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コジキジゲン

カルナック・・・「輕・珂瑠」名付句?

2023-09-20 21:45:02 | 古事記字源

 「アメン」の名は
 隠すという動詞のの「imen 」に由来?
 隠すためのモノは
 イチジクの葉だった・・・アダム・・・?
 無花果?・・・
 「市(移置)=亠+巾」の字句?
 ↓↑

 「少名毘古那」の「ひむし」・・・発想は・・・妄想?
 カルナック・・・「輕・珂瑠」名付句・・・?
          漢風諡号 文武天皇
          和風諡号
          倭  根子 豊 祖父  天皇
         (やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)
         (ワ コンシ ホウ ソフ テンコウ)?
          天 之 眞宗  豊 祖 父  天皇
         (あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)
         (テンシ シンソウ ホウ ソフ テンコウ)?

 アメン神・・・・海部務・・・阿毎武?
         天部孥?
           孥=奴+子
             女+又+子
             ド・ヌ
             つまこ=妻子・妻と子
             子・子ども
             やっこ・しもべ・奴隷=奴
 ↓↑
 カルナック神殿
 (Karnak Temple
  Temple of Karnak
  Karnak Temple Complex)
 「カルナック」
 アラビア語で
 「窓」の意・・・まど・・・?・・・日留?
  窓=穴+厶+心
    宀+八+厶+心
    ソウ
    まど
    あかりとり・
    風を通す穴(あな)
    Windows(ウインドウズ)
    異体字
    「窗・窻・䆫・牕・牎」
    蛍窓雪案(ケイソウケツアン)
    鑿窓啓牖(サクソウケイユウ)
    清窓浄机(セイソウジョウキ)
    北窓三友(ホクソウのサンユウ)
    明窓浄几(めメイソウジョウキ)
    深窓(シンソウ)に育つ
 ↓↑

 古代エジプトの神殿複合体
 エジプトの
 首都カイロから
 ナイル川を南におよそ670キロメートルさかのぼった
 東岸に位置
 新王国時代(紀元前1550~1069年頃)
 古代首都テーベ
 (古名 ワセト=Waset)・・・倭瀬戸?
 巨大都市テーベの一部
 カルナック複合体の名
 西岸には歴代の王が眠る王家の谷や貴族の墓
 ハトシェプスト女王葬祭殿
 中心は
 アメン神(アモン・アムン・アメン=ラー・アムン=ラー)
 アメン大神殿複合体(アメン=ラーの神域)
 ↓↑
 神殿
 祠堂(礼拝堂)
 塔門(パイロン・ピュロン)
 その他の建造物の構成からなる
 古代宗教遺跡
 泥煉瓦の周壁に囲まれた3か所の主要部分
 アメン大神殿(アメン=ラーの神域)
 他の2か所の構成要素
 ムト(ムゥト)の神域
 モンチュ(モント・モントゥ・メンチュウ・メントゥ)
 の神域

 ↓↑
 建造は
 中王国時代(紀元前2055~1650年頃)
 センウセルト1世(紀元前1965~1920年頃)
 残存
 新王国時代からの建造物のほとんどが
 プトレマイオス朝(紀元前332~32年)
 ~
 ローマ支配時代(紀元前30~後395年[6])
 まで継続
 カルナック神殿複合体
 アメン神をその頂点とする
 新王国時代の
 テーベ三柱神崇拝の中心地
 ↓↑
 都市テーベ
 中王国時代
 第11王朝(紀元前2055~1985年頃)
 祠堂はテーベの初期の神々である
 地母神ムト
 軍神モンチュ
 に捧げられていた
 初期の建造物は侵略者により破壊
 第11王朝で
 国家神は
 モンチュ
 最古の遺物
 第11王朝による小さな
 八柱神のものがあり
 アメンについて記録
 ↓↑
 第1中間期(紀元前2181~2055年頃)
 長くテーベの地方神であった
 アメン神は
 第12王朝(紀元前1985~1795年頃)
 王朝の守護神として
 モンチュに代わり国家神となった
 ↓↑
 アメンは
 雄羊
 鵞鳥(がちょう)・・・?
    ・・・・天乃羅摩船
    (アメのカガミのフネ
     ガガイモの実=大形で広披針形
     表面に突起を有し
     種子には白色の長毛
     綿(わた)の代用とされた)
     に乗り
     鵝・・・鵝鳥=鵞鳥の羽
     (ヒムシ=ガ=蛾?)
     の皮の着物を着て
     波の彼方より来訪(古事記)
     鷦鷯(みそさざい)
     の皮の着物を着て来訪(日本書紀)
     「ひ虫」=蚕の蛹(さなぎ)
         その羽化したもの
         ひひるむし
     「肥虫(ひむし)」・・・肥中=熊本?
     成虫が体長1.5~2mmの菱形
     淡黄白色の昆虫
     寄主の破片や隙間に卵を産み
     酵母を餌として
     およそ212個の卵を産む
     寿命は175日くらい
     卵期は11日
     越冬する・・・?
     「ひむし」を着ていたのは 
     少名毘古那神
     少名毘古那神
     少彦名命
     宿奈毘古那命
     須久那美迦微
     須久奈比古
     少日子根命
     小比古尼命
     小彦命
     小日子命
     小名牟遅神
     久斯神
     少名彦命
     天少彦根命
 ↓↑     ↓↑   
 と同一視された・・・・発想は・・・妄想?
         文久三年(1863)十二月
         遣欧使節団
        (第二回遣欧使節
         横浜鎖港談判使節団)
         フランス軍の軍艦
         ル・モンジュ号で日本を出港
         上海~インド~スエズ~カイロ
         ギザの
         三大ピラミッド
         スフィンクスを見学
         使節団総勢は35名
         正使は27歳の
         外国奉行
         池田筑後守長発(ながおき)
         副使は44歳の
         河津伊豆守祐邦(すけくに)
         目付は30歳の
         河田相模守煕(ひろむ)
 ↓↑      ↓↑
         1864(元治元)年
         エジプトでピラミッドとスフインクスを
         を見学した江戸幕府の武士達
         パリ使節団の三十四人中の
         二十七人・・・???
 ↓↑      ↓↑
 「アメン」の名は
 隠すという動詞の
 「imen 」に由来
 エジプト語の意味は
 「隠された者」
 「隠された神」
 で
 「アメンの称号」に
 「その姿、神秘なる者」
 地方神アメンは
 護国伸として
 豊饒神「ミン」
 陽神「ラー」
 などの他の有力な神と習合していった
 ↓↑
 アメン大神殿の主な建設工事
 テーベが統一された
 第18王朝(紀元前1550~1295年頃)
 新建設は
 第19王朝(紀元前1295~1186年頃)
 セティ1世(紀元前1294~1279年頃)
 ラムセス2世(紀元前1279~1213年頃)
 着工
 王朝のほぼすべての王(ファラオ)が
 神殿域に何かを追加
 女王
 ハトシェプスト(紀元前1473~1458年頃)
 記念物を建造
 ヒクソスの占領中に
 国外の支配者により
 破壊されていた古代エジプトの
 女神ムト
 のかつての神域を再構築
 ハトシェプストはその時代
 神殿入口に立つ1対のオベリスクを設置
 女王の事業としての
 カルナックの
 「赤い祠堂」=「聖舟祠堂」
 として当初は2基のオベリスクの間に建っていた・・・
 女王は王位16年目を祝し
 さらに2基のオベリスクの建設を命じた
 そのオベリスクの1基は建造中に壊れ
 第3のものがそれに置き換えるために構築
 アスワンにある採石現場には
 未完のオベリスクとして
 放置されたオベリスクが残っている
 新王国時代
 トトメス3世 (紀元前1479~1425年頃)
 の頃のものといわれる・・・
 ↓↑
 アメン大神殿構成
 第1塔門
 神域全体を取り囲む周壁の追加
 末期王朝(紀元前747~332年)
 第30王朝(紀元前380~343年)
 ネクタネボ1世(紀元前380~362年)
 によって構築
 ↓↑
 西暦323年
 コンスタンティヌス1世(306~337年)
 キリスト教徒の信仰を認め
 356年
 コンスタンティウス2世(337~361年)
 が帝国全体にわたって
 異教の神殿の閉鎖を命じた
 カルナック神殿はこの時代に大部分が放棄
 キリスト教会が廃墟のなかに設置
 トトメス3世祝祭殿の中央の間の再利用で
 そこには聖人が描かれた装飾や
 コプト語の碑文が記録
 ↓↑
 パネジェム1世の巨像(ラムセス2世像)
 アメン大神殿(アメン=ラーの神域)
 テーベ三柱神(アメン・ムト・コンス)
 の最高神である
 アメンに捧げられている
 パネジェム1世の彫像
 いくつかの巨大な像があり
 さらに
 高さ29.5メートル
 重さ323トン
 の最大級のオベリスクが立っている
 ↓↑
 ハコルの聖舟祠堂
 古代の埠頭の傍らに
 第29王朝
 ハコル(紀元前393~380年)
 聖舟は実際の舟(バーク)を模したもので
 これを神輿として運ぶ行列の際に
 川を経由する聖舟のための休息所であった
 ↓↑
 羊頭スフィンクス参道
 (第1塔門入口)
 スフィンクス参道(ドロモス)
 ラムセス2世の構築した埠頭より
 第1塔門に通じ
 40体の雄羊の頭を持つ
 スフィンクス(クリオスフィンクス)
 が両側に並ぶ
 埠頭からは同じく
 ラムセス2世が建立したスフィンクス参道は
 第2塔門への入口につながっていたが
 第1塔門が構築されたときに
 羊頭スフィンクスは
 前庭の両脇に移された
 ↓↑
 第1塔門
 塔門の幅は113メートル
    高さ43メートル
    厚さは15メートル
 ↓↑
 セティ2世の聖舟祠堂
 前庭(第1中庭、大中庭)
 第22王朝
 (ブバスティス朝、紀元前945~715年頃)
 における前庭
 ↓↑
 ラムセス3世神殿(正面入口)
 前庭の南側
 第20王朝
 ラムセス3世によって建造された小神殿
 神殿の中庭の左右に各8体の
 オシリスをかたどる王の立像が並び
 その奥に
 多柱室や
 テーベ三柱神の聖舟祠堂が備えられている
 ラムセス3世神殿の東隣(前庭入口)
 第22王朝
 シェションク1世
 (紀元前945~924年頃
 シシャク「旧約聖書」列王記 I 14.25-26)
 の業績を記念した
 「ブバスティス門」があり
 その外壁には
 シェションク1世が
 捕虜を打ち据える場面が描かれる
 ↓↑
 第19王朝
 ラムセス1世 (紀元前1295~1294年頃)
 塔門にある
 ホルエムヘブのレリーフや碑文を侵害し
 それらにラムセス1世自身のものを加えた
 その後
 ラムセス2世により奪われ
 塔門の東(背)面は
 セティ1世のもとで
 新たに築かれた大列柱室の西壁になり
 セティ1世が父
 ラムセス1世の肖像撤去の埋め合わせとして
 ラムセス1世を讃えるいくつかの肖像を加えた
 第2塔門の中央部は末期王朝の時代に崩壊
 後
 プトレマイオス朝時代に修復
 プトレマイオス6世
 (紀元前180~145年[6])
 の肖像が描かれた
 ↓↑
 大列柱室の高窓
 高い中央上方の縦格子を持つ高窓より
 採光されていた
 「カルナック」は
 アラビア語で
 「窓」の意・・・まど・・・?・・・日留?
 ↓↑
 「隠し場」の中庭
 第19王朝
 メルエンプタハ(紀元前1213~1203年頃)
 ルクソール神殿への行進行列の
 「隠し場(カシェット〈カシェ〉、Cachett)」
 の中庭の壁面に
 海の民に対する自身の勝利を記念
 中庭には
 オシリスの姿の王像ととに
 左足を踏み出した王像
 ↓↑
 第7塔門
 トトメス3世により築かれた
 中庭の側壁は後のラムセス2世に次ぐ息子
 メルエンプタハによって建造
 第7塔門が通常
 一般に通過できる塔門の最後
 ↓↑
 第8塔門
 ハトシェプストにより建造
 塔門の前方に巨大な座像が建立
 ↓↑
 第9塔門
 ホルエムヘブにより構築
 内部は空洞の詰め石に
 アメンホテプ4世の
 アテン神殿を
 形成したタラタートを解体し再使用
 ↓↑
 アメンホテプ2世祝祭殿(セド祭殿)
 第9塔門と第10塔門の間の中庭の東壁に復元
 ↓↑
 第10塔門
 ホルエムヘブが
 主な建築資材としてアメンホテプ4世の神殿より
 解体されたタラタートを使用し最後の塔門を構築
 両側にホルエムヘブと思われる2体の巨像
 ↓↑
 聖池
 第18王朝のトトメス3世が奉献した
 長さ120メートル
 幅77メートル
 第25王朝の時代に造成された
 11段階段を持つ
 地下水で満たされた聖池は
 神殿における水の供給源
 神官たちが自身を清める場所であった
 ↓↑
 聖池の南側
 アメンの聖鳥とされた
 ガチョウ(鵞鳥)の飼育場があり
 この聖鳥の囲い地より聖池に
 放鳥するための石造トンネルが通じていた
 ↓↑
 タハルカ神殿
 第25王朝
 タハルカの祠堂
 聖池の北西に位置
 地下には太陽神が毎夜
 地下を旅して
 毎朝再び
 スカラベとして復活する描画がある
 ↓↑
 スカラベ像
 タハルカの建物跡の前方に
 第18王朝
 アメンホテプ3世が
 太陽神アトゥム=ケプリ=ラー
 に捧げた赤色花崗岩の
 スカラベの像がある
 太陽神は
 「朝のケプリ
  真昼のラー
  夕方のアトゥム」
 の3つの形態(側面)があり
 アトゥム
 ラー
 と同一視された朝の太陽神
 ケプリ
 はスカラベ甲虫 (Scarabaeus sacer)
 の姿で表された
 ↓↑
 コンス神殿
 アメン大神殿の南西に位置
 月神でアメンの子神
 コンスに捧げられている
 第20王朝
 ラムセス3世によって着工
 後、多くの統治者により装飾
 入口の塔門は
 ピネジェム1世により装飾され
 碑文とともに神々の前に立つ
 ピジュネムの姿が描かれ
 前庭や多柱室はその前の
 ヘリホルにより装飾
 その奥の至聖所は
 「コンスの家」と称され
 コンスの聖舟祠堂が備えられており
 彫刻された聖舟の台座がある
 ↓↑
 コンス神殿の記念門
 プトレマイオス3世エウエルゲテス
 (紀元前246~221年)
 によるこのコンス神殿の
 記念門(プトレマイオス3世の門)
 は
 バブ・エル=アマラ門 (Bab el-Amara Gate)
 の名でも知られ
 そこから
 スフィンクス参道が
 ルクソール神殿に向かって延び
 またムトの神域にも通じる
 ↓↑
 オペト神殿
 プトレマイオス8世(紀元前170~116年)
 によって主に構築
 オシリスを
 出産した女神オペト(イペト〈タウェレトと融合〉)
 の神殿であり
 コンス神殿に隣接してあるが
 アメン=ラーの神域の
 西側周壁に専用の門があったオペト神殿には
 後に
 アウグストゥスなどの統治者により装飾が加えられた
 ↓↑
 プタハ(プタハとハトホル)神殿
 メンフイスの創造神プタハの小神殿は
 アメン主神殿の北側
 モンチュの神域に近い神域壁のすぐ内側にある
 建物は中王国初期の神殿の場所に
 トトメス3世によって建てられた
 後
 第25王朝の
 シャバカ(紀元前716~702年)
 プトレマイオス朝の時代から
 ローマ支配時代に修復・拡張され
 年代が異なる5つの門がある
 小列柱室の正面に3つの祠堂があり
 2つはプタハに捧げられたもので
 中央の祠堂にプタハ像があるが
 ハトホルに捧げられていた3つ目の南端の祠堂には
 プタハの妻神
 セクメト(セフメト)の黒色花崗岩の立像が安置
 ↓↑
 センウセルト1世の「白い祠堂」
 中王国時代
 第12王朝
 センウセルト1世の聖舟安置小堂
 主神殿の中心に位置する至聖所
 センウセルト1世の
 セド祭を記念し
 大祭の間、聖舟を安置する祠堂
 ↓↑
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

コメント
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すべからく、ホトケの御心のままにとは・・・リフジン・・・?

2023-09-18 22:29:24 | 古事記字源

文字ヶ関村・・・歎異抄・・・タリキホンガン?

 文字ヶ関村・・・歎異抄・・・タリキホンガン?
 ↓↑
 高 史明 氏
 1932年 1月17日
 ~
 2023年 7月15日
     大運2015年7月(83歳)壬辰正官
                害 
 辛未(丁乙己)偏財・偏印冠帯⇔癸卯偏官
  冲己=食神
 辛丑(癸辛己)偏財・偏財 墓⇔己未食神
 丁丑(癸辛己)  ・偏財 墓⇔甲戌印綬
 丙午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔庚午正財
  申酉空亡
  ↓↑

 悪人正機
 悟ったところで
 ダレも救われない・・・
 生きている「人間」にとって
 「活殺」が日常である・・・
 悟った後が問題だ・・・
 「ぬすむな」・「うそつくな」・「ころすな」・「さべつするな」
 「ぬすむ為」に「ウソ」をつき
 「サベツ」して、「コロす=命をぬすむ=イノチを奪う」・・・
 で、「どうするの」・・・
 「生きている人間」にとっては「ムリ」・・・
 「命題の人間」にとって「願望=絶望」・・・
 「人間=人々=从=したがう=従う・從う・随う・遵う・順う・倭」?
 「人間=人々=从」は支配階級に従って生存しているヒトビト=倭」?
  ↓↑
 「隨=したがう=順=倭」・・・?
    ・・・源 順(したごう)
       平安時代中期の貴族・歌人・学者
       嵯峨源氏、大納言・源 定の曾孫
       左馬允・源 挙(こぞる)の次男
       官位は従五位上・能登守
       梨壺の五人の一人
       三十六歌仙の一人
    20歳代、日本最初の分類体辞典
    『和名類聚抄』編纂
    『万葉集』の訓点作業
    『後撰和歌集』の撰集作業に参加
    ↓↑
    「あめつちのうた四十八首」という和歌48首を詠んで
    私家集『源順集』に収録され
    和歌の内容を
    春・夏・秋・冬・思・恋
    の構成としてそれぞれ8首、合わせて48首が収められている
    ↓↑
    あめ つち ほし そら やま かは みね たに
    天  地 星  空 山  川  峰  谷
    ↓↑
    くも  きり むろ  こけ ひと いぬ うへ すゑ
    雲  霧  室  苔  人  犬  上  末
    ↓↑
    ゆわ さる おふせよ  えのえを なれゐて
    硫黄 猿 吝伏施与 得能重乎 為例得出(氐)?
    ↓↑
    あめ つち ほし そら 
    阿女 都千保之 曽 里女之訛説也 此誦為勝?
    「大為爾」=大為爾の歌(たゐにのうた)
    天禄元年(970年)
    源 為憲が著した『口遊(くちずさみ)』の中に
    「謂之借名文字(これを借名〈かな〉文字と謂ふ)」
    という但し書きを最後に付け加えて記録
    ↓↑
    大為爾伊天 奈従武和礼遠曽 支美女須土
    田井に出で  菜摘む 我 をぞ  君 召すと
    ↓↑
    安佐 利比由久  也末之呂乃  宇知恵倍留
    あさ り ひ ゆ く  や ま し ろ の  うち ゑへる
    求〈あさ〉り追ひ行く 山城の  うち 酔へる
    ↓↑
    古良 毛波保世与 衣不弥 加計奴
こら  もは ほ せよ  え ふね か けぬ
子等 藻は 干せよ  え 舟 繋けぬ
  ????・・・ 
    ↓↑
    安和二年(969年)の
    「安和の変」以後の官途に影響を与えた
  ↓↑
  倭の訓=やまと・したがう
 〔漢書、地理志下〕
 「樂浪(らくらう)中に倭人り。れて百餘國と爲る」
 〔魏略〕
 「倭は帶方東南の大中に在り。山島に依りて國を爲す」
 「其の語を聞くに
  自ら太伯(呉の始祖)の後なりと謂ふ」
 〔後漢書、光武帝紀下〕
 「倭奴國」
  ↓↑
  倭(ワ)=訓義は
       したがう・低い姿勢
       倭遅は、はるかに連なるさま
       中国による古称で呼称
       倭(ワ)=やまと
  ↓↑
 邑阿自(オウアジ)=日下部氏の祖・・・
 「邑阿自(オウアジ)」が「名前」ですか・・・?
 今現代に生きているボクにとっては
 とても「名前」とは思えないが・・・
  ↓↑
  邑=口+巴(ともえ・ハ)
    ・・・唇を窄(すぼ)める形?
       ひょっとこの口
       口をすぼめて曲げたような
       表情の男性、その 面 のこと
       潮吹き面 (しおふきめん)
       語源は竈(かまど)の火を
       竹筒で吹く「火男」がなまった・・・説
       口が徳利のようであることから
      「非徳利」からとの・・・説
       舞楽に登場する
      「二の舞」に登場する滑稽な役を演ずる役の面
       里神楽(さとかぐら)では
       一連の番数の神楽のほかに
       番外として舞われる
      「もどき」と称される踊り
       ひょっとこの面をつけた踊り
       面の造型自体は
       猿楽で使用されていた
      「黒尉」の面などに由来
       同種の面は
      「うそぶき」と呼ばれ
       目はまるく、口をとがらせて突き出た形
       島根県の民謡「安来節」
      「ドジョウ掬い踊り」
       出雲国(島根県)はかつて製鉄が盛んで
       その砂鉄採取の所作が源流
       炎と関係の深い金属精錬神への奉納踊り
  邑=オウ・ユウ・・・ユウ=猷・酉=とり=鷄・鶏・雞
    うれ(憂)える
    くに=𡈁・国・圀・國・六合・那・郁・邦
    みやこ=都
    むら=村
    さと=里
    天子・諸侯・大夫の領地
    巴=ハ
      ずまき
      ともえ
      うずまき・うずまきのような形をしたもの
      大蛇・象をも飲みこむほど巨大な伝説上の蛇
      四川省重慶市を中心とした一帯
      ともえ
      鞆(とも)
      弓を射るときに左手首の内側につけて
      矢を放った後の
      弦が腕に触れるのを防ぐ道具
      鞆絵(ともえ)
  阿=阝+可
    阝+丁+口
    阝+一+亅+口
    ア
    お
    おもねる
    くま
    ひさし
    よる
    おか・大きい丘
    くま・曲がって入りくんだところ
    こびる・へつらう
    ひさし・のき
    よりかかる・もたれる
    姓名や呼び名の上につけて親しみを表すことば
    女性の名の上につける愛称
    娿=婀=妸・・・阿毎王朝の皇后=阿輩雞彌?
  自=ノ+目
    白+凵
    ジ
    おのずから
  ↓↑
 『豊後国風土記』
 靭編郡の条
 欽明天皇の時代
 日下部氏の祖である
 邑阿自(オウアジ)
 が
 靱部として仕え
 村について家を構えた
 靭負(ユギオイ)村
 後に
 靭編(ユギアミ)郡
 と呼んだ
 ユギオイ=靭(ユギ・ユキ・矢を入れる容器)を使用する者
 ユギアミ=靭を作る者
 邑阿自(オウアジ)は
 大化の改新後は郡司に任ぜられ
 大蔵氏 (豊後国)が
 郡司に就くまで
 日田の支配権を握っていた
 ↓↑
 大化元年(645年)
 和布刈神社付近に
 「文字ガ関」
 が置かれ
 門司の地名由来
 古代に九州地方を統括していた大宰府への第一の関所
 ↓↑
 文字ヶ関村
 町村制施行時(明治22年)の村名
 明治元年当時の町村名
 周防灘
 関門海峡
 企救郡
 文字ヶ関村
 田野浦門司
 楠原小森江柳ヶ浦村
 東郷村松ヶ江村
 豊前国であった門司市の前身
 文字ヶ関村は
 1889年(明治22年)
 町村制施行に伴って
 楠原郷の田野浦村(明治20年、田野浦町を合併)
 門司村(明治20年、楠原=くすばる村を合併)
 柳郷の小森江村の3村が合併
 当時の戸数は570戸、人口は3060人
 役場は、中央の旧門司村に設置
 企救郡、旧小倉藩領に属し
 廃藩置県後は
 日田県、小倉県を経て
 1876年(明治9年)以降は
 福岡県に属していた
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

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 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

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 モウ君の総合目次
 ↓↑
  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
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 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

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アナトリア半島とモロッコの地震

2023-09-16 22:45:52 | 古事記字源

 アナトリコン=日出る処(ギリシャ語)=日本
 ↓↑
      朝鮮半島=朝+鮮(あざ)やか?
           夜明けの朝日
          (朝陽・旭日・Rising Sun)
           朝焼け・・・夜明け前
       鮮=魚+羊= 若死・夭死・夭折
         生鮮 (セイセン)
         生魚・魚のなます
        =鱠=膾(なます・カイ・kuai)
       ↓↑
     寡廉鮮恥(カレンセンチ)
     旗幟鮮明(キシセンメイ)
    数見不鮮(サクケンフセン)
       鮮血淋漓(センケツリンリ)
       鮮美透涼(センビョウヨウリョウ)
  巧言令色 鮮(すく)なし仁・・・?
         少 名毘古那
         少  彦 名命
         須久奈比古
         ↓↑
       『古事記』
     神産巣日神(かみむすびのかみ)の子
     シンサンソウジツ(ニチ)・・・日=囸
     晋 纂 双 日  似知?
       『日本書紀』
     高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子
     コウコウサンレイ
     後 項 纂 例?
     大国主の国造りに参加
     天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモ)
     テンダイラマセン
     転 戴 等眞撰?
     典 差異覶万撰?
     に乗り
     鵝(ひむし=蛾)の皮の着物を着て
       がちょう・カモ科の水鳥・家禽化の鴈
     波の彼方より来訪(古事記)
     ↓↑
     ミソサザイ(鷦鷯・三十三才)・・・すずめ=䲵
     の皮の着物を着ている(日本書紀)
     ↓↑
     雀(すずめ・ジャク)=䲵=Tree Sparrow

 アナトリア半島(Ανατολία・Anatolia・Aνατολή
        Anatolē・Anadolu)
        穴鳥蛙・阿名都娌蛙?
 アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域
 トルコ共和国のアジア部分
 日本語ではアナトリア半島と呼ばれるが
 英語圏では「半島」をつけない単なる
 アナトリア(アナトール)で
 地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉
 小アジア(Μικρά Ασία・Mikra Asia
      Asia Minor)
 漢字では「小亜細亜」と表記される
 アッシリア
 エーゲ海の
 東を「日が昇る」という意味を持つ 「アス(asu)」
 西を「日没」を意味する「エレブ(ereb)」
 と呼んでいた
 「アス(asu)」+「エレブ(ereb)」
 エーゲ海東部は
 「太陽が生まれる国=アッスーワ(ASSUWA)」
 とされ
 「アッスーワ」→「アジア(Asia)」の語源となった
 ↓↑
 文明の発祥地
 新石器時代の神殿遺跡
 ギョベクリ・テペ
 人類最古の定住遺跡
 チャタル・ヒュユク
 ↓↑
 アナトリアの名称
 東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の時代
 エーゲ海に面した西岸地方に軍管区を置き
 「アナトリコン=ギリシャ語で日出る処の意」
 と名付けたことに由来
 ↓↑
 主要な諸文明
 ヒッタイトの最大勢力
 同時代のエジプトの勢力
 アナトリア半島に存在した
 主要な諸文明
 ヒッタイト
 ウラルトゥ
 フリュギア
 リディア
 古代ギリシア
 マケドニア王国
 セレウコス朝シリア
 アッタロス朝ペルガモン王国
 ポントス王国
 大アルメニア王国
 ローマ帝国
 東ローマ帝国
 ニカイア帝国
 トレビゾンド帝国
 小アルメニア王国(キリキア・アルメニア王国)
         Lesser Armenia
 セルジューク朝
 ルーム・セルジューク朝
 オスマン帝国
 ↓↑
 hittite=ヒッタイト族、ヒッタイト族の人、ヒッタイト語
      筆頭伊都・・・怡土・意図・糸?
 Tawananna=タワナアンナ
       他倭名安和(安奈・杏奈)
 ヒッタイト王国(帝国)の后妃の称号
 ↓↑
 紀元前1680年~1650年頃
 ラバルナ1世の妃
 タワナアンナの名が
 第一后妃の称号となった
 ↓↑
 既に独立した身分で
 夫である王が亡くなり皇太后になってから後も
 そのタワナアンナが生きているうちには
 タワナアンナの交代はなく
 死ぬまでの身分として保障された
 王が交代をしても生きている限り
 次の王の妃は
 タワナアンナの称号・身分を手にすることはできない
 ↓↑
 うすくだら・烏州百済・臼(碓・有珠・烏頭・渦・宇津)?
 ↓↑
  hittite=ヒッタイト族、ヒッタイト族の人、ヒッタイト語
      筆頭伊都・・・怡土・意図・糸?
 Tawananna=タワナアンナ
       他倭名安和(安奈・杏奈)
 ヒッタイト王国(帝国)の后妃の称号
 ↓↑
 紀元前1680年~1650年頃
 ラバルナ1世の妃
 タワナアンナの名が
 第一后妃の称号となった
 ↓↑
 既に独立した身分で
 夫である王が亡くなり皇太后になってから後も
 そのタワナアンナが生きているうちには
 タワナアンナの交代はなく
 死ぬまでの身分として保障された
 王が交代をしても生きている限り
 次の王の妃は
 タワナアンナの称号・身分を手にすることはできない

 ↓↑
 うすくだら・烏州百済・臼(碓・有珠・烏頭・渦・宇津)?
 ↓↑
 トルコ・シリア地震
 2023年2月6日4時17分(日本時間10時17分)
 癸卯・辛酉・乙未・戊寅
 トルコ南東部を震央として発生した地震
 南隣のシリアにかけて大きな被害
 ガズィアンテプ県
 (Gaziantep
  =ガジアンテプ・ガジアンテップ・ガーズィアンテプ)
            「戦士=ガーズィ (Gazi)」
  =アインタブ (Aintab)=アンテプ (Antep)
 古代「ヒッタイト」の都市・・・
 北緯37度4分
 東経37度23分
 カフラマンマラシュ県
 の境界付近を震源(マグニチュード7.7~7.8)
 13時24分(同19時24分)
 カフラマンマラシュ県
 エルビスタン地区で
 2回目の大地震(マグニチュード7.5 - 7.6)が発生

 ↓↑
 イスタンブール(İstanbul)
 スタンボウル( Stamboul)
 スタンブル (Stambul)
 古代
 ビュザンティオン
(ビザンティオン・Byzantion)
 コンスタンティノポリス
(コンスタンティノープル・Constantinople)
 コスタンティニイェ(Kostantiniyye)
 リゴス(Lygos)
 トラキア人部族が
 サイライブルヌに
 紀元前6000年後半から住み始めた・・・
 都市の開祖
 ギリシア神話の
 海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子
 ビザス
 北緯41度00分49秒
 東経28度57分18秒
 ↓↑
 モロッコ地震
 2023年9月8日深夜(日本時間午前7時すぎ)
 癸卯・辛酉・己巳・乙亥
 ↓↑
 マグニチュード(M)6・8の地震
 震源地
 モロッコ中部の
 マラケシュ (marrākish)
 モロッコ中央部の都市
 北緯31度38分
 西経8度0分
 ラバトの南西約280kmの
 アトラス山脈山麓の丘陵地帯
 テンシフト川の南岸に位置する
 70キロほど離れた内陸部
 マグニチュード6.8の地震
 ↓↑
 カサブランカ(Casablanca・白い家)は
 紀元前10世紀
 ベルベル人居住の
 「アンファ」・・・・・・按附蛙
 北緯33度32分
 西経7度35分
 に位置する
 『カサブランカ(Casablanca)』・・・「白百合」
 1942年
 アメリカ映画
 「カサブランカ Casablanca ~時の過ぎ行くままに
   As Time Goes 」Dooley Wilson
https://www.youtube.com/watch?v=GGxAOtNe9iQ&ab_channel=777mylene

https://www.youtube.com/watch?v=glVRfUbL6-8&ab_channel=NickiParrott-Topic
バーティ・ヒギンズ/カサブランカ (1982年)
https://www.youtube.com/watch?v=OZXjH-OEKuo&ab_channel=HKDJapan

 ↓↑
 うすくだら・・・烏州百済・・・臼(碓・有珠・烏頭・渦・宇津)?
 はるばる
 訪ねてみたら・・1972年10月・イスタンブール
             斯当歩児
             伊斯坦布尔・伊斯坦布爾
              トプカプ宮殿
Topkapı Sarayı=大砲の門宮殿
 ↓↑
 うすくだら・・・ (Uska Dara
       ウスクダラ)
      (Uskudar
       ウシュキュダル)
 ウシュキュダル=Uskudar
 トルコの大都市イスタンブールの一地区
 ボスポラス海峡の東岸
 アジア側に位置
 ユスキュダル、ウスクダラともよばれ
 古くは
 スク・タリ(Scu Tari)
 工業、商業都市
 小アジア半島の鉄道の起点
 ハイダルパシャ駅
 古代都市
 クリソポリス(Chrysopolis)
 に由来
 クリミア戦争で
 イギリス軍の基地
 ナイチンゲールが活躍した
 野戦病院が置かれていた
 ↓↑
 はるばる
 訪ねてみたら・・・

 ウスクダラ (Uska Dara (A Turkish Tale))」
 1953年
 アメリカの女性歌手
 アーサー・キット(Eartha Mae Keith・1927~2008)
 が歌った楽曲

https://www.youtube.com/watch?v=Y7CoEl6AZMU&ab_channel=uchukyoku1 ユスキュダル ( イスタンブール の一部)
 へと旅していく
 女性とその秘書についての物語を歌った
 トルコ の民謡「キャーティビム (Katibim)」
 1954年の映画
 『New Faces』の中でこの曲を歌った

https://www.youtube.com/watch?v=ECB5li4ZSSA&ab_channel=geezenstac1

 ↓↑
 Uskudara giderken aldida bir yagmur
 Uskudara giderken aldida bir yagmur

 Katibimin setresi uzun etegi camur
 Katibimin setresi uzun etegi camur

 Katip uykudan uyanmis gozleri manmur
 Katibim uykudan uyanmis gozleri manmur

 Katip benim ben katibin el ne karisir
 Katibime kolalida gomlek ne guzel yarasir

 皆さん「トルコ帽」をごぞんじでしょう
 ウスクダラはそのトルコの西の
 はずれのある古い小さな城下町です

 Uskudara giderkey bir mendil buldum
 Uskudara giderkey bir mendil buldum

 Mendilimin ieine lokum doldurdum
 Mendilimin ieine lokum doldurdum

 昔この町の女たちは
 みんな利口で美人ぞろいでしたから
 男たちは女の秘書になって小さくなってました
 ある雨の日 噂を聞いて
 はるばるこの町を訪れた
 男たちの一行がありました

 ウスクダラ はるばる尋ねてみたら
 世にも不思議な噂の通り 町を歩いて 驚いた
 これでは男がかわいそう

 町中の女を自慢の腕で
 恋のとりこにしてみせようと
 粋ななりして出かけてみたが
 とりこになったのは男だったとさ
 とりこになったのは男だったとさ
 ↓↑
 クリミア戦争
 セリミエ兵舎 (Selimiye Barracks) の
 軍病院はイギリス軍専用となっていた
 イギリス陸軍スコットランド旅団の隊員が
 キルト姿でいるのを見たイスタンブールの人々は
 「donsuz asker(パンツをはかない兵士)」
 と、彼らのことを呼んだ
 イスタンブール市民は
 セリミエ兵舎が
 ユスキュダルへ通じる道路に面していたことから
 思いついて、役人たちを嘲るために
 スコットランド旅団の軍楽行進曲をもとに
 「Uskudar’a giderken(ユスキュダルへ行く)」
 と題した歌を作った
 曲は映画化され
 ゼキ・ミューレン (Zeki Muren)
 が主役を演じた
 ↓↑
 「ウスクダラ」
 1954年8月
 江利チエミ の シングル
 アーサー・キットと同様にトルコ語の歌唱
 シングルA面としてリリース
 B面 夢みるあの人
 作詞・作曲 音羽たかし(訳詞)

https://www.uta-net.com/movie/215714/

 1954年
 『第5回NHK紅白歌合戦』

 ↓↑https://www.youtube.com/watch?v=0moQzHT5h3E&ab_channel=konidolfine

 1954年8月
 雪村いづみ
 「帰らざる河」
 B面 「ウシュカ・ダラ」
 井田誠一の「訳詞」にる日本語のみの歌唱
 トルコ語の原義からは離れている
 参照原文
 ウィキペディア(Wikipedia)
ー↓↑ーーーー
 水行=氵(サンズイ)+行
   =纂隋(サンズイ)の行(ギョウ)
   =讃瑞(サンズイ=言賛+王耑)の
  行=彳(テキ・チャク)+亍(チョク・〒)
 スイコウ=推敲・推考・水工・遂行・水耕
 ↓↑
 水行 十日 陸行 一月
 ↓↑
 魏志倭人伝
 南至
 邪馬壹國
 女王之所都
 水行十日陸行一月
 ↓↑
 行=彳+亍
   彳+一+丁
   彳+二+亅
   彳+一+亅
   ギョウ
   コウ
   アン
   いく
   おこなう
   ゆく
   しぬ
   みち
   やる
   ゆく・いく・歩く・進む・めぐる
   動かす・やる・ゆかせる
   おこなう・する・なす
   みち・道路・みちのり
   ゆくゆく・歩きながら・みちすがら・ゆきゆきて
   たび=旅行
   経る・経過する・めぐる
   書体の行書
   おこない・ふるまい・よいおこない
   ならび・列・文字の並び
   みせ・商店
   兄弟の順序
   彳=テキ
     たたず(む)
     少し歩む
    「彳亍(テキチョク)」
     は少し歩いては立ち止まること
     たたずむ・たちどまる
     一定の場所にしばらくの間じっとしている
   亍=チョク
     とどまる・たちどまる・
     すこし歩く・狭い歩幅で歩く
     一+丁
     二+亅
     丁=チョウ
       テイ
       トウ
       あ(たる)
       ひのと
       十干の四番目
       ひのと・五行では火・方位では南
       火行
       つよい・さかん
       働き盛りの男性・壮年の男性
       しもべ・下働き、雑用の男性
       あたる・出遭う・遭遇する
       よほろ(よぼろ)・公用に徴発された男子
       斧などで木を切る音
       書物の枚数を数える語
       町を細かく分けた区分・丁目
       長さ・面積の単位・「町」とも
       一丁は六十間・約109メートル
       サイコロの目での偶数
       丁(ちょう)か半(はん)か
       国名「丁抹(デンマーク)」の略
       豆腐・拳銃などを数える語
       飲食物を数える語・例:一丁あがり
       象形
       くぎの頭の形にかたどる
       枝葉と茎幹を表し、草木のしげるさま
 ↓↑
 名字
 有行=ありゆき
 安行=あんぎょう・やすゆき
 行比=あんび・あんぴ
 行形=いきなり・なめかた・ゆきなり
 行成=いきなり・なりゆき・ゆきなり
 ↓↑
 烏(からす)の行水(ギョウズイ)
 ↓↑
 規行矩歩(キコウクホ)
 蟹行鳥跡(カイコウチョウセキ)
 横行跋扈(オウコウバッコ)
 禹行舜趨(ウコウシュンスイ)
 一言一行(イチゲンイッコウ)
 雲行雨施(ウンコウウシ)
ーーーーー

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古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
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人名に使用される漢字の「意味・意義」の変

2023-09-13 07:16:57 | 古事記字源

 倭国(俀國)の遣隋使・遣唐使・・・検討詞?
 ↓↑
 ・・・人名に使用される漢字の「意味・意義」の変・・・
 名前(姓・諱・字・号・諡)に使用される
 漢字の「意味・意義」の変・・・
 犬=一+人+丶(チュウ)=狗・戌
 上=卜+一
 御=彳+卸(シャ)
 田=囗+十
 鍬=金+秋(禾+火)
 犬    上      御 田 鍬
 ケン   ジョウ  オンデンシュウ
 懸(兼) 条(声) 音 伝 習(集)?
 ↓↑
 倭国(俀國)の遣隋使
        ・・・兼隋史
        ・・・懸瑞詞・・・高野瑞皐・久坂玄瑞
            瑞西(瑞士)・瑞典(蘇亦斉)
          「外国地名および国名の漢字表記一覧
          (ウィキペディア(Wikipedia))」

 犬上 御田鍬(いぬかみ の みたすき)
 飛鳥時代の人物
 大和朝廷の中級官吏・外交官の一人
 名  御田鍬=みたすき=三田耜
    音伝習?     満たす記=見多諏記?
 姓  君
 冠位 大仁
 氏族 建部君→犬上君
 最後の遣隋使
 最初の遣唐使
 日本武尊の子・稲依別王の後裔
 犬上
 近江国犬上郡
 (滋賀県犬上郡・彦根市周辺地域)に由来
 推古天皇二十二年(614年)六月
 矢田部造とともに最後の遣隋使
 推古天皇二十三年(615年)九月
 百済使を伴って帰国
 舒明天皇二年(630年)八月
 第1次遣唐使大使
 薬師恵日と共に唐に派遣
 舒明天皇三年(631年)
 使節一行は皇帝・太宗と謁見
 航海での遠いことを矜(あわ)れみ
 毎年の入貢をやめさせた
 舒明天皇四年(632年)八月
 唐使・高表仁を伴って
 対馬国に到着
 霊雲・旻・勝鳥養
 や
 新羅の送使も行をともにしている[
 高表仁
 10月に難波津に到着
 舒明天皇五年(633年)一月
 唐へ帰国
 ↓↑
 遣隋使
 推古朝
 倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために
 隋に派遣した朝貢使
 600年(推古八年) ~618年(推古二十六年)
 18年間に
 3回~回派遣
 第一回

 開皇二十年(600年)
 『日本書紀』に記載はない
 『隋書・東夷傳俀國傳』
 高祖文帝の問いに遣使が答えた
 「開皇二十年
  俀王
  姓 阿毎
  字 多利思北孤
  號 阿輩雞彌
 遣使詣闕
 上令所司訪
 其風俗
 使者
 俀王 以天 爲兄
    以日 爲弟
  天未明時 出聽政 跏趺坐
       日出 便 停理務
  云委 我弟
  高祖曰
  此 太無義理
  於是 訓令 改之」
 ↓↑
 600年(推古八年)第1回遣隋使派遣
     『隋書』俀國伝
 607年(推古十五年)
    『日本書紀』(巻第二十二)
     推古天皇十五年(607年)秋七月戊申 朔庚戌
     大禮 小野臣 妹子 遣於大唐(隋)
     以  鞍作  福利 為 通事
     厩戸皇子(聖徳太子)が大使に選任
     冠位は「大禮=大礼」
      禮=示+豊=示+乚(イン・乙・Z)
     豊(ホウ・フ)=乚(イン・乙=オツ・イツ
             L=エル・Z=ゼット・ズィ)
     豐=「山+丰+丰+豆」=豊=𧯮=𣍈=丰=三+|
         丰(フウ・ボウ・すがた=姿)・・・素形?
     豊後(ぶんご)・豊前(ぶぜん)・豊国(とよくに)
        文語      憮然
 608年(推古十六年)第2回遣隋使
     小野妹子らを派遣
     ↓↑
     小野妹子・・・中国名 「蘇因高」
     父 春日 小野仲若子
     子    毛人 臣・・・妹子の子?
                日下姓
                小野義持・・・?
                聖徳太子から日下姓を賜った?
     孫    毛野
     曾孫  小野 永見(おの の ながみ・永く見る・英建?)
          征夷副将軍
          小野 岑守(おの の みねもり)は三男・参議
          小野小町の曾祖父
     6代目  小野篁(たかむら・竹+皇)
          小野 岑守の子
          小野小町は小野篁の孫
          小野 好古(よしふる)の
          小野道風は弟
            小町と従兄弟
     ↓↑
     小野妹子
     冠位 大徳
     六角堂の初代住職
     池坊において「華道の祖」
     ↓↑
     小野妹子
     天帯彦国押人命(天足彦国押人命)
     和珥(わに)の臣等の始祖・・・
     小野妹子
     敏達天皇の皇子の
     春日皇子の子・・・?
    「春日小野臣大樹」の後裔・・・?
     その  
     天帯彦国押人命(天足彦国押人命)
     6世孫の
     米餅(こめつき)搗(舂・つき)大使主の後裔
     餅搗( もちつき・もちづき)
     米兵付記?
     搗=トウ
       うつ・かつ・かてて・たたく・なごむ
     搗ち合う=かち-あう(あふ)
     頼めば越後から米搗きにも来る
     提灯で餅を搗く
     搗いた餅より心持ち
     搗き臼で茶漬け
     ↓↑
     国書を持参
     小野妹子、裴世清らとともに
     住吉津に着き、帰国
     『日本書紀』、『隋書・俀國伝』
 608年(推古十六年)『隋書・煬帝紀』
 609年(推古十七年)第3回遣隋使
          小野妹子
          吉士雄成
          など派遣
          学生として
          倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)
          奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)
          高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)
          新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)
          学問僧
          僧旻
          南淵請安
          志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)
          ら8人留学
          隋使
          裴世清 帰国
          『日本書紀』、『隋書・俀國伝』
 610年(推古十八年)第4回遣隋使
          『隋書・煬帝紀』
 614年(推古二十二年)
 615年(推古二十三年)第5回遣隋使
          犬上御田鍬
          矢田部造
          らを隋に派遣
          百済使
          犬上御田鍬に従って来る
          『日本書紀』
 618年(推古二十六年)隋 滅亡
 ↓↑
 諂(へつら)う=讇
 ↓↑
 武蔵国造
 無邪志国造
 牟邪志国造・・・牟邪志?
 ↓↑
 明治以前の
 川口市の地域
 蔵国
 足立郡に属していた
 ↓↑
 无邪志(むざし)・・・ヨコシマな志は無し
 胸刺(むなさし・むさし)
 知々夫(ちちぶ)
 の三国
 ↓↑
 713(和銅六)年
 「武蔵(むさし)」
 の表記
 「无謝志の国造」
 ↓↑
 武蔵国・・・埼玉
 多摩郡
 ↓↑
 无=一+尢=ブ・ム・ない=無
   一+丿+乚
  ↓↑
  庑=广+尢=廡
    のき
    ひさし
    家の軒に差し出し
    雨や日光をさえぎるための小さな屋根
    廊下・回廊
    しげる・草や木が生い茂る
  怃=忄+尢=憮=㒇
    ブ
    ム
    いつくしむ
    がっかりするさま・失望するさま
    いつくしむ・大切にしてかわいがる
  呒=口+尢=嘸
    ブ
    ム
    さぞ
    はっきりとしないさま
    何も口に出して言わないさま
    黙示    
  抚=扌+尢=撫
    フ
    ブ
    なでる
    手のひらでさする
    なでるようにしてかわいがる
    愛撫
    なだめる・落ち着かせる
    うつ・軽くたたく
  妩=女+尢=嫵
    ブ
    ム
    こびる
    みめよい・美しい
  芜=艹+尢=蕪
    ブ
    ム
    あれる(荒れる)
    かぶ
    かぶら
    しげる(茂)
    みだれる
    雑草が生い茂って荒れる
    乱れる・すさむ(荒む)
    荒れ地・草むら・草原
    かぶ・かぶら
  ↓↑
  䥻=金+尢=金+無
  ↓↑
  无何之郷(むかのきょう)
   果てしなく広くて見渡す限り何もなく
   人の手が入っていない場所
  無何有郷(むかゆうのきょう)
   理想郷を言い表す言葉。
   「無何有」=何も有ること無し・何も存在しない世界
   絶対的な無の世界
   「无何有郷」
   出典『荘子』「逍遥遊」
   異形
   無何有郷(むかゆうきょう)
   无何有郷(むかゆうきょう)
   無何有郷(むかうきょう)
   無何有郷(むかうのさと)
   類義語
   无何之郷(むかのきょう)
  ↓↑
  无妄之福(むぼうのふく)
   考えてもいなかった幸運が突然訪れること
   予期していなかったことが突然起こること
   「無=无=莫・勿・毋=なかれ」
  ↓↑
  无望之禍(むぼうのわざわい)
   考えてもいなかった不幸が突然訪れること
   「毋望」=予期せぬ出来事が突然起こること
 ↓↑
 武蔵国造
 無邪志国造
 牟邪志国造
 ↓↑
 牟=厶+牛
   ボウ
   ム
   なく(鳴く)・牛の鳴き声
   むさぼる(貪る)
   むさぼり奪う・奪い取る
   大きい・多い
   きび(黍)やあわ(粟)を
   盛りつける器(うつわ)
   かぶと(兜・冑・甲)
   ひとみ・牟子(ボウシ)
   大麦(おおむぎ)・牟麦(ボウバク)
 ↓↑
 牟=厶+牛
   ボウ
   ム
   むさぼり奪う・奪い取る
 ↓↑
 ヨコシマ=横嶋=横嶌=横嶋=横縞
    =邪・犯・姦・奸・謀・冒・漢・菅・私=ム
 ・・・ヨコシマなカンジがワンサカ・・・
 「ヨコシマ(横島)」
 と読まれる漢字は
 「感冒」の「冒」をはじめに
 よこしま=宄(宀+九)
 =横・邪
 =姦・奸・干(カン=諌=甲)
 =佞・漢・・頗(よこしま)・欺・讒・謀・背
  よこしま=侘・差・左・ム・私
  よこしま=宄=侈(シ)・佻(チョウ・ジョウ)・犯
  よこしま=毎・曲・奸・淫・自・己
  ↓↑
  阿毎王朝(九州阿蘇山の麓)・・・
      は隋王朝に
      諂(へつら)わず=非讇(へつら)わず
 ↓↑
 梺=ふもと=文幹・府本・富ヨコシマ=横嶋=横嶌=横嶋=横縞
  =邪・犯・姦・奸・謀・冒・漢・菅・私=ム
  =諂(へつら)う=讇(テン)
 臽(カン)=⺈+臼=落とし穴=陥(おとしい)れる
      ⺈=勹(つつむ・ホウ・ヒョウ)・・・刀(かたな・トウ)
      六韜三略(リクトウサンリャク)?
   ・・・太公望=呂尚
        姓は姜(カン・キョウ=羊+女
         生姜=ショウガ)
         ≠羌(コウ・キョウ・えびす)=羊+儿
          羌(キョウ)=羗=猐=犭+羌)
           =羌+厶
       蜣螂(キョウロウ)
               =黄金虫
                糞転がし=スカラベ
  氏は呂・字は子牙 or 牙・諱は尚・・・
    ↓↑
  「太安万侶」・・・万=一+勹=萬=艹+甲+冂+ム
    ↓↑
   「呂 不韋(リョ フイ)」・・・不意?
    ?~紀元前235年
    秦の相国
    荘襄王を王位につけ
    相国として権勢を振るった
    荘襄王により
   「文信 侯(ブンシン コウ)」
    に封じられた
   「始皇帝=政=嬴」の実父・・・?
    出身地
    韓の陽翟・・・(『史記』呂不韋列伝)
    韓國の陽の
    翟(タク・テキ)=羽+隹
    雉(きじ)・尾の長い雉・・・記事・生地
                  木地・素字
    雉の尾羽=舞楽に用いる
    雉の羽で飾った衣服
    中国の北方の異民族名
    or
    衛の濮陽・・・(『戦国策)
      濮=氵+僕
        氵+亻+菐
        氵+亻+业+䒑+夫
        氵+亻+业+丷+一+二+人
    ↓↑
    趙の人質、秦の公子の
   「異人(子楚=秦の荘襄王)」・・・異の人?
    を
   「これ奇貨なり。居くべし」
    と陽翟に帰った呂不韋は父と相談し
    将来のために
   「異人」に投資
   「異人」は
    秦王
    昭襄王の太子
   「安国君(孝文王)」の子で
    趙の人質であった
    呂不韋はこの「異人」を秦王にし
    権力を握りる事を狙い
   「異人」に金で社交界で名を売る事を指導し
    秦の安国君の
    華陽夫人に
   「異人」が実母のように慕っているとし
    華陽夫人の姉にも財宝を贈って彼女を動かし
   「異人」を華陽夫人の養子とさせ
    安国君の世子とするよう説得
    未だ子がない華陽夫人は話に乗り
    安国君は
   「異人」を自分の世子にした
   「異人」は
    養母となった
    華陽夫人が楚の公女だったので
   「子楚」と改名
    ↓↑
    呂不韋は
    趙國豪族の娘(趙姫)を寵愛していたが
   「子楚」に彼女を譲った
    彼女は既に呂不韋の子を身籠っていた
   「子楚」にはこれを隠し
    生まれた子は「子楚の子」とした
    これが
   「政(始皇帝)=嬴」である・・・
   『史記・呂不韋列伝』
   ↓↑
   昭襄王56年(紀元前251年)
   逝去
   次男の
  「孝文王」が立ち
  「子楚」は秦に送り返され
   太子となったが
   孝文王が50代で逝去し
  「子楚」が
  「荘襄王」となり
   呂不韋は相国(相邦)となり
  「文信侯」と号し
   洛陽の10万戸の領地を授けられた
   ↓↑
   荘襄王3年(紀元前247年)
   荘襄王死亡
  「政」が王となり
   呂不韋は
   仲父(父に次ぐ尊称)の称号を授けられた
   ↓↑
   秦王政6年(紀元前241年)
   楚・趙・魏・韓・燕
   の五国合従軍が秦に攻め入ったが
   呂不韋は
   秦軍の総指揮を執って
  「函谷関」で迎え撃ち撃退
   ↓↑
   孟嘗君や信陵君
   などが食客を集め名声を得ていたが
   呂不韋も
   3,000人の食客を集め
   召使は1万を超えた・・・
   この中に
  「李斯」
   がおり王に推挙した
   ↓↑
   秦王政8年(紀元前239年)
   百科事典のような書物
  『呂氏春秋』を完成させ
  これに
  「一字でも減らすか
       増やすか
   出来る者には
   千金を与える」
   と触れ回った
   ↓↑
   呂不韋は
   元々愛人であった
  「政」の生母である太后(趙姫)と密通していたが
  「嫪毐(ロウアイ)」と男を太后に紹介し
  後宮へ宦官として偽装し送り込み
  太后(趙姫)は息子を2人生んだ
   ↓↑
  「嫪毐」は
  長信侯に封じられたが
  太后との密通が発覚し
  「政」に謀反したが
  鎮圧され車裂きの刑で誅殺された
  呂不韋も連座処刑されるところだったが
  相国の罷免と蟄居に減刑
  ↓↑
  秦王政12年(紀元前235年)
 「政」は
  呂不韋に詰問状で
 「君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。
  君何親於秦。號稱仲父。
  其與家屬徙處蜀(一族諸共蜀に行け)」
  呂不韋は蜀地域への流刑を追加され
  鴆酒を仰いで自殺
  ↓↑
  劉邦の妻の
 「呂雉(呂后)」は
 「呂不韋」の一族だった・・・説
  蜀漢に仕えた豪族の
 「呂凱」は、呂不韋の末裔・・・
 『三国志・蜀志呂凱伝』   
    ↓↑
 ・・・ヨコシマなカンジがワンサカ・・・
 「ヨコシマ(横島)」
 と読まれる漢字は
 「感冒」の「冒」をはじめに
 ↓↑
 よこしま=宄(宀+九)
     ・・・ウは「九=個々の通(津・都)」
         九州の都?・九番目の津?
         今使譯所通
         三十國の九番目の津?
         三十語句の九番目の譯?
   1(イ・あ)
   狗邪韓国・・・狗邪=倭に属す倭人の圀?
         「韓」の西部に馬韓
            東部に辰韓
            南東に弁辰(辰韓)
            馬韓と弁辰が
            各々その南方で
            「倭と接する」
         ・・・倭人の国(居住地)は
           朝鮮半島内の南の先端にあった
   から始めて
   一海を渡り、千余里で
   2(ロ・い)
   対海(対馬・ツシマ)国に至る
   又
   3(ハ・う)
   渡一海千餘里 至
   末盧(マツロ)國
   4(二・え・ゑ)
   東南 陸行 五百里 到
   伊都(イト)國
   5(ホ・お・を)
   東南百里 至
   奴(ヌ・ド)國・・・~奴(ヌ・ド)國へ循環
   6(へ・か)
   東行 百里 至
   不彌(フミ・フウビ)國
   7(ト・き)
   南 水行二十日 至
   投馬(ツマ・トウマ)國
   8(チ・く)
   南 水行十日陸行一月 至
   邪馬壹(ヤマイ・ヤバイ)國
   女王之所都
   自 女王國以北
   其戸數道里 可得略載
   其餘 旁國遠絶 不可得詳
   9(リ・け)
   次有
   斯馬(シバ)國
   10(ヌ・こ)
   次有
   巳百支(シハクシ)國
   11(ル・さ)
   次有
   伊邪(イヤ・イザ)國
   12(ヲ・し)
   次有
   都支(トシ)國
   13
   次有
   彌奴(ミド・ミヌ)國
   14
   次有
   好古都(コウコト)國
   15
   次有
   不呼(フコ)國
   16
   次有
   姐奴(シャド・ソド)國
   17
   次有
   對蘇(タイソ・ツソ)國
   18
   次有
   蘇奴(ソヌ・ソド)國
   19
   次有
   呼邑(コユウ)國
   30
   次有
   華奴蘇奴(カドソド・カクソヌ)國
   21
   次有
   鬼(キ)國
   22
   次有
   為吾(イゴ)國
   23
   次有
   鬼奴(キド・キヌ)國
   24
   次有
   邪馬(ヤバ。ヤマ)國
   25
   次有
   躬臣(キュウシン)國
   26
   次有
   巴利(ハリ)國
   27
   次有
   支惟(シユイ・シイ)國
   28
   次有
   烏奴(ウド・ウヌ)國
   29
   次有
   奴(ド・ヌ)國・・・「奴國」は
           5番目の「奴國」
           に戻った・・・循環した?
           奴(ヌ)⇔ナ・ニ・(ヌ)・ネ・ノ
           奴(ド)⇔ダ・ヂ・ヅ・デ・(ド)゙
                ザ・ジ・ズ・ゼ・ゾ
   此
   女王 境界 所盡
   ↓↑
   30
   其南有
   狗奴國
   男子 為王
   其官・・・・・・・官職の名称?
   有 狗古智卑狗・・・クコチヒコ・コウコヒコ=公処比古(肥後)?
            俱己地庇護・好子蜚語?
            流言蜚語(飛語・卑語)?
   不屬 女王
   自郡 至
   女王國 萬二千餘里
 ↓↑
 茨城県筑西市横島
 江戸時代に記録のある地名
 茨城県常総市大塚戸町
 岡山県笠岡市横島
 熊本県玉名市横島町横島
 熊本県天草市新和町大多尾横島
 ↓↑
 ヨコシマ=横嶋=横嶌=横嶋=横縞
    =邪・犯・姦・奸・謀・冒・漢・菅・私=ム
    ・・・コシマなカンジがワンサカ・・・
    =頗(よこしま・ハ)
    =かたよる・不公平
     偏頗(ヘンパ)
     すこぶる・たいそう
 ↓↑
 よこしま=宄(宀+九)
    =横・邪
    =姦・奸・干(カン=諌=甲)
    =佞・漢・頗(よこしま)・欺・讒・謀・背
 よこしま=侘・差・左・ム・私
 よこしま=宄=侈(シ)・佻(チョウ・ジョウ)・犯
 よこしま=毎・曲・奸・淫・自・己
    阿毎王朝
    九州阿蘇山の麓・・・
    梺=ふもと=文幹・府本・富本
 ↓↑
 「宄=宀+九=キ・よこしま」は
 「邪悪・姦・・悪者・盗人」
 と諸橋轍次先生の
 「大修館・新漢和辞典(改訂版)」
 にあり
 「究」の「八」を欠字させた漢字である
 ↓↑
 「菅原(すがわら)」の
 「菅」も「よこしま」と訓れている・・・
 漢和辞典を注意してみないと
 「よこしま」
 とヨマれている漢字を見落とす事になる・・・
 もちろん
 太宰府に流刑された
 「菅原道真」の「菅」である
 ↓↑
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

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田=㗊=伝字捜=でんじそう(田字草)=四葉のクローバー🍀

2023-09-11 14:41:31 | 古事記字源

 田=㗊=伝字捜=でんじそう(田字草)
    =四葉のクローバー🍀・・・田斎⇔田姜
 ↓↑
 Sentimental Journey・・・「感傷・失恋・傷心」旅行Doris Day
https://www.youtube.com/watch?v=IpQCROAHoU4&ab_channel=DorisDay-Topic

 Frank Sinatra - Sentimental Journey - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=rKNE4JPN6pc&ab_channel=LauroFilho

 四葉のクローバー🍀=four-leaf clover=lucky clover
 でんじそう(田字草)=四葉のクローバー🍀に似た形の浮草
 ↓↑
 佞・漢・・頗(よこしま)・欺・讒・謀・背
 頗(よこしま)=皮+頁・・・
        かわ(皮・skin)の
        頁(page)=一ノカイ(貝・メのハ)
 でんじそう(田字草)=「田=㗊=四」葉の苦労場=🍀
 ↓↑
 ハ
 すこぶる
 かたよる・かたむく。
 かたよる・不公平・公平でない
 すこぶる・いささか・すこし
 すこぶる・たいへん・かなり・非常に

 ↓↑
 櫇=ハ・バ=㰋櫇=果実の名
 名字
 頗羅墮=はらだ
 頗羅堕=はらだ
 すこぶる・頗る(すこぶる)
 偏頗(ヘンパ)
 専断偏頗
 贔屓偏頗(ヒイキヘンパ)
 廉頗負荊(レンパフケイ)
 ↓↑
 蘋果追分・・・蘋果(ヒンカ)=林檎(🍎)?
         苹果树(Apple)
 方宥心-蘋果花(2016-07-05最美的歌)
 蘋=薲
 ヒン
 うきくさ
 かたばみも=「方波見・片喰・方喰」藻
 うきくさ・大きなうきくさ・水面にうかび生える草の総称
 でんじそう(田字草)=四葉のクローバー🍀に似た形の水草
       ↓↑
      田=㗊=品+口=雷字句叉・・・伝字句捜?
           シダ植物・浮草の一種
      田斎(デンセイ)=田齋
      ↓↑
      中国戦国時代
      紀元前386年
      田氏が
      姜姓呂氏の斉(姜斉or呂斉)を滅ぼし
      新たに立てた国
      国号は「斉」であるが
      西周・春秋時代の
     「姜斉」と区別する場合に
     「嬀斉・田斉」とする
      戦国時代中期
     「湣王」の頃に
     「東帝」を称し戦国七雄の一
      首都は
     「姜斉」の時と同じ
     「臨淄」であった
      ↓↑
 田斎(デンセイ)=田齋
 ・・・水稲
    田圃の
    斎王・・・
 ↓↑  ↓↑
    斎王
    斎王(さいおう)=斎皇女(いつきのみこ)
    伊勢神宮or賀茂神社
    に巫女として奉仕した未婚の
    内親王
   (親王宣下を受けた天皇の皇女)
    女王
   (親王宣下を受けていない天皇の皇女
    親王の王女)
    内親王の場合は「斎内親王」
    女王の場合は「斎女王」
    両者を総称して「斎王」と呼ぶ
    伊勢神宮の斎王
    斎宮(さいぐう)
    賀茂神社の斎王は
    斎院(さいいん)
    とも呼ばれ
   『日本書紀』によれば
    崇神朝に
    嚆矢が認められるが
    制度的に整ったものは
    天武朝から
 ↓↑  ↓↑
   大来皇女(おおくのひめみこ)=大伯皇女
   母は大田皇女(持統天皇の同母姉)
   同母弟に大津皇子
   伊勢斎宮
 ↓↑  ↓↑
   天智天皇六年(667年)二月二十七日
   斉明天皇・・・斉の明?
   と
   間人皇女
   小市岡上陵に合葬
   大田皇女をこの陵の前の墓に埋葬
   大来皇女
   天武天皇二年(673年)四月十四日
   斎王制度確立後の
   初代斎王(斎宮)として
   泊瀬斎宮入斎院
   天武天皇三年(674年)十月九日
   伊勢国に下向
   天武天皇四年(675年)二月十三日
 ↓↑  ↓↑
   十市皇女
   阿閇皇女(元明天皇)
   が伊勢神宮に参詣
 ↓↑  ↓↑
   朱鳥元年(686年)四月二十七日
   多紀皇女・山背姫王・石川夫人
   が伊勢神宮に遣わされた
   十月三日
   大津皇子
   謀反で死亡
   大来皇女
   十一月十六日
   帰都
   大宝元年十二月二十七日(702年1月)
   薨去
   後
   十市皇女は
   天武天皇七年(678年)
   天皇が倉橋河の
   斎宮に出向こうとした当日
   四月七日朝に急死・三十歳前後
  「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」
   天皇の行幸は中止
   斎宮での祭りも中止
   十市皇女は
   四月十四日
   大和の赤穂の地に埋葬
   十市皇女の不審な急死に対しては
   自殺説・暗殺説・・・
   十市皇女に
   高市皇子が挽歌を捧げている(『万葉集』卷2)
 ↓↑  ↓↑
    斎宮
    源平合戦(治承・寿永の乱)
    で一時的に途絶
    鎌倉時代を通じて徐々に衰退
    建武新政の崩壊をもって断絶
 ↓↑  ↓↑
    斎院は
    平安時代初期の
    嵯峨朝に始まり
    鎌倉時代に入って継続
   「承久の乱」後、断絶
    伊勢では幕末に
    津藩主
   「藤堂高猷」
    が再興を主張したが、成らなかった・・・
 ↓↑  ↓↑
    新嘗祭
   (にいなめさい
    にいなめのまつり
    シンジョウサイ)
    天皇がその年に収穫された新穀などを
    天神地祇(テンジンチギ)
    に供えて感謝の奉告を行い
    これらの供え物を神からの賜りものとして
    自らも食する儀式
    毎年11月23日
    宮中三殿近くの神嘉殿にて執り行われ
    同日に全国の神社でも行われる
    ↓↑
    大嘗祭
   (ダイジョウサイ
    おおにえまつり
    おおなめまつり)
    天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀
    新天皇が即位した後
    新穀を神々に供え、自身もそれを食する
    国家、国民のために
    その安寧、五穀豊穣を
    皇祖天照大神
    天神地祇に感謝し祈念する
  ・・・「嘗める=甞める=舐める」なら
    盃(杯=さかづき)に注がれた「酒」・・・
 ↓↑
 田斎(デンセイ)=田齋
 紀元前672年
 陳から斉へ亡命してきた
 陳(嬀姓)の
 「利公嬀躍(キヤク)」の子の
 「公子完」
 は斉で代々
 「呂尚(太公望)」の子孫の
 斉公(姜斉氏)に仕えてきた
   生姜(ショウ・ガン)=ショウが
    姜(キョウ・カン)
    羌(キョウ・コウ・えびす)・・・
 ↓↑
 利公嬀躍(キヤク)の子の
 「公子完」
 斉の
 「景公」の時
 「田乞(田釐子)」
 が税を徴収する時に小さな斗を使用し
 粟を民に配給する時は大きな斗を使用して人望を得
 景公が死亡し
 公位継承争いで
 「悼公」を立てた
 「田釐子」が亡くなると
 田恒
 (田成子・前漢文帝劉恒を避諱して「田常」と表記)
 が後を継ぎ父の
 「田釐子」とともに
 「悼公」を立てた
 「鮑牧」
 が仲違いを契機に「悼公」を殺害し
 「簡公」が立てられ
 「闞止」とともに大臣となったが
 2人は勢力争いで
 「闞止」の陰謀を知った
 「田成子」が先手を取り
 「闞止」に続いて
 「簡公」を殺して
 「平公」を立てた
 ↓↑
 前391年
 「姜斉」の最後の君主の
 「康公」は
 「田和」により海島の孤島に追放され
 食邑に一城与えられ、祖先を祀ることを許された
 「田和」
 は自立し君主(太公)となった
 前386年
 「田和」
 は周の
 「安王」により諸侯に列され
 姜姓の斉から
 田氏の斉に取って代わった
 「田和」は正式に侯となり
 国号を姜斉時代と同じく「斉」とし
 「田斉」とした
 前379年
 「康公」が死し
 姜斉は滅亡
 ↓↑
 「太公」の2代後、子の
 「桓公」
 は臨淄に稷下学宮を開き賢人を招き入れた
 威王や宣王の代にも続き
 東方の学問の中心地となった
 子の
 「威王」が即位
 「鄒忌」を相国に任命し政治改革
 「田忌」
 「孫臏」
 を将軍とし、軍事力強大化
 前353年
 魏を桂陵で大敗させ
 前341年
 「馬陵の戦い」で大勝利
 前334年
 「威王」は
 魏の
 「恵王」とともに正式に王号を自称
 「威王」
 の晩年
 国相の「鄒忌」
 と
 将軍の「田忌」
 が対立し
 前322年
 「田忌」
 は臨淄をも攻めたが落とせず
 楚に亡命
 子の
 「宣王」即位後に
 斉に戻った
 ↓↑
 前314年
 燕で
 「子之の乱」が発生
 孟子の献策により
 5都の兵を率いて
 燕へ侵攻することを
 「匡章」に命じ
 前301年
 斉と韓・魏が
 楚を攻め
 「垂沙の戦い」で大勝
 ↓↑
 前298年~前296年
 斉・韓・魏が合従し
 秦の函谷関に侵攻し
 秦に和を求めた
 前288年
 秦の
 「昭襄王」は西帝
 「湣王」は東帝を名乗り
 共同で「趙」を攻めた
 「蘇代」
 は帝号を名乗る不利益を説き
 「湣王」は王号に復称
 同年十二月
 「呂礼」
 が秦に派遣され
 「昭襄王」の帝号を王号に復称
 前286年
 宋の内乱に応じて
 宋を滅ぼし
 南は楚
 西は三晋(趙・魏・韓)に侵攻
 「斉」は全盛期
 ↓↑
 宋の滅亡に諸国は危機感を募らせ
 秦は趙や楚と和を結び
 前284年
 燕の「昭王」は
 「楽毅」を上将軍に任命し
 燕・秦・韓・趙・魏
 の5国「合従軍」は
 「済西の戦い」で斉軍を大敗させ
 合従軍は解散
 燕は追撃を続け
 国都の臨淄の他、七十余城を落とした
 斉の領地は
 莒と即墨のみとなった
 国都の臨淄を落とされた湣王は
 「莒」に逃亡したが
 楚が救援のために派遣した
 「淖歯」に殺された
 「王孫賈」
 や莒の人は「湣王」の仇の
 「淖歯」を殺し
 「湣王」の子の
 「田法章」を
 襄王とし
 燕の攻撃に抵抗し
 「莒」を守った
 ↓↑
 「莒」・・・芋・里芋(さといも)
 とともに
 「即墨」も燕の攻撃に抵抗
 「即墨」の大夫は
 「楽毅」の策にかかり戦死し
 城内の兵士や民衆は
 公族である
 「田単」を将にした
 5年後
 前279年
 燕の「昭王」死亡し
 「恵王」が燕王となった
 「恵王」は
 「楽毅(ガクキ)」
 を恨んでいたため
 「田単」は反間の計で
 「楽毅」は将軍を罷免され
 「恵王」は
 「騎劫(キゴウ)」
 を将軍とした
 「楽毅」は趙に亡命
 「田単」は
 「火牛の陣」で燕軍を大敗させ
 斉は70余城を取り戻し
 「田単」
 はこの功で相国に任命されたが
 秦の統一に抵抗することはできなかった
 ↓↑
 前265年
 「襄王」死亡し子の
 「田建」
 が即位
 母の
 「君王后」・・・君の王の后・・・申の女の君?
 が輔政
 前249年
 「君王后」死亡し一族の弟の
 「后勝」・・・后の勝?
 が執政
 「后勝」
 は秦から賄賂を受け取り
 秦に懐柔され
 「田建」・・・田(デン・た)の
        建(ケン・たける)
 は軍事の防衛強化の準備をせず
 五国(韓・趙・魏・燕・楚)
 の滅亡を傍観
 「田建」
 は秦が侵攻することを恐れ
 軍隊は西部の辺境に集結させた
 前221年
 秦王
 「政=始皇帝」
 は斉の攻略を
 「王賁」に命じ
 秦軍は
 斉軍の主力が集結した西部を避け
 元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻
 斉軍は
 秦軍からの突然の北面からの侵攻で
 瓦解し
 「田建」
 は降伏し
 斉は滅亡
 「田建」
 は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが
 食糧を絶たれ
 餓死
 秦は
 斉の地に
 斉郡
 瑯琊郡・・・瑯(ロウ)=王+良+阝
       琊(ヤ) =王+邪
 を置き
 秦は中華の
 統一王朝
 秦朝となった
 ↓↑
 ↓↑
 頻=步+頁=頻=歩+頁
   止+少+頁
 ヒン・ビン
 しきりに
 しきる
 しきりに・たびたび・しばしば
 みぎわ・水辺・水ぎわ
 せめる・さしせまる・切迫する
 ならぶ・近づいてならぶ
 ひそめる・しかめる・まゆをひそめる・顔をしかめる
 しきる・たびたび・しばしば
 ↓↑
 顰=ヒン・ビン・しかめる・ひそみ・ひそめる
   顔をしかめる・眉間にしわを寄せる
   異体字「颦」
 顰=頻+卑
   頻+卑
   頻+卑
   頻+卑
   步+頁+甶+丿+十
   步+頁+卑
   歩+頁+甶+丿+十
   歩+頁+卑
   止+少+頁+丿+田+十
   止+少+頁+卑
   止+小+丿+頁+田+十
   止+小+丿+頁+卑
 卑+α・・・「卑弥呼」
 卑俾婢陴郫萆捭啤埤崥
 渒猈庳牌脾椑焷琕㪏稗
 裨睥痺碑㗗㼰㽡䇑鹎禆
 碑箄粺蜱綼聛諀豍貏䚜
 䠋䡟頻錍頻鞞䫌髀䰦鵯
 䱝䴽瀕蘋嚬㰋鼙朇颦
 ↓↑
 顰面(しかめづら・しかめっつら・しかめつら)
 顰(しか)める
 顰(ひそみ)
 顰める(ひそめる)
 顰蹙(ヒンシュク)
 一顰一笑(イッピンイッショウ)
 顔を顰(しか)める
 西施の顰(ひそ)みに倣(なら)う
 顰みに倣う
 顰みを学ぶ
 顰蹙(ヒンシュク)を買う
 眉を顰(ひそ)める
 ↓↑

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
 古代エジプトの神々(1)・・・絵字符都・・・『埃及』(42)
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エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
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 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

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 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

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 モウ君の総合目次
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  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
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 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

 

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

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