亜米利加の恫喝・・・カツアゲ(喝上げ)・・・ぺるり=熊おやじ=彼理=伯理)
恐怖に訴える方が
友好に訴えるより
多くの利点があるだろう
魯西亜プーチンの殺戮・強奪・・・オレの辞書にはウソの概念は無い
1794年4月10日
~
1858年3月4日
大運1852年10月(58歳)甲戌偏官
甲 寅(己丙甲)偏官・比肩長生⇔戊午比肩
戊┏辰(乙癸戊)比肩・正官冠帯⇔甲寅偏官
戊┗戌(辛丁戊) ・傷官 墓⇔丙申偏印
戊 午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔甲午偏官
辰巳空亡 旧3/11(翼宿) 氏宿
↓↑
State of Rhode Island
and
Providence Plantations
2020年
State of Rhode Island
に変更
「ロードアイランド
及び
プロビデンス・プランテーション州」
プランテーション=植民地・農園・・・
ロードアイランド
を「ロード島=アクィドネック島」
ナラガンセット湾の島
ニューポート郡に属する
プロビデンス・プランテーション
ロードアイランド州
の起源となった植民地集落の名で
ロードアイランド
などの周辺地域に農地を開拓
↓↑
州名
アイランド
アメリカ合衆国本土
2つの開拓地の統合で生じ
ロードアイランド植民地は
ナラガンセット湾に浮かぶ
アクィドネック島と呼ばれる場所で
ニューポート市近くに設立
プロビデンス・プランテーション
プロビデンス市がある地域に
ロジャー・ウィリアムズ
が設立した植民地の名前
↓↑
アクィドネック島⇔ロード島
1524年
探検家
ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ
が
ナラガンセット湾口近くある島の存在を記録
オスマン帝国の
ロドス島(ギリシャに属する)に擬えられた
後のヨーロッパ人探検家は
ヴェラッツァーノ
が名付けた島を正確に特定できなかった
地域に入植した
ピルグリムが
ベラッツァーノ
の
ロードス島は
アクィドネック島と想定
↓↑
1610年代
アドリアン・ブロックが
アクィドネック島の側を通り
1625年の旅行記で
「赤みを帯びた島」と表現
17世紀のオランダ語で
「赤み=ロドリッチ(rodlich)」
「赤み」が秋の紅葉からきたものか
岸の赤い粘土からきたもの・・・
↓↑
ヴェラッツァーノ記念碑
プロビデンス市
アクィドネック島
悪意 怒音通句当・・・?
↓↑
1637年
ロジャー・ウィリアムズによる
その名前は
1644年に公式に適用
「アクスネックは今後
アイル・オブ・ロードス
あるいは
ロード・アイランド
と呼ぶことにする」
1646年には既に法的文書で使用
オランダの地図で
1659年
「レッド・アイランド
Roodt Eylant」
と表示
↓↑
ロジャー・ウィリアムズは
マサチューセッツ湾
植民地を追い出された
神学者
信仰と政治の寛容さを求め
他の者達と共に
自由な領主植民地として
「プロビデンス・プランテーション」
を設立
「プロビデンス」
は神の摂理を表し
「プランテーション」
は植民地を表す
嘉永六年
1853年7月14日
ペリー提督一行
嘉永七年(1854年)
横浜への黒船来航
↓↑
1852年11月13日(嘉永5年10月3日)
ペリーは
海軍長官
ケネディから訓令
対日使命遂行のため
広範な自由裁量権の行使
日本沿岸
隣接大陸や諸島の探検
行く先々の諸国や諸地方の
社会・政治・商業状況
商業対象として
できうる限りの情報の収集
↓↑
1851年1月
日本遠征の独自の基本計画を
海軍長官
ウィリアム・アレクサンダー・グラハム
に提出
任務成功のために
4隻の軍艦
3隻は大型の蒸気軍艦
中国人に対したのと同様に
日本人に対しても
「恐怖に訴える方が
友好に訴えるより
多くの利点があるだろう」
と・・・
オランダが妨害することが想定され
長崎での交渉は避ける
東インド艦隊所属の
「サスケハナ」
「サラトガ(帆走スループ)」
「プリマス(USS Plymouth)」
蒸気艦4隻
帆走戦列艦1隻
帆走スループ2隻
帆走補給艦3隻
からなる
合計13隻の大艦隊の編成を要求
予定した本国艦隊の
蒸気軍艦4隻のうち、使用できるのは
「ミシシッピ」のみで
戦列艦は除外され
代わりに西インドから帰国した
蒸気フリゲート
「ポーハタン」が加わった
老中首座
「阿部正弘」
1852年7月21日
嘉永五年六月五日)
オランダ商館長
ヤン・ドンケル・クルティウス
は
長崎奉行に
「別段風説書(幕末出島未公開文書)」
を提出した
アメリカが日本との
条約締結を求め
艦隊を派遣することが記載
中国周辺にある
アメリカ軍艦5隻
アメリカから派遣される
予定の4隻の艦名とともに
司令官が
オーリック
から
ペリーに代わったこと
また艦隊には
陸戦用の兵士と兵器を搭載
との噂があると告げていた
出航は4月下旬以降
と言われていると伝えた・・・
6月25日付
オランダ領
東インド総督
バン・トゥイスト
からの
長崎奉行宛の親書
(『大尊君長崎御奉行様』)
を提出
アメリカ使節派遣に対処する
オランダの推奨案として
「長崎港での通商を許し
長崎へ駐在公使を受け入れ
商館建築を許す
外国人との交易は
江戸、京、大坂、堺、長崎
の5か所の商人に限る」
など
合計10項目
通商条約素案が示されていた
1844年
の親書のあとも
開国されなかったため
オランダ国王は失望しているが
戦争になれば
オランダ人にも
影響がおよびかねないなどの懸念を表明
老中首座
阿部正弘
夏ごろには
溜間詰の譜代大名にこれらを回覧
海岸防禦御用掛(海防掛)
にも意見を訊いた
通商条約は結ぶべきではない
との回答
長崎奉行も
オランダ人は信用できないとした
(以前に
オランダ風説書で
イギリスの
香港総督
ジョン・バウリング
の渡航が予告されたがそれはなく
すべての情報が
正しいわけではなかった)
幕府は
三浦半島の防備を強化するため
川越藩
彦根藩
の兵を増やした程度で
情報は奉行レベルまでの
幕府上層部に留めおかれ
来航が予想される
浦賀の
与力などには伝えられていなかった
外様の
「島津斉彬」
には年末までに口頭で
この情報が伝えられた・・・
斉彬は翌年の
アメリカ海軍
東インド艦隊の
琉球渡航以降の動静を
阿部正弘に報告
両者は危機感を持った・・・
が幕府内では少数派・・・
アメリカ政府は
ペリーの日本派遣を決定
オランダ
ヘーグ
に駐在するアメリカ代理公使
フォルソム
を通じ
通商交渉使節の派遣
と
その平和的な目的を
オランダ政府が
日本に通告してくれるよう依頼
しかし
この書簡(1852年7月2日付)は
クルティウス
が日本に向け
ジャワを出発したあとに
バン・トゥイスト
の手元に届いたため
日本には届いていない
翌年
ペリーが来航した
1853年(嘉永六年)提出の
「別段風説書」
では
ペリー派遣の目的は
通商関係を結ぶことが目的の
平和的なものであると述べている・・・
ミシシッピ号
1852年11月24日
58歳
マシュー・カルブレース・ペリー
司令長官
兼
遣日大使
を乗せた蒸気
フリゲート
「ミシシッピ号」
単艦で
ノーフォーク
を出港
一路アジアへと向かった
ペリーはタカ派の大統領
フィルモア(ホイッグ党)
から
琉球の占領も
やむなしと言われていた・・・
ミシシッピは大西洋を渡り
マデイラ島(12月11日~15日)
セントヘレナ島(1853年1月10日・11日)
南アフリカ
ケープタウン(1月24日~2月3日)
インド洋
モーリシャス(2月18日~28日)
セイロン(3月10日~15日)
マラッカ海峡
~
シンガポール(3月25日~29日)
マカオ・香港(4月7日~28日)
を経て
5月4日
上海に到着
この間、各港で石炭補給
香港で
プリマス(帆走スループ)
サプライ(帆走補給艦)
と合流
上海で蒸気フリゲート
サスケハナ
と合流
米大統領は
民主党の
ピアース
の下で
ドッピン海軍長官は
侵略目的の武力行使を禁止
航海途上の
ペリーには届いていなかった・・・
なお
マカオにて
サミュエル・ウィリアムズ
を漢文通訳として
上海で
アントン・ポートマン
をオランダ語通訳として雇用
日本への航海途中に
フィルモア大統領親書の
漢文版
および
オランダ語版を作成
↓↑
琉球来航
サスケハナ号・・・猿飛 佐助?
鼻・洟
端・塙
華・花
葉名・波奈
1853年6月
首里城
上海で
サスケハナ
に旗艦を移したペリー艦隊は
5月17日出航
5月26日
琉球王国(薩摩藩影響下)の
那覇沖に停泊
ペリーは首里城への訪問を打診
琉球王国側はこれを拒否
ペリーはこれを無視し
武装した兵員を率いて上陸
市内を行進しながら
首里城まで進軍
↓↑
琉球王国は
武具の持込と兵の入城だけは
拒否するとして
ペリーは
武装解除した士官数名とともに入城
ペリー一行は北殿で
茶と菓子程度でもてなされ
開国を促す大統領親書を手渡した
場所を城外の
大美御殿に移し
酒と料理でもてなされた
ペリーは感謝し
返礼に
王国高官を
「サスケハナ」
に招待し
同行の
フランス人シェフの料理を振る舞った
↓↑
王国が用意したもてなしは
清の
冊封使に対するもてなしよりも
下位の料理を出すことで
暗黙の内に
ペリーへの
拒否(親書の返答)を示していた
『琉球王国評定所文書』
に記録
↓↑
小笠原探検
ペリーは艦隊の一部を
那覇に駐屯させ
6月9日に出航
6月14日~6月18日
小笠原諸島を探検
ペリーは小笠原の領有を宣言
イギリスから抗議
ロシア船も抗議のために
小笠原近海へ南下
宣言はうやむやになった
日本は
林子平著
『三国通覧図説』
の記述を根拠として
領有を主張
水野忠徳
を派遣して
八丈島住民などを
移住させることで
イギリス
ロシア
アメリカ
など列強諸国に
領有権を認めさせた
↓↑
ペリーは
6月23日
に一度琉球へ帰還
再び艦隊の一部を残したまま
7月2日
に大統領からの親書を手に
3隻を率いて日本へ出航した
1853年7月11日
江戸湾を調査する
ミシシッピ号艦長
サイラス・ベント
Silas Bent
サラトガ号
合衆国
水師
提督口上書(嘉永六年六月八日)
左より
ヘンリー・アダムス副使(艦長)
ペリー水師提督
アナン軍使(司令官)
↓↑
1853年7月8日(嘉永六年六月三日)17時
浦賀沖に停泊
艦隊は旗艦
「サスケハナ(蒸気外輪フリゲート)」
「ミシシッピ(蒸気外輪フリゲート)」
「サラトガ(帆走スループ)」
「プリマス(USS Plymouth 同)」
の4隻
大砲は計73門
臨戦態勢
浦賀奉行
戸田氏栄
は米艦隊旗艦
サスケハナ
に対して
浦賀奉行所
与力
中島三郎助
を派遣
ペリーの渡航が
徳川将軍に
アメリカ合衆国大統領親書
を渡すことが目的であることを把握
サスケハナ
に乗艦するために
中島は「副奉行」と詐称
ペリー側は幕府側の
階級が低すぎるとして
親書を預けることを拒否
7月9日(嘉永六年六月四日)
浦賀奉行所
与力
香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ね
ブキャナン艦長
アダムス参謀長
ペリー の副官
コンティー
と会見
親書は最高位の役人にしか渡さないと拒否
香山は4日の猶予をくれるように頼み
ペリーは3日なら待とうと答え
「親書を受け取れるような
高い身分の役人を派遣しなければ
江戸湾を北上して
兵を率いて上陸し
将軍に
直接手渡しすることになる」
と脅した
↓↑
ペリーは艦隊所属の各艦から
1隻ずつの武装した短艇を派遣
浦賀湊内を測量
7月11日(嘉永六年六月六日)
早朝から測量艇隊は
江戸湾内に20キロほど侵入
護衛にミシシッピ号がついた
7月12日
「姑く耐認し枉げて其意に任せ
速やかに退帆せしめ後事をなさん」
との見地から国書を受領し
返事は
長崎オランダ商館長
を通じて伝達するよう
浦賀奉行
井戸弘道
に訓令
第12代征夷大将軍
徳川家慶は病床
老中首座
阿部正弘は
7月11日に
「国書を受け取るぐらいは
仕方ないだろう」
と
7月14日
ペリー一行の
久里浜上陸を許し
下曽根信敦
率いる幕府直轄部隊に加え
陸上を
川越藩
彦根藩
海上を
会津藩
忍藩
が警備するなか
浦賀奉行の
戸田氏栄
井戸弘道
が
ペリー
と会見
↓↑
ペリーは
大統領フィルモアの親書
提督の信任状
覚書
などを手渡した
幕府は
「将軍が病気であって
決定できない」
とし
返答に1年の猶予を要求
ペリーは
「返事を聞くために
1年後に再来航する」
と告げた
↓↑
7月15日
浦賀より20マイル北上し
江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み
将軍に充分な威嚇を示してから
小柴沖に引き返した
↓↑
7月17日
江戸を離れ
琉球に残した艦隊に合流
イギリスの植民地
香港へ帰った
↓↑
佐久間象山
吉田松陰
見物
ー----
東晋
「葛洪」の著作
『抱朴子』内篇(地眞篇)
「經世濟俗」という語が現れ
「經世濟民」とほぼ同義で使用
隋代
「王通」の
『文中子』礼楽篇
「皆
有 經濟之道
謂 經世濟民」
とあり
「經濟」が
「經世濟民」の略語として使用
『晋書』殷浩伝(唐)
『宋史』王安石伝論(元)
などにも
「經濟」が記録
政治・統治・行政一般を意味する
清末
「戊戌の政変」後
儒教的教養によらず
在野の有為な人材を登用するために
新設された
科挙の新科目
「経済特科」も同義
「經濟」
の語を書名とした
「太宰春台」の
『経済録』(18世紀前半)
「凡(およそ)
天下國家を治むるを經濟と云
世を經め民を濟ふ義なり」
「經世濟民(經濟)の學」は
経済学、政治学・政策学・社会学
広範な領域
↓↑
江戸後期
貨幣経済が浸透し
「經濟」のなかでも
「社会生活を営むのに必要な
生産・消費・売買などの活動」
と強調されるようになった
「economy」
幕末期
イギリスなどから
古典派経済学の文献が輸入
「経済」=「economy」の訳語として使用
1862年(文久二年)
「堀達之助」
らの
『英和対訳袖珍辞書』で
「economy=家事する、倹約する」
「political economy」
に「経済学」の訳語
「神田孝平」訳の
『経済小学』(1867年(慶応三年)刊)
で「経済学=ポリチャーエコノミー」
「福沢諭吉」の
『西洋事情 外篇』巻の3
「経済学」の語
1866年(慶応二年)刊の
『西洋事情 初篇』巻の1に
「経済論」の語がある
↓↑
「生産品→市場商品=流通交換市場売買商品」
「経済(学)」=「経済」=「貨殖興利」
「民を済(すく)ふ」
という規範的な意味は稀薄となり
新しい用法は
本来の意味の
「經濟」という語を
生み出した中国(清)にも
翻訳を通じて逆輸出され
以後東アジア文化圏全域で定着
ー----
・・・???・・・
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源) + (表紙・画像・音楽)」の 移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」