三味三昧 笛三昧

津軽三味線奏者、笛・尺八奏者、たまに胡弓奏者、なぜかアマ無線家
音楽好き趣味三昧人間「くまりん」のお気楽日記です

自己紹介文を作ってみました。

2024年07月10日 16時41分36秒 | しょーもない徒然日記

入院生活は3週間目に突入しました。連休明けの来週からはようやく体重をかけてのリハビリが開始します。もう2週間ぐらいかな、頑張ります。

入院前に、所属しているKCJ(全国CW同好会)の副会長さんから、会報に載せる自己紹介文を書いてくれという依頼がありました。暇な息災病人ですので先日からせっせと書いてみました。会報に掲載されるのは2~3ヶ月後ですが一足早く自分のブログに画像なしのバージョンをアップします。会報にはこれに画像を数枚加えて文章ももう少し推敲したものになります。



KCJ会員紹介コーナー原稿

                            JH9CDZ

1.アマチュア無線編

 小学校5年生の時だったと記憶しています。新潟在住の父方の従兄(15歳上)が富山の片田舎の我が家へ遊びに来ました。車に長いモービルホイップをつけて、車内にはトランシーバーがセットされて、自宅前から見知らぬ人と楽しそうに話しているのを目撃したのがあまりにも衝撃的でそれが私の無線の原点です。

この従兄が近くに住んでいれば私の無線人生もかなり速くにスタートしていたと思いますが彼は250キロも離れた新潟県、インターネットなんてない昭和の時代、どうしたら無線を始めることができるのか、小学生なりに考えた結果が当時流行っていた通信教育でした。どうやってその教材費を工面したのか記憶にありませんが、多分祖母に嘘をついて出してもらったのでは無いかと思います。
無線をやりたい一心で一生懸命に勉強して国家試験の願書まで出したのですが、私の住んでいた富山の片田舎から国試の行われる石川県金沢市まで行くのは大変なことで、おまけに試験当日が小学校の行事と重なったもので、大正生まれで戦争帰りの超頑固親父を説得するすべも無く、学業第一だと頭ごなしに言われて泣く泣く諦めました。おまけにどこから聞いてきたのか、大体そんな金のかかる趣味は自分で金を稼ぐようになってからやるものだと一喝されて、小熊少年の夢ははかなく消え失せたのでした。

 時は流れて約10年後、某専門学校時代に隣の机に座っていた同級生がなんとバリバリのアマチュア無線家だったのです。ずっとくすぶっていた私の無線への情熱が当然の如く再燃しました。
専門学校卒業して就職後に勉強再開、講習会なんて便利な制度があるなんて事も知らないし、とりあえずは問題集をさらって国試に望みました。1979年に晴れて電話級アマチュア無線技士取得、翌年開局。貧乏な社会人一年生ゆえ、前述の同級生から安価で譲り受けたTR7500GⅡ1台のみでの開局でした。これでも十分楽しめました。
翌年前述の同級生が1アマを受けるというので、ならば自分は2アマへと闘志を燃やし、まずはモールスを覚えると事だと言われて欧文モールスの練習用テープをダビングしてもらい、ついでにともらった和文モールスのテープもすり切れるほど聞いて練習しました。開局の翌年2アマ合格、1アマの無線通信術も科目合格。しかしその後超ブラック業界の常で仕事に忙殺されてなかなか1アマの無線工学の勉強が進まず、頭の柔軟なうちに受験しておくべきだったと後悔しています。それでも若い頃に覚えた和文もほぼ完璧に記憶していますので、頑張って練習した甲斐があったと思っています。
話はそれますが、小学生時代の小熊少年にあれほど反対した超頑固親父ですが、私が和文モールスの受信練習をしているのを見て、実は戦争中通信兵で満州へ行っていたのだと語り出しました。戦争中のことは全く口にしたことの無い親父が、「イトー」「ハーモニカ」って覚えたもんだ、とポツリと言ったのを覚えています。
友人もいない見知らぬ石川金沢の地で就職、開局したのですが、アマチュア無線のおかげで友人も沢山できました。KCJのJA9CZJ松盛さんもその頃からの知人で、貧乏生活の我が家に冷蔵庫をお下がりでいただいたり、移動運用に誘っていただいたりと大変お世話になりました。

 年は流れて1987年、楽しかった石川県を離れて富山へ戻ります。当然アンテナもすべて撤去して引っ越したので、しばらくは開局当時と同じVUのGP一本という寂しい環境になりました。これを打開するのに移動運用を始めたのはこの頃です。立山山頂から50MHzの4エレHB9CVで夜通し運用したのも良い思い出です。また当時流行っていたパケット通信にのめり込んだのもこの頃です。
パケット通信をやるようになり、ちょうど時を同じくしてインターネットが盛んになり、確実にアマチュア無線のアクティビティは下がっていき、年間交信数が一桁という年も。
開局当時にアクティブだった友人もほとんど無線から去り、自分はというとなんとか免許を継続しているだけのような仮死状態になっていた2014年、JA9CZJ松盛さんから突然の電話が。8J9VLP(QRPデー特別記念局)を運用したいので、協力してくれないかとのこと。冷蔵庫の恩義ではありませんが二つ返事で受諾。VLP(Very Low Power)なので当然CWでの運用が主、この日から心機一転頑張ってCWの耳慣らしのリハビリを開始、パイルに耳がついていくように移動運用も再開しました。某OMに言われてパドルの左手打ちにも挑戦して何とか矯正しました。以来10年間毎年8J9VLPの運用を続けています。


2.音楽芸能編

小学生の小熊少年の無線への夢が一旦途絶えた頃、母方の叔父から古いクラシックギターを貰いました。中学校へ入った頃、無線の時と同じく当時流行っていた通信教育で勉強開始。他にすることと言ったらラジオの深夜放送を聞くぐらいしかないのでみるみる上達、
しかしやはり戦争帰りの超頑固親父は音楽にも理解を示すこと無く、新しいギターを買ってくれる筈もありませんでした。高校は吹奏楽部に入り、ホルン漬けの日々を送ります。
専門学校時代は一旦音楽は中断しましたが、就職後は市民バンドに入ってホルン吹きに戻り35歳まで続けました。
ちょうど市民バンドを退団した頃、義母(嫁の母)が民謡三味線を習うというので一緒について行くことに、加賀山流民謡教室でした。ちょうど民謡全盛期に陰りが見え始めた頃ですが、これが私の民謡の第一歩となりました。
その当時の師匠の元で研鑽をして15年ほど経った頃、師匠の勧めで津軽三味線の先生の元へ通い始めます。何故かこれが大いにハマってしまい、翌年から毎年GWに青森で行われる津軽三味線の大会へ通うようになりました。元来ハマったらとことんまでやるタイプ、当初は全くかすりもしなかったのですが、そのうち入賞できるようになり、2014年には津軽三味線世界大会のミドルC級(40~59歳)で優勝することができました。最近は指導者に徹していますが、今でもGWの青森通いだけは継続していて、移動中や青森滞在中には無線の運用も楽しんだりしています。
 津軽三味線の傍ら、2002年から米谷流の民謡尺八の教室に通い始めて、昨年師範に昇格しました。一時期大ブームだった尺八も奏者の数は10年ほど前の統計では全国にわずか数千人、この尺八人口の中でも民謡尺八奏者はその約1割程度と言われています。その1割の民謡尺八奏者も高齢化で激減していて、我が富山県では68歳の私がなんと現役民謡尺八奏者最年少なのです。少年時代からの音楽経験が功を奏したのか、はたまた街で一番の三味線の名手だったという祖母のDNAを受け継いだのかはわかりませんが、最近では津軽三味線に尺八にとステージに追われて忙しい日々を過ごしています。

3.これから

CWでの移動運用の楽しさにハマったコロナ禍前の2019年頃から、何か継続性のある目標を持ってアマチュア無線を楽しみたいと考え、多くの選択肢の中から選んだのが「アウト・ドア賞」です。毎月1回以上移動して50局以上と交信して、それを1年間続けると取得できる賞で、これを2年、3年・・・と継続すると2年賞、3年賞・・・が交付されます。今年春には「アウト・ドア賞5年賞」をゲットしました。大体近隣の市町村は行き尽くしましたので、これからは隣接の県へ遠征しようといろいろ計画を練っています。またGWに通っている青森県の市町村からも継続して運用したいと考えています。アウト・ドア賞10年賞以上をゲットしていらっしゃるOMさんもいらっしゃいます、その後ろ姿を追って体の続く限り移動運用を楽しみたいと思います。

他人から「そんなに2足も3足も草鞋を履いてよくやってるね」と言われますが、若い頃から限られた時間をやり繰りして好きなことを続けるのが私のモットー、これからも仕事の合間を見て体の続く限りアマチュア無線も音楽芸能活動も頑張りたいと思っています。

                              おわり
コメント (2)
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入院2週間です。

2024年07月09日 19時00分08秒 | しょーもない徒然日記
今日で入院2週間、手術から13日です。
リハビリが長くて、あと2週間程度の予定です。

この4人部屋ではいろんな人間模様があります。
人ごとだと笑い話のように思えるでしょうが実は当事者は大変なのです。
あまりにも気が散って本もまともに読めません。
ほんとうに看護師さんたちは我慢して笑顔を絶やさないでいるのには感動します。

その1
「便出た」「便ほじって」「お茶買ってきて」「テレビカード買ってきて」「お茶入れて」「イヤホン落ちた」「電気消して」「たすけて~」・・・・・・と言って一日に何十回もナースコールする爺さん。すぐに看護師が来ないと延々とナースコールを繰り返してます。

その2
明日手術だから大丈夫だろうと言って、面会時間が終了してもずっと大声でしゃべっている老夫婦。4人部屋って事わかってるのかな~

その3
やたらと若い看護師さんに媚びを売ってイチャイチャしている爺さん。
これは全員に言えます。
逆に媚びも売らずに淡々と受け答えしてる私の方が少数派なのかも。

その4
なすびと大根が嫌いなので食事には入れないでほしいと、無理な注文をする爺さん。
それはできませんと看護師に言われてもなかなか諦めませんでした。

その5
これは病室ではありませんが、車椅子用トイレが使用中では無かったので勢いよく扉を開けたら、用を足しているおっさんが・・・。
ごめんなさいと言って外で待機していたら、一言もなしで睨み付けて出て行かれました。
鍵かけないで用たしてるほうが悪いんだろうよ、と思いましたが諍いを起こしても仕方ないので、再びごめんなさいと言っておきました。なんか一言言えよ!

てな感じで、いろいろありすぎです。
歳を重ねると我が儘でどうしようもなくなるようです。

かくいう私も、カタカタとキーボード叩いてばかりでうるさいやつだ、と思われていること必至です。

抜糸も済んで、外反母趾の矯正手術の後、元に戻らないように装具をして過ごしています。
足関節固定術の所はいまだに痛みが残っています。

あと2週間弱、頑張ります。

今日は画像なし、あしからず。
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入院中

2024年07月05日 19時59分00秒 | しょーもない徒然日記

昨年に続いて今年も足の手術のため入院中です。
6月25日に手術をして、10日が経過しました。
若い人で早ければ術後3週間ほどで退院できるようですが、もう高齢者だし4~5週間かなと考えています。

昨年は右膝の人工関節置換手術でしたが、今回は左足関節変形症の固定手術と外反母趾の矯正手術です。
これで痛い痛い手術も完結の予定ですが、どうなりますか?

最初に右足関節変形症で固定手術をしたのが2016年。
その時に左足関節変形症も進行しているので、そのうち手術しないといけないだろうと言われていました。
その矢先に何が原因か右膝が悲鳴を上げたので、医師の話では体の中心に近い方から順に手術しないといけないとかで、昨年春は右膝の人工関節置換手術でした。

今年春に右膝人工関節置換から1年目の定期検診の時に、医師から、次は左足関節と言われて主治医も専門の医師にバトンタッチされ今回の手術になりました。
ついでに、年々酷くなっていた外反母趾の矯正手術も併せて行うこととなりました。

大体何で両足の足関節(足首)の変形症になったのかというと、思い当たることがいくつかあります。
まずは足関節を最初に捻挫したのが高校の体育の授業の時、その後何度も同じ所を捻挫するようになり、20代から登山を始めたのですが、山でも何度か捻挫しています。
両足ともに捻挫するのが癖になって来たようだ、でもたいしたことは無いだろうと、せいぜい行っても接骨院ぐらいでお茶を濁していたのが原因です。しっかり整形外科で診察してもらって治療していれば、と今頃になって思っても後の祭りです。
最初に診てもらった隣町の整形外科の院長に、「左右ともに靱帯がほとんど残っていなくてぶらぶらな状態なので、早めに手術しないと歩けなくなるよ」と言われて今の病院を紹介され、最初の手術が2016年でした。

若いときの怪我は大丈夫と思うことなかれ、しっかり治しておかないとこうなるよという見本です。
特に若い頃スポーツをやっていた方、お気をつけください。

今回レントゲン写真をいただきました。
左足関節をプレートとボルトで固定してあります。



昨年の入院では4週間全く空を見ることができない廊下側の場所だったので、入院中ずっと気分が重いままでした。
今回の入院も4人部屋ですが、入院時に「できれば窓側で」という希望を出したので、今回は「わずか」に空が見える窓側になりました。
全く見えないよりは遙かにマシです。




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