小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

靖国超捻転

2005年06月10日 | 国際・政治
 
 何年ぶりだろうか、週刊誌を買ったのは。「靖国参拝」について各界のお歴々が意見を述べていると中吊り広告にあったので300円も叩いてしまった。
 国家神道と神道の違いあるいは仏教との相違がきちんと整理されていない人が多いのに驚く。また、日頃無宗教を標榜するひとの死生観も、実際のところ「英霊信仰」ともいえる宗教心をお持ちだったりする。
 その中でいちばん本質論を述べているのが哲学者の池田晶子だ。彼女はまず「霊魂観を示せ」という。
 首相の参拝理由である「戦死者を弔うため」は嘘であり、「本当は死者をほっておくと祟るとおもっているからである」と喝破する。
 これは古くからある「御霊信仰」であり、神道の一部でもある。
 次に彼女は中国に矛先を向ける。「英霊の戦争責任を追及する共産中国は死後の霊魂の存在を認めている」、「唯物思想はどうなった」とその矛盾をつく。
 私は別のところにも書いたが、中国人は死後の霊魂を認めているし、その霊力を恐れる民族である。マルクス・レーニン主義も捻転しているのだ。

 中国人ばかりでない。韓国、台湾、フィリッピン人などアジアに住むほとんどの人々は死者の霊魂を信じている。
 かつて、靖国神社がそれこそ無断に勝手に、太平洋戦争で戦死した台湾・韓国出身者の軍属・軍人を合祀した。
 遺族らは大挙して来日し抗議し、法廷闘争をした。彼らが純粋のキリスト信者だったら痛くも痒くもない。しかし、戦争犯罪人である日本人と一緒に合祀されるのは、台湾・韓国の遺族らにとっては身を切られほどの屈辱だという。
 そういう彼らも死者の霊魂を信じているのだ。

「合祀」とはとどのつまり「登録」なのだ。
 名前を書いた紙切れを奉納するだけの行為なのだ、たぶん。それだけの行為に重く深い意義付けをするのは、靖国神社が「装置」であり、国家神道を継続させるための国家的な意図があるからに他ならない。それにしてもこの「装置」は凄い。ここには遺骨も何もない。ただ紙切れがあるばかりである。それなのに遺族のこころを癒し、無残・非業の死を英霊として祀りあげる力がある。お国の戦争ために死んだ人はほんとにここで浮かばれているのだろうか。

 あの戦争で負けたことは、国家神道の敗北を意味する。
 その神髄ともいうべき「靖国神社」が存続し、他民族を巻き込む「合祀」を行い、大日本帝国の精神を今日まで発揮していることは、戦後思想が捻転していることにほかならない。さらに隣国の中国、韓国、北朝鮮までが、それを政治的意図に基づき「靖国問題」を歴史意識の問題へと転化する。霊魂の思想的所在は彼らへの問いでもあるのにそれは無視してる。問題の捻転に拍車をかけている。

 一方、本来被害者が言うところの「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を、わが国首相がのたまうにいたっては「靖国問題」は超捻転して未来に引き継がれるだろう。
それにしても「首相の靖国参拝」は各地で政教分離という点で争われているし、一部で「違憲」との判決も出ている。にも関わらず小泉くんはそれに執着する。たぶん政治的に利用していると思われるし、そのバックにアメリカの思惑やかけひきがあるのだろう。北朝鮮拉致被害者の強制帰国で大スタンドプレーを行なったので、いまやアメリカの言いなりになってしまった小泉くん。「靖国神社」そのものを政治的カードとして使っているのは君じゃないのだぞ。アメリカなんだぞ。

 長くなりそうだ。日を改めて整理して書くことにする。







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