き
 父母に孝養を尽くして
 爵二級に叙された・・・
 ↓↑
 江戸時代
 有力外様大名の
 山陽道に睨みをきかす
 備後国
 南東部
 と
 備中国
 南西部
 の一部に
 備後福山藩が設置
 初代の
 水野勝成
 をはじめとする有力譜代大名
 徳川一門が藩主
 尾道は
 安芸広島藩領の港町として栄えた
 三原には広島藩の支城が設けられ
 代々広島藩筆頭家老の
 「浅野家」
 が城主を務めた
 三次にも当初
 広島藩の支藩があったが取り潰された
 後に
 一部は
 「豊前中津藩領」となる
 ↓↑
 水野
 福山藩が断絶後
 府中市北部
 甲奴郡
 は幕府天領
 神石郡などの一部は
 豊前国
 中津藩領になった
 ↓↑
 明治維新後の廃藩置県
 備後国東南部に
 福山市を県庁とする
 福山県が設立
 隣接の
 倉敷県と統合され
 福山市を県庁とする
 深津県が設立されたが
 短期間で県庁が
 笠岡市に変更となり
 小田県へと改称
 1875年(明治八年)
 小田県が
 岡山市に県庁を置く
 岡山県へ編入された
 1876年(明治九年)
 備後地方のみ分割され
 広島県へと編入されたまま今日に至る
 ↓↑
 近世以降
 御調郡 安芸広島藩
 甲奴郡=幕府領・安芸広島藩・豊前中津藩
 世羅郡=安芸広島藩
 三谿郡=安芸広島藩
 奴可郡=安芸広島藩
 三上郡=安芸広島藩
 三次郡=安芸広島藩
 恵蘇郡=安芸広島藩
 深津郡=福山藩
 沼隈郡=福山藩
 芦田郡=福山藩
 品治郡=福山藩
 安那郡=福山藩、豊前中津藩
 神石郡=幕府領、福山藩、豊前中津藩
 ↓↑
 慶応四年5月16日(1868年7月5日)
  =幕府領が倉敷県の管轄
 明治四年7月14日(1871年8月29日)
  =廃藩置県により
   福山県、広島県、中津県
   の飛地となる
   11月15日(1871年12月26日)
  =第1次府県統合により
   沼隈郡・深津郡・安那郡
   品治郡・芦田郡・神石郡
   が深津県
   御調郡・世羅郡・三谿郡
   三上郡・奴可郡・甲奴郡
   三次郡・恵蘇郡
   が広島県の管轄
 明治五年6月5日(1872年7月10日)
  =深津県が小田県となる
 明治八年(1875年)12月20日
  =小田県の管轄区域が
   岡山県の管轄
 明治九年(1876年)4月18日
  =全域が広島県の管轄
 昭和28年(1953年)12月1日
  =比婆郡(旧・奴可郡)
   八鉾村の一部(油木字三井野の一部)が
   島根県
   仁多郡
   八川村に編入(越境合併)
 昭和41年(1966年)11月1日
  =岡山県
   笠岡市
   茂平
   字堂面
   及び
   阪里の区域の各一部を編入
  (大門町野々浜字カチヤ坂の一部)
   が
   岡山県笠岡市に編入
 備後国府は
 芦田郡
 広島県府中市元町付近に所在・・・
 ↓↑
 神社
 延喜式内社
 『延喜式神名帳』
 小社17座17社が記載
 大社はない。
 ↓↑
 総社神社(小野神社境内社)
 総社
 一宮
 総社=総社神社
  (府中市元町、北緯34度34分37.42秒
         東経133度14分28.05秒)
    小野神社境内社元の場所は不明
 一宮
 吉備津神社
 (福山市新市町宮内
  北緯34度34分09.61秒
  東経133度16分15.85秒)
 社伝
 平安時代
 備中国
 吉備津神社(岡山県岡山市)
 から分立したというが
 実際には12世紀ごろに創建
 一宮と称されるのは中世以降
 素盞嗚神社(福山市新市町戸手
       北緯34度33分09.66秒
       東経133度16分45.67秒)
 吉備津神社とともに
 一宮に数えられる場合がある

 二宮=真宮神社(福山市新市町常)
 一宮である吉備津神社
 三宮である府中市栗柄町の南宮神社
 と共に
 備後崇敬三社
 ↓↑
 二宮=二宮神社(福山市神辺町八尋
         北緯34度33分49.72秒
         東経133度24分54.94秒)
 三宮=南宮神社
 安国寺利生塔
 備後安国寺 (福山市鞆町後地)
 備後護国神社(福山市丸之内一丁目)
 戊辰戦争以来の
 旧備後国内出身者の
 戦歿者
 と
 福山藩主
 阿部家歴代が祭神
 国司神社(くにしじんじゃ)
 (広島県福山市芦田町上有地423)
 吉備国の国司として
 吉備大宰を務めた
 「石川王」が祭神
 ↓↑
 安那(やすな)郡
 全6郷
 『和名類聚抄』は
 「夜須奈」とも
 「婀娜(あな)」とも訓
 『日本書紀』
 広国押武金日天皇
 2年5月9日(535年6月24日)条
 「婀娜国」
 1898年(明治31年)10月1日
 深津郡と統合
 深安郡の一部となる
 深津郡
 全3郷
 養老5年4月20日(721年5月20日)
 安那郡の一部を割いて成立
 1898年(明治31年)10月1日
 安那郡と統合
 深安郡の一部となる
 ↓↑
 神石(かめし)郡
 全4郷
 「かみし・ジンセキ」
 「亀石」とも表記される
 『日本書紀』
 天渟中原瀛真人天皇
 2年3月17日(673年4月8日)条
 「亀石郡」とある
 奴可郡
 全4郷
 1898年(明治31年)10月1日
 三上郡・恵蘇郡と統合
 比婆郡の一部となる
 沼隈郡
 全4郷
 品治(ほんぢ・ほんち)郡
 全7郷
 「品遅」とも表記
 1898年(明治31年)10月1日
 芦田郡と統合され廃止
 蘆品郡の一部となる
 葦田郡
 全6郷
 「芦田・蘆田」とも表記
 和銅2年10月8日(709年11月13日)
 品遅(品治)郡から3里を編入
 1898年(明治31年)10月1日
 品治郡と統合
 蘆品郡の一部となる
 甲奴郡
 全3郷
 「甲努」とも表記
 芦田郡より分離し成立
 和銅2年10月8日(709年11月13日)
 甲努郡甲努村に郡を建てる
 三上郡
 全5郷。1898年(明治31年)10月1日
 廃止され
 比婆郡の一部となる
 恵蘇郡
 全3郷
 1898年(明治31年)10月1日
 三上郡・奴可郡と統合し
 比婆郡の一部となる
 御調(みつき・みつぎ)郡
 全7郷
 「御月・三月」とも表記
 1898年(明治31年)4月1日
 尾道町が尾道市となる
 世羅郡
 全4郷
 三谿郡
 全5郷
 1898年(明治31年)10月1日
 廃止され
 双三郡の一部となる
 三次郡
 全4郷
 1898年(明治31年)10月1日
 三谿郡と統合
 双三郡の一部となる
 吉刀郡
 『拾芥抄』に記載
 ↓↑
 律書残篇
 延喜式はともに14郡
 これ以前に
 甲奴郡が
 葦田郡から
 深津郡が
 安那郡から分かれ
 もとは12郡・・・
 鎌倉時代中期成立
 『拾芥抄』
 吉刀郡を加え
 十五郡を載せる
 1898年(明治31年)4月1日
 御調郡尾道町に市制を施行
 御調郡から離れて
 尾道市となる
 14郡1市となる
 1898年(明治31年)10月1日
 郡制施行のため9郡を廃し
 4郡を置く
 9郡1市となる
 ↓↑
 江戸時代
 ↓↑
 安芸広島藩
 福島氏 (49万8000石)

 浅野氏(42万6000石)
 備後福山藩

 水野家(10.1万石)
 →天領
 →奥平松平家(10万石)
 →阿部家(10万石)

 三次藩(広島藩支藩、5万石)
 ↓↑
 国司
 ↓↑
 備後守
 波多朝臣足人=天平勝宝6年(754年)任官[3]
 上道正道=天平宝字8年正月(764年)任官
 藤原園人=延暦8年(789年)任官
 藤原氏助=寛平元年(889年)任官
 藤原忠平=寛平9年(897年)任官(権守)
 橘惟風=延長元年(923年)任官
 藤原元名=延長5年(927年)任官
 源信明=天暦元年(947年)任官
 藤原朝成=天暦3年(949年)任官(権守)
 藤原致忠=天徳3年(959年)任官
 藤原行成=長保元年(999年)任官
 藤原祐家=康平2年(1059年)任官(権守)
 源資賢=久安2年(1146年)任官
 源行家=寿永2年(1183年)任官
 源家長=1210年頃
 ↓↑
 備後介
 ↓↑
 山口佐美麻呂:宝亀3年(772年)任官
 石川諸足=宝亀5年(774年)任官
 市往福貞
 大江維時
 藤原道隆=貞元元年(976年)任官(権介)
 藤原行成= 正暦元年(990年)任官(権介)
 藤原為通=永治2年(1142年)任官(権介)
 藤原実宗=保元4年(1159年)任官
 丹波雅忠
 今出川公直
 ↓↑
 守護
 鎌倉幕府
 1184年~?   土肥実平
 1223年~?   長井時広
 1264年~?   長井泰重
 1286年~?   長井頼重
 1320年~?   長井貞重
 室町幕府
 1335年~1338年 朝山景連
 1338年~1339年 仁木義長
 1339年~1340年 石橋和義
 1340年~1342年 細川頼春
 1342年~1349年 高師泰
 1349年~1351年 細川頼春
 1351年     =上杉重季
 1351年~1356年 岩松頼宥
 1356年~1365年 細川頼有
 1365年~1371年 渋川義行
 1371年~1379年 今川貞世
 1379年~1389年 山名時義
 1389年~1390年 山名義熙
 1390年~1392年 細川頼之
 1392年~1400年 細川頼長・細川基之
 1401年~1433年 山名時熙
 1433年~1454年 山名持豊
 1454年~1462年 山名教豊
 1462年~1476年 山名是豊
 1476年~1487年 山名政豊
 1489年~1497年 山名俊豊
 1499年~1512年 山名致豊
 1512年~1528年 山名誠豊
 1552年~1561年 尼子晴久
 1562年~1563年 毛利隆元
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支暦
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

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苟=艸+句=茍=いやしくも=𦰶=𠷜 =言葉を慎(つつし)む

2022-08-08 21:20:22 | 古事記字源

 百済から倭国へ派遣された 知識人や技術者・・・新羅も
 ↓↑
 紫禁城
 天帝が住んでいる
 北極星を紫微星
 北極星の周辺を回る星座の辺りを
 「紫微垣=紫宮」
 「天帝の命を受けた
  皇帝(天子)」
 の住居
 「禁城(庶民が入るのを禁止された城)」
 の熟語
 「紫禁城」
 世界の中心の領域
 天帝に代って
 地上を治める皇帝の住む宮殿
 「天子は南面す」
 北に皇帝の宮殿を設置
 ↓↑ 
 女房詞でイワシ=醤油=むらさき=たまり
 イワシ(鰯・鰮)
     岩子・磐史・伊波氏・維和史・違和詞?
     岩倉具視⇔磐余=神武天皇 
 が群集すると海面が紫になる
 「鮎(あゆ)」
 に勝るところから
 「紫」は
 「藍(あい)」
 に勝るとかけた
 ↓↑
 百済から倭国へ派遣された 知識人や技術者・・・新羅も
 ↓↑
 乨=台+乚(イン・乙=オツ・イツ)・・・
   ムクチな乙(きのと・おと)
   シ
   はじまる・はじめ・はじめる
   始=兘=𠃭=𠙉・・・
  「壹與・壱参歳」の「邪馬(靡)台(臺)国」
   それ以降続く物事の最初
   出だし
  「始」=物事はまず~から始める
     ⇔始(オンナのムクチ)好(オンナの子)
      ~から始まる
  ↓↑
 「紫陽花」と「胡瓜」・・・
  紫=此+糸=むらさき
        醤油(ショウユ)
       =醤(ひしお)=肉醤(ししびしお)
   =止+匕+幺+小
   =ト+丄+匕+幺+ハ+亅
  ↓↑ 
 女房詞でイワシ=醤油=むらさき=たまり
 イワシ(鰯・鰮)
     岩子・磐史・伊波氏・維和史・違和詞?
     岩倉具視⇔磐余=神武天皇 
 が群集すると海面が紫になる
 「鮎(あゆ)」
 に勝るところから
 「紫」は
 「藍(あい)」
 に勝るとかけた
 ↓↑

 「紫禁城」かけた

 天帝が住んでいる
 北極星を紫微星
 北極星の周辺を回る星座の辺りを
 「紫微垣=紫宮」
 「天帝の命を受けた
  皇帝(天子)」
 の住居
 「禁城(庶民が入るのを禁止された城)」
 の熟語
 「紫禁城」
 世界の中心の領域
 天帝に代って
 地上を治める皇帝の住む宮殿
 「天子は南面す」
 北に皇帝の宮殿を設置
  ↓↑
  㗪=口+紫
    口+此+糸
    口+止+匕+幺+小
  ↓↑
  䔝=艹+紫
    艹+此+糸
    艹+止+匕+幺+小
    サイ
    セ
  ↓↑
  橴=木+紫
    木+此+糸
    木+止+匕+幺+小
  ↓↑
  陽=阝+昜(日+万+〃)・・・易=日+勹+〃
  花=艹+化=華
  胡=古+月
  瓜=爪+ム
  ↓↑
 𤫱=句+瓜
   コウ・ク
   𤫱𤬏(コウロウ)
   カラスウリ(烏瓜)
   ウリ科カラスウリ属の草
   カラスウリ属の一種
   別名=「𦸈𧁾(カツロウ)=カラスウリ」
 ↓↑
 虽=口+虫
   スイ
   いえども
   雖=𨿽=𧈧
   たとえ~であっても
   ~ではあるけれども
   トカゲ(蜥蜴)に似た大形動物
 ↓↑
 苟=艸+句=茍
   コウ・ク
   いやしくも
   草名
   かりそめに~する
   間に合わせに~する
   取り敢えず~する
   苟且(コウショ)
   一時しのぎ
   その場限り
   いい加減なさま
   誠に・本当に
   いやしくも
   もしも~ならば
 ↓↑
 茍=艸+句
   キョク・コク
   𦰶=𠷜
   言葉を慎(つつし)む
 ↓↑
 蚼=虫+句
   コウ・ク・グ
   𧊛=虫+后
   蚼蟓(コウショウ)
   玄蚼(ケンク)
   オオアリ(大蟻)・大形のアリ(蟻)
   別名「蚍蜉(ヒフ)・螞蟻(バギ)」
 ↓↑
 袧=衣+句
   コウ・ク
   喪服の一種
 ↓↑
 訽=言+句
   コウ・ク
   詬
   面と向かって悪口を浴びせ掛ける
   罵(ののし)る・辱(はずかし)める
   奊訽・謑訽(ケイコウ)
   節操がないさま
   恥(はじ)
 ↓↑
 㗪=口+紫
   口+此+糸
   口+止+匕+幺+小
 ↓↑
 䔝=艹+紫
   艹+此+糸
   艹+止+匕+幺+小
   サイ
   セ
 ↓↑
 橴=木+紫
   木+此+糸
   木+止+匕+幺+小
 ↓↑
 花=華
 異体字
 华(簡体字)・蕐(異体字)・䅿
 䓙・䔢・乖・咼・崋・桦・樺・歪
 竵・花・蘤・譁・鷨・華
 𠌶(本字)・𠫫(同字)・𡙛・𡙠
 𡚅・𡸓・𡼀・𡼙・𡾀・𣓚・𦮴・𦰗
 𦶎・𦹬・𦾓・𧅅・𫈐
  ↓↑
 「艸+垂+于」・・・于(ウ・行く)・迂回
  于=ものがつかえて丸くなること
    それに花が垂れた様を表す
   「垂」を加えたものが元形
    丸い花をあらわす
    「はな」の形象
    「拝」の旁の形が元形
     音は「花」からの仮借・・・
 ↓↑
 乨=台+乙
   シ
   はじまる・はじめ・はじめる
   始=兘=𠃭=𠙉
   それ以降続く物事の最初
   出だし
  「始」=物事はまず~から始める
      ~から始まる
  「初」=物事はまず初めに~する
      ~の初め
      初めて
      ~の時に至ってやっと

 柯=木+可=𣝺=木+哥+木
   カ
   斧(おの)などの柄・・・「丆・丅・T・丁」
           ・・・「ナ」・・・鉈(なた)
   草木の茎や枝
   石斧
   縦斧は刃が柄と平行
   柄と刃部が一直線に
   横斧は刃と柄が直交
   するように付けられている
   縦斧(平行刃斧)を斧(オノ)
   横斧(直交刃斧)を手斧(チョウナ)
   と呼んでいる
   鉞(マサカリ)は
   大型の縦斧(平行刃斧)



  ↓↑
 『日本書紀』
 6世紀に
 百済から倭国へ派遣された
 知識人や技術者についての記録が多数
 古代の日本の学術・文化に大きな影響
 『日本書紀・応神紀』
 「王仁(和邇吉師)」
 日本に
 『千字文』・『論語』を伝えた・・・
 6世紀に軍事支援の代償として
 派遣された五経博士についての記録
 513年(継体天皇七年)
 「段楊爾」
 が派遣され
 「漢高安茂」
 「馬丁安」
 「王柳貴」
 らの五経博士らが交代で
 百済から派遣され
 倭王権に仕えた
 彼らと共に
 医、易、暦
 の諸博士や
 「曇慧」などの僧侶
 律師、比丘尼、造仏工、造寺工
 なども倭国へ贈られた
 船氏の祖とする
 「王辰爾」
 は百済に出自するという説話が残る
 「王仁」
 『千字文』
 が実際に編纂されたのは
 応神朝よりもかなり後の時代で
 その記録は伝説に過ぎない
         ・・・何時の伝説⇔「千字文」
 日本列島における
 初期の漢字の導入が
 百済系を中心とした渡来人を経由
 「白村江の戦い」後
 多数の百済人が倭国へ亡命
 百済王子
 「豊璋」の弟
 「善光(禅広)」
 の子孫は倭国の朝廷から
 「百済王(くだらのこにきし)」
 の姓を賜り
 日本の氏族としての
 百済王氏が形成された
 知識人・技術者として
 倭王権に仕え
 一定期間のみで
 交代する派遣技術者ではなく
 倭国にとって帰化人として
 貴重な存在となった
 ↓↑
 倭系
 百済官僚
 「百済本紀」
 倭関係記事は
 397年~428年
 30年間に集中
 その後7世紀まで言及がない
 『隋書・東夷伝』
 「百濟之先、出自高麗國
  其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」
  ↓↑
 「倭系百済官僚」
 倭人であるが
 百済王権に仕えた人々を指す
 5世紀後半
 交易・外交・軍事
 などを契機として
 派遣された豪族らと
 現地女性との間に生まれた
 「韓子・韓腹」
 と称される混血が多数存在
 倭から派遣された使者が長期的に
 任那・百済に居住
 「上部徳率科野次酒
  物部連奈率用歌多
  紀臣奈率弥麻沙
  倭系の氏
 (科野氏、物部氏、紀氏等)
  を持つ人物が
  百済の官職(徳率、奈率)を
  帯びていることによって判別」
 ↓↑
 穂積押山
 斯那奴阿比多
 紀弥麻沙
 物部麻奇牟(莫哥武とも)
 斯那奴次酒(科野次酒)
 物部用歌多
 許勢哥麻
 物部哥非
 科野新羅
 物部烏
 日羅
  ↓↑
 「穂積押山」
 は
 「委意斯移麻岐弥」
 と呼ばれ
 「既酒臣、印支弥、吉備臣、河内直」
 は百済によって
 使役され
 倭系百済官僚であるとする説
 「印支弥」
 は倭系百済官僚であるとするならば
 新羅に通じて
 母国の百済を攻撃しようとしたことになるので
 「印支弥」
 は百済在住の倭人であり
 百済の権力を後ろ盾として
 倭王権に臣従して
 『倭臣』となり
 初期は百済に従い
 後に倭の利益になるよう行動した」
 とする説
  ↓↑
 「前部施徳日佐分屋」
 「河内部阿斯比多」
 がいる
 「日佐氏」は渡来系の氏族
 「分屋」の頃には
 未だ百済人であったのか
 「日佐氏」は既に倭に渡来し
 倭人として百済に渡っていたのかは不明
 「阿斯比多」
 は朝鮮から倭に派遣された人物
 ↓↑
 倭系百済官僚
 初期には県城以下の
 地方官僚クラス(六品相当の奈率)
 欽明期後半
 倭系百済官僚の地位が上昇し
 五部名を付す
 都下に居住する官僚となった・・・
  ↓↑
 『隋書・百済伝』
 百済は多民族的国家
 軍事・外交・行政には百済人だけでなく
 中国系や倭人系の能力ある者たちも登用
  ↓↑
 「日羅」が安閑期に派遣
 彼の父の名前
 「火葦北国造阿利斯登」
 は、半島系の名前であり
 父の代から活動
 「斯那奴阿比多」
 「日本阿比多」とも表記され
 「斯那奴」は地名ではあるが
 「科野直」
 のような氏姓が成立する以前の表記
 雄略期から継体期
 百済に渡り官僚化した・・・
 ↓↑
 全羅南道
 栄山江流域に広く分布する
 前方後円墳
 墳形は
 「長鼓墳」とも
 ↓↑
 王号
 『周書・百済伝』
 王は
 「於羅瑕」
 を号し
 民衆は
 「鞬吉支」
 と呼んでいた・・・
 王妃は
 「於陸」
 と呼ばれていた
 『釈日本紀』の秘訓では
 ↓↑
 君 「キシ」
 王 「コキシ」
 大王「コニキシ」
 という訓み
  ↓↑
 「鞬吉支」=「コニキシ」に対応?
  ↓↑
 『釈日本紀』秘訓
 高句麗の王
 「ヲリコケ」
 夫人
 「オリクク」
 の訓み
 「於羅瑕」
 「於陸」
 と関係・・・
 ↓↑
 『三国史記』
 始祖
 「温祚王」
 の時代から
 左輔・右輔の官名が見られる
 高句麗における最高官位と同名
 高句麗では
 新大王のときから
 国相が最高官位となった
 ↓↑
 佐平制
 百済
 第8代の
 古尓王の27年(260年)
 一品官の
 六佐平(各種事務の担当長官)
 15階の官
 16階からなる官制が整備
 実際に
 佐平制の雛形が整ったのは
 6世紀頃
 第18代
 「腆支王」の4年(407年)
 六佐平の上に
 上佐平の官位
 上佐平は
 軍事統帥権
 国内行政権
 を総括
 「宰相」に相当
 「左輔・右輔」にも相当
 『日本書紀』には
 大佐平
 上佐平
 中佐平
 下佐平
 も見え
 上・中・下の佐平を総称して
 「三佐平」
  ↓↑
 『周書・百済伝』
 百済の官位には
 十六等級があり
 佐平(左平)が最上位の一品
 定員は5名
 六品以上の冠には
 銀製の花飾りがついていた
 各官職の帯の色は
 七品が紫
 八品が皁
 九品が赤
 十品が青
 十一品・十二品が黄
 十三品以下は白
 三品以下は定員がなかったこ
 ↓↑
 官位
 佐平(さへい)一品官
 6種類に種別
 内臣佐平(ナイシンサヘイ) =宣納(王命の伝達)
 内頭佐平(ナイトウサヘイ) =庫蔵(財政)
 内法佐平(ナイホウサヘイ) =礼儀(儀式)
 衛士佐平(エイシサヘイ)  =宿衛兵(王の禁軍・近衛兵)
 朝廷佐平(チョウテイサヘイ)=刑獄(司法)
 兵官佐平(ヘイカンサヘイ) =外兵馬(対外軍事)
 達率(タツソツ) =二品官
 恩率(オンソツ) =三品官
 徳率(トクソツ) =四品官
 扞率(カンソツ) =五品官
 奈率(ナソツ)  =六品官
 将徳(ショウトク)=七品官
 施徳(シトク)  =八品官
 固徳(コトク)  =九品官
 季徳(キトク)  =十品官
 対徳(タイトク) =十一品官
 文督(ブントク) =十二品官
 武督(ブトク)  =十三品官
 佐軍(サグン)  =十四品官
 振武(シンブ)  =十五品官
 克虞(コクグ)  =十六品官
 ↓↑
 官庁
 内官
 前内部
 穀部
 内掠部
 外掠部
 馬部
 刀部
 功徳部
 薬部
 木部
 法部
 後官部
 ↓↑
 外官
 司軍部
 司徒部
 司空部
 司寇部
 點口部
 客部
 外舎部
 綢部
 日官部
 都市部
 ↓↑
 文化
 墓制
 百済の位置(大韓民国内)
 百済における墓制の特徴
 規模が小さい
 墳墓に記念的な外観を求めなかった
 ↓↑
 朝鮮半島南部
 三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の地域
 三国時代以前から
 木棺を埋葬主体とする木棺墓
 百済の初期の墓制も
 馬韓以来の伝統
 ↓↑
 馬韓地域
 埋葬設備の周りに
 口の字型
 コの字型
 に溝を張り巡らせた
 周溝墓という形態が主流
 ↓↑
 地下に埋葬を行った
 土壙木棺墓
 楽浪郡の影響で形成
 木棺の周りに
 木槨(棺を納めるための枠)
 を組んだ木槨墓
 葺石を持った円形の墳丘に
 木棺を修める木棺封土墳(葺石封土墳)
 石村洞古墳群には
 多数の積石塚
 石村洞3号墳は古墳群最大級の大きさ
 ↓↑
 武寧王陵入口
 熊津時代の墳墓
 宋山里古墳群
 武寧王陵
 塼築墳(塼室墳)
 塼と呼ばれる粘土を焼いた煉瓦によって構築
 ↓↑
 百済の周縁部の墓
 公州(熊津)
 新鳳洞古墳群
 4世紀から6世紀にかけて造営
 土壙墓
 竪穴式石室墓
 横穴式石室墓等
 伽耶地方と関係の深い土器などが発見
 ↓↑
 公州
 水村里古墳群で
 木槨墓
 竪穴式石室墓
 横穴式石室墓
 ↓↑
 全羅南道
 甕棺墓が墓制の中心
 ↓↑
 仏教
 扶餘陵山里出土百濟金銅大香爐
 百済の仏教公伝
 『三国史記』『三国遺事』『海東高僧伝』
 などの記述
 枕流王元年(384年)
 東晋から
 胡僧の
 「摩羅難陀」を迎えた
 翌年には漢山に寺を創建
 ↓↑
 百済最大規模
 弥勒寺跡 石塔
 熊津時代
 武寧王陵の
 華文装飾塼
 仏教寺院跡
 公州(熊津)付近に立地
 527年
 大通寺
 百済最古の本格的な伽藍
 日本の
 四天王寺式伽藍配置と同様
 南朝
 梁の武帝のために
 聖王の時代に建立
 ↓↑
 泗沘時代
 多数の仏教寺院が建立
 『周書・百済伝』
 「僧尼寺塔甚だ多し」
 遷都直後から寺院建設が始まった
 ほとんどが
 大通寺と同じく
 四天王寺式伽藍配置の寺院
 講堂を持たない
 扶蘇山西腹寺跡
 仏塔を持たない
 東南里寺跡など
 7世紀
 全羅北道の益山
 帝釈寺
 弥勒寺
 が造営
 泗沘の北西
 金剛寺跡
 烏含寺跡
 瑞山
 泰安の
 摩崖仏のような石仏

ー↓↑ー--

 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
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「Q瓜」の選択・・・窮理・究理・鳩里・九里・胡瓜・🥒・・・

2022-08-04 23:45:39 | 古事記字源

 「阿部 正弘」のご先祖さま=「大彦命=大毘古命」と自称

 八月四日、今朝、30cm以上の長くて太い「キュウリ」を一本収穫・・・
 今のところ合計二本目、トマトは既に二個収穫して食べたが・・・
 庭の畑のトマトは赤く熟してはいない・・・薄緑色・・・
  ↓↑
 「Q瓜」の選択・・・窮理・究理・鳩里・九里・胡瓜・🥒・・・
                  浦賀久里浜
  ↓↑
 日本国内の歴史的な
 渡来帰化人である
 新羅(斯盧・辰韓)・・・・・・白
 と
 百済(百濟・伯濟・馬韓)・・・赤
 の抗争
  ↓↑
 「阿部 正弘」
  &(と・アンド)・・・・「8の変形」or「Sの変形」or「∞の変形」?
    譯 and(∩・⋀)=あんど=安堵・安土・安渡
 「彼理・ 伯理」=「ペリー」・・・屁理意・経理意・・・屁理屈
      伯済=百濟・・・?
  ↓↑
 「マシュー・カルブレイス・ペリー
  Matthew Calbraith Perry」
  ↓↑
 1794年4月10日
 ~
 1858年3月4日
      大運1852年10月(58歳)甲戌偏官
 甲 寅(己丙甲)偏官・比肩長生⇔戊午比肩
 戊┏辰(乙癸戊)比肩・正官冠帯⇔甲寅偏官
 戊┗戌(辛丁戊)  ・傷官 墓⇔丙申偏印・魁罡
 戊 午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔甲午偏官
   辰巳空亡 旧3/11(翼宿)  氏宿
 ↓↑
 アメリカ海軍提督・代将
 兄 オリバー・ハザード・ペリー
 江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し
 開港 への交渉を要求
 「ペルリ(漢字では彼理 / 伯理)」
 ↓↑
 1851年5月29日(嘉永四年四月三十日)
 米大統領
 フィルモアは
 日本の開国と通商関係を結ぶ目的で
 東インド艦隊司令官
 代将
 ジョン・オーリック
 に遣日特使としてその任務を与え
 1851年6月8日
 蒸気フリゲート
 「サスケハナ」
 東インド艦隊の旗艦とし
 極東に向かって出発
 だが
 オーリック
 は
 サスケハナ
 の艦長とトラブルを起こし解任
 1852年2月
 代将
 マシュー・カルブレース・ペリー
 にその任が与えられた

  徳川幕府末期の
  老中首座
  阿部 正弘
  ↓↑
  文政二年十月十六日
 (1819年12月3日)
 ~
  安政四年六月十七日
 (1857年8月6日)
       大運1848年9月(28歳)壬申印綬
 己 卯(甲 乙)偏財・比肩建禄⇔丁巳食神
 乙┏亥(戊甲壬)比肩・印綬 死⇔丁未食神
 乙┗巳(戊庚丙)  ・傷官沐浴⇔丙寅傷官
 壬 午(丙 丁)印綬・食神長生⇔甲午劫財
   寅卯空亡  旧10/16(参宿) 旧6/17(危宿)
 ↓↑
 祖先は
 「大彦命=大毘古命」・・・と自称・・・
 ↓↑
 第八代
 孝元天皇
 と
 欝色雄命の妹で皇后の
 欝色謎命(うつしこめのみこと=内色許売命)
             ・・・内=冂+人(ノ+㇏)
 との間に生まれた第一皇子
 第十一代
 垂仁天皇の
 外祖父
 四道将軍の1人で、北陸に派遣
 阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣
 などの七族の始祖
 ↓↑
 阿部 正弘
 改名 剛蔵・正弘・祐軒・学聚軒
 別名 四郎五郎・主計頭・正一・叔道・叔卿
 戒名 良徳院殿高誉信義節道大居士
 墓所 東京都台東区の谷中霊園
 官位 従五位下 伊勢守
         ・・・イセ=猪瀬・猪勢
            ・・・伊吹山の白猪神
    従四位下 侍従・贈従三位
 幕府江戸幕府奏者番
   寺社奉行加役
   寺社奉行
   老中
   勝手掛老中
 主君徳川家斉→家慶→家定
 藩  備後福山藩主
 氏族 阿部氏
 父  阿部正精
 母  高野貝美子
 養父 阿部正寧
 兄弟 正粹・正寧・正弘
    戸田忠温正室・井上正春正室
    久世広周正室ら
 妻 正室:松平治好の娘・謹姫
 継室 松平慶永の養女・謐姫
 子  篤之助・哲次郎・鋼蔵・寿子
 養子 正教
  幕末の老中
  備後(びんご)=広島県
  福山藩主
  1854年
  ペリーと
  日米和親条約を締結
  開国政策を推進
  洋学所・海軍伝習所
  創設
   ↓↑
  渡来系氏族
  難波吉士
  草壁吉士
  「吉士・吉師」=氏族集団
  「吉士」は新羅の官職
  6世紀ごろに渡来した
  新羅系の渡来帰化人
  ↓↑
 新撰姓氏録
 摂津国
 皇別条
 吉士・三宅人
 ↓↑
 河内国
 皇別条
 日下連(旧姓 草香部吉士)
 大戸首(おおへのおびと)
 難波忌寸(旧姓 草香部吉士)
 難波(難波忌寸)
 各氏の本系
 ↓↑
 大彦命の後裔
 ↓↑
 平安時代成立の儀式・公事の書
 「北山抄」
 安倍氏
 大嘗会で
 吉志・大国・三宅・日下部・難波
 らの
 吉士系氏族を率いて
 吉士舞いを奏した
 ↓↑
 吉士舞に先立つ所作
 「高麗の乱声(らんじょう)」
 「吏部王記」
 (醍醐天皇の子 重明親王の日記)
 に
 安倍氏の先祖が
 新羅征伐の功があり
 大嘗会の日に報命し
 吉士舞を奏上
 ↓↑
 吉士系氏族
 吉士系氏族の複合的な同族組織を指す総称
 十九氏
 ↓↑
 吉士
 難波吉士
 草香部
 三宅
 日鷹
 坂本
 ↓↑
 調
 宅蘇
 飛鳥部
 多胡
 壬生
 大国・・・河内国石川郡大国郷
 社
 黒山・・・河内国丹比郡黒山郷
 小黒
 穂波
 三宅人
 難波
 大戸首
   ↓↑
  「吉志=吉師=企師」
  「稽知=吉之=吉次」
  「難波吉士」
  「難波日鷹吉士
  (なにわのひたかのきし)」
  「大草香吉士
  (おおくさかのきし)」
   周人を祖先にもつ
  「百済の
   努理使主
  (ぬり の おみ)」を祖
  「調吉士・・・・・・・調理師=膳=肉+羊
  (つきのきし)」
   膳=月(肉・ジク)+善
     月(肉・ジク)+羊+䒑+口
     月(肉・ジク)+羊+丷+一+口
  「新羅王子
   天日槍
  (あめ の ひぼこ)」を祖
  「三宅吉士(みやけのきし)」
          に由来
          鞬=革+建
            ケン
            ゆみぶくろ・弓袋
            馬上で
            弓矢を入れる革製の袋
            鞬子=蹴って遊ぶ道具
               鞠=まり=毬
          吉=士+口
          支=十+又
 ↓↑
 と呼んでおり
 どちらも
 「王」の意味
 支配層が使用した夫余系諸語
 被支配層が使用していた韓系諸語
 ↓↑
 夫余系諸語
 具体的な記録が残るのは高句麗語
 少数の単語に限られるため
 実態は不明
 ↓↑
 百済の建国神話
 『三国史記・百済本紀』
 「鄒牟(朱蒙)」
 という人物が
 「北夫余」から
 「卒本夫余」の地へ逃れた当時
 「夫余王」
 には3人の娘がいたが
      男児がいなかった
 「夫余王」
 は
 「朱蒙」を見て非凡と評し
 「次女」を嫁がせた
 「夫余王」死後
 「朱蒙」
 が王となり2人の子を儲けた
 兄を
 「沸流」
 弟を
 「温祚」
 しかし、
 「朱蒙」が
 北夫余にいた頃の息子が
 「朱蒙」の太子となって
 「沸流」
 「温祚」
 はこの太子との対立を恐れ
 10人の家臣や
 「百姓」
 と共に南方に旅立った
  ↓↑
 「漢山」へとたどり着き
 10人の家臣たちは
 この地こそ都にすべき土地であると主張
 「沸流」
 は
 「海辺」への居住を希望し
 人々を分けて
 「弥鄒忽(仁川)」に移動し居住
 「温祚」
 は家臣たちに従い
 河南の
 「慰礼城」を都とし
 10人の家臣の助力にちなんで国号を
 「十済」・・・十(拾・足)
        済(濟)
      経世済民=経世済民=經世濟民 =経世済民
     「世 を 經 (をさ) め、 民 を 濟(すく) ふ」
     「経国済民」もほぼ同義
     . 略して「經濟」・・・中濟=大塩平八郎
     大塩平八郎
     寛政五年一月二十二日
     1793年3月4日
     ~
     天保八年三月二十七日
     1837年5月1日(45歳没)
         大運1832年10月(39歳)庚戌偏財
     癸丑(癸辛己)正官・傷官 養⇔丁酉劫財
     甲寅(己丙甲)偏印・偏印長生⇔甲辰偏印
     丙辰(乙癸戊)  ・食神冠帯⇔甲辰偏印
     甲午(丙 丁)偏印・劫財帝旺⇔庚午偏財
      子丑空亡
     大坂町奉行組与力
     別名 正高、後素
     通称 平八郎
     号  中斎
     妻  ゆう
        ひろ(茶屋大黒屋和市の娘)
     養子 格之助
  ↓↑
 「十済」
 とした
 前漢
 成帝の
 鴻嘉三年(前18年)
 「沸流」
 が選んだ移住地は
 土地が湿り水は塩分が強く
 安らかに暮らすことができなかった
 「沸流」
 は自分の決定を恥じて死んでしまい
 彼の家臣たちは全て
 「慰礼城」に帰属した
 「慰礼城」に移る際
 「百姓
  が楽しみ従ったことに由来し
  国号を百済と改めた
  温祚王は
  高句麗と同じく
  夫余から出ているため
  扶余を氏の名前とした」
 ↓↑
 同書は分注で異伝
 百済の始祖は
 「沸流王」であり
 父の名は
 「優台」
 と言い、北夫余王
 「解扶婁」
 の庶孫であった
 「優台」の妻は
 「召西奴」といい
 長男の沸流
 次男の温祚
 が生まれ
 「優台」死後
 「召西奴」は
 「卒本」で暮らし
 その後
 「朱蒙」が
 夫余にいられなくなり
 「卒本」へ逃れ
 「朱蒙」はこの地に都を作り
 国号を高句麗とした
 「召西奴」を娶り王妃とし
 「朱蒙」は
 「沸流」ら兄弟を
 自分の子のように遇したが
 夫余にいた頃の息子である
 「孺留」が卒本に来ると
 彼が太子となり
 「朱蒙」死後に王となった
 「沸流」はこれを不満とし
 「温祚」と共に家臣たちを率いて
 南方に移り
 漢江を渡り
 「弥鄒忽」に到着し
 そこで
 百済を建国
 ↓↑
 中国史書の記述
 『宋書』卷九十七・列傳第五十七(百濟國條)
 「百濟國
  本與
  高驪
  倶
  在
  遼東之東千餘里
  其後
  高驪略有遼東
  百濟略有遼西
  百濟所治
  謂之
  晉平郡
  晉平縣」
  ↓↑
 『梁書』卷五十四・列傳第四十八(百濟條)
 「百濟者
  其先 東夷 有三韓國
  一曰 馬韓・・・百済
  二曰 辰韓・・・新羅
  三曰 弁韓・・・加羅
  弁韓、辰韓
  各十二國
  馬韓
  有五十四國
  大國 萬餘家
  小國數千家
  總十餘萬戸
  百濟 即其一也
  後漸強大
  兼 諸小國
  其國
  本與
  句驪
  在 遼東之東
  晉世
  句驪 既略有遼東
  百濟 亦據有遼西
  晉  平二郡地矣
  自置
  百濟郡」
  ↓↑
 『周書』卷四十九・列傳第四十一
  異域上(百濟條)
 「百濟者
  其先
  蓋
  馬韓之屬國
  夫餘之別種
  有 仇台者
  始國
  於
  帶方」
  ↓↑
 『隋書』卷八十一・列傳第四十六(百濟條)
 「百濟之先
  出自 高麗國
  其國王 有 一侍婢 忽懷孕
  王欲殺之、婢云
  有物狀 如 雞子
  來感於我、故有娠也
  王舍之
  後遂生一男
  棄之廁溷
  久而不死
  以為神
  命養之
  名曰 東明
  及長、高麗王 忌之、東明懼、逃至淹水
  夫餘人共奉之
  東明之後
  有 仇臺者
  篤 於 仁信
  始立 其國 於 帶方故地
  漢 遼東太守
    公孫度・・・公=ハ+ム
          孫=子(孑=ぼうふら=孑孑)+系
              ケツ・ケチ・ひとり
          度=广+廿+又=ド・たび=多比
    以女妻之
    漸以昌盛
  為 東夷強國
  初以 百家 濟海
  因號 百濟
 ↓↑
 南朝正史の記録と遼西領有説・渡海説
 『宋書』『梁書』『南史』
 などの歴代南朝の正史は
 百済が
 遼西地方に領土を持っていたと記す
 『南斉書』には
 北魏が大軍をもって
 百済を攻め
 百済の
 東城王がこれを撃退
 南朝最後の
 『陳書』は外国伝が全く欠け
 陳で知られていた
 百済についての情報は不明・・・
 ↓↑
 吉林省に位置した
 夫余国は
 285年
 鮮卑の首長
 「慕容廆」
 の攻撃を受けて一時滅亡
 その後
 西晋の支援を受けて四平周辺で復興
 346年
 再度
 鮮卑の
 「慕容皝」
 の攻撃を受け
 五万余口が
 慕容氏の根拠地
 遼西地方に強制移住
 遼西地方にその後しばしば登場する
 「余氏(餘氏)」
 の勢力は
 この時強制移住させられた
 夫余の人々の子
 孫である・・・
 遼西地方の夫余の存在こそが
 百済(南扶余、王族は扶余・余を姓)
   ・・・余=あまり=海女里・・・海人里⇔阿毎王朝
 との混同によって
 「百済遼西領有説」を生み出した・・・
 ↓↑
 この夫余と百済の混同は
 百済が
 海を済って南下した夫余によって建国
 『隋書』の記録の源流・・・
 ↓↑
 百済が勃興した土地
 漢城周辺は
 馬韓諸国中
 楽浪郡・帯方郡に最も近い位置
 帯方郡に近接した
 伯済国は
 帯方郡の強い影響下で発展
 高句麗が楽浪郡を排撃したころ
 伯済国を中心とする
 馬韓も帯方郡を攻撃したが
 この地域一帯で土着化した
 楽浪遺民
 帯方遺民
 中国系流民が
 4世紀の
 百済の発展に寄与
 369年
 371年
 対高句麗戦勝利後
 百済は
 東晋
 倭国
 との外交を展開
 楽浪遺民
 帯方遺民
 中国系人士の関与
 倭国との外交樹立を記念し製作された
 「七支刀」
 は中国系人士の手になる・・・
 ↓↑
 372年
 東晋への朝貢記事
 百済について記した最初の確実な国外記録
 「近肖古王」
 は前年に高句麗から平壌を奪い
 高句麗王を戦死させ台頭し
 東晋への遣使を行った
 遣使により
 「鎮東将軍領楽浪太守」
 として冊封
 百済は南朝を中心に
 歴代の中国王朝への朝貢
 387年
 太子
 「余暉」
 が東晋から冊封
 416年
 東晋から代わった
 宋から
 「腆支王」
 が
 使持節・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王
 後
 鎮東大将軍に進号
 ↓↑
 372年から
 漢城が高句麗に奪われ
 滅亡する
 475年までの漢城時代において
 百済と中国王朝の通交は記録に残るものだけで
 20回にも及ぶ
 百済では広く中国製陶磁器が受容されていた
 ↓↑
 漢城が陥落した後
 熊津で再興・・・熊の津
         熊本の津=港・・・横島
 熊津時代
 ↓↑
 589年
 隋が統一王朝
 南北朝時代が終焉
 百済(および高句麗)
 隋が統一事業を達成する前から
 新羅や倭国に先んじて
 隋への入朝を開始し
 隋が
 陳を滅ぼした際には
 済州島に漂着した軍艦から
 この情報を得て
 祝賀使を送り
 長年対立を続けてきた
 高句麗に対する遠征を
 隋に繰り返し要請し
 隋が高句麗征討に乗り出し
 協力を申し出て支援
 ↓↑
 3度にわたる
 高句麗遠征が失敗
 618年
 隋が倒れ
 唐が成立
 624年
 高句麗、新羅など
 唐に入朝
 645年
 対高句麗で積極策に転じ
 高句麗への遠征を繰り返した
 百済はその間に
 新羅に大勝
 唐の
 高句麗戦が不首尾に終り
 新羅からの救援要請を入れて
 百済への遠征を決定した
 ↓↑
 384年(百済枕流王1年)
 南朝の
 東晋より
 摩羅難陀が
 百済に仏教を伝える
 385年(百済枕流王2年)
 王都漢山に仏寺を創建し
 僧侶10人を度す
 526年(百済聖王4年)
 百済僧
 謙益
 がインドより
 天竺僧と帰国
 『五分律』を翻訳
 541年(聖王19年)
 百済が梁に
 毛詩博士
 経義
 工匠や画師を求める
 ↓↑
 391年
 広(廣)開土王が・・・好太王=女の子の太った王?
 広=广+ム=廣+广+黄(龷田ハ)
 高句麗で即位
 「太古の昔より
  百済は
  高句麗に朝貢する「属民」であったが
  391年に
  倭がこれを臣民としたため
  高句麗は
  396年に
  百済を破り
  これを「奴客」とした
  そして
  高句麗は
  百済から
  58の城邑の700村を奪い
  百済王に忠誠を誓わせ
  王子らを人質としたが
  百済は
  倭国と「和通」して
  高句麗に対抗しようとした
  400年には
  高句麗が新羅へ進軍
  新羅王都を
  占領していた倭軍を撃破し
  新羅が高句麗に服属した
  高句麗軍は朝鮮半島南部の
  任那加羅にまで進撃した
  高句麗は
  404年の帯方地方への
  倭軍の攻撃も退け
  407年には再び
  50,000の大軍をもって
  百済を攻撃した
  高句麗はこの時
  百済はから7城を奪った
 ↓↑
 高句麗は同時期
 中国方面で
 後燕・北燕とも衝突
 北魏が華北で勢力を拡大すると
 426年
 の初の朝貢以後
 安定関係を構築
 427年
 高句麗の
 長寿王は
 平壌に遷都し
 北魏との関係安定および
 北燕の滅亡に伴い
 盛んに南進の姿勢を示した
 この時期
 高句麗は
 新羅の王都に軍を駐留
 その王の廃立にまで影響力を振った
 高句麗の圧力を受ける
 百済は支配からの離脱を目指す新羅と連携し
 高句麗に対抗
 高句麗は
 455年以後繰り返し百済に侵攻
 475年
 百済の王都
 漢城が占領
 その後
 百済は
 熊津で復興し
 新羅との連携によって
 高句麗に対抗
 ↓↑
 6世紀
 武寧王代
 高句麗との関係はやや小康状態
 聖王代には
 538年
 高句麗と大規模な軍事衝突
 百済は
 550年頃に国境の城の奪い合い
 551年に新羅との連合軍
 旧都漢城の奪回に成功
 552年
 漢城からの退却
 都市を新羅に掠め取られた
 新羅が脅威となる中
 百済の高句麗との敵対関係は基本的に変わらず
 589年
 隋が統一すると
 遣使し
 繰り返し
 高句麗征討を要請
 協力を申し出ている
 隋が倒れ
 唐が成立した後も
 百済は
 対
 新羅戦においては
 高句麗と結託し
 高句麗が
 朝貢路を塞いでいることを訴えていた
 ↓↑
 642年
 「義慈王」
 高句麗と和信
 対
 新羅戦に傾注
 655年
 百済は高句麗と協同して
 新羅を攻撃
 領土を奪取
 新羅から
 唐へ
 救援要請が出さ
 陸上からの
 高句麗攻略が不首尾だった唐は
 海路
 百済を攻略し
 高句麗を包囲
 百済は高句麗に先立ち滅亡
 ↓↑
 百済と倭国
 『日本書紀』を中心に多様な記録が存在
 神功皇后の46年
 (246年⇒干支二運修正366年)
 伽耶諸国の1つである
 卓淳国の王が
 百済が
 倭国との通交を求めていることを
 倭国の使者に伝え
 倭側が百済へ使者を派遣し国交が始まった
 三韓征伐によって
 百済、高句麗、新羅が
 日本への朝貢を約した
 ↓↑
 歴代南朝史書
 438年
 倭王 珍が
 「使持節都督
  倭
  百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
  六国諸軍事、安東大将軍倭国王」
 の承認を要求
 451年
 南朝は
 倭王済に対して
 倭本国、新羅、任那、秦韓、慕韓
 の軍事権を承認
 南朝と国交のある百済だけは
 承認せず
 倭王武は
 百済に対する
 軍事的支配権の承認を
 繰り返し要求したことが記録
 ↓↑
 倭の五王の最後の
 倭王武(雄略天皇)
 475年
 高句麗による漢城の占領と
 百済の滅亡に関連して
 南朝の宋に
 高句麗の非道を訴える
 上奏文を送った
 ↓↑
 6世紀
 新羅が
 伽耶地方へ勢力を延ばし
 金官国(加羅)が滅ぼされた後
 百済も伽耶地方への勢力拡大を目論み
 その過程で
 安羅国に駐在していた
 任那日本府(在安羅諸倭臣)
 を交えて新羅への対抗を画策
 倭本国
 現地で独自の活動を行う
 「日本府」
 百済への不信感を募らせる
 伽耶諸国など
 各勢力の思惑により
 足並みがそろわず
 実質的な効果をあげることはなかった
 ↓↑
 倭国は百済に対して
 548年
 労働者の派遣
 550年
 武器兵糧の支援
 551年
 食料の支援
 553年
 百済は二度に渡り
 倭国に援軍要請
 554年5月
 佐伯連指揮下の倭軍が百済へと渡海
 倭国は百済への援兵として
 度々朝鮮半島に派兵
 570年代
 新羅が
 「任那の調」を倭国へ送付
 660年
 百済が唐によって滅ばされた
 倭国は百済復興を支援
 倭国に人質
 百済王子
 扶余豊璋を急遽帰国
 に阿倍比羅夫ら
 救援軍を派遣
 663年
 「白村江の戦い」完敗
 ↓↑
 朝鮮半島の戦乱で
 大規模な倭国への移住
 技術者や知識人
 ↓↑
 伽耶南部に関係者
 7世紀
 飛鳥の
 酒船石遺跡の
 亀形石
 花崗岩製の石造物が
 百済と密接な関係
 石造物は造形が
 百済の益山で発見された
 石造物と類似
 倭国において
 花崗岩製の石造物は極めて珍しいもの
 百済系工人によって
 これらの石造物が造られた可能性
 『日本書紀・推古紀』612年
 百済から来た
 「路子工(別名:芝耆摩呂)」
 が須弥山の形や呉橋を作ったとある
 西日本各地に残る
 朝鮮式山城は
 百済滅亡後に
 日本に亡命した百済人の指導で建設
 『日本書紀・天智紀』
 6世紀前半までは
 伽耶系のそれと比較して
 百済系の痕跡は限定的
 7世紀に入る頃から
 伽耶系の史料が減少するのに伴い
 百済系の史料が相対的に目立つ
  ↓↑
 『日本書紀』・・・では・・・?
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
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白黒のカラスの幕懸け・キシ&アベ・統一のキョウカイのゴオン・・・?

2022-08-02 19:47:02 | 古事記字源

 「統一新羅=百済+高句麗+新羅+α」・・・「古事記+日本書紀」
  統一教会・・・吉志+阿部vs百済王氏(くだらのこにきしうじ)
         百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰
         岸  安部⇔山口県・・・李承晩の亡命政権画策地?
ー↓↑---
 1950年6月25日
 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が
 大韓民国(南朝鮮)に
 攻撃を開始、朝鮮戦争勃発
 李承晩政府は
 1950年6月27日
 日本の外務省に
 「6万人規模の
  亡命政権を
  山口県に樹立したい」
 と打診
 当時の
 田中龍夫
 山口県知事は
 「日本の住民も配給が不足している状況」
 と難色も
 韓国人5万人を収容する
 「緊急措置計画書」
 を作成
 ↓↑
 計画
 山口県
 阿武郡など4地域に
 20か所の避難キャンプを設置し
 臨時兵舎1棟に200人ずつ
 計250棟の兵舎を建設し
 5万人を収容予定
 計画書は
 米軍に提出され
 田中知事は
 予算支援も要請
 釜山が陥落を免れたことで
 亡命計画は実行されなかった
 ↓↑
 韓国メディア・KBS
 山口県の図書館で
 計画書を発見
 「亡命要請」
 を裏付ける日本側の文書が
 「初めて確認された」
 2015/06/24(水)
 ↓↑
 韓国メディア・KBSが
 山口県の図書館で
 計画書を発見
 「亡命要請」
 を裏付ける日本側の文書が
 「初めて確認された」
 2015/06/24(水)
 ↓↑
 「KBS」
 韓国放送公社
 (Korean Broadcasting System、KBS)
 韓国のラジオ放送とテレビ放送を
 共に流す公共放送局
 2001年以降は
 「韓国放送」も併用
ー↓↑---

 からす(鴉・雅・烏)・・・雅(みやびやか・カ・ゲ)
 に似る黒い
  キュウカンチョウ
 (九官鳥、Gracula religiosa)
 鳥綱
 スズメ(雀)目
 ムクドリ(椋鳥)科
   ・・・椋=木+京
        十+八+亠+口+亅+ハ
        拾+捌+音+口+鉤(鈎・鍵)+葉知   
 キュウカンチョウ(九官鳥)属
       ・・・救韓調・旧観調・九巻調?
 全長30-40センチメートル
 全身の羽衣は光沢のある黒
 嘴はオレンジ色・・・緒聯字意賂
 眼下部から後頭部にかけて
 黄色い肉垂れ・・・字句多例
 ↓↑
 インコ(鸚哥)同様・・・鸚=嬰+鳥=カイが並ぶオンナをトル
             哥=歌
 人語を発する
 人や動物の声の真似、鳴き真似
 音程や音色だけでなく
 声色も真似する
 物真似の対象が判別できる
 声真似等ができるのは
 擬態の一種と見られ
 インコ類と違い
 舌で発音するのではなく
 鳴管から直接発音
 「九官鳥」の名前由来
 江戸時代
 九官と名乗る中国人が
 この鳥を持ち込んだときに
 「この鳥は吾(われ)の名を言う」
 と説明したものが
 誤って理解されたまま定着した
 「本朝食鑑」・・・本の朝の食を鑑(みる・監察)
 ↓↑
 「アスクレピオスの杖」・・・鴉(蛙)州句例比呉州
      ・・・ヒポクラテス=医学の父
 医療・医学の象徴
 世界保健機関のマーク
 世界各国で救急車の車体に描かれ
 軍医や衛生兵などの
 兵科記章に用いられている
 杯に
 1匹のヘビの巻きついたモチーフ
 「ヒュギエイアの杯」・・・比喩義依意蛙
 と呼ばれ
 薬学の象徴
 ↓↑
 キュロス1世・・・記由賂素
 アンシャン王・・・案者務
 キュロス2世の祖父
 キュロス2世
 アケメネス朝の初代皇帝
 大キュロス=キュロス大王
 小キュロス
 アケメネス朝の王子
 アルタクセルクセス2世の弟
 有る多句施留句施州   音

 ↓↑
 地名
 キュロス (ギリシャ)
 古代マケドニア王国の都市
   真懸土似蛙
 キュロス (シリア)
 セレウコス朝の創始者
 施例胡故州
 セレウコス1世
 によって建てられた都市
 ↓↑
 キュロス2世(Kuruš
       古代ギリシア語
       Κῦρος キューロス
       ペルシア語 کوروش‎)
 紀元前600年頃~紀元前529年)
 アケメネス朝ペルシア
 初代国王(諸王の王)
 紀元前550年~紀元前529年
 古代エジプトを除く
 全ての
 古代オリエント諸国を統一
 現代のイラン人は
 キュロス
 をイランの建国者と称えている
 ↓↑

 名前
 I am Cyrus, Achaemenid King
 Pasargadae.JPG
 古代ペルシア語名
 クルシュ
 古代ギリシア語名
 キューロス
 古典ヘブライ語名
 コレシュ
 同名の王子
 「小キュロス」
 と区別して
 「大キュロス」
 キュロス大王
 同名の
 アンシャン王
 キュロス1世と区別して
 「キュロス2世」
 と呼ばれる
 ↓↑

 キュロス
 紀元前600年頃
 ペルシア王国の王である父
 カンビュセス1世
 と母
 マンダネ
 (メディア王アステュアゲスの娘)
 の間に王子として生まれた
 ペルシア王国は
 メディア王国に従属する小王国
 ペルシアの王都
 アンシャンにあり
 ペルシア国王は
 アンシャン王の称号も保持
 アンシャンは
 エラムの故地で
 エラム語
 エラムの諸制度を引き継いでいたが
 エラム王国自体は衰退し
 西部の
 スサ
 周辺のみを領有
 紀元前559年
 キュロス即位
 ペルシア王国
 第7代の王
 (紀元前559年~紀元前550年)
 となった
 ↓↑
 メディア王国・・・女出意鴉(蛙・雅)
 への反乱
 紀元前552年
 メディアに反乱を起こした
 (en:Persian Revolt
  en:Battle of Hyrba)
 紀元前550年
 メディア王
 に恨みを抱いていた
 メディアの将軍
 ハルパゴスの裏切りもあり
 (en:Battle of the Persian Border)
 メディアの首都
 エクバタナを攻略し
 メディア王
 アステュアゲスを打倒し
 祖父の国である
 メディアを滅ぼし
 統一王朝としての
 アケメネス朝が始まった
 キュロスは
 エクバタナを制圧し
 メディア領土全域を制圧、支配した
 ↓↑
 リュディア王国征服
 不死身の1万人(不死隊)
 と呼ばれた軍団を率いて
 小アジア西部の
 リュディア王国に攻め
 紀元前547年秋
 プテリアの戦い
 では引き分け
 10月
 テュンブラの戦い
 では
 リュディア王
 クロイソス・・・句賂意蘇素
 を破り
 首都
 サルディス攻囲戦で・・・猿出意諏
 リュディアを征服

 ヘロドトス・・・経賂土譯素
 によれば
 キュロスは
 クロイソスを火刑に処そうとしたが
 クロイソスが
 アポロンに嘆願すると
 突如雨が降って
 火を消したため
 キュロスは
 クロイソスの命を助けた
 後
 クロイソスは
 キュロスに参謀的な役割で仕えた
 後
 ハルパゴス・・・葉留葉語素
 に命じて
 カリア、リュキア、イオニアの
 ギリシア人ポリス
 といった
 アナトリア西端の
 エーゲ海沿岸地方を恭順させた
 紀元前546年
 旧ペルシア地方に
 新首都
 パサルガダエ・・・葉佐留雅拿回
 の建設を始めた
 ↓↑
 エラム征服
 紀元前540年
 スサ・・・須佐
 を陥落させ
 エラムは滅亡
 ↓↑
 新バビロニア征服
 キュロス2世の
 バビロン侵攻直前の
 古代近東
 東方各地を転戦して征服
 紀元前539年
 オピスの戦い・・・帯州⇔帯方郡?
 で
 ナボニドゥス・・・名簿似同諏
 率いる
 新バビロニア王国を倒した
 10月29日
 バビロンに入城
 「諸王の王」
 と号した
 紀元前538年or紀元前537年
 「クロスの勅令(キュロスの勅令)」
  ・・・句賂諏(くろす)
         句呂素
          侶=意の背骨=太安万侶?
     黒州=里+灬(烈火)+洲
       ⇔白村江の海戦=敗戦烈火の倭の水軍
        はくすき(栢耜)の江
        栢(柏・かしわ・ハク・ヒャク)
        耜(すき・シ・ジ)=鋤=金+助
 ↓↑
 を発し
 バビロン捕囚・・・葉毘(備)論の補修(補習・捕集)
 ユダヤ人=猶太・・・ヘブライ人・・・経部等意
   ・・・イスラエル=Israel=以色列
 をはじめ
 バビロニアにより
 強制移住させられた諸民族を解放
 キュロス
 は、被征服諸民族に対して寛大で
 後世に理想的な帝王として仰がれ
 ユダヤ人を解放して帰国させ
 旧約聖書では
 メシア(救世主)・・・女史蛙(烏・鴉)
 と呼ばれている
 (イザヤ書45章1節)
 このとき
 キュロスは
 新バビロニア
 ネブカドネザル2世
 によって略奪されていた
 エルサレム神殿の
 什器を返還し
 エルサレムに神殿の再建を命じた
 この再建は
 紀元前520年ごろに
 第二神殿が完成した時には
 キュロスはすでに死亡したが
 キュロス以降も継続
 ユダヤ人は
 アケメネス朝の統治下においては
 一度も反乱を起こさなかった
 キュロスは子の
 カンビュセス2世に
 バビロンの統治を命じ
 旧バビロニアの統治機構を
 そのまま利用して統治を進めた
 キュロスは
 宣撫文書として
 キュロスの
 円筒印章・・・円筒印章=エントウインショウ
            =遠東印象(印証・引照)
        円=圓(つぶら・まるい
            ヱン・エン)
               エ=たくみ=巧・内匠
            ヱ=ア(了)+一=終始
     ・・・円周率=パイ=π・Π・pie
              =杯=たかつき
                 高坏・高槻・高月
 を作らせ
 ペルシア(波斯)・・・経留詞吾(蛙・鴉)
 の統治の正当性を主張させた
 ↓↑
 中央アジア征服
 彼はさらに東方辺境に転戦
 バクトリア
 ソグディアナ
 を征服し
 サカ・・・佐賀・相模
 を従属させ
 総督として
 スメルディス王子を置いた
 東は
 ヤクサルテス川(古希: Ἰαξάρτης)
 から西は
 小アジアに至る広大な
 ペルシア王国を建設
 ↓↑
 マッサゲタイ
 との戦いと崩御
 キュロス2世
 戦没時の
 アケメネス朝領土
 ヘロドトスは著書
 『ヒストリアイ』・・・比州都里吾意
 で
 キュロスは
 トミュリス女王・・・女王・富(冨・登美)由理州
 率いる
 マッサゲタイ人との戦いで
 戦死したという説を伝えている
 しかしすでに一部の
 統治権を譲渡されていたこともあり
 皇太子である
 カンビュセス2世への政権移譲は
 滞りなく行われ
 カンビュセス2世は
 紀元前525年
 エジプトを征服
 オリエント(orient)・・・緒理円都
 に広大な統一帝国を誕生させた
 「キュロスの墓」
 王都
 パサルガダエに築かれ
 陵墓は現在でも残っており
 2004年に
 パサルガダエの都市遺跡の一部として
 世界遺産に登録
 ↓↑
 オリエントの4大国
 メディア
 リュディア
 新バビロニア
 エジプト
 のうち、エジプトを除く3つを併呑し
 エラム
 フェニキア
 といった独立勢力や東方の地域までを含む
 広大で多様な地域を統治するため
 キュロスは
 王国を
 20の州に分け
 各州ごとに
 サトラップ(総督、太守)をおいた
 サトラップ制
 メディア王国の制度をそのまま利用
 キュロスは宗教に関しては寛容で
 アケメネス朝・・・亜紀(安芸)女子州
 の統治期を通じ守られた
 帝国の公用語は
 アンシャン時代から引き続き
 エラム語であり
 アケメネス朝一代を通じて変わらなかった
 ↓↑
 キュロスの
 円筒印章(大英博物館蔵)
 キュロスは
 紀元前6世紀半ば
 メディア、リディア、新バビロニアを滅ぼし
 メソポタミアを統一
 この円筒印章には諸民族を解放し
 弾圧や圧政を廃し
 寛容な支配を推し進めた様が描かれており
 人類初の人権宣言とも称される
 ↓↑
 ナボニドゥス年代誌
 ナボニドゥスの円筒形碑文
 新バビロニア帝国の最後の王
 ナボニドゥスの治世を扱っている
 『ナボニドゥス年代誌』
 にはエラムの滅亡やバビロン占領後の
 キュロスの行動が記録
 同時期の
 ナボニドゥスの
 円筒形碑文においても
 キュロスの治世が賞賛された文が記載・・・???
ー↓↑ー--

 キシ&アベ・・・統一のキョウカイのゴオン・・・?
  ↓↑
 コロナ感染40000人(東京・7/29)なのに・・・浮いている?
  ↓↑
 「源平合戦」・・・渡来、亡命、帰化人の「紅白・白辯」の合戦・・・?
  ↓↑
 「アダムの国」 と 「イヴの国」=混血統一
    ↓↑        ↓↑
  被救済者の国    救済者の国
   救済者の国   被救済者の国
     ?      ?
     天使     悪魔
     K国     J国
     新羅+唐    百済+高句麗
     新羅+隋
 一冊 3000万円の本
    1237億円の被害・・・
 訴訟訴訟 3万4千件・・・
 「反社会組織」デはナイ「宗教」があるのか・・・?
 「時の国家権力者の利害」に反抗、反逆する者、組織者は
 すべて
 「反社会人、反社会組織」になる・・・
 「神社仏閣」は
 ヤクザの「御開帳・鉄火場・曲芸、芸人」の縄張りだった
 日露戦争にもヤクザは「国家の一兵卒」になった・・・
 だが
 「暴力団」は「国家」を越えて「国際化」した・・・
 もちろん、地域居住のニンゲンは
 「国家」なんかは何のソノ・・・
 「グローバル」化されていく・・・
 相対的な「危険地域」は「安全地域」を駆逐さるるのは
     「悪貨」 が 「良貨」を駆逐するの同象である・・・
 「第三の男(The Third Man)」は
 戦後、ウィーンの
 「不正ペニシリン」の蔓延、横流しを巡ってのヨーロッパ事情だった・・・
 あの「美人の女」には「利他の心情は無い」・・・?
  ↓↑
 「鵯越(ひよどりごえ)」・・・鵯=卑+鳥
  卑弥呼のトリをこえる=鵯(ひよどり)
            =壹與(臺與)13歳?
 「逆(さか)落(お)とし」・・逆(さか)音し?
    佐賀・相模         性脅し・業脅し?
ー↓↑ー--
 百濟=伯濟
    ・・・郭淮(2世紀~255年2月23日)・・・郭務悰⇔加賀夢想?
     字 伯濟・・・?
     太原陽曲人
     三国时代
     曹魏の将軍
     255年去世
     死後
     魏少帝
     曹髦が
     追封
     他に
     大將軍と為す
     諡 貞侯
 4世紀前半
 660年前後
 朝鮮半島
 西部
 南西部の国家
 半島北部から満州地方に
 高句麗
 南東部に
 新羅
 南部に
 伽耶諸国
 ↓↑
 漢城時代(~475年)
 熊津時代(~538年)
 泗沘時代(538年~)
 ↓↑
 漢城期
 京畿道を中心
 高句麗の攻撃によって
 首都漢城が陥落
 一時的に滅亡し
 忠清南道にあった
 熊津(公州)へと移動
 武寧王が高句麗を撃退し
 国力を回復
 南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張
 538年
 首都を泗沘に建設
 伽耶地方を含む周囲への拡大を図った
 ↓↑
 中国で南北朝時代が終焉
 統一王朝
 隋が成立
 後
 唐が成立し
 高句麗を制圧するため
 百済攻略企図
 新羅を支援して
 百済を攻撃
 660年
 百済滅亡
 臣下が
 倭国の支援を受けて
 百済復興運動
 663年
 「白村江の戦い」
 敗戦後
 唐が半島から撤退し
 百済は
 新羅に組み込められた
 ↓↑
 百済
 初代王である
 「温祚王」
 が
 「夫余」から遷って建国し
 国号を
 「十済」
 「温祚王」の兄の
 「沸流」に従っていた人々が
 「温祚王」の国に合流し
 「百姓」
 が従って
 「百済」
 と改名
 『隋書・百済伝』
 移動の際に
 「百家」
 で海を済り
 「百済」
 という国名となったと伝承
 ↓↑
 日本語
 「くだら」・・・不詳・・・「下らない」?
 ↓↑
 馬韓諸国
 「伯済国」
 「漢城(ソウル)」
 首都とし
 4世紀前半頃までには成立・・・
  ↓↑
 『三国史記』(1143年成立)
 百済の建国
 紀元前18年・・・?
 3世紀後半・・・?
 4世紀前半・・・説
 漢城を都とした百済
 『三国史記・百済本紀』
 第12代
 「契王」
 以前の記録は伝説的・神話的
 ↓↑
 漢城時代(475年前後)
 ↓↑
 ソウル市にある
 「石村洞3号墳」
 高句麗影響の
 積石塚
 ↓↑
 三国時代
 百済は
 高句麗と武力衝突
 371年
 「近肖古王」
 (『三国史記』第13代)
 の治世下
 高句麗の
 平壌城を陥落させ
 「故国原王」
 を戦死させた
 平壌占領の翌年
 百済の使者が
 東晋に入朝
 「近肖古王」は
 「鎮東将軍領
  楽浪太守」
 として封建
 同時期
 「倭国」との通交
 「七支刀(七枝刀・ななつさやのたち)」
 儀礼用の剣が倭国へ贈られた
 『日本書紀』
 七支刀の銘文から
 369年
 「近肖古王」治世第24年に作成
 『日本書紀』に見える
 百済の
 「照古王」は
 「近肖古王」
 を指すと考えられる・・・
 『三国史記』
 「近肖古王」
 の治世に博士
 「高興」
 が
 「百済」に文字を伝え
 初めて記録がされるようになった・・・
  ↓↑
 「近肖古王」の治世は
 「百済」
 が朝鮮半島における
 国家体制が整備された時代
 周辺諸国との関係を通じ
 百済には多様な集団が関わる・・・
 倭国との連携強化
 百済の権力層に
 倭国系の
 姓氏を帯びる集団(倭系百済官僚)が登場
 楽浪遺民
 帯方遺民
 などの中国系人士
 外来の多様な集団を
 権力内部に取り込み
 百済は発展
 ↓↑
 第15代
 「枕流王」
 南朝を経由して西域の僧侶
 「摩羅難陀」
 が百済に渡り
 王から歓待
 翌年
 彼のために
 漢城(漢山)に仏寺が建設
 最初の
 百済への仏教伝来・・・
 ↓↑
 391年
 高句麗
 「広開土王(好太王)」
 が即位
 百済に占領された領土の回復を図り
 396年
 漢江以北
 大同江以南の地域を奪回
 ↓↑
 百済は、倭国に支援を求め
 「阿莘王」6年(397年)
 には太子
 「腆支」
 が倭国へ人質として出され
 倭国の軍事的な介入が行われた・・・
 百済は、新羅とも結んで
 高句麗
 と対抗
  ↓↑
 「広開土王」碑文
 391年以来
 倭が海を渡り
 百済
 と
 新羅
 を臣民とし
 396年
 高句麗は
 百済を破り
 百済王を服属
 399年
 百済王が倭国と和通し
 400年
 新羅へ出兵し
 倭軍を駆逐
 404年
 帯方に侵入した倭を撃退
 407年
 百済へ出兵し
 6城を奪った
 ↓↑
 427年
 高句麗
 「長寿王」
 は奪回した平壌へ遷都
 華北の
 「北魏」
 との関係が安定し
 455年以後
 高句麗による
 百済への侵攻が繰り返された
 百済は
 新羅と結び
 「蓋鹵王の18年(472年)」
 北魏にも
 高句麗攻撃を要請
 ↓↑
 醜類漸盛
 遂見凌逼
 構怨連禍
 三十餘載
 財殫力竭
 轉自孱踧
 若
 天慈曲矜
 遠及無外
 速遣一將
 來救臣國
 ↓↑
 醜類(高句麗)は隆盛になり
 我が百済を侵略
 怨みを重ね禍いを連ねること
 三十余年
 (百済は)
 財力も戦力も使いはたし
 しだいに弱り苦しんでいる
 ↓↑
 もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く
 はてしなく遠くまで及ぶのでしたら
 速やかに一人の将軍を派遣し
 臣の国を救ってください。
 『三国史記・百済本紀/蓋鹵王18年』
 ↓↑
 百済は伝統的に
 中国の南朝と通交
 北魏は
 高句麗が熱心に遣使していることに触れ
 百済への支援はされなかった
 ↓↑
 「蓋鹵王21年(475年)」
 高句麗の
 「長寿王」
 が自ら率いた大軍によって
 王都漢城を包囲、敗勢が決定的
 「蓋鹵王」
 は脱出を試みたが捕縛され殺害
 漢城陥落
 『三国史記』
 『日本書紀』
 書紀が引用する
 『百済記』
 で言及記録
 ↓↑
 二十一年
 秋九月
 麗王巨璉
 帥兵三萬
 來圍王都漢城
 王閉城門
 不能出戰
 麗人分兵爲四道夾攻
 又乘風縱火
 焚燒城門
 人心危懼
 或有欲出降者
 王窘不知所圖
 領數十騎
 出門西走
 麗人追而害之
 ↓↑
 二十一年(475年)秋九月
 (高句)麗王
 巨璉(長寿王)
 は三万人の軍隊を率いて
 王都の漢城を包囲
 王は城門を閉ざし
 戦うことができなかった
 麗軍は、軍隊を分けて
 四つの街道を通って
 挟み撃ちにした
 ↓↑
 また風に乗じて火を放ち
 城門を焼き
 人たちはあやぶみ懼れ
 あるものは(城を)出て
 降伏しようとする者もいた
 王は追い詰められ
 どうしてよいかわからず
 数十騎を率いて
 (城)門を出、西方に逃走
 麗軍が(王を)追撃し殺害
 『三国史記・百済本紀/蓋鹵王21年』
 ↓↑
 廿年冬
 高麗王
 大發軍兵
 伐盡百濟
 爰有小許遺衆
 聚居倉下
 兵糧既盡
 憂泣茲深・・・
 百濟記云
 蓋鹵王乙卯年冬
 狛大軍來
 攻大城七日七夜
 王城降陷
 遂失尉禮
 國王及大后、王子等、皆沒敵手
 ↓↑
 (雄略天皇)二十年冬
 高(句)麗王が大軍をもって攻め
 百済を滅ぼした
 その時少しばかりの生き残りが
 倉下(へすおと)に集っていた
 ↓↑
 食料も尽き憂え泣くのみであった
 ・・・
 百済記に云わく
 「蓋鹵王の乙卯年冬
  狛(高句麗)の大軍が来た
  大城を攻めること七日七夜
  王城は陥落し遂に
  尉礼(百済)の国を失った
  王及び大后王子たちは皆、敵の手に没した」
 『日本書紀・巻14
  大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)
  20年冬』
 ↓↑
 熊津時代(475~538年)
 ↓↑
 百済
 475年
 王子
 「文周」
 は救援を求めるために
 新羅に派遣
 彼は新羅の援軍を連れて帰還
 既に漢城は陥落
 翌月
 「文周王」
 として即位
 都を南方の
 熊津(忠清南道公州市)に遷し
 百済を復興
 高句麗から逃れた貴族たちが
 熊津に流入
 王族と共に主要官職を抑えていた
 「解」氏なども加わっていた
 ↓↑
 「文周王」は
 王弟
 「昆支」
 を内臣佐平
 「解仇」
 を兵官佐平にあてた
 「昆支」が死ぬと
 「解仇」が実権を握り
 478年
 「解仇」によって
 「文周王」は暗殺
 太子
 「三斤(13歳)」
 が即位したが
 権限は
 「解仇」が握った
 翌年
 「解仇」が
 恩率(第二等官位)
 「燕信」
 とともに反乱
 「三斤王」
 はかつて
 「腆支王」
 の即位に反対した
 別の貴族真氏を登用し
 これを討伐
 反乱鎮圧に動員された
 百済の兵力は
 2,500名
 反乱した
 「解仇」側の兵力は不明
 ↓↑
 479年
 「東城王」
 即位
 「解氏・真氏」
 などの既存中央氏族に代わり
 新官僚で王権が強化され
 王の統制力が向上した・・・
 「東城王」
 は新羅と結んで
 高句麗の軍事的圧迫に対抗し
 小国分立の
 伽耶地方への拡大を図った
 ↓↑
 「東城王」
 暗殺後
 501年
 「武寧王」即位
 熊津を中心とする
 百済を発展させるため
 南朝
 倭国
 との関係を深め
 領内の支配強化を目指した
 領内に22の拠点を定め
 王の宗族を派遣し
 地域支配の強化
 南西方面での勢力拡張を図った
 『日本書紀』
 日本から
 百済へ
 「任那四県」
 割譲の記録
 513年
 伽耶地方の有力国
 「伴跛」
 から
 「己汶・帯沙」
 を奪い
 朝鮮半島南西部での支配を確立し
 東進して伽耶地方の中枢に迫った
 ↓↑
 「武寧王」
 は南朝の
 「梁」
 に新羅使を同伴して入朝
 新羅や伽耶諸国を
 付庸していることを語り
 倭国へは
 南方進出の了解や軍事支援と引き換えに
 「五経博士」
 を派遣
 倭国への
 軍事支援要請
 技術者の派遣
 は百済の継続的な対倭政策
 ↓↑
 泗沘時代(538~642年)
 伽耶争奪と遷都
 「武寧王」の跡を継いだ
 「聖王」は
 538年
 都を
 熊津から
 泗沘(忠清南道扶余郡)
 に遷した
 泗沘は熊津と同じく
 錦江沿いにある都市だが
 防御に適した熊津に対し
 泗沘は錦江下流域の
 沖積平野を見下ろす
 丘陵地帯で
 水陸の交通の要衝
 国号
 「南扶余」
 と改名
 国号は国際的に定着することはなかったが
 百済には
 高句麗と同じく
 夫余を祖とするという伝承
 高句麗への対抗意識を明瞭にした国号
 ↓↑
 伽耶地方
 百済
 と
 新羅
 との間で軋轢
 倭国は
 伽耶地方を藩屏と見做していた
 伽耶地方の中心的国家
 「金官国」
 524年
 新羅の伽耶地方侵攻で
 倭国へ救援要請
 倭国は
 近江
 毛野臣を派遣
 527年
 「磐井の乱」
 により渡海できず
 529年
 「伽耶」の
 「安羅」
 に到着した
 「毛野臣」
 は調停を目指して
 百済と新羅の双方に参会を求めたが
 百済は新羅共々
 倭国の調停に大きな期待を置いておらず
 「毛野臣」
 は交渉に失敗し
 532年
 「金官国」滅亡
 「安羅」
 は倭国に頼るのを諦め
 「毛野臣」を排除し
 百済に援軍を要請
 531年
 百済軍が
 安羅に駐屯
 ↓↑
 百済は
 伽耶を巡って
 新羅との利害関係の不一致
 550年頃
 高句麗と全面的な衝突
 倭国に向けては
 兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が派遣された
 『日本書紀』
 551年
 漢城を高句麗から奪回
 552年
 百済は漢城を放棄
 新羅が
 漢城を占領
 百済と新羅の関係が悪化
 新羅に対抗するため
 「聖王」
 は倭国からの支援を求め
 諸博士や仏像・経典などを送る
 大伽耶、倭国の援軍で
 「聖王」
 554年
 新羅の
 「函山(管山)城」
 を攻撃したが
 伏兵にあって戦死
  ↓↑
 「威徳王」即位
 562年までに
 伽耶地方の大半が
 新羅の手に落ちた
 「威徳王」
 は王弟
 「恵」
 を倭国に派遣
 親百済政策の
 維持と援軍の出兵を要請
 「蘇我稲目」
 は親百済姿勢は維持したが
 援軍の派兵には同意しなかった
 伽耶地方の制圧を巡り
 倭と新羅の関係は悪化し
 百済も伽耶地方の奪回を目指し
 倭国との伝統的な関係は維持
 新羅が
 「任那の調(みまなのみつき)」
 を倭国に送付
 百済が
 577年
 に新羅に侵攻した際には
 軍事援助は得られなかった
 「威徳王」
 は伽耶の奪回を果たすことはできず
 579年
 新羅への積極策を改め
 武力行動に慎重になった
 ↓↑
 589年
 隋・唐
 隋が中国を統一
 南北朝時代が終焉
 ↓↑
 589年
 百済は使者を建て
 隋の統一を慶賀し
 隋との関係構築に努め
 598年
 隋の
 高句麗遠征に参加
 ↓↑
 高句麗は
 隋軍を撃退し
 百済領への侵攻
 ↓↑
 百済は
 隋に対して更なる
 高句麗征討を要請
 ↓↑
 新羅への攻撃では
 高句麗と連携
 倭国とも協力
 ↓↑
 602年
 百済は
 新羅の
 「阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)」
 を攻撃
 ↓↑
 603年
 高句麗が
 新羅領
 北漢山城(ソウル市鍾路区新営)
 を攻撃
 倭国は
 「任那の調」の実施を求め
 591年、602年
 に筑紫への駐兵を行い
 新羅への軍事的圧力をかけた
 倭国から
 百済と高句麗に
 新羅攻撃での連携を行うための
 使者が派遣されている
 『日本書紀』
 ↓↑
 高句麗
 が
 突厥
 との同盟を意図し
 隋との関係が悪化

 611年、613年、614年
 の3回に亘り
 隋は高句麗への遠征を行ったが失敗
 高句麗遠征と
 国内での大規模土木事業
 ↓↑
 618年
 隋王朝が崩壊
 唐王朝成立
 ↓↑
 611年
 百済は
 隋による
 高句麗遠征に乗じ
 新羅を攻撃し
 一城を占領
 ↓↑
 624年
 百済は
 高句麗
 新羅
 と同じく
 唐に入朝
 冊封を受けた
 ↓↑
 642年
 百済
 「義慈王」
 が
 新羅に侵攻
 40余りの城を陥落させた
 落城は伽耶地方の城
 『三国史記・新羅本紀』
 百済は
 伽耶地方の奪取を達成
 百済は
 「新羅王」となる
 「金春秋」
 の娘婿とその子供らを全員殺害
 ↓↑
 643年
 百済は
 高句麗と和睦し
 高句麗との争奪戦の中で
 新羅に掠め取られた
 漢城の奪回を目指した
 「義慈王」
 独裁権の強化と反対派の粛清を進め
 642年
 高句麗で
 「淵蓋蘇文」
 がクーデターにより実権を握り
 新羅で
 「善徳女王」
 を中心として
 「金春秋」
 「金庾信」
 の3名が結束
 倭国では
 「舒明天皇」
 が死に
 「皇極天皇」
 が即位
 「蘇我蝦夷」
 「蘇我入鹿」
 親子が実権を握り
 「陵(みささぎ)」建設を開始
 ↓↑
 百済は
 高句麗と協同し
 新羅への侵攻
 「善徳女王」
 死後の
 「新羅王」
 「金春秋(武烈王)」
 は唐への援軍要請
 唐は
 高句麗征討において
 同盟国となっていた百済を倒し
 高句麗の背後を抑え
 660年
 水陸合わせ13万の大軍を
 百済へ差し向け
 新羅の
 「金庾信」
 の指揮で出兵
 660年3月
 唐の
 「蘇定方」将軍が
 山東半島から海を渡って
 百済に上陸
 百済侵攻を開始
 7月
 王都「泗沘」が占領
 「義慈王」
 は熊津に逃れたが
 降伏
 百済滅亡
 ↓↑
 唐軍の主力が旧百済領を離れると
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 「僧道琛」
 などの百済遺臣が反乱
 倭国で
 百済を全面的に支援決定
 人質の百済王子
 「扶余豊璋」
 を急遽帰国させ
 「阿倍比羅夫」
 らからなる救援軍を派遣
 「斉明天皇」
 は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った
 ↓↑
 「豊璋」
 は百済王に推戴され
 実権を握る
 「鬼室福信」
 と対立し殺害
 倭国は軍勢を朝鮮半島へ派兵
 唐本国から
 「劉仁軌」
 の率いる唐の増援軍が到着
 ↓↑
 663年
 「白村江(白馬江)」
 で決戦
 倭国大敗
 各地を転戦する軍を集結させ
 亡命を希望の
 百済貴族を伴って帰国
 「豊璋」
 高句麗に逃亡
 668年
 高句麗も唐に敗北
 百済は完全に滅亡
 ↓↑
 唐は
 高句麗の都
 「平壌」に
 「安東都護府」を設置
 「百済」故地に
 「熊津都督府」
 5つの都督府を設置
 「熊津都督」に全体の統轄を命じた
 664年
 「劉仁軌」
 の上表を受け
 「義慈王」の太子
 「扶余隆」を
 「熊津都督」に任じ
 665年8月
 唐は
 就利山で
 「扶余隆」
 と新羅の
 「文武王」
 に
 「劉仁軌」
 の立会の下に
 熊津都督府支配地域(旧百済)
 新羅の国境画定の
 会盟を行わせた
 「扶余隆」
 は百済の歴代国王が
 唐から与えられていた
 「帯方郡王」
 に任じられ子孫に称号が継承
 百済の亡国の太子が
 唐によって
 新羅王と同格と扱われ
 高句麗最後の王
 「宝蔵王」
 「遼東都督任命」と対比できる
 「扶余隆」
 の熊津都督任命が単に
 百済遺民の
 慰撫を目的としているだけではなく
 百済や
 高句麗(安東都護府・遼東郡王)
 を滅亡前の
 「冊封国」ではなく
 「羈縻州」
 として組み込み
 新羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)
 を
 「羈縻体制」とし
 中華帝国への編入とした
 ↓↑
 新羅は、建前上は
 唐の臣下という立ち位置を維持しつつ
 「百済と新羅は
  共に唐の領土で
  国境はない」
 とし
 百済・高句麗の遺民を蜂起させつつ
 領土を蚕食し
 唐へは
 謝罪使を派遣し
 支配地を広げた
 唐は
 新羅の領土拡張と謝罪使に対し
 新羅王の王位剥奪を考えたが
 西方の
 「吐蕃」
 の侵入で都長安が危険に曝され
 朝鮮半島の支配維持できなくなり
 百済の故地は
 新羅の支配下に入った
 ↓↑
 百済滅亡後
 百済の旧高官たちが新羅に降った
 660年
 論功行賞では
 佐平の忠常、常永
 達率の自簡などの
 百済遺臣に新羅の地位が与えられた
 「白村江の戦い」後
 多数の百済人が
 倭国へ亡命
 百済王子
 「豊璋」の弟
 「善光(禅広)」
 の子孫は倭国の朝廷から
 「百済王(くだらのこにきし)」
 の姓を賜り
 日本の氏族としての
 「百済王氏」
 を中心として倭国に根付いてた
 「白村江」
 で敗れた後
 「豊璋」
 は高句麗の滅亡後に唐に捕縛
 流刑に処された
 ↓↑
 唐へ渡った
 百済王族、貴族
 百済王子
 「扶余隆」
 百済の武将
 「黒歯常之」
 「祢軍」
 など6人の百済人とその子孫たちの墓が
 2016年
 10か所が発見
 彼らは唐に仕え
 3世代にわたり
 その動向が墓誌に残されていた
 ↓↑
 高句麗、夫余、沃沮・濊
 夫余系諸語
  ↓↑
 『梁書・百済伝』
 「今・・・・・現在
  言語・・・・言葉
  服章・・・・衣装
  略・・・・・ほゞ
  與
  高麗
  同』
  『梁書・百済伝』
  ↓↑
 『周書』
 百済王の姓は
 「夫余」
 自ら
 「於羅瑕」・・・オラカ
 と称していた
 一方民衆はこれを
 「鞬吉支」・・・・古代朝鮮の
         「王・首長」
          意味する称号
         「於羅瑕」(鞬吉支)
          が渡来人の称号として
          日本で用いられ
          姓となり
          氏ともなった・・・
          ↓↑
          本居宣長の『古事記伝』
          新羅の
          17等の
          京位(中央役人の官位)中の
          14位
ー↓↑ー--
 百済最後の国王
 「義慈王」
 倭国(皇極=斉明天皇・天智天皇)
 と同盟
 王子
 「豊璋」
 と
 「善光(扶余勇・禅広王・余禅広)」
 を倭国の人質とした
 660年
 「唐+新羅」同盟により
 「百済」滅亡
 百済王室は唐の都に連行
 百済復興のため
 倭国で人質だった
 「豊璋」
 は倭軍と共に帰国し
 軍事作戦で対立した
 「鬼室副信」
 を殺害後
 「白村江の海戦」
 でに敗れ
 「高句麗」
 に亡命
 唐軍の捕虜となり長安に連行され流刑
 「倭国」には
 「善光」
 が百済王族として生き残った
 ↓↑
 奈良時代末期
 「百済俊哲」
 が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使
 「百済武鏡」
 は出羽守
 「百済敬福」
 以来東北地方の経営と征夷事業に関与
 ↓↑
 平安時代初期
 「桓武天皇」
 の母
 「高野新笠」
 が百済系渡来氏族の
 「和氏」出身で
 天皇の外戚とみなされ
 一族の娘を
 「桓武天皇・嵯峨天皇」
 らの後宮宮人とし縁戚となった
 百済の本貫地
 河内国
 平安時代中期
 外戚関係も薄れ、下級官人となったが
 和気氏・・・和気清麻呂
 伴氏・・・・大友家持
 佐伯氏・・・弘法大師=空海
 などとともに
 天皇即位などの儀式の際に氏爵を受け
 従五位下の官人を輩出する
 「百済王氏」
 への
 氏爵は
 戦国時代まで行われていた・・・
 ↓↑
 百済王神社の
 「三松氏」は
 「百済王氏」の後裔を自称
 ↓↑
 平安時代後期
 常陸国の税所の
 在庁官人の最高位
 「百済氏」も元は百済王氏の子孫
 ↓↑
 「百済氏」=「税所氏」・・・麻生?
 と呼ばれ
 常陸平氏の
 「大掾氏」
 に敗れ、同氏の一族に組み込まれていった
 ↓↑
 飛鳥時代
 扶余 豊璋=百済王
 百済王善光(601年~693年)
  持統天皇より百済王の氏姓を賜る
  正広肆(従三位相当)
  贈
  正広参(正三位相当)
 百済王昌成(?~674年)
 百済王遠宝
 百済王朗虞(661年~737年)
  従四位下・摂津亮
 百済王南典(666年~758年)
  備前守
 奈良時代
 百済王慈敬
 百済王孝忠
 百済王敬福(697年~766年)
  従三位 刑部卿
  『公卿補任・天平廿一午条百済王 敬福』
  「南典弟也」
 ↓↑
 奈良時代末期~平安時代初期
 百済王理伯
 百済王武鏡
  出羽守
 百済王明信(?~815年)
  藤原継縄室・尚侍
 百済王俊哲
  陸奥鎮守将軍
    征夷副使
 百済王仁貞
  備前守
 百済王教法
  桓武天皇 女御
 百済王教仁
  桓武天皇 後宮
 百済王教徳
 ↓↑
 平安時代前期
 百済王教俊
 百済王貴命
  俊哲の娘=嵯峨天皇女御
 百済王慶命
  嵯峨天皇後宮=尚侍
 ↓↑
 平安時代中期
 百済王勝義(779年~855年7月)
 百済王貞連
 (くだらのこにきし テイレン
           さだつら)
 ↓↑
 安時代後期の人物
 一部は
 百済朝臣
 百済宿禰・・・
 ↓↑
 百済王 (昌泰 3(900)8・20 河内権介)
 百済貞運 (延長元(923)12・13 内舎人)
 百済王貞運 (天慶 2(939)5・15 武蔵守)
 百済王貞運 (天慶 2(939)5・17 武蔵守,前上総守,従五位下)
 百済貞運 (天慶 2(939)12.11/12.29 武蔵守)
 百済王興勢 (天慶 9(946)10・28 散位従五位下)
 百済王 (応和元(961)6・5 図書頭)
 百済 (安和 2(969)7・8 山城大掾)
 百済 (治承 4(1180)4・21 従五位下)
 百済清重 (長徳 2(996)正・25 播磨権少掾)
 百済王為孝 (長徳 3(996)正・28 周防権掾,正六位上)
 百済述高 (長和 4(1015)11・16 播磨国有年庄寄人)
 百済王基貞 (応徳 3(1086)12・16 禁野司小口,従五位下)
 百済惟助 (長治 2(1105)8・20 異国警固斫本司 兼監代)
 百済王清重 (永久 4(1116)12・20 播磨権掾,正六位上)
 百済年旧 (永久 4(1116)12・20 上野少掾)
 百済花押 (仁平元(1151)4・8 散位)
 百済雅国 (長寛 3(1165)年 7・25 従五位下)
 百済重次 (承安 2 年(1172)12・30 豊前国日足庄官 人代)
 ↓↑
 鎌倉・室町期の人物
 百済王時里 (治承 4(1180)4・21 従五位下)
 百済岑基 (建久 9(1190)2・26 従五位下)
 百済王光房 (寛元 4(1246)3・8 従五位下)
 百済王貞秀 (弘安 11(1288)3・8 従五位下)
 百済高延 (貞和元(1349)12・21 従五位下)
 百済王遠倫 (永正 18(1521)3・17 従五位下)
 ↓↑
 百済郡(くだらのこおり)
 摂津国にあった郡
 舒明天皇三年(631年)
 「豊璋と善光」兄弟が来日
 父親の
 第31代
 義慈王
 高句麗・新羅
 と争い
 660年
 唐・新羅連合軍によって
 滅ぼされ
 天智天皇元年(662年)
 「豊璋」
 倭軍と共に百済に帰国
 663年
 「白村江の海戦」で大敗
 高句麗へ逃亡後
 唐軍に捕虜後、流刑
 ↓↑
 天智天皇3年(664年)
 「善光」は摂津国の難波に居住
 一族ともども
 中央貴族として朝廷に仕え
 「百済王氏」という姓を下賜
 持統天皇五年(691年)
 食封100戸を追加
 計200戸
 「百済寺」建立(大阪市天王寺区の堂ヶ芝廃寺)
 ↓↑
 百済郡設置
 「百済郡
  何里車長
  百済部
  若末呂」裏面に
 「(霊亀)元年」
 と書かれた
 「長屋王木簡」が初見史料
 設置の時期
 654年(天智三年)
 or
 649年(大化五年)
 斉明朝の
 「難波百済寺」
 「評(群)」の成立時期
 他には
 東国への殖民として
 武蔵国において
 高麗郡
 新羅郡(新座郡と改称)
 が立てられた・・・
 ↓↑
 百済郡
 消滅・・・
 「百済王氏」が
 本拠を「摂津国」から「河内国」に移住
 当時
 陸奥国で金を発見した
 「百済王敬福」
 天平勝宝二年(750年)
 河内守を命じられ
 一族の本拠を河内国へと移した・・・
 後
 「江南四郊」の代名詞として用いられ
 「欠郡(かけのこおり)」
 の名称は
 「百済郡」
 の消滅に由来して生じた名称・・・? 

  「吉士(キシ)」⇔貴志=きし=岸⇔安倍・・・?
  徳川幕府末期の
  阿部 正弘
  文政二年十月十六日
 (1819年12月3日)
 ~
  安政四年六月十七日
 (1857年8月6日)
       大運1848年9月(28歳)壬申印綬
 己 卯(甲 乙)偏財・比肩建禄⇔丁巳食神
 乙┏亥(戊甲壬)比肩・印綬 死⇔丁未食神
 乙┗巳(戊庚丙)  ・傷官沐浴⇔丙寅傷官
 壬 午(丙 丁)印綬・食神長生⇔甲午劫財
   寅卯空亡  旧10/16(参宿) 旧6/17(危宿)
 ↓↑
 祖先は
 「大彦命=大毘古命」・・・と自称・・・
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

 

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