九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

乾庄司 新介  伊吹に住む(3)乾駒之丞雅勝と永原越前守重行

2023-11-17 | 乾氏
『雅勝』という名前と『重行』という名前には隔たりがあるため、この間に養子縁組か賜字か何かがあったと思われる。

さらに、永原城主の乾主膳正秀之と『雅勝』も遠い。



系図を見ると、同じ年代の永原氏(別系)の正光も「まさ」、乾雅勝も「まさ」である。

さらに、次の年代の別系の永原氏重・吉重と本家の永原重行以降「しげ」が通字となっている。




もっと俯瞰的に見ると、佐々木流山崎氏の系から出た永原氏の名前とリンクしていることに気が付く。

上のアドレスの中の系図(54)に 山崎氏から分かれた永原に頼行という名が現れる。
宗行・雅行ときて雅勝となる秀郷流の永原氏と佐々木流山崎氏の間で何かあったと考えられないだろうか?

(56)の年代を見てみると、六角高頼の弟が、山﨑氏流永原氏と秀郷流永原氏の両方に弟を養子に出している。
永原高賢と永原重賢である。

*****

近江國野洲郡永原村に入った山崎氏が(49)の代で 『初代の永原右馬助景長』となり、(54)の代で、同化したのではないだろうか?

さらに、その間に永原新左衛門入道正光の系が挟まる形で入り込んでいる。

秀郷流の永原氏は足利将軍家を支える系、佐々木流山崎氏の永原氏は永原城主の系、永原新左衛門の系はやがて佐々木六角家を支える系になっていく、、、のように見える。

*****


上記より、気になる部分をピックアップと少し改変。


永原重隆 (~1550)太郎左衛門・越前守。六角家家臣。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。
九里源兵衛もその調停の場にいた。

永原重澄 (~1561)安芸守。六角家家臣。六角義賢に従い、畠山高政の後詰として、1万兵を率いて出陣。


(水茎岡山城) 
九里信隆 (~1514)くのり・備前守。将軍・足利義澄を岡山城に保護
足利義稙の追討令で管領・細川高国、京極高清、六角氏綱に攻囲されるも、伊庭貞隆が救援。将軍・義晴は岡山城で誕生した。水茎岡山城主。

九里浄椿 (~1514?)くのり。信隆の息ではないかもしれない。 
伊庭貞隆、貞説親子と結んで反乱。高頼に暗殺される。水茎岡山城主。

九里宗恩 (~1525)くのり・伊賀入道?・宗忍?(宗恩と宗忍は別人)
後藤氏の被官・杉山藤三郎に討たれる。与力に西川又次郎


1525年軍代・六角定頼(~1552)の軍事編成
1525(大永5)年、対浅井亮政戦 守=佐々木一門、殿=朽木氏。
守護代家。1525年「小谷城攻略」浅井亮政を美濃に落とす。

先陣 佐々木五郎<朽木殿>
右翼軍 進藤・高野瀬・山崎・永田(刑部)
目賀田・池田・後藤・三雲・上城
左翼軍 三井・平井・下笠・楢崎・三上・永原

後詰 田中<朽木殿>・横山<朽木殿>・山崎<朽木殿>・馬淵
堀(佐々木能登守)・永田(佐々木伊豆守)・永田(佐々木能登守)

六角義賢(1552~1561隠居)の軍事編成
1560年「野良田の合戦」浅井長政の独立、肥田城・高野瀬秀隆の離反。
『江濃記』・『浅井三代記』
六角軍2万2千兵。
先陣=蒲生右兵衛大夫定秀・(結解十郎兵衛)・永原太郎左衛門重興・進藤山城守賢盛・池田次郎左衛門景雄

第二陣=楢崎壱岐守・田中治部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
本陣=六角義賢・後藤賢豊・(平井・和田和泉守)

永田景弘 (~1582)長田・佐々木・刑部少輔・正貞。高島郡佐々木氏の庶流、高島七頭の永田氏の分流の系統。南近江国衆。蒲生郡の土豪。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年5月に信長から中島郡、中郡の所領を安堵される。織田家に臣従し、中川重政の与力に配属される。
舎弟・九里氏の跡領を信長から保証されるというので、弟は戦死したか(スパイ容疑で信長に嫌われ浅井氏配下に行ったか?)
永田氏は琵琶湖の水運に関係していたという。

・・・・



はて、乾主膳正秀之(=乾甲斐守秀之)は、一番上の系図には見えてこない。

しかも、この人物の系こそが、九里のいた水茎岡山城城主と長命寺縁起に載っているのである。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾庄司 新介  伊吹に住む(2) 永原城主乾主膳正秀之 そして、岡山城が久徳氏…が気にかかる。

2023-11-16 | 乾氏
江州佐々木南北諸士帳からだが、
人名から割り出すと弘治から永禄の年代ではないかと思う。もっと元亀やその後も含まれているかもしれない。
そのころ、水茎岡山城が九里から久徳兵庫頭になっていたようだ。
これはやはり、九里と久徳と近い一族であった…という事なのだろうか?

永原城主に関してを調べてみようと思う。


赤丸が永原城(館)周辺




永原宗行の息カ孫に乾駒之丞雅勝がいる。
この人物が、永原城城主であった期間があったと思われる。

永原氏の家老に中島氏がいたようである。
「深尾清十郎殿」に随い…とある。
野州郡史 上巻より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾庄司 新介  伊吹に住む

2023-11-16 | 乾氏
中島氏・中嶋氏を調べていて、本の中に乾氏をみつけた。






佐々木氏流の乾氏と思う。
永原城主となっている乾主膳正秀之(乾甲斐守秀之)。
加えて「にっかり青江」の伝承に出てくる「長光寺」にも乾二郎三郎の名前が登場している。




また、伊吹という処に住んでいる乾庄司(新介)は遠江守の弟であるそうだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永原氏→山内氏→乾氏 信長の時代前後  + 怖い話

2022-12-16 | 乾氏

中国の春秋戦国時代から大きく飛んで‥‥日本の信長の戦国時代へ。

 

永原氏は依知(愛智)秦公の一族であり、佐々木氏の婿となり、佐々木氏流山崎と繋がっているようなのだ。その山崎の由来がどうも鎌倉の山内荘にあるようなので気になった。

 

詳しくはこれから調べるが、山内荘の中に山崎郷がある。

山内荘(ヤマノウチ)は大きな荘園で、歴博のデータベースを下に貼っておこうと思う。

 

永原氏の系図

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-nagahara.html

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nagaha_o.html

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/naga_omi1.html

 

山崎家系図

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/koutai/yamazaki.htm

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamazaki.html

 

https://satetsu.seesaa.net/article/201302article_6.html

 

佐々木哲先生の佐々木哲学校より ↓

《 永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。

愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。》

 

****

 

滝口俊秀がキーマンのようである。

義通りの孫か?と思うが。

とすれば、中原久経の従兄弟の息となる。

 

****

依知秦公関係

https://www.google.co.jp/books/edition/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E6%84%9B%E6%99%BA%E9%83%A1%E5%BF%97/oGeC3SLMv_YC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%BE%9D%E7%9F%A5%E7%A7%A6%E5%85%AC&pg=PP369&printsec=frontcover

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E5%8F%A2%E8%AA%AC/W_jOisF83gkC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%BE%9D%E7%9F%A5%E7%A7%A6%E5%85%AC&pg=PP361&printsec=frontcover

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2%E8%80%83%E8%A8%BC/vByUBTDd89QC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%BE%9D%E7%9F%A5%E7%A7%A6%E5%85%AC&pg=PP390&printsec=frontcover

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%A1%9E%E7%BA%82/_I1nAAAAIAAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%BE%9D%E7%9F%A5%E7%A7%A6%E5%85%AC&pg=PP424&printsec=frontcover

 

****

怖かった事。

黙っているとなおさら怖いので書いておきます。

 

昨日は秦氏を中心に調べていました。

その時に、友人が単身赴任であったご主人の引っ越しの手伝いから帰宅し、お土産を持ってきてくれたのです。

 

いただいた時に「川勝」京都とあり、全身凍りました。(中身は大好きなしば漬け!笑)

ずっと秦河勝の同祖と思われる始皇帝、その子孫であろうと思われる秦氏を調べている時の「川勝」なんです。

しかも、永原氏を調べ始めたのも、まさかそこが始皇帝につながるとは思ってもいなかったので、そこも怖いのです。

何かを呼んでしまったのでしょうか。

 

私、時たまこのようなことが起り、元から怖がりなので…どうしたらいいんでしょう。

とにかく、冷蔵庫に貼ってある「夢違い観音」様にお祈りし、聖徳太子様のパンフレットにもご挨拶しておこうと思います。

 

偶然が偶然を呼び起こす。

ココが、九里と関係があるという事なのでしょうか。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒントは、現代の地図にはない。「蒲生郡 上乾村」(下豊浦周辺か?)

2021-01-11 | 乾氏


近江国の「乾村」を探している。今回は蒲生郡かお隣の神崎郡か…である。


===*===

滋賀県 下豊浦上乾村
蒲生郡上乾村

この二つが今回の注目すべき地名!
この地名を探そう!



どなたか「上乾村」のご記憶のある方がいらっしゃったら教えてください!!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾太郎兵衛 と その先祖

2020-03-29 | 乾氏

wikipediaより
乾 長次(いぬい ながつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。岡山藩家老。
鳥取乾氏は宇多源氏の佐々木経方の六男・行範の支流とされる。長次は鳥取乾氏の祖・乾太郎兵衛の孫に当たる。

天文14年(1545年)、摂津国島下郡に生まれる。初め足利義輝に仕えていたが、早い頃に池田恒興に仕え、兵部大輔を名乗った。元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正8年(1580年)の花熊城の戦いなどで戦功を為し、100石が与えられた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて敵陣へ突入しようとした池田輝政を諫め、結果として命を救ったことがきっかけとなり、以後、重用されるようになった。その後も天正18年(1590年)の小田原征伐などで戦功を為し、慶長5年(1600年)、池田輝政が姫路に移ると600石に加増された(後に900石)。

慶長15年(1610年)、幼い池田忠雄の後見人となり、1400石に加増、元和元年(1615年)に忠雄に従って岡山藩に移り家老職に補せられた。元和2年(1616年)5月9日没。

長次没後、子・直幾は鳥取藩転封により、家禄を加増され3500石を与えられた。子孫は代々鳥取藩の家老を勤めた。

===*===

九里采女正の系は京極丹後守の配下に入り、その後牢人となり、備前国で「岡山左衛門」となったと『淡海温故録』に記載があったが、この岡山藩の乾氏を頼って行った可能性もあるかもしれない。

鳥取藩史第一巻に乾氏の記載がある。


===*===

乾氏の祖と言われている「行範」から、どのような代を経て「乾氏」になっていったのだろうか。
佐々木行範の息に定平という人物がいて、その人が「深尾・西尾氏」の祖となっている。
また時信という息もいて「舟木氏」の祖となっている。

乾氏の祖と言われている行範なのに、息たちの註には「乾」の文字が見えてこない。
なぜ?? 私が見つられていないだけなのか??


全くの仮想だが、
もしも行範が本当に熊野別当であったならば、源義経の息の「乾氏」も関係してくるのではないだろうか?

勧修坊の娘       乾氏 『系図纂要』記載 …源義経の息…
『本朝武家評林大系図』にも義経の息の記載がある。(右ページ下)



源義経の父は源義朝・母は常盤御前であるのだが、(養父となったのは一条長成)
祖父の源為義は熊野と縁があり、鳥居禅尼は為義の娘で熊野に居り行範の妻となっている。つまり義朝の姉か妹である。

鳥居禅尼が義経の叔母ということになる。
幼き頃「熊野」を訪れたこともあるといわれている義経。
青年になって鳥居禅尼を訪れた際にも歓迎され、大切な為義の刀を義経に渡されている。

「平家物語」のこのようにあるそうである。↓
「源氏重代の剣、本は膝丸、蛛切、今は吼丸とて、為義の手より教真得て権現に進らせたりしを、申し請けて源氏に与へ、平家を討たせん」とて、権現に申し賜ひて都に上り、九郎義経に渡してけり。義経特に悦びて「薄緑」と改名す。その故は、熊野より春の山を分けて出でたり。夏山は緑も深く、春は薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば、薄緑と名付けたり。」
https://meitou.info/index.php/%E8%96%84%E7%B7%91 名刀幻想辞典 さん より

===*===

(義経の息の)乾氏の母の父が居たと思われる「観修寺」は近江とも深く関係がある。

wikipediaより
『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改め、氷室池も取り込んだもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。

胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470年)に応仁の乱の兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。


京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。


山階・山科・・・長浜近くの「山科荘」とも関係があるかもしれない。

この藤原高藤は湖北と関係があるのだ。
雨森氏のwikipediaより

「藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。磯野氏、赤尾氏、井口氏とあわせて湖北の四家として知られ、室町時代初頭には足利義満の命で後小松天皇の武者所となる。京極氏が守護職として赴任すると、これに仕えるようになる。その後、室町時代後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。浅井家にあって、雨森清貞は海北綱親、赤尾清綱とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。浅井氏滅亡後は各地に離散している。良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。」

井口氏は江州中原氏の景経の系であり、経任の系が九里である。

中原景経は伊香郡の富永荘の召次案主をしていたのである。
景経は経任の兄にあたる人物であり、銅鐘に名前が掘られて、池に鎮められていた。
弟である経任のことはさっぱり見つからない。系図の註には「橘次」と書かれているのみである。

高藤の妻であった「胤子」は宮道氏の出で『今昔物語集』(後述)によると、鷹狩の雨宿りとして宮道弥益の屋敷を訪れた藤原高藤に嫁いだ。高藤との間に生まれた胤子が宇多天皇女御となり、その子が後に醍醐天皇になると、列子は天皇の外祖母として従三位に叙せられた。『宇治郡名勝誌』によると、907年11月30日(延喜7年10月17日)に亡くなったとされ、勧修寺栗栖野に葬られたという。同年12月9日(旧暦10月26日)に正一位が追贈された。また、のちに父の弥益や夫の高藤らとともに宮道神社に祀られるようになった。 (wikipedia)

…という、これまた近江国と縁の深い「宇多天皇」が関係しているのである。

同じ宮道氏に蜷川氏がいる。「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ‼!」さんより
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%AE%AE%E9%81%93%E6%B0%8F

===*===

義経がこのお寺になにか縁があったのか? ふと訪れたのか?
もう歿する前年のことのようなのだ。

聖弘という僧が関係しているようである。勧修坊とはこの人物のことか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BC%98

聖弘(しょうこう、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の興福寺の僧。塔頭の勧修坊を住坊とした。 聖弘得業、周防得業(すおうのとくごう)聖弘とも称される。

『吾妻鏡』によれば、文治2年(1186年)2月、源頼朝と対立し、都を落ちのびた源義経を匿った事により、翌文治3年(1187年)3月8日、鎌倉に召し出されて頼朝の尋問を受ける。

聖弘は義経と師檀の関係であり、平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行っていた。
その縁により都落ちの際に南都に逃れてきた義経を一時匿い、頼朝と和解するように諫めて下法師らを付けて伊賀国へ送り出し、その後は音信不通となったという。

謀反人の義経を匿い、祈祷を行った事を詰問する頼朝に対し、聖弘は師弟のよしみで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心をなだめるもので、何ら罪になるものではないと答えた。

また、そもそも今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言によりその奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、予州(義経)を召し返して兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法というものである。これは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めてのことであると答えた。

この聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行うよう命じている。

『玉葉』によれば、文治5年(1189年)12月には在京している。『義経記』には勝長寿院縁起物語として「勧修坊(かんしゅうぼう)物語」が描かれ、勧修坊(聖弘)が勝長寿院の別当、あるいは開基として語られている。

===*===

義経の子孫の乾氏は南都衆徒となり、領地の管理に秀でた人が出ていた。(名前失念。。。スミマセン)
「東大寺学侶の家、乾家」という記載もある。(東京大学史料編纂所)

===*===
これは、レファレンスにお願いした際の回答!

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000261925

乾氏の痕跡のある処は、近江国で4地点あることがわかった。

①蒲生郡の乾村については、『滋賀県の地名』p.523の「庄村」の項に、「古くは佐久良川北側は別村で、稲村(乾村とも)称していた」という記述があります。これは現在の日野町杣にあたります。

②坂田郡の乾村については、『近江輿地志略 全』p.968に「六荘村大字平戌亥」とあります。この旧六荘村の乾村については、『ふるさと長浜』p.147に「大戌亥」という名称で掲載されており、「昔は、乾の字を用いていたが、井伊氏の領地となった後、同じ彦根井伊氏領の旧神照村の乾(明治七年に辰己と合併して山階となった)との混同をさけるため、大戌亥に改めたといわれている」との説明が添えられています。

③『滋賀県の地名』p.933によると、この場所は現在の長浜市大戌亥町にあたります。なお旧神照村の乾については、『ふるさと長浜』p.153に「乾は辰己の西北(乾)の方向」にあったとの説明がされています。こちらは『滋賀県の地名』p.945によると現在の長浜市山階町にあたります。

④同p.990、東浅井郡の「早崎」の項にも乾村についての記述があり、『東浅井郡志』第4巻p.4に掲載されている、享徳5年の「阿部宗長譲状」にも「早崎イヌヰ村」という記述があります。こちらは現在の長浜市早崎町にあたります。


②と③が??
六荘村の乾村→大戌亥
神照村の乾→山階町

近くに二つ、ちょっと海沿いに一つ、
蒲生郡に一つ

①は正確な位置がわからず、桜川周辺


②が赤丸 現在の市立長浜病院付近と思う。
③が青丸 現在のイオンの周辺ではないかと思う。 



④が緑の矢印周辺かと思う。



===*===

【一番大事なこと】

小堀町のすぐお隣!!

小堀氏は和歌山系図では兄の系。
九里氏は弟の系となる。
やはり九里氏は「乾氏」??

山階と乾という取り合わせも…何かしら…


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾太郎蔵人と思う!(2) 近江国 津田

2020-03-22 | 乾氏


江州津田の入江にて白い菖蒲の花が咲いたと現地の地頭である乾兵部少輔実忠が観音寺城へ申し上げる。(江源武鑑)


信長公御先祖ノ津田ハ北津田也天文永緑ノ城主ハ乾兵部少輔実忠在住也  (近江史料シリーズ)

「織田氏の先祖親実は、 近江津田郷出身にして、越前織田荘の劔神社の神官忌部(いむべ)氏を継ぐ」

「重盛次男資盛一族と海に没す、孤児あり其母懐中に深く匿して江州津田郷に来る、越前織田神職忌部権正彼孤児請受て養子し織田村帰る 是津田権太夫親実と云」(『剣大明神略縁起(二)』(織田文化歴史館)
https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/panel/03.html

諸説あるが、織田家にとって「津田」は大切な場所であったようだ。

古くは「紀氏」がいて、その中にも「忌部氏」もいた事が、関係してくるのかもしれない。

でも「織田氏」ではなく「乾氏」を探さなくては!

丹波柏原藩でも津田氏がいて、幕末の写真が残っている。

===*===

忘れないようにmemo

小山氏の中にも「乾氏」
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/0eb74b0f1df136f7c704a3655531e62b

鳥取藩史第一巻に以下のような記述があること。
『将軍義澄没落後、乾太郎兵衛京都を去り、摂津島下郡に住し、孫平右衛門長次に至る。長次初め将軍義輝に従ひしが、後信輝に仕へ、兵部大輔と称す。
元亀元年公に従い姉川戦役に奮闘し、信長の勧賞に与る。天正八年摂津花熊に戦ひ、又功を立て百石を給 ...』

乾氏館 度会郡大紀町金輪  乾兵部 不明。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾太蔵人と思う!(1) 乾河内守盛国(近江乾城主)と乾太郎定直

2020-03-22 | 乾氏

九里種信の古文書を調べていて、「乾」or「紀」or「起」太蔵人を想定していた。

昨夜 東京大学史料編纂所DBの中に「乾太郎」を見つけた。
それが白い方の「乾」である。




「建内記」(記述は1414年(応永21年)から1455年(康正元年)まで)

佐々木経方の五男か六男と言われている「行範」が祖の「乾氏」がいる。
源義経の息「乾氏」(南都衆徒)もいる。
土岐氏の頼貞の息「道謙」が「乾氏の祖」であり、武儀にいる。

足利幕府の御家人として「乾太郎左衛門尉定直」の名がみえる。
近江の湖北(長浜市山科町)大戌亥町周辺?に「近江乾城」があり、城主乾河内守盛国が見える。
江源武鑑の中にも
乾権頭吉武
乾河内守盛国
乾次郎三郎 十六歳
乾久内(宮内?)
乾采女正
軍奉行 乾兵庫介 在判
乾安房守 旗頭内
乾加賀守
乾主膳正
乾伊賀守
乾右馬頭
乾甲斐守
乾武蔵守
乾刑部
乾兵庫助
乾備前守
乾備中守
乾豊後守
江州津田の入江にて白い菖蒲の花が咲いたと現地の地頭である乾兵部少輔実忠が観音寺城へ申し上げる。


乾河内守盛国(近江乾城主)は、 滋賀県長浜市山階町
乾太郎左衛門尉定直は足利義昭に仕えていて、河内国の若江にいた。

河俣御厨庄(河内国若江郡) とweb上に出てくるのだが、そこも山科家領化と書かれている。

漢字は違うが盛国も定直も「やましな」と関係がある。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾盛国(2)

2019-11-07 | 乾氏



小堀五郎○○尉ではないだろうか。

小堀五郎左衛門尉か?右衛門尉か?

他の記載に小堀右衛門や右膳とあったので、右衛門の家系かもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乾盛国

2019-11-06 | 乾氏

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成より

「滋賀県立 ... 山階町は戌亥村と辰巳村が併合した町で、六角氏に仕えたという乾盛国は戌亥村にいたと伝え、その同族として乾伊賀守・乾兵庫頭が知られている。」
とある様に、佐々木流の乾氏であったようだ。

これは九里氏の後に「水茎岡山城」に入った乾氏である!!


道謙の四男「道盛」の分かれの一部が佐々木氏となったのではないだろうか。

というのも道謙の甥 土岐頼康は、
『土岐頼清の男頼康池田郡小島で誕生、母は佐々木備中崇西の女』と宮城家本明智系図にあり、佐々木氏とも繋がっている。(ほかにも土岐氏と佐々木氏との婚姻関係はあったのではないだろうか?)

佐々木備中崇西は佐々木頼綱(一二四二-一三一〇)のことで、佐々木六角泰綱の次男で、佐々木信綱の孫にあたる。
六角氏二代目当主となる人物で、金田殿と呼ばれていた。
長男が頼明という名であったことも気になる。

頼綱ー時信ー氏頼

氏頼は佐々木道誉の娘を妻にしている。

その氏頼に仕えていたのが「九里助康」である。


助泰の三代前を見ると「九里小五郎助恒」とある。
この人物の註に「属佐々木六角道誉 元弘建武年袖切」とある。時信の時代と思う
つまり、助泰は六角氏の側についていたという事になる。

とすれば、もしかすると助恒の兄「助政」小堀五郎○○が京極に付いた可能性もある。小堀町も長浜付近である。
その小堀町付近、もしくはその中に「乾村」があったように記憶している。



小堀町
 

 
乾村があったあたりか?







大戌亥という地名が残っていた!
この病院のあたりにもしかしてお城があったのだろうか?

小堀氏に「左近将監」とあり、乾氏にも「将監」である頼久がいる。

時代的にも佐々木氏頼より2代前あたりに、と限定され土岐光定の時代とかぶってくる。
土岐氏に関すると、光定・頼貞の時代に土岐氏と佐々木氏が近い関係になり、それが九里氏(その当初は中原氏であったかもしれないが)にも波及した何かがあったのではないかと思われるのである。
若しくは、つなげたのが中原氏・九里氏であった可能性もあると思う。



小堀五郎の後の○○が読めないので、どなたか教えてくださいませんか?
どうぞよろしくお願いいたします。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする