パリ在住の画家早川俊二氏の作品が「月刊美術」12月号にカラーで大きく紹介されている。
私も2009年春にウェッブ上のシカゴ発の情報誌「US新聞」で彼の個展を詳しく紹介したが、そのときの大作の一つ「まどろむAmely-2」(120×120cm 油彩 カンバス 2008年)が1ページにわたってでている。
「信念の画家たち 一生付き合いたい油絵」という特集の中で、15人の画家たちの冒頭に「早川俊二 東洋の精神で挑む求道者の絵画」と称して、記事の中に早川氏のインタビューコメントも大きくでているので、下記に紹介する。
「油絵はセザンヌやゴッホを最後の頂点としてそこから先は衰退していると感じます。平面絵画の本質へ向かったセザンヌの世界を、後の画家たちが部分どりをして拡散し、混乱の中で絵画の原点を見失い、分かりにくいものにしてしまった。特に50年代以降のアメリカの絵画は商業主義の中で花開いた分、軽い。このことはまた、モードに流されては絵画の本質に辿りつけないことも示しています。」(「月刊美術」2011年12月号 p69より)
「西洋の600年で達成した油絵ではないものを生み出す可能性は東洋人にこそある。出来る出来ないではなく、やるしかない、そう信じています」(「月刊美術」2011年12月号 p69より)
この稀有な画家の言葉に早川絵画の原点が集約されている。
記事の下には、早川絵画ではおなじみの白と青の「青い小鳥の碗 油彩、カンパス 2010年」(22×27cm)という小さな静物画が右のページの人物画と対比するかのように紹介されている。
青い小鳥の碗 22×27cm 油彩 カンバス2010年
120×120cmの大きさの人物画よりずっと小さいのに、宇宙空間にふわりと抜け出たかのような存在感のある世界が広がる。
この「青い小鳥の碗」の写真は、「月刊美術」の写真と色が違って見えるが同じ作品。(この写真は早川氏より入手)
上記の「まどろむAmely」は、遠いかなたにいるかのようで手が届かないかと思えば、フラッシュバックのように我々の目の前にふっとあらわれ、眼前にそのまどろむ表情が刻まれる。
早川絵画のミステリアスで魅惑的な世界に引き込まれる瞬間だ。
2008年の早川氏の個展をのがされた方は、この「月刊美術」12月号でしばしの快楽を!
私も2009年春にウェッブ上のシカゴ発の情報誌「US新聞」で彼の個展を詳しく紹介したが、そのときの大作の一つ「まどろむAmely-2」(120×120cm 油彩 カンバス 2008年)が1ページにわたってでている。
「信念の画家たち 一生付き合いたい油絵」という特集の中で、15人の画家たちの冒頭に「早川俊二 東洋の精神で挑む求道者の絵画」と称して、記事の中に早川氏のインタビューコメントも大きくでているので、下記に紹介する。
「油絵はセザンヌやゴッホを最後の頂点としてそこから先は衰退していると感じます。平面絵画の本質へ向かったセザンヌの世界を、後の画家たちが部分どりをして拡散し、混乱の中で絵画の原点を見失い、分かりにくいものにしてしまった。特に50年代以降のアメリカの絵画は商業主義の中で花開いた分、軽い。このことはまた、モードに流されては絵画の本質に辿りつけないことも示しています。」(「月刊美術」2011年12月号 p69より)
「西洋の600年で達成した油絵ではないものを生み出す可能性は東洋人にこそある。出来る出来ないではなく、やるしかない、そう信じています」(「月刊美術」2011年12月号 p69より)
この稀有な画家の言葉に早川絵画の原点が集約されている。
記事の下には、早川絵画ではおなじみの白と青の「青い小鳥の碗 油彩、カンパス 2010年」(22×27cm)という小さな静物画が右のページの人物画と対比するかのように紹介されている。
青い小鳥の碗 22×27cm 油彩 カンバス2010年
120×120cmの大きさの人物画よりずっと小さいのに、宇宙空間にふわりと抜け出たかのような存在感のある世界が広がる。
この「青い小鳥の碗」の写真は、「月刊美術」の写真と色が違って見えるが同じ作品。(この写真は早川氏より入手)
上記の「まどろむAmely」は、遠いかなたにいるかのようで手が届かないかと思えば、フラッシュバックのように我々の目の前にふっとあらわれ、眼前にそのまどろむ表情が刻まれる。
早川絵画のミステリアスで魅惑的な世界に引き込まれる瞬間だ。
2008年の早川氏の個展をのがされた方は、この「月刊美術」12月号でしばしの快楽を!
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