金曜は仕事が一段落したこともあって、少し飲みに行って、挙句帰り損ねてマンガ喫茶に泊まってしまった。
土曜朝、帰りがけに山野楽器でCD4枚(組)。
クラシック3組は当たり(メンゲルベルクのチャイコフスキー後期交響曲)と外れ(ファリャ。トスカニーニのローマ三部作は微妙)が混ざった感じ。
吉朝の文楽劇場の音はまだ出ていないようだったが、考えてみるとテープを持っていなかったので、代わりに「たちきり/つる」のCDを買ってきた。
上方人の私としては「立ち切れ」と言ってしまうところ。タイトルが下げをモロに割るネタ(「百年目」もそう)だが、そもそも「立ち切れる」状態がどんな状態か、けっこう議論した覚えがある。
私には、小糸の生涯に掛けて、線香が(燃え尽きずに)途中で消えてしまった、という感覚があるのだが、吉朝のには(おそらく米朝も?)普通に燃え尽きた感じがする。そこまで盛り込むのはやり過ぎなのかも知れない。
私は基本的に「番頭」を軸としてこのネタを見るんだが、よく分からないところがある。どこまで人の心が分かっているのか、手紙を読んだ若旦那が行くことは承知しているのだが(少なくとも吉朝はそうしている)、それで「酸いも甘いも噛み分ける」番頭か、というとそうではなくて、小糸の真心までは見ることはできていない。単純に「分かっている/分かっていない」の二分法では駄目なんだろう。
いろんな人が若旦那が仏壇の前で言う「もう女と名の付くものは雌猫1匹傍におけへん」といった台詞をわざとらしくて嫌がるんだが、私は醒めた眼でこの台詞を見ている。商家の若旦那がそんなことはできるわけがないし、実は小糸の母親であるおかみも「実際にはそんなことはできないが、そう言ってくれる気持ちが嬉しい」という位に思っているのではないか。そう考えれば、別に違和感なく捉えられると思う。
吉朝のは上手いんだが、少し台詞が多い感じがする。個人的には文枝の(ちと若旦那の作り方がツッコロバシ風でクサいんだが)くらいがバランスとしてちょうどいいと感じた。
土曜朝、帰りがけに山野楽器でCD4枚(組)。
クラシック3組は当たり(メンゲルベルクのチャイコフスキー後期交響曲)と外れ(ファリャ。トスカニーニのローマ三部作は微妙)が混ざった感じ。
吉朝の文楽劇場の音はまだ出ていないようだったが、考えてみるとテープを持っていなかったので、代わりに「たちきり/つる」のCDを買ってきた。
上方人の私としては「立ち切れ」と言ってしまうところ。タイトルが下げをモロに割るネタ(「百年目」もそう)だが、そもそも「立ち切れる」状態がどんな状態か、けっこう議論した覚えがある。
私には、小糸の生涯に掛けて、線香が(燃え尽きずに)途中で消えてしまった、という感覚があるのだが、吉朝のには(おそらく米朝も?)普通に燃え尽きた感じがする。そこまで盛り込むのはやり過ぎなのかも知れない。
私は基本的に「番頭」を軸としてこのネタを見るんだが、よく分からないところがある。どこまで人の心が分かっているのか、手紙を読んだ若旦那が行くことは承知しているのだが(少なくとも吉朝はそうしている)、それで「酸いも甘いも噛み分ける」番頭か、というとそうではなくて、小糸の真心までは見ることはできていない。単純に「分かっている/分かっていない」の二分法では駄目なんだろう。
いろんな人が若旦那が仏壇の前で言う「もう女と名の付くものは雌猫1匹傍におけへん」といった台詞をわざとらしくて嫌がるんだが、私は醒めた眼でこの台詞を見ている。商家の若旦那がそんなことはできるわけがないし、実は小糸の母親であるおかみも「実際にはそんなことはできないが、そう言ってくれる気持ちが嬉しい」という位に思っているのではないか。そう考えれば、別に違和感なく捉えられると思う。
吉朝のは上手いんだが、少し台詞が多い感じがする。個人的には文枝の(ちと若旦那の作り方がツッコロバシ風でクサいんだが)くらいがバランスとしてちょうどいいと感じた。