三味三昧 笛三昧

津軽三味線奏者、笛・尺八奏者、たまに胡弓奏者、なぜかアマ無線家
音楽好き趣味三昧人間「くまりん」のお気楽日記です

自己紹介文を作ってみました。

2024年07月10日 16時41分36秒 | しょーもない徒然日記

入院生活は3週間目に突入しました。連休明けの来週からはようやく体重をかけてのリハビリが開始します。もう2週間ぐらいかな、頑張ります。

入院前に、所属しているKCJ(全国CW同好会)の副会長さんから、会報に載せる自己紹介文を書いてくれという依頼がありました。暇な息災病人ですので先日からせっせと書いてみました。会報に掲載されるのは2~3ヶ月後ですが一足早く自分のブログに画像なしのバージョンをアップします。会報にはこれに画像を数枚加えて文章ももう少し推敲したものになります。



KCJ会員紹介コーナー原稿

                            JH9CDZ

1.アマチュア無線編

 小学校5年生の時だったと記憶しています。新潟在住の父方の従兄(15歳上)が富山の片田舎の我が家へ遊びに来ました。車に長いモービルホイップをつけて、車内にはトランシーバーがセットされて、自宅前から見知らぬ人と楽しそうに話しているのを目撃したのがあまりにも衝撃的でそれが私の無線の原点です。

この従兄が近くに住んでいれば私の無線人生もかなり速くにスタートしていたと思いますが彼は250キロも離れた新潟県、インターネットなんてない昭和の時代、どうしたら無線を始めることができるのか、小学生なりに考えた結果が当時流行っていた通信教育でした。どうやってその教材費を工面したのか記憶にありませんが、多分祖母に嘘をついて出してもらったのでは無いかと思います。
無線をやりたい一心で一生懸命に勉強して国家試験の願書まで出したのですが、私の住んでいた富山の片田舎から国試の行われる石川県金沢市まで行くのは大変なことで、おまけに試験当日が小学校の行事と重なったもので、大正生まれで戦争帰りの超頑固親父を説得するすべも無く、学業第一だと頭ごなしに言われて泣く泣く諦めました。おまけにどこから聞いてきたのか、大体そんな金のかかる趣味は自分で金を稼ぐようになってからやるものだと一喝されて、小熊少年の夢ははかなく消え失せたのでした。

 時は流れて約10年後、某専門学校時代に隣の机に座っていた同級生がなんとバリバリのアマチュア無線家だったのです。ずっとくすぶっていた私の無線への情熱が当然の如く再燃しました。
専門学校卒業して就職後に勉強再開、講習会なんて便利な制度があるなんて事も知らないし、とりあえずは問題集をさらって国試に望みました。1979年に晴れて電話級アマチュア無線技士取得、翌年開局。貧乏な社会人一年生ゆえ、前述の同級生から安価で譲り受けたTR7500GⅡ1台のみでの開局でした。これでも十分楽しめました。
翌年前述の同級生が1アマを受けるというので、ならば自分は2アマへと闘志を燃やし、まずはモールスを覚えると事だと言われて欧文モールスの練習用テープをダビングしてもらい、ついでにともらった和文モールスのテープもすり切れるほど聞いて練習しました。開局の翌年2アマ合格、1アマの無線通信術も科目合格。しかしその後超ブラック業界の常で仕事に忙殺されてなかなか1アマの無線工学の勉強が進まず、頭の柔軟なうちに受験しておくべきだったと後悔しています。それでも若い頃に覚えた和文もほぼ完璧に記憶していますので、頑張って練習した甲斐があったと思っています。
話はそれますが、小学生時代の小熊少年にあれほど反対した超頑固親父ですが、私が和文モールスの受信練習をしているのを見て、実は戦争中通信兵で満州へ行っていたのだと語り出しました。戦争中のことは全く口にしたことの無い親父が、「イトー」「ハーモニカ」って覚えたもんだ、とポツリと言ったのを覚えています。
友人もいない見知らぬ石川金沢の地で就職、開局したのですが、アマチュア無線のおかげで友人も沢山できました。KCJのJA9CZJ松盛さんもその頃からの知人で、貧乏生活の我が家に冷蔵庫をお下がりでいただいたり、移動運用に誘っていただいたりと大変お世話になりました。

 年は流れて1987年、楽しかった石川県を離れて富山へ戻ります。当然アンテナもすべて撤去して引っ越したので、しばらくは開局当時と同じVUのGP一本という寂しい環境になりました。これを打開するのに移動運用を始めたのはこの頃です。立山山頂から50MHzの4エレHB9CVで夜通し運用したのも良い思い出です。また当時流行っていたパケット通信にのめり込んだのもこの頃です。
パケット通信をやるようになり、ちょうど時を同じくしてインターネットが盛んになり、確実にアマチュア無線のアクティビティは下がっていき、年間交信数が一桁という年も。
開局当時にアクティブだった友人もほとんど無線から去り、自分はというとなんとか免許を継続しているだけのような仮死状態になっていた2014年、JA9CZJ松盛さんから突然の電話が。8J9VLP(QRPデー特別記念局)を運用したいので、協力してくれないかとのこと。冷蔵庫の恩義ではありませんが二つ返事で受諾。VLP(Very Low Power)なので当然CWでの運用が主、この日から心機一転頑張ってCWの耳慣らしのリハビリを開始、パイルに耳がついていくように移動運用も再開しました。某OMに言われてパドルの左手打ちにも挑戦して何とか矯正しました。以来10年間毎年8J9VLPの運用を続けています。


2.音楽芸能編

小学生の小熊少年の無線への夢が一旦途絶えた頃、母方の叔父から古いクラシックギターを貰いました。中学校へ入った頃、無線の時と同じく当時流行っていた通信教育で勉強開始。他にすることと言ったらラジオの深夜放送を聞くぐらいしかないのでみるみる上達、
しかしやはり戦争帰りの超頑固親父は音楽にも理解を示すこと無く、新しいギターを買ってくれる筈もありませんでした。高校は吹奏楽部に入り、ホルン漬けの日々を送ります。
専門学校時代は一旦音楽は中断しましたが、就職後は市民バンドに入ってホルン吹きに戻り35歳まで続けました。
ちょうど市民バンドを退団した頃、義母(嫁の母)が民謡三味線を習うというので一緒について行くことに、加賀山流民謡教室でした。ちょうど民謡全盛期に陰りが見え始めた頃ですが、これが私の民謡の第一歩となりました。
その当時の師匠の元で研鑽をして15年ほど経った頃、師匠の勧めで津軽三味線の先生の元へ通い始めます。何故かこれが大いにハマってしまい、翌年から毎年GWに青森で行われる津軽三味線の大会へ通うようになりました。元来ハマったらとことんまでやるタイプ、当初は全くかすりもしなかったのですが、そのうち入賞できるようになり、2014年には津軽三味線世界大会のミドルC級(40~59歳)で優勝することができました。最近は指導者に徹していますが、今でもGWの青森通いだけは継続していて、移動中や青森滞在中には無線の運用も楽しんだりしています。
 津軽三味線の傍ら、2002年から米谷流の民謡尺八の教室に通い始めて、昨年師範に昇格しました。一時期大ブームだった尺八も奏者の数は10年ほど前の統計では全国にわずか数千人、この尺八人口の中でも民謡尺八奏者はその約1割程度と言われています。その1割の民謡尺八奏者も高齢化で激減していて、我が富山県では68歳の私がなんと現役民謡尺八奏者最年少なのです。少年時代からの音楽経験が功を奏したのか、はたまた街で一番の三味線の名手だったという祖母のDNAを受け継いだのかはわかりませんが、最近では津軽三味線に尺八にとステージに追われて忙しい日々を過ごしています。

3.これから

CWでの移動運用の楽しさにハマったコロナ禍前の2019年頃から、何か継続性のある目標を持ってアマチュア無線を楽しみたいと考え、多くの選択肢の中から選んだのが「アウト・ドア賞」です。毎月1回以上移動して50局以上と交信して、それを1年間続けると取得できる賞で、これを2年、3年・・・と継続すると2年賞、3年賞・・・が交付されます。今年春には「アウト・ドア賞5年賞」をゲットしました。大体近隣の市町村は行き尽くしましたので、これからは隣接の県へ遠征しようといろいろ計画を練っています。またGWに通っている青森県の市町村からも継続して運用したいと考えています。アウト・ドア賞10年賞以上をゲットしていらっしゃるOMさんもいらっしゃいます、その後ろ姿を追って体の続く限り移動運用を楽しみたいと思います。

他人から「そんなに2足も3足も草鞋を履いてよくやってるね」と言われますが、若い頃から限られた時間をやり繰りして好きなことを続けるのが私のモットー、これからも仕事の合間を見て体の続く限りアマチュア無線も音楽芸能活動も頑張りたいと思っています。

                              おわり
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入院2週間です。

2024年07月09日 19時00分08秒 | しょーもない徒然日記
今日で入院2週間、手術から13日です。
リハビリが長くて、あと2週間程度の予定です。

この4人部屋ではいろんな人間模様があります。
人ごとだと笑い話のように思えるでしょうが実は当事者は大変なのです。
あまりにも気が散って本もまともに読めません。
ほんとうに看護師さんたちは我慢して笑顔を絶やさないでいるのには感動します。

その1
「便出た」「便ほじって」「お茶買ってきて」「テレビカード買ってきて」「お茶入れて」「イヤホン落ちた」「電気消して」「たすけて~」・・・・・・と言って一日に何十回もナースコールする爺さん。すぐに看護師が来ないと延々とナースコールを繰り返してます。

その2
明日手術だから大丈夫だろうと言って、面会時間が終了してもずっと大声でしゃべっている老夫婦。4人部屋って事わかってるのかな~

その3
やたらと若い看護師さんに媚びを売ってイチャイチャしている爺さん。
これは全員に言えます。
逆に媚びも売らずに淡々と受け答えしてる私の方が少数派なのかも。

その4
なすびと大根が嫌いなので食事には入れないでほしいと、無理な注文をする爺さん。
それはできませんと看護師に言われてもなかなか諦めませんでした。

その5
これは病室ではありませんが、車椅子用トイレが使用中では無かったので勢いよく扉を開けたら、用を足しているおっさんが・・・。
ごめんなさいと言って外で待機していたら、一言もなしで睨み付けて出て行かれました。
鍵かけないで用たしてるほうが悪いんだろうよ、と思いましたが諍いを起こしても仕方ないので、再びごめんなさいと言っておきました。なんか一言言えよ!

てな感じで、いろいろありすぎです。
歳を重ねると我が儘でどうしようもなくなるようです。

かくいう私も、カタカタとキーボード叩いてばかりでうるさいやつだ、と思われていること必至です。

抜糸も済んで、外反母趾の矯正手術の後、元に戻らないように装具をして過ごしています。
足関節固定術の所はいまだに痛みが残っています。

あと2週間弱、頑張ります。

今日は画像なし、あしからず。
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入院中

2024年07月05日 19時59分00秒 | しょーもない徒然日記

昨年に続いて今年も足の手術のため入院中です。
6月25日に手術をして、10日が経過しました。
若い人で早ければ術後3週間ほどで退院できるようですが、もう高齢者だし4~5週間かなと考えています。

昨年は右膝の人工関節置換手術でしたが、今回は左足関節変形症の固定手術と外反母趾の矯正手術です。
これで痛い痛い手術も完結の予定ですが、どうなりますか?

最初に右足関節変形症で固定手術をしたのが2016年。
その時に左足関節変形症も進行しているので、そのうち手術しないといけないだろうと言われていました。
その矢先に何が原因か右膝が悲鳴を上げたので、医師の話では体の中心に近い方から順に手術しないといけないとかで、昨年春は右膝の人工関節置換手術でした。

今年春に右膝人工関節置換から1年目の定期検診の時に、医師から、次は左足関節と言われて主治医も専門の医師にバトンタッチされ今回の手術になりました。
ついでに、年々酷くなっていた外反母趾の矯正手術も併せて行うこととなりました。

大体何で両足の足関節(足首)の変形症になったのかというと、思い当たることがいくつかあります。
まずは足関節を最初に捻挫したのが高校の体育の授業の時、その後何度も同じ所を捻挫するようになり、20代から登山を始めたのですが、山でも何度か捻挫しています。
両足ともに捻挫するのが癖になって来たようだ、でもたいしたことは無いだろうと、せいぜい行っても接骨院ぐらいでお茶を濁していたのが原因です。しっかり整形外科で診察してもらって治療していれば、と今頃になって思っても後の祭りです。
最初に診てもらった隣町の整形外科の院長に、「左右ともに靱帯がほとんど残っていなくてぶらぶらな状態なので、早めに手術しないと歩けなくなるよ」と言われて今の病院を紹介され、最初の手術が2016年でした。

若いときの怪我は大丈夫と思うことなかれ、しっかり治しておかないとこうなるよという見本です。
特に若い頃スポーツをやっていた方、お気をつけください。

今回レントゲン写真をいただきました。
左足関節をプレートとボルトで固定してあります。



昨年の入院では4週間全く空を見ることができない廊下側の場所だったので、入院中ずっと気分が重いままでした。
今回の入院も4人部屋ですが、入院時に「できれば窓側で」という希望を出したので、今回は「わずか」に空が見える窓側になりました。
全く見えないよりは遙かにマシです。




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七尾市へ移動運用に行って来ました。

2024年06月02日 15時26分22秒 | アマチュア無線
6月は毎週末イベントがあり全滅。
唯一昨日の午後から空いていたので、移動運用に出かけました。

PKリストとGoogleマップで目星を付けた、お隣石川県七尾市の希望の丘公園へ。
自宅からは能越道で40分ほど、看板やトイレはちょっと古いけど、立派な公園です。











X情報では、午前中ハイバンドが良かったようですが、とりあえず10MHzCWで運用開始。
が、なかなか呼ばれません。
8エリア、6エリアが各1局ずつと、HLが2局。
後はなかなか呼ばれずCQのから振りが続いたので、7MHzへQSYします。

7MHzは割と快調に呼ばれて、約1時間で48QSOでした。
最近は1stQSOの方がめったに無かったのですが、この日は数局1stの方がいらっしゃいました。
普段は早朝から移動運用することが多いので、イレギュラーな時間帯だったからかもしれません。

プチパイルになっているときに、8N3XXV3I(KANHAM特別局)からコールされました。
パイルの後に遅れて「3I」が聞き取れるのですが、まさか特別局とは思いません。
まさか「3I」で終わるコールサインなんて聞いたことが無いし・・・
でも何度もコールしてくるので、耳をかっぽじってよく聞いたら「8N3」ではありませんか。
多分特別局だろうと確信して長いコールサインをコピーしました。
特別局からコールされるのは大変ありがたいことですが、一瞬思考停止に陥るし、心臓に悪いです。

これでアウト・ドア賞の今月のノルマはCFM。
毎月月末に滑り込みで帳尻合わせをしているので、月初めからのCFMは珍しいことです。


さて、移動運用の電源ですが、
移動運用をはじめてからずっと、安価な鉛バッテリーを2個直列に接続して24Vにして、そこからDCDCコンバーターを介して13.8Vを取り出していました。
こうすると安定して13.8Vを供給できるし、CW50wで3~4時間は平気で運用できます。
ただ、バッテリーが重いのと経年劣化が早いのが玉にきず。








最近リン酸鉄リチウムイオンバッテリーが安くなってきたので、昨年、防災用の用途を半分加味して購入しました。
DC-ACインバーターを外付けしなくてもAC100Vが取り出せるので防災用には最適です。
停電の時にファンヒーターが動かないのでは困るとの発想でしたが、元旦の地震では停電が発生しなかったので出番はありませんでした。




で、移動運用にはどのくらい使えるものかと、先日から実験を行っています。
シガーソケットから取り出しています。
フル充電から、約3時間半運用してこの数値です。
リン酸鉄リチウムイオンバッテリーは、容量が少なくなるまであまり電圧降下が無いということですが、果たして何時間運用できるかの実験です。。
7~8時間運用できれば御の字ですが、また後日レポートします。

電源ラインの分配には、CQオームのワンタッチソケットが大変便利です。
特にコネクターを加工する必要ないので、重宝しています。





そろそろQSLカードもたまってきたので、印刷しないといけません。
hQSLはどうしようか悩んでますが、割と道の駅で運用することが多いのでどうしようか思案中。
道の駅アワードは、道の駅スタンプを押したQSLカードが必要なので、どうしても紙QSLになってしまいます。
hQSLがJARLの電子QSLシステムということになれば考えますが、そうでもないし。
もうしばらく様子見かな。


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GWは津軽詣

2024年06月02日 13時01分45秒 | 津軽三味線

今年のゴールデンウィークは、久々にひとりぼっちの津軽詣となりました。

今年の弘前大会、青森大会に誰か出る者はいないか!と生徒さんに聞いたものの、首を縦に振る者は無く、それならばと10年前を思い出して気ままな一人旅で津軽三味線を目指すこととなりました。
生徒さんを連れて行くとどうしても要らぬ神経を使うし、運転は一人でちょっと大変ではありますがその分神経を集中できるし良しとしました。

弘前大会(世界大会)は、10年前にミドルCで優勝したので、シニアCには出場出来なくて、上位カテゴリーのB級にしかエントリーすることができません。
B級には2度エントリーしましたが、なかなか若い連中には歯が立たず、2回目のB級戦では演奏中に駒が割れて点数無しというアクシデントがあり、その後くじけて弘前はパスしていました。
数年前、コロナ前の金木大会にシニアで出場して、よされを弾いて大條和雄賞をいただいのが最後でした。

今年は久しぶりに青森大会(日本一決定戦)にエントリーしました。
青森の第3回大会だったかな、まだまだ津軽三味線の習いがけの頃、60歳に達していなかったので、当時のB級に出場しましたが、やはり全く歯が立たずに惨敗した苦い経験のある青森大会です。


5月2日(木曜日)

前日は夜遅くまで頑張って本業を片付けて、4時間ほど睡眠を取った後4時半に起床。
大体の準備は前日に終わっていたので、パパッと身繕いをして5時半に氷見市の自宅を出発、北へ向かいます。

ゴールデンウィークなのですが、2日は一応平日なので仕事の人もいるようで、朝の国道は結構交通量が多くてスイスイとはいきません。
魚津ICから高速に入ります。
朝から良い天気でドライブ日和です。



北陸道、日本海東北道と順調に走りますが、温海温泉から先の高速はトンネルばかりで実に退屈なのです。
天気も良いことだし海岸線を見ながらあえてゆっくりとR7を走ります。
日本海沿いのこのルートは、天気が良ければ月山、鳥海山、岩木山と雄大な山容を眺めながら走ることができるので、目の保養にも鳴ります。




行程の約半分の鶴岡市のコンビニで昼食を仕入れて、象潟の道の駅で昼食にしました。

象潟からは秋田道をひたすら北へ向かいます。
途中、鷹巣あたりで秋田道は一旦途切れていますが、鋭意工事をしていますのであと何年かすれば全通するでしょう。
碇ヶ関から東北道で青森までラストスパート。
青森市のホテル到着は17時半、氷見の自宅を出てからちょうど12時間でした。
その昔15年ほど前でしょうか、一度泊まったことがある青森中央IC近くのビジホです。
大浴場があるのでゆったりと休養できます。
なんとなく記憶に残っていました。


ホテルの窓から見た駐車場


5月3日(金曜日)

シニアの出番は午後からなのですが、10時に受付をして会場入り。
事前チェックでは、ホール地下の駐車場は料金が高いようなので、ホールの向かい側にあるタイムズに車を停めました(これは大正解でした)。
館内と客席の偵察をしますが、その昔一度来ている筈なのに、全く記憶に残っていません。








一夜漬けならぬ一週間漬けで大会に間に合わせてきたので、爪の状態も最悪、左手首は痛くて三味線は左手だけでは持てない状態。
満身創痍とはこのことかと思いながら、直前に弾きすぎても逆効果なので程々に練習します。
若い人ならともかく、シニアで直前にそんな弾いてたら疲れて本番で良いパフォーマンスできないのではと、他人の心配をしながら瞑想にふけるのでした。

エントリーは21人で、私はほぼ真ん中の9番目。
多分前回大会の上位入賞者はシードされて最後のほうになるのでしょうが、10数年ぶりなので関係無しだったようです。
何とか大きなミスも無く弾き終わりましたが、細かいミスは数えきれません。
自己採点は70点ほどでしょうか。
やはり一週間漬けでは自分で満足いく演奏とはほど遠いようです。

青森大会は、演奏終了後すぐに点数が出ます。
それまでは1分ほど司会者のインタビューがあります。
その時点の上位5人がステージに居残りと言うことになります。
何とか1位の椅子に座ることができ、その後はひやひやしながら最後まで何とかステージ上に留まることができました。

最後に弾いた成田建男さんが優勝、私は準優勝をいただきました。
爪や手首のコンディション最悪だったのに、上出来でした。






副賞の青天の霹靂4kg


同じく副賞のお茶・お菓子の詰め合わせ


終了後は、富山から見学(応援?)に来てくださった柴原大先輩、干場さんと合流して祝勝会を兼ねて市内の民謡居酒屋へ。
数年前に大腸憩室炎で入院して以来、アルコール類はめったに飲まなくなりましたが、この日はしっかり飲みました。
楽しい民謡居酒屋さんで、来年もまた来なくてはと誓って店を後にしました。





干場さんの運転でホテルまで送っていただき、落ち着いたところで妻からメールが。
妻の父親が亡くなったということで、4日、5日の予定は全てキャンセルして翌日早朝に帰路につくことになりました。
大会が終わってから知らせが来たのは、きっと義父の心遣いだと思います。

実は4日、5日は、せっかく青森まで来たので無線三昧をして帰る予定で、綿密な計画も立ててあったのですが、そんなこと言ってる場合ではないので、来年再度計画することにしました。


5月4日(土曜日)

早朝5時半にホテルをチェックアウト。
前払いだし、残りの一泊はキャンセルできないので仕方ありません。
また来年来ます。

ひたすら帰るだけなので、寄り道も一切なしで走ります。
この3日間雨が一滴も降りませんでした。
大体どこかで雨に遭うのですが、こんなことも珍しいです。

12時間かけて青森へ向かい、また12時間かけて無事富山まで戻り、亡き義父の顔を見ることができました。
5日が通夜、6日が葬儀で、無事に終了しました。

と、今年のGWは大忙しで終了しました。
また来年頑張って津軽詣をしたいと思います。

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まり子の会でボランティア演奏でした。

2024年04月21日 23時39分09秒 | 民謡・尺八・笛

4月15日(月曜日)

「まり子の会」で、砺波市出町生きがいセンターへボランティア演奏に行って来ました。

最近ほぼ9割は尺八・笛の担当ですが、この日は珍しく三味線担当。
以前は三味線が本職って言っていましたが、最近は誰が見ても尺八が本職のようです。

メンバーは名前の通り、太田まり子さんと、私、そして太鼓の大島さんの3人です。
ぶっつけ本番は危険なので、大島さん宅で簡単に打ち合わせとウォーミングアップをしてから会場へ向かいます。

昨年春にも訪れたセンターで、勝手知ったる場所です。
確か前回は膝の手術後退院してすぐだったような記憶があります。

セットリストは以下の通り。

・秋田大黒舞
・ソーラン節
・ドンパン節
・真室川音頭
・秋田船方節
・じょんから節 旧節~中節~新節(独奏)
・津軽あいや節
・道南口説節
・麦や節
・越中おわら節
・花笠音頭
























ほぼ1時間のステージでした。
普段なかなか弾かせてもらえない三味線を沢山弾いて満足満足です。

終了後はコーヒーとアイスクリームをいただいて帰宅。
楽しい一日でした。

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加賀山昭の会金沢公演でした。

2024年04月21日 22時58分01秒 | 民謡・尺八・笛

4月7日(日曜日)

加賀山昭の会金沢公演に尺八で参加させていただきました。
もう2週間も前のことなのですが、本業が超多忙でなかなかパソコンに向かう時間が作れなくて、今日になってようやく顛末を書く余裕ができました。

以前10年ほど前に一度だけ、富山公演にピンチヒッターで参加したことはありますが、今回は加賀山先生の地元の金沢公演ということで、結構プレッシャーを感じつつも何とか大きなミスも無く無事に舞台を務めてきました。

計40数曲、普段あまり吹いたことが無い曲もあったりで、事前の準備も結構大変でした。
当日は、ファイルに入れていた楽譜に照明が反射して見にくくて、結局ファイルから楽譜を全部取り出したりしてドタバタしました。
タブレットという手もありますが、さすがに本番では万が一と言うことを考えると紙の方が良いのかもしれません。

ゲストは高橋キヨ子さんと、松田隆行さん。
松田隆行さんの南部牛追い唄だけは舞台の合間を見て一度合わせていただきましたが、高橋キヨ子さんの3曲は全くのぶっつけ本番。
プロの先生なら平気で吹くのかもしれませんが、私にしては大変な事で心臓バクバクでした。
無事に何とか終わってほっとしています。
ゲストの先生方の伴奏という貴重な経験をさせていただき、加賀山先生には感謝しかありません。








会場は石川県立音楽堂邦楽ホール。
昨年暮れに別件でマルチホールの方にお邪魔しましたが、邦楽ホールははじめてです。
きれいなホールで気持ちよかったです。

その昔、若い頃に2年ちょっと金沢市民でしたが、金沢駅前近辺もまるで当時と変わってしまって浦島太郎状態。
安全策をとって富山の先輩の皆さんと小矢部SAで待ち合わせて、後に付いて走り会場へ向かいます。
駐車場や、音楽堂の中もいまいち把握できていなかったので、助かりました。

帰りは富山の皆さんと途中で別れて、国道+裏道で帰りました。
疲れましたが大変有意義な一日でした。












松田隆行さん。





私と加賀山昭先生の出会いは、私が35歳の時に遡ります。。
私の義母(妻の母)が三味線を習い始めたという話を聞いて、私も一緒に行きたいと言ってついて行ったのが、加賀山昭家元直門の加賀山昭滋先生の教室でした。
加賀山先生の孫弟子ということになります。

こちらの教室には10数年在籍して、加賀山滋良という雅号もいただきました。
10年ほど経った頃、師匠が加賀山会を脱退されたので、私もそのまま加賀山会を抜けることに。
その後はしばらく師匠に紹介された津軽三味線教室で、津軽にどっぷり浸かっておりました。

津軽三味線にはまってしばらくして、米谷流尺八の先生の元に通って尺八を習いはじめましたが、これが私の民謡人生の転機でした(大袈裟ですが・・・)。
津軽三味線も楽しくて相変わらず頑張っていましたが、元吹奏楽経験者としては尺八も楽しくてだんだんと深みにはまっていきます。

そんな頃尺八の師匠が事故で倒れてしまい、穴の空いたステージへ右も左もわからないペーペーの私が連れ出されることになります。
それから数年、あちこちのイベントを何とかこなせるようになった頃に、加賀山先生の富山公演の尺八のピンチヒッターで呼ばれたのでした。
その後、ありがたいことに加賀山先生の故郷、珠洲市民謡会の公演にも尺八でお願いされたりで、今回に至っております。


6月16日には加賀山昭の会富山公演にも尺八で参加します。
今度は富山県民会館、また頑張って来ます。
北日本民謡の予選大会と重なりますが、お暇な方は是非どうぞ。


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モービルアンテナ調整

2024年03月15日 11時34分49秒 | アマチュア無線
先月購入していたダイヤモンド社のモービルホイップ2本。
ずっと多忙だったり、天気が悪かったりで調整している暇が無かったのですが、昨日午後からちょっと余裕が出来たので、ちゃちゃっと調整しました。






このモービルホイップ、7MHz帯と28MHz帯の2本です。
長さが約1mと短いので遠出の時など常時取り付けていても良いかなと思い、また限定発売という文句に釣られたのもあります。

移動時は基本7MHzはCWしか出ないので7010KHz付近、28MHzはFMの周波数帯29.020MHz辺りに定めて作業開始。

まずは7MHzから。
ディフォルトで共振点がどこにあるかを測定します。



7180kHzでした。
移動でSSBに出る事はまず無いので、上部エレメントを目一杯伸ばしてみました。



7003kHzまで下がりました。
これでも大丈夫なのですが、もう少しだけ上にしたいので少しだけ戻してみました。



液晶の文字が消えて写っていますが、7010kHzで共振しましたので、とりあえずこれで良しとします。
エレメントにはマジックでマークしておきました。
ただ、上部エレメントを最も伸ばした状態で固定してあります。本来なら上部エレメントを最も縮めた状態で共振するようにしたいのですが、しばらく使ってみて使い勝手が良ければ予備のエレメントを使って再加工したいと思います。

これで7MHzは終了、28MHzに移ります。


まずはディフォルトで測定。



28.622MHzでした。
今度はエレメントをカットしていきます。
ステンレスはニッパー等では切れないので、本業で使っている機材でカットします。
1cm/180kHzと説明書に書いてありますが、過信して切りすぎたことがあるので控えめにカットしていきます。



28.978MHzまで来ました。
もう少し詰めていきます。



29.026MHzまで来ました。
最後の詰めで2ミリほどカットします。



29.178MHzになりましたので、これで良しとします。
上部エレメントを最も縮めた状態で固定できるので、これがベストです。


これで、2本の調整が終了。
29MHzFMはこれからの季節、モービル移動時にハイバンドのコンディション把握にちょうど良いので、活用したいと思います。

カットしたエレメントはこれだけ。






左のモービルホイップは、故JR9JVCからいただいた24MHz帯に改造したアンテナです。
共振点をもう少し下げたいので上部エレメントをもう少し伸ばしたいのですが、これが目一杯。
予備のエレメントを使って後日作業をする予定。




後は実践でどれだけ飛んでくれるかですね。
またレポートしたいと思います。
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市内の中学校へアウトリーチ授業に行って来ました。

2024年03月15日 00時07分33秒 | kazahana
3月1日(金曜日)

kazahanaの二人で市内の義務教育学校へアウトリーチ授業に行って来ました。

この学校の今年度のアウトリーチでは、kazahanaの箏・尺八の演奏に加えて、尺八の吹奏体験もやって欲しいと言われましたので、従来10本所有していた教材用の樹脂製の尺八「なる八くんLight」をさらに10本増備して授業に臨みました。













メニューは以下の通り。

・春の海
・さくら~祈り
・六段の調べ
・尺八吹奏体験
・ツバメ
・アイドル

尺八吹奏体験は20分。
7年生17名の生徒さんと、担任の先生、音楽の先生の計19名に体験していただきました。
過去の経験から、今回資料を若干改訂して持参して、説明も少し変えてみました。






実質15分ほどの体験でしたが、ほぼ8割の生徒さんが音を出せるようになり、大成功でした。
実は音が出るようになってからの方がいろいろと大変なのですが、世の中では尺八は音を出すのが難しいというのが定説になっているようなので、これで良しとしておきましょう。
これがきっかけで、大学の邦楽サークル等で尺八をやってみようと思う生徒さんがいれば良いのですが。

ツバメの途中で竹の尺八からメタル尺八に変えて吹いてみましたが、もっと全然違った音がすると思われていたようで、意外だったようです。
多分音だけ聞いているとわからないと思います。

アイドルはまたしても爆速で指がついていきませんでした・・・涙。

今年度のアウトリーチはこの学校だけでした。
前年度はもっとお声がかかったのですが、、、
学校の意向もありますので何とも言えませんが、もっと声をかけてもらいたいなと思います。

教材用の「なる八くんLight」は1尺6寸、1尺8寸管合わせて20本ありますので、授業やイベントに使いたいという方がいらっしゃいましたら無料で貸し出します。
お気軽に問い合わせください。

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にゃんた君が虹の橋を渡っていきました。

2024年03月14日 23時11分08秒 | ネコ
我が家のボス、にゃんた君が虹の橋を渡っていきました。
16歳8ヶ月、精一杯長生きしてくれました。







きっと橋の向こうには、沢山遊んでくれたお姉さん達、先に逝ってしまった妹たちが待っていることと思います。

にゃんた君は、2007年10月に義妹からの話で引き取ることになりました。
射水市の県民公園新港の森で保護されたそうです。
捨てられたのか、迷子になったのかわかりませんが、茂みの中で泣き叫んでいたらしいです。


ちょうどその頃のブログです。

新入りネコ

新入りネコその後

猿も木から落ちる~にゃんた骨折

にゃんたその後



にゃんた君が我が家に来たときには、チビ、もも、あずという3匹のお姉さん達がいて、すぐに仲良くなって沢山遊んでもらえました。

その後、マナ、カナ、ヒマ、きなこ、ミカと5匹の妹達が加わり大家族となりましたが、男の子はにゃんた君だけで、まるでハーレム状態でした。
マナ、カナ、きなこ、ヒマの4匹は残念ながら病気で若くして亡くなってしまいましたが、結局チビ以下8匹の姉妹たちと過ごしたことになります。

最大7匹が暮らしていた我が家の猫たちも、ミカ一匹だけになり寂しくなりました。
私たちも歳なので、今から新たにネコを飼うと老後に面倒を見ることが出来なくなるので、ミカが最後かなと思っています。


我が家の家族になった頃のにゃんた












2歳年上のあずと一緒に





6歳年上のももと一緒に



我が家の慣例で、四十九日まではリビングのテーブルの上で一緒です。



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