九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

紀伊国田仲荘 と 楠本(村)河辺

2024-03-21 | 後藤氏
武蔵国河越荘河辺郷の情報はほとんど出てこないので、違う角度から考察をしてみようと思う。

佐藤氏の中の清兼であったならば、田仲荘付近にあるのではないか?と。(それがあったのである。全国的に河辺(川辺)という地名は多い。)

田仲荘(コトバンクより)
紀伊国那賀郡(現和歌山県紀の川市,旧打田町・旧桃山町)の荘園。11世紀の成立と推定される摂関家領荘園で,1110年(天永1)藤原忠実(ただざね)によって得分(とくぶん)の一部が日吉神社の法華八講料にあてられている。鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。12世紀後半の56年(保元1)以降,紀ノ川南岸の耕地をめぐって荒川荘との間に激しい堺相論が起こった。田仲荘の預所佐藤仲清・能清父子が平家の威勢を背景に押領を企てたためであるが,彼らの行動は鎌倉幕府に支持されず,紛争は86年(文治2)をもって終息した。なお《尊卑分脈》の記述を信じれば,仲清の弟は歌人として著名な西行(さいぎよう)(俗名佐藤義清)である。鎌倉時代には田中氏を称する武士がおり,湯浅党の一員となっている。室町時代にも荒川荘との紛争がみられるが,これは紀ノ川以南にあった田仲荘の入会(いりあい)権をめぐって起こったものらしい。
執筆者:小山 靖憲
田仲荘 ↓

*****


楠本村 地名に「川辺」の名がみえる。





和歌山県河辺村(コトバンクより)

和歌山市川辺
名草郡に属し、楠本村の東にある。東は那賀郡岩出庄の諸村(現岩出町)。南は紀ノ川が流れる。岩出庄北方山中より流れる住吉川が村の東を流れて郡界をなし、さらに西南に流れて永穂村境で紀ノ川に合流する。北方の雄ノ山峠を越えて当村に入った街道は、一方は南下して川を渡り、吐前村よりさらに南下する中世以来の熊野街道となり、一方は西に永穂村・小豆島村を経て川を渡り、城下に至る大坂街道となる。
川辺は、古代から中世にかけては、当地のほか楠本・神波・上野一帯も含む地域の称であった。国衙領田井郷の内であったと考えられる。
 



佐藤の田仲荘の近くの楠本村の中の河辺か?
那賀郡でもあり、ながかわべ清兼であったか?

いろいろな可能性がありすぎて、どれが本当かはわからないが、、、

*****

名草郡 田井荘 川邊村 川辺王子 

「この八王子社は熊野御幸記に記載されている川邊王子とされる。」とある。

それを読んだ時に、武蔵少掾となった清兼が「八王子」の名付け親であるかもしれないと妄想が膨らむのであった。
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後藤基清の子孫 二人の【もとあき】

2020-12-19 | 後藤氏

後藤基清の子孫
後藤基清
息四人  基成、基綱、基重、太田基連

以前同一人物かどうかを悩んでいたのが【基明】と【基顕】。この二人は別人であった。


基明の方の系は
基清ー基綱ー基隆ー基秀―基明

基明ー覚曇ー但馬前司ー因幡守ー…と続く。(姓氏と家系第24号参照)

後藤三郎左衛門尉基明 (姓氏と家系第24号参照)
近江後藤氏の祖は「勢州軍記」によれば、播磨国の住人「後藤三郎左門尉基明」とされる。

覚曇は「後藤左衛門入道覚曇」
永徳元年(1381年)東寺百合文書に山内代として「沙弥○○」とあり、端裏書に「後藤さ衛門入道覚曇」とある。

但馬前司は「後藤但馬前司」永田左衛門四郎政国の娘がこの人物に嫁いでいる。

…となっている。
===*===

下記の系図では、
基清ー基綱ー基隆・基政 

基政の養子に出雲佐々木の泰清の六男基顕(後藤六郎左衛門)となる。
基顕の息は、顕清・基貞・顕貞 となっている。

そしてこの系図では上記の「基明」の方は、作州の三星城主となっていく系である。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-tou-goto.html

===*===

基顕 基明 同一人物ではないようなのだが、両人とも近江国とのつながりがありそうである。
基顕は1240年代から1250年代くらいに生まれたと思われ、基明の方はひと世代後
であるが、生きた時代は重なっていると思う。





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後藤四郎兵衛家・後藤勘兵衛家

2020-02-09 | 後藤氏


後藤家は室町時代の祐乗(永正九年没、通称四郎兵衛尉)を初代とする金工の家である。美濃彫から出て、刀剣の装身具である目貫・笄・小柄の、いわゆる三所物を得意とし、その風は御家彫と称され、市中工人の手になる町彫と区別された。

祐乗をはじめとする歴代当主ならびに一族・一門の者は、足利・織田・豊臣・徳川の諸氏や加賀前田氏などの権力者に用いられ、彼らの注文に応じて刀装具を製作することが多かった。

江戸時代の後藤家は、江戸の四郎兵衛家と京都の勘兵衛家とに二大分立して、金工のみならず大判の鋳造分銅の製作などで幕府に重用された。
金座を開いた後藤庄三郎は当後藤家の弟子筋の家柄である。

【後藤庄三郎】
徳川幕府の金座頭人後藤庄三郎家の初代。元亀二年生る。五代後藤徳乗の養子となり、文禄二年豊臣秀吉の命により徳川家康に附属せられ、江戸に下って金銀改役となり、貨幣の鋳造に従事。のち、家康の家臣となり、金座頭人。また銀座をも支配。一方、長崎貿易等の支配にも関係した。寛永二年没。年五十五。 後藤庄三郎由緒書







この庄三郎が「大江親広」の後裔という事になっている!(広元の弟が親広になっている。。。?)


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後藤実基の父「後藤実遠」

2020-02-05 | 後藤氏

以前書いた自分の記事だが…

藤原実遠の後室として入ったのが真野宗連の先妻でもあった「妙勝」。
つまり上記の藤原実遠の息である「後藤実基」の母か継母となる人物が、真野氏に嫁いでいたことがある女性であった、という事になる。…(ココは間違っている!)
妙勝とつながりのある「実遠」は 西園寺実遠です。 すみません。
[ 永享6(1434)年 ~ 明応4年11月25日(ユリウス暦:1495年12月11日) ]

その妙勝の所領は、巡り巡って真野宗明が譲り受けることとなる。(ここは合っている)

===*===

私が探しているのは、基清の祖父にあたる「実遠」である。(血は繋がっていない可能性が高いが)

web情報では
佐藤公広(佐藤公郷の四男。後藤則明の養子)ー実信(白河院武者所)─実遠(左衛門尉)─実基(兵衛門尉)-基清(播磨守護)

千葉氏のHPによると「安達氏」のページに
「大治5(1131)年12月2日、「女院熊野詣御門出」に際して列した鳥羽院武者所に属する「侍」として「兼仲、為雅、頼倫、国政、実信、遠兼」が見え(『中右記』大治五年十二月二日条)、「国政」は摂津源氏頼綱の子・源国政、「実信」は秀郷流藤原氏の後藤実信、そして「遠兼」は足立遠兼の可能性があるか。」
とある。
この実信の息となる「実遠」はずである。


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後藤氏周辺(2) 後藤氏と三善氏 の関係 そして 近藤氏とのつながり

2020-02-04 | 後藤氏

後藤基清の養父であった後藤実基は、(wikipedia)

藤原北家秀郷流の流れを汲む北面武士・藤原実遠の子として誕生。

京において源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長男・義平に従軍する。乱の後の動向は明確ではないが、『平治物語』によると京において義朝の娘・坊門姫(後に一条能保室となる)を養育したとされる。

治承4年(1180年)に義朝の遺児・頼朝が挙兵すると、養子・基清と共にその麾下に参加。平家追討の戦いでは源義経軍に加わり、屋島の戦いに際しては、平家軍が海上に逃れた後にその城塞を焼き払い、反撃意欲を絶つという活躍を見せている。

相模三浦一族とその周辺史 鈴木かほる著 にも言及がある。
この本の系図によると「一条能保室」となった坊門姫は「頼朝」と同じ母親=熱田神宮娘の由良御前となる。
https://books.google.co.jp/books?id=MFJI9SU6RaAC&pg=PA55&dq=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AE%9F%E5%9F%BA%E3%80%80%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E4%B8%89%E6%B5%A6&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi5zbro2rbnAhVE62EKHXeTBXsQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AE%9F%E5%9F%BA%E3%80%80%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E4%B8%89%E6%B5%A6&f=false

===*===

三善康信の叔母が頼朝の乳母であったように、頼朝の妹である坊門姫の乳父母が後藤実基であったのだ。
この三善康信が後藤実基の孫にあたる基連を猶子として康連の兄弟とする。

基連の兄基綱が1181年生まれという事は、それより下の基連なので1185年位の生まれと思う。
三善康信は1140年の生まれである。やはり九里の祖蓮忍入道の時代と一致する。
という事は、基連の息あたりが大田乗明・富木常忍の時代となる。

それ以前から後藤氏と三善氏のつながりがあったかもしれないと『藤原実基・実遠』も調べてみると、

『源家累代の郎従、後藤実基・基清播州後藤氏の系譜を
たずねると、後藤内則明に行きつく。則明は源頼義の郎等七騎のうちの一人』と出てきた。

また、『藤左衛門尉公広為後藤内則明所子養 / 後藤実某 鎮守府将軍藤原秀郷之裔也、父曰実遠為左衛門後藤実基伝』ともある。

『左衛門尉藤原公広(藤原秀郷流)が、則明の養子として迎えられ(ココで斎藤流に入る)、後藤を名のることとなった』ともある。

つまり、斎藤流と秀郷流を併せ持っている後藤氏のようである。
始めは斎藤流の則経に秀郷流の公広が入り、二回目には同じ秀郷流のなかで佐藤氏から実基の養子として基清が入っている。

基清は「佐藤仲清」の息なので、西行が叔父となる。

===*===

藤原則経は、藤原則経 - 実は藤原惟忠の子とwikipediaにあったので、この周辺を探してみると以下のような近藤氏系図の中に含まれていた。





ここで、近藤氏・大友氏とつながっていく。
近藤国平・近藤能成の系図へとつながっていく。

中原久経と共に活躍した近藤国平 や 武藤頼平・近藤能成と近い関係にもあった後藤氏である。
その近藤氏は文行から分かれ義経の家臣であった佐藤氏にもつながっていく。







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【後藤氏】周辺 後藤基清は「西面の武士」でもあった。

2020-02-02 | 後藤氏

後藤基清は西面の武士でもあり、息基綱の妻には同じく西面の武士であった「大江能範」の娘を迎えている。基政の母親となる。
基政の息基頼には「宇都宮頼業の娘」が嫁いでいる。基宗の母となる。(この頼業の娘の兄弟に蒲生秀頼がいる)
宇都宮氏と蒲生氏との関係は以下のページに詳しい!

http://shimotsuke1000goku.g2.xrea.com/gamougai.htm
 
コトバンクより『西面の武士」
後鳥羽(ごとば)上皇院政時代に設けられた院司(いんじ)の一つ。白河(しらかわ)上皇の院政のときに創設された北面(ほくめん)武士に対し、院御所(いんのごしょ)の西面に侍し院中の警固などを行った。院西面(いんのさいめん)ともいう。設置の時期は『吾妻鏡(あづまかがみ)』などから1206年(建永1)以前と推定されるが不詳。在京御家人(ごけにん)や検非違使(けびいし)、院分国・院御領などを通じて関係の深い武士で構成され、上皇の私兵としての性格が強い。『吾妻鏡』には後藤基清(もときよ)、五条有範(ありのり)、大江能範(よしのり)、佐々木広綱(ひろつな)らの名がみえる。『承久軍(じょうきゅういくさ)物語』には、武勇に優れた者や相撲(すもう)の達人が関東から召し出され、西面に任じられたとある。承久の乱(1221)では上皇方の兵力の中心となり、乱後は廃絶された。[権平慶子]

後藤基政 コトバンクより
建保(けんぽ)2年生まれ。後藤基綱の長男。母は大江能範(よしのり)の娘。嘉禎(かてい)3年鎌倉幕府4代将軍九条頼経(よりつね)の近習番となる。正嘉(しょうか)元年引付衆。将軍御所の歌会にしばしば出席し,弘長(こうちょう)元年「関東近古詠」の編集を命じられた。文永4年6月23日死去。54歳。

没年:文永4.6.23(1267.7.16)
生年:建保2(1214)
鎌倉中期の武将。後藤基綱の嫡子。母は,大江能範の娘。越前国守護。鎌倉幕府の引付衆,地奉行として鎌倉の市政に携わった。将軍家の和歌会にはたびたび出席した歌人。嘉禎3(1237)年将軍藤原頼経の近習番に選ばれ,以後たびたび番衆に選ばれる。暦仁1(1238)年,検非違使六位尉。仁治2(1241)年叙留されて,検非違使大夫尉。建長3(1251)年壱岐守。正嘉1(1257)年引付衆となる。弘長1(1260)年には『関東近古詠』の選集を命じられた。弘長3年在京を命じられ六波羅評定衆となる。
(永井晋)

この基政のいた時代が「富木常忍」の時代と重なっている。という事は基綱の時代は蓮忍入道(九里の祖)と重なっていることとなる。

後藤基綱 コトバンクより
1181-1256 鎌倉時代の武将。
養和元年生まれ。後藤基清の子。鎌倉幕府につかえ,承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇側についた父の首をはねる。嘉禄(かろく)元年初代評定衆のひとりとなり,のち越前(えちぜん)守護。寛元4年評定衆を解任され,建長4年引付衆となった。康元元年11月28日死去。76歳。

没年:康元1.11.28(1256.12.16)
生年:養和1(1181)
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の側近で,将軍家の和歌会に席を連ねた歌人。後藤基清の子。承久の乱(1221)では幕府方として戦い,京方についた父基清を幕府の命令によって斬首した。嘉禄1(1225)年評定衆となる。将軍頼経の政所では,保奉行人を管理して鎌倉の市政に携わった。また,恩賞奉行も兼務。
越前国守護に補任され,以降鎌倉幕府滅亡まで後藤氏がこの職に任ぜられた。
嘉禎2(1236)年,使節として上洛し,南都の嗷訴を鎮めた。同年,佐渡守,翌3年玄蕃頭。
寛元4(1246)年6月,宮騒動に連座して評定衆を解任された
その後,建長4(1252)年4月には,引付衆に任ぜられた。<参考文献>『関東評定伝』
(永井晋)

後藤基清 コトバンクより
?-1221 鎌倉時代の武将。
佐藤中清の子。後藤実基の養子。源頼朝につかえ,平氏追討に活躍して讃岐(さぬき)守護となる。正治(しょうじ)元年中原政経らと源通親襲撃をはかり,流罪。のち,ゆるされて検非違使(けびいし)をつとめ,また播磨(はりま)守護となった。
承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇側について捕らえられ,承久3年7月2日子の基綱にきられた

没年:承久3.7.2(1221.7.22)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武将。実父は藤原秀郷の子孫の内舎人佐藤仲清,養父は同族の兵衛尉後藤実基。官位は従五位上,検非違使・左衛門少尉に昇った。源平の争乱では源氏方に参じ,屋島の戦(1185)では養父と共に屋島内裏を焼く戦功を挙げ,讃岐国の守護に任じられる。
源頼朝の許しを得ずに兵衛尉に任官し,一時鎌倉への出仕を停止される。その後許され,おもに京にあって京都守護一条能保を助けて活躍。正治1(1199)年,中原政経,小野義成と源通親襲撃を企て流罪。通親死後に許され再び京にあり,後鳥羽上皇に近侍するようになる。承久の乱(1221)に際しては京方につき,鎌倉方の子息基綱によって斬首された。
(本郷和人)

1155‐1221(久寿2‐承久3)
鎌倉前期の武士。佐藤仲清の子。後藤実基の養子。左衛門尉,検非違使に任じ,在京御家人として,1196年(建久7)平知盛の子知忠の謀叛を鎮定し,1218年(建保6)には伊勢平氏余流の平正重の反乱をおさえた。讃岐守護にも任じたが,1199年(正治1)将軍源頼家によって罷免された。また建保~承久のころ播磨守護に任じたが,承久の乱に朝廷軍に与同し刑死した。【小田 雄三】

===*===

さて、武芸にも文芸にも秀でていた後藤氏だが、更に出納にもその力は発揮されていたようで「公文職」である後藤氏も居た。

http://gos.but.jp/gotoh.htm

『作州の後藤家は、鎌倉時代に下野守藤原康基(良猶)が美作国塩湯郷の地頭・公文職に任じられたのにはじまります。』

後藤氏に公文職の人がいることがわかった。

時折、探している苗字が不思議とこのHPとつながってくるのだ。
『母の曾祖母愛の実家、中之町池田家には三星城主後藤氏の系図があり、上記の弥右衛門(元清)の曾孫佐野右衛門基義まで記しています。これは、佐野右衛門基義の娘が丈右衛門へ嫁いだ縁で持ち込まれた(書写された)ものと思います。』

三星城もまた、なぜか九里氏とのつながりを感じさせる「赤松氏」がいる。赤松氏の家臣が後藤氏であったと思われる。
足利義澄の九里の館で生まれた息=後の義晴の預かり先が赤松義村であった。

http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/syozamurai/goto4.htm
後藤氏の直の配下に「小堀氏」がいて、「辻氏」もいる。
辻氏に関しては後日記事にしたいと思っている。

後藤氏も掘ってみると様々な接点がある事に気が付いた。


安田荘(中世) Jlogos より

鎌倉期~戦国期に見える荘園名播磨国多可郡のうち安田郷・曽我部郷・野間郷・高田郷・中村郷の5か郷から成る「吾妻鏡」文治2年6月9日条によると,安田荘は,領家若狭局から預ったと称して梶原景時が押領していると記されている

若狭局なる人物については未詳
建久3年2月,後白河法皇は寵妃丹後局高階栄子を当荘預所に任じ,その伝領を認めた(九条家文書2/図書寮叢刊)しかし,正応6年3月17日の九条家文庫文書目録に「一合 安田并新田庄」などと見え,高階栄子の死後どのような経緯でか当荘は九条家領となっており(同前5/同前),以後同家に相伝されている

また,永仁5年8月日の御所大番役定書案によれば,野間郷が4月と10月,高田郷が4月と9月,曽我部郷が5月と11月,中村郷が5月にそれぞれ京都御所大番役を勤仕することになっていた(同前5/同前)

九条家領安田荘のうち,安田郷については,正和5年7月27日の一音院領目録によればその年貢の一部が九条家所縁の一音院の領するところであり(同前6/同前),応永3年4月日の九条経教遺誡にも「於安田郷者,一音院寺用,公乗法印奉行,使田年貢千疋致沙汰,其外不及課役」と見え(同前1/同前),永享11年2月4日九条満教は一音院に安田郷を安堵している(同前6/同前)

また,承久3年7月24日,宇治合戦での後藤基重の軍忠に対し六波羅探題は後家の住む安田荘を安堵しているが,具体的には当荘安田・曽我部・中村3か郷公文職が安堵の内容であった(後藤文書)

3か郷公文職は南北朝期・室町期を通じて後藤氏に相伝されていることが,譲状からうかがえる(同前)

戦国期,赤松政則が死んで浦上氏が実権を握った時期に後藤氏は赤松方についたため所領を没収されたようであるが,赤松政村の勢力が幾分回復すると,天文6年3か郷公文職が元のごとく後藤基次に返付された(同前)しかし,同年5月20日政村から直接3か郷の名主百姓中にあてて,年貢を他所へ納入しないよう厳命していることから,基次の支配は極めて不安定なものであったと思われる(同前)
基次は以後も赤松政村方に属し,天文14年10月12日「曽我部郷内長枝名・安田・中村公文職」を安堵されている(同前)
安田荘では,南北朝期九条家は,建武元年2月当荘地頭職を後醍醐天皇から,建武3年8月当荘領家職を足利尊氏から認められた(九条家文書5・1/図書寮叢刊)
同家は,在地武家勢力に対抗し荘園経営を維持するため将軍家の保護を求めたようで(西脇市史本篇),康暦2年10月21日当荘領家職半分を足利義満建立の山城宝幢寺へ寄進しており(鹿王院文書/西脇市史史料篇),応永3年4月日の九条経教遺誡によれば当荘5か郷のうち中村郷と野間郷半分が将軍家の料所となっている(九条家文書1/図書寮叢刊)
しかし,康暦2年12月23日の宝幢寺長老(春屋妙葩)書状によれば,現地では守護や代官などが年貢をほとんど収納して宝幢寺の取り分はなく,毎年5,000疋と定められた宝幢寺分に対して諸人が異議を申し立てる状況であった(同前2/同前)
以後も守護・地頭の押妨が続いたため宝幢寺は九条家に請うて,応永29年当荘5か郷のうち高田郷領家職を宝幢寺が,残り4か郷領家職を九条家が知行することにした(同前)ところが応永34年地頭得平源太が荘主を殺害し高田郷を押領したので幕府に訴えたところ,永享4年6月11日,領家職は元々のごとく5か郷を半分ずつ知行すべきで,その分については地頭の押領を停止させるという判決が下された(御前落居記録/室町幕府引付史料集成)
その後,文明10年5月28日当荘を含む宝幢寺領が足利義政から返付されているが(鹿王院文書/西脇市史史料篇),長享3年3月には「国一乱以来不知行」という有様であった(蔭涼軒日録/大日本仏教全書)
一方,当荘所職・収益の一部は応安6年5月12日天台宗門跡寺院青蓮院にも寄進されており(華頂要略1/同前),同院門主義円から,応永10年閏10月14日法輪院心能に,応永12年8月30日若寿丸に宛行われ(門主伝・明王院文書/大日料7-6・7-7),応永16年3月11日野間郷を除く当荘が再び法輪院心能に宛行われた(門主伝/同前7-11)
当荘青蓮院分5か郷代官職には,文明10年1月11日赤松八郎太郎,文明16年11月3日多々良岐高重が補任されている(華頂要略1/大日本仏教全書)

ところで九条家領安田荘は,永享元年9月14日の足利義教の御判御教書以来,代々の足利将軍によって諸役を免除されているが(九条家文書2/図書寮叢刊),戦国期には守護勢力の押妨に抗しきれなかったようで,天正13年5月14日の九条家の所々指出目録案に当荘は不知行と見える(同前1/同前)
なお,「峰相記」によると,欽明天皇の時代百済から渡来した恵弁・恵聡の2僧が,物部守屋のため播磨国の「安田ノ野間」の牢に入れられ,守屋滅亡後牢の跡へ一伽藍を建立したという(続群28上)

また,「源平盛衰記」や「平家物語」によれば,一ノ谷の合戦で義経軍を案内した人物に安田荘下司多賀菅六久利の名が見え,先祖相伝の当荘下司職を平家の侍越中前司盛俊に押領されたと述べている

さらに天正16年の奥書をもつ「赤松記」によれば,嘉吉の乱で赤松氏が没落したのち,当荘は細川勝元の知行となり,赤松政則と勝元の娘が結婚した際,勝元が娘に安田・中村・高田3か郷地頭分を与えたという(群書21)

安田郷は現在の中町東安田・中安田・西安田から西脇市の一部にかけての地域に比定され,安田荘は現在の中町の北部を除く一帯から西脇市の一部,八千代町の東部にわたる地域に比定される(多可郡誌)

===*===

それらの領地をとられた後が、作州の後藤氏という『ごさんべえのぺーじ』(さん)のHPにつながってくるのでは・・・と思うのだ。
「作州の後藤家は、鎌倉時代に下野守藤原康基(良猶)が美作国塩湯郷の地頭・公文職に任じられたのにはじまります。
天正七年五月、宇喜多家に攻められて三星城は落城、勝元は長内村大庵寺で自害しました。
義政は平田村に逃れて一時隠れ住み、後に津山町新魚町に出て平田屋という屋号で商売(醤油醸造)を始めました。」

http://gos.but.jp/gotoh.htm

後藤弥右衛門の娘とHPの文中にあるので、その「後藤弥右衛門」を調べてみると押野村の後藤氏と同じ弥右衛門なのである。
https://www.city.nonoichi.lg.jp/soshiki/40/466.html

そこでは富樫氏から後藤氏を名乗るようになっていた。
金沢の話であるが、越中国のまごはちさんのHPにもそのあたりのことが書かれていたように思う。

赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!! さん より
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%BE%8C%E8%97%A4

越前斎藤系に加藤後藤美濃斎藤氏等が有る。「石川県史」の「林氏系図」に拠れば、利仁ー叙用ー吉信ー忠頼(代々加賀介ー加賀斎藤)と続き、その長男則高ー為輔(石浦氏)の系統は越中寄りの石浦荘に拠り、越中側の石黒荘の開発も進め、3代後の光景は石黒姓を名乗った様で、為輔の次男吉宗は加賀介の家系を継ぎ、林、富樫等の祖先になったとされている。これ等の姓は今も金沢近郊に町名として残り、石川県に展開した一族と富山県に展開した一族とはここで分岐した事も推測できる。

===*===

この斎藤氏と後藤氏という関連が、鎌倉時代の野本氏との斎藤氏、とリンクしているように思えてきた。
日蓮宗と後藤氏にもつながりがある。これにも注目してみたい。




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後藤基連 = 三善康信養子 = 三善康連義兄弟 

2020-02-01 | 後藤氏

一条家に仕えていた「後藤基清」。同じく中原政経も仕えていた。

この基清の息が「太田基連」で、三善康信の猶子となり、康連の兄弟となった。
康連兄弟には乗明がいる。

が、この基連、もしかすると乗明の姉と結婚した「常忍」なのではないだろうか?
とんでもない発想かも知れないが、常忍はなぜか「播磨守」と書かれていた。

日蓮の乗明宛の手紙によると「貧乏をしている常忍」がそうであるはずはないのだが、「播磨守常忍」と古文書や後世の記述には書かれていた。どこかでその「播磨守常忍」を目にしたからだと思う。
後藤基清は七年間播磨守でもあった。

そして、後藤氏の先祖は斎藤氏と藤原秀郷流とどちらにも関係している。
中原氏も同様と思われる。

立ち位置が似ている。

そしてもう一つ、後藤氏に後藤祐乗という人物がいて「後藤氏は鋳造との関わりが深く、金工家の後藤祐乗を生みました」と本にあり、また、本阿弥氏とも婚姻関係もあるところも似ている。江州中原多賀氏も本阿弥氏と婚姻関係がある。

https://books.google.co.jp/books?id=IwJODwAAQBAJ&pg=PA31&dq=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E3%80%80%E7%A5%90%E4%B9%97&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi90PzOsLDnAhXR62EKHWWqC0sQ6AEIUzAG#v=onepage&q=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E3%80%80%E7%A5%90%E4%B9%97&f=false

後藤祐乗は「乗」という通し字を使っている(後藤祐乗以降と思われるが)点が「乗明」を意識しているかもしれず、もしかすると太田基連=後藤基連が乗明なのかもしれないとも思う。

ともかく、関係がありそうな後藤氏!なので注目している。

もう一点、作州三星城 後藤氏と共に小堀氏が出てくる! ここでも近くに後藤氏がいることになっている。
https://books.google.co.jp/books?id=iRy9Yw6J3WIC&pg=PP357&dq=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E3%80%80%E4%B8%89%E6%98%9F%E5%9F%8E&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjIjZO3h7DnAhXKLqYKHT7UCH8Q6AEIKTAA#v=onepage&q=%E5%B0%8F%E5%A0%80&f=false
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後藤基清 播磨守

2019-07-30 | 後藤氏

頼朝の実の妹である「坊門姫」は、後藤実基に育てられたという。

後藤実基のwikipediaより

藤原北家秀郷流の流れを汲む北面武士・藤原実遠の子として誕生。

京において源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長男・義平に従軍する。乱の後の動向は明確ではないが、『平治物語』によると京において義朝の娘・坊門姫(後に一条能保室となる)を養育したとされる。

治承4年(1180年)に義朝の遺児・頼朝が挙兵すると、養子・基清と共にその麾下に参加。平家追討の戦いでは源義経軍に加わり、屋島の戦いに際しては、平家軍が海上に逃れた後にその城塞を焼き払い、反撃意欲を絶つという活躍を見せている。

その実基の養子が後藤基清となる。

後藤基清

生没年:1155?-1221
父:佐藤仲清
義父:後藤実基
通称:左衛門尉
従五位上
検非違使
左衛門少尉
1185 屋島の戦い
-1199 讃岐守護
播磨守護
1221 承久の乱
正室:
基成
1181-1256 基綱(美作後藤氏へ)
基重(播磨後藤氏へ)
太田基連

ここからずっと祖まで遡ると意外なことがわかった。

世界帝王事典からである。

後藤公則

生没年:
父:民部少輔 斎藤伊博
義父:河内守 源章経
駿河守
従四位下
正室:
公員
兼則
忠念
則経


斎藤氏。

藤原公則のことと思われる。つまり藤原利仁流となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%89%87

後藤氏の系図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%B0%8F#cite_ref-1

章経は、佐々木氏となった人物だろうか?
章経の父は源兼宣となっているので、別人のようであるが。。。

そこで、章経の別名である佐々木義経の Weblio辞書より
(源扶義の成頼の息にあたる)
佐々木 義経(ささき のりつね、長保2年(1000年) - 天喜6年(1058年))は、平安時代後期の武将。初名は章経(あきつね)。宇多源氏佐々木氏の祖。下級貴族である兵庫助・源成頼の子。官位は従五位下・兵部丞。兵部大夫と号す。

===*===

後藤氏は中原氏と共に一条家の家司のような仕事についていた。同僚だったと思われる。
三左衛門事件となった「対源通親」に共に立ち上がった仲間でもある。

その藤原実遠の後室として入ったのが真野宗連の先妻でもあった「妙勝」。
つまり上記の後藤実基の母か、継母となる人物が、真野氏に嫁いでいたことがある女性であった、という事になる。

妙勝の所領は、巡り巡って真野宗明が譲り受けることとなる。

この真野氏は三浦氏流で、佐原氏でもある。
藤原実明の孫公雅の妻が三浦(佐原)盛連の娘となっている。(息は公名)
さらに矢部禅尼が妻として入ったのも盛連である。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%9B%9B%E9%80%A3

矢部禅尼
建久5年(1194年)2月に13歳の泰時が元服した際、源頼朝の命により三浦義澄の孫から良い娘を選んで泰時と娶せる事が決められる。この8年後の建仁2年(1202年)8月23日、義澄の嫡男義村の娘(のちの矢部禅尼)が泰時に嫁ぎ、翌年長男の時氏が産まれるが、後に泰時と離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である安保実員の娘が泰時の次男時実を建暦2年(1212年)に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。離縁の理由は特に不仲が生じたわけでも無く、理由は不明である。

その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。

嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。

北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。

康元元年(1256年)4月10日、不食の所労により70歳で死去。時頼は祖母の死にあたり50日の喪に服している。

再婚相手の盛連は時氏との血縁を利用して側近になって上洛しているが(『明月記』嘉禄2年正月24日条)、盛連は乱行で京都中に知られており、在京でも乱暴行為で知られており時氏を悩ませたと伝わる。

===*===

三浦義明ー佐原十郎左衛門尉義連ー太郎左衛門尉景連ー真野五郎左衛門尉胤連…その子孫 真野宗明

…の部分に、真野時連(新宮時連)が入るようなのであるが。。。
時連は矢部禅尼と盛連の息である。

さらに上記の系図の胤連はwikipediaでは胤義の息となっているのだが…

複雑ではあるが、三浦氏が西園寺家とも一条家とも何等かのつながりがあったことになろうと思う。

一条家にも、藤原秀郷流の後藤実基の父にも「実遠」がいるので、ちょっと混乱している。
年代を確かめる必要があると思うが、上記は後藤実基の父のことと思われるが。。。

コメント (3)
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