goo

新堅町は 3丁目しかない !?


 新堅町は 昔ながらの商店街に、最近は若者が個性的な店を開き、若々しい雰囲気も加わった個性的なエリアですね。学生時代、新堅町近辺に下宿し、あの界隈に愛着をもつ者として、このブログにも何度か記事を書きました。(たとえば これ です)


 そういう私ですが。。。新堅町には1丁目も2丁目もなく、3丁目しかないことを、恥ずかしながら最近知りました。だって、新堅は「新堅町」だとばかり思ってましたからねえ。


北国新聞2012年10月21日付に 以下のような記事があります

 金沢市のひがし茶屋街で地図を手に歩いていると、奇妙な場所があった。卯辰山中腹にある観音町(かんのんまち)は3丁目があるのに、1丁目と2丁目がどこを探してもない。調べてみると、犀川右岸の新竪町など丁目に欠番がある町はほかにもあった。背景には、昭和の住居表示変更の混乱と、ふるさとの町名にこだわり続けた地元住民の熱意があった。

(中略)

片町の繁華街に近い新竪町は1964年、市の区割りで1丁目と2丁目が幸町と菊川2丁目にのみ込まれる中、住民の反対で3丁目だけが残った。 新竪町校下町会連合会長の宮口優さん(71)は「藩政期から続く町名を郵政省のために何で変えんなんがやという話になった」と振り返る。周辺の水溜町(みずためまち)、大工町、十三間町(じゅうさんげんまち)も新住所を受け付けなかった。
 
前石川近代文学館長の香村幸作さんは「単純に道路で町名を区切る役所の考え方は、金沢の古い街並みには合わんかった」と分析する。市内には5丁目だけの山の上町、5・6番丁しかない下本多町、3・4番丁のみの西町など各地に住居表示のゆがみが残っている。



 なるほど、もともと新堅町は、鱗町交差点から笠舞方面へ続く大通りと犀川に挟まれた、桜橋から下菊橋あたりまでの、エリアだったんだね。あのあたり、古い民家が密集した、たしかに金沢らし雰囲気だね。

↓昔は この通りがメインストリートだったのかな?


 明日から 弥生3月、少しは暖かくなってくれるかな?
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 神宮寺3丁目... 下本多町6番... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。