まず最初に。これは2年ほど前の本を取り上げたもので、時流から外れたものであることを、あらかじめお断りしておく。(ゆえに、読む価値を割り引いていただくと助かります)
先日古本屋に寄って、町田康のフォトエッセイ集『爆発道祖神』と一緒に、川上未映子と村上春樹との対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』を同じ金額で買った。
以前、この新刊書が出たときに、店頭でざっと前半の方を斜め読みしていて、川上が村上の創作の裏話をききながら、意外にも容赦ない疑問・難問をぶつけている印象が残っていた。
たとえばフェニミズムに関することで、我流に要約すれば「女性のセックスを踏台にして表現に自由度を増すところは、村上ならではの筆の勢いがあり凄い。でも、ジェンダーとしての女の脆弱なところを、深く考察せずに書いているんじゃ、ないですか・・(優しい感じで)」。という箇所が、妙に印象に残っていて、うむ・む・むと期待したのだ。
(ここで勘違いしてほしくないのは、村上の性表現について、川上はフェニミズムのみの視点(セクハラ批判)からだけで問うてはいないのだ。ジェンダーの差異を踏まえて女性性を描ききれるのか、男性としての村上さんは? と、作家としての根源的なエクリチュールを訊いたのだ・・。もちろん、女の私からは、男性性を表現できるはずもない。また、書こうとも思わない・・そんなニュアンスがある)
しかし、村上の威光が勝(まさ)ったんだろう、世界的作家としての風格がにじみ出たというか、うまい具合にはぐらかした(後述)。とはいえ、川上のように直感的に要点を絞って、ストレートに訊きたいことをぶつける女性はなかなかいない。
こんなインタビューが展開するなら面白い対話になる、と勝手に想像した。ま、そのときは、身銭を切ってまで買おうとは思わず、図書館で借りるか、古本で半値以下になったら求めるつもりだった。自分でも嫌な読書人だなと思いつつ・・。
てな伏線がありつつ読んだのだが、川上は文学少女のころから村上ファンで、大阪で開催された「村上春樹・トークイベント」に2回連続で聴きに行ったほど村上文学が好きで、のめり込んでいたという。
作家として畏敬するのは当然であろうし、二人の会話は師弟関係のような、やや一方的な対談に終始しそうなのは予測がつく。予定調和みたいなものが、途中から淡くとも感じられる。それは致し方ないことだ。その偏りが鼻についてきても、川上未映子は自らを鼓舞して、別の視点を用意し、切り込み、創作の核心へ問い詰める。
だが肝心なところに来ると、どうも村上はするりと論点を自分のフィールドに引き戻す。隔靴掻痒というのだろうか、最後までそんな感じが続くことが知れたので、途中だがギブアップした。残念ながら三分の一ほどで、興趣が失せたのだ。
以上のことから、小生は、『みみずくは黄昏に飛びたつ』に関して語る資格はない。
ただし、第1章のタイトルにもなっている「優れたパーカッショニストは、いちばん大事な音は叩かない」という、村上が言っているこの文言、テーゼについてだけ書いておきたいことがある。
このレトリックは、たとえば作中の登場人物が死んだときの状況や理由について、そのリアリティを担保する云々を尋ねたとき、最終的に絞りだした村上のレスポンスが、以下の発言である。
ある時突然、「死」にしっぽを摑まれてしまうんですよね。もう逃れない。それがこれまでのつけが回ってきたということなのか、あるいは宿命だったのか、人の業みたいなものだったのか、ただ運が悪かったのか、それは僕にはわからない。(中略)そういうものにはリアリズムもなにもない。
川上はそれに対して、「そういう<死>に対して誰(読者)に突っ込まれてもまずくならないように、医学的に確実に死なすというか、そういうことを気にしてしまう」と、さらに訊くのだが、それは作家の良心でもあり、小説のリアリティを成立させる肝心かなめじゃないかと言外に匂わせている。
村上は、「それでは話はつまらなくなる」と断定し、川上は「そうですよね」と同調する。そこで村上は、「文章はリズムが大事だ」といい、それから前述したあの金科玉条ともいうべきあのフレーズをもちだす。
「優れたパーカッショニストは、いちばん大事な音は叩かない」
この決まり文句のようなフレーズは村上自身の言葉なのか、ジャズプレイヤーあるいは他の音楽家の誰かがいったものなのか定かではない。
これを前提にして、ちょっとロジカルシンキングしてみる。
背理法をつかえば、「いちばん大事な音を叩くものは、優れたパーカッショニストではない」。ということになる。
いちばん大事な音こそ、叩くべきではないのか。一般論として普通ならばそう考えるのだが、ここでは演奏というひとつの流れの中で、いちばん大事な音を出さないことがポイント。で、全体の音楽が素晴らしいものになるのだと、村上の意を汲み好意的に解釈すれば、そう読めなくもない。
しかし、これは定理なのか、間違いのない「前提」なのか・・。「いちばん大事な音は、叩かなくてはならない」のではないか。
いちばん大事な音こそ、叩くべきである、という仮定は成立しないのか。優れたパーカッショニストであることを問わなければ、この仮定は間違っていないし、つまり、音は叩くことによって生まれ、聴衆のもとに届けられる。
届けられない音そのものが、大事なのか、そうでないかを、決める主体は誰なのか。パーカッショニストなのか、彼は自分で優れていると自画自賛したいだけなのだろうか。
最近、ちくま学芸文庫の『論証のルールブック』という翻訳本を読んだ。原書は5版を重ねられ、かつ翻訳も2版目なので文章は練られ、より簡潔に整理されて、論理的な展開も明快である。「論証(argument)」を理解するには、これこそ簡にして要を得た書であった。
ここでは、そのなかの「演繹的論証」を紹介したい。
前提が真実であると認めたなら、結論を否定することはできない。
というもので、前提そのものが問われ、いくつかのエビデンス、それを裏付ける例証などが揃っていれば、まあ結論を否定することはできない。(一般的には、それ自体が間違っていない前提をどこまで積み上げても、結論が真実であることは保証されないけど・・)
ともあれ、きちんと作られた演繹的論証は、妥当な論証だといわれる。さて、元の命題にもどりたいが、整理するとこうなる。
いちばん大事な音はある。それを叩くこと、叩かないことも、大事な音はあるといえる。ゆえに、「叩くこと、叩かないこと」が優れたパーカッショニストであることを規定する、大事な「前提」条件であるとはいえない。
つまり「優れたパーカッショニストは、いちばん大事な音は叩かない」というフレーズは、必ずしも真実をふくむ結論とはいえない。のである。追記(※:削除するかもしれない)
とまれ、新進作家として、川上はもっと村上の作家としての深奥をえぐり、執筆の奥義、技巧の極意を引き出す使命を、出版元の新潮社からそれとなく聞かされていたのではなかろうか、と勘繰ったのだが・・。