いとこのこと。
私の大好きだった新潟の従兄弟が、今年7月に73歳の若さで他界しました。
悪性の骨のガンだったそうで、5月に検査入院して1ヶ月の間検査漬け、6月に病名がわかり、7月に他界とあっという間の2ヶ月だったそうです。
奥様は現実を受け入れることが出来ずにかなり苦しまれたようです。
私が57歳になる今日まで生きてきて、彼ほど私の人生に影響を与えてくれた人はいません。
一回り以上も年上のいとこでしたが、私にとっては実の兄よりも親しく、また尊敬する人でした。
ここ10年ほどは、お互いに津軽三味線の魅力に取り憑かれて、そしてまたお互いに刺激を与えながら、バカみたいに津軽三味線を弾いていました。
本当に偶然なのですが、というか何かの力が引き寄せたのかもしれませんけど、お互いバリバリの木田流の津軽三味線を弾いていました。
彼は新潟の故木田林松次先生の孫弟子。
私はというと石川の木田貫松栄先生の孫弟子です。
特に示し合わせたわけでもないのに、何故かほぼ同時期に木田流の門下生になっていました。
そして7月はじめの土曜日。
毎週末は芸能活動で飛び回っていて、しっかり休んでおかなければならない金曜日の夜なのに、いつもはお休み3秒の私が何故か寝付きが悪くて明け方まで眠れずに悶々としていました。
どうやらその時間に亡くなっていたようで、250キロ離れたわが家まで様子を見に来ていたようです。
実は私はその週末ずっと不在でして、週明けの月曜の朝に彼の奥様から電話があり、実は彼が亡くなったとのこと。
今から告別式なので、少し落ち着いて涼しくなった頃にでもお参りに来て欲しい、との話でした。
どうも、次男で分家の私の所は連絡網から外れていたようで、残念ながら知る由もなかったようです。
彼が私の人生に与えた影響はというと、私が小学生の頃に遡ります。
彼は当時「キングオブホビー」と言われていたアマチュア無線をやっていました。
車にも無線機を取り付けて、そりゃぁもう私にとって「かっこいい!」の一言でした。
すぐに書店で参考書と問題集を買ってきて猛勉強したわけです。
中学校1年生の時に、親には内緒で電話級アマチュア無線技師の試験を受けるべく願書も出したのですが、ちょうどその試験当日に学校の行事と重なってしまい、親に相談したのですが当然の如く却下、残念ながら不戦敗でした。
結局社会人になって自分の甲斐性で試験を受けてアマチュア無線を始めたのは23歳の時でしたが、それからは結構長い間無線にのめり込んでいました。
次に影響を受けたのがやはり同じ頃のこと。
彼の家へ行くと、クラシックギターを得意そうに弾いていました。
これがまた超格好良くて、自宅へ戻ってから親戚にお願いして古いクラシックギターを譲り受け、クラシックのギター小僧となったわけです。
当時エレキギター、フォークギターは大流行していましたが、クラシックギターは超マイナーな存在でした。
でもクラシックギターをやっていたおかげで、五線譜もすらすら読めるようになったし、エレキ・フォークも苦なく弾くことが出来ました。
振り返ってみれば私の音楽的な趣味のルーツはここにあるようで、高校以降の吹奏楽、そして現在の津軽三味線、笛・尺八に至るまで彼の影響が続いているようです。
奥様の気持もようやく平穏な日常に戻りつつある様子だったので、10月のはじめに家内と新潟の彼の家へ行ってきました。
お骨は四十九日を過ぎても納骨する気になれないとのことで、まだ祭壇に置かれていました。
彼が愛用していた三味線を私に引き取って欲しいと言うことでしたので、とりあえずケースを開けてみると、入院した5月から半年の間破けることなく良い状態を保っていました。
もしや皮が破けていた場合を想定して自分の1号機を持っていっていたのですが、無事だった彼の愛用1号三味線で、祭壇の前で遺影に語りかけながら20分ほど弾いてきました。
入院してからたった2ヶ月で帰らぬ人となってしまって、それも本人にはガンの告知はしてなかったそうで、きっと今もそんな筈ではなかったと、津軽三味線のことを考えて時々富山にも来ているような気がします。
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1号三味線
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2号練習用三味線
葬儀の際、奥様はこの三味線を棺に入れてくれと懇願されたそうですが、規則でだめだと言われて泣く泣く諦めたそうです。
三味線の他にも、沢山のCD、そして彼が採譜して書き記した沢山の楽譜があるのです。
私がLPレコードやオーディオテープなどからCDにデジタル化して送った音源を、彼は朝から晩までコツコツと採譜作業をして手書きで書いた楽譜です。
実に膨大な量の楽譜ですが、民謡に興味のない奥様にしてみればゴミ同然のもの。
捨てられては大損失なので、とりあえずは全部私が引き取ってきました。
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これが全部彼の手書きの楽譜です。
これからの私の作業は、ライフワークとしてこの膨大な楽譜をしっかりと分類して、出来れば少しずつデジタル化することです。
何だか大変な宿題を残してくれたようですが、これも彼の残した財産ですのでしっかりと整理していきたいと思います。
ここに来ても学生時代にしっかり宿題をやらなかったツケが回ってきているようです。
津軽だけではなくて、演歌や懐メロなんかも三味線アレンジした楽譜が沢山あるので、老人ホームのボランティアなんかにも有効に使えそうです。
彼の家を訪ねてから1週間後、津軽三味線の神戸大会がありました。
生前、津軽三味線の全国大会に出よう!と何度も彼を誘ったのですが、シャイな彼は決して頭を縦に振ることはありませんでした。
そんな彼の三味線をあちこちの大会に連れて行ってやろうと思い、神戸大会には彼の三味線を持っていきました。
何だか彼の分身のような気がして、いろいろと話しかけたりしながらの神戸遠征でした。
結果は以前の日記にも書いたとおり壮年の部3位。
きっと彼の力もあったのではないかと思います。
12月の大阪大会にも彼の三味線を連れて行ってあげようと思います。
来年5月の弘前も連れて行ってあげようと思います。