また、九里からどんどん離れ、自分だけの世界になっていたかもしれないので軌道修正しようと思う。
まず、九里と言うのは在名(土地の名前を自分の苗字にすること)だろうと判断する。(九里村から二里ほどのところに七里村がある)
では、九里氏の前の苗字は何だろうか。
中原姓であり、九里氏の祖一代前に橘氏となった。(一代前、長男の系は中原景経である。)
次男は橘経任となるのだが、そこに「待った」をかけて、橘氏を隠れ蓑にして、本当の苗字はちがうのでは・・・・・と疑ったのが、今までの記事であった。
戦国時代に九里三郎左衛門が、また功力三郎左衛門と云っていたと姓氏家系大辞典にある。これだけがヒントである。
ひょっとすると、戦国時代の九里三郎左衛門だけが、功力だけだった可能性も十分ある。
しかし、『功力』と関係があった場合に見えてくるものと、自分が今まで調べてきたことにどこかに重なる部分があるのでは…と思い、調べているのが現状である。
・・・が、調べる苗字のどれもが怪しいと思ってしまうのが、ド・素人の悲しい所である。(怪しいと思ったものは調べるので、強みにもなっているのでは…とも思う。)
プロの方なら、絶対にピントハズレで調べないことにまで及んでいるからである。
さて、
源重定 承久3年 代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か 日牟礼神社有。
功力氏→櫟(くぬぎ)氏→ いちい(櫟井氏)と考えて、市井とも関連してくるとなると、この【源重定】が浮上してくる。
しかも、源員定=九里員定と思われる人物が存在している。そして、その九里員定は、賀茂員定でもあるかもしれないのである。
承久三年(1221年)に源重定(歴博データベース) → 貞治六年(1367)丹後守 賀茂員定(後愚昧記) → 応永三十四年(1427年)源員定=九里員定(今堀日吉神社文書 )
源員定80歳あたりにに[保に関するコメント]を残していることになる。・・・が、別人かもしれないが、可能性が残されている。九里は長生きの家系である。
一人ずつを見ていく。
【源重定】コトバンクより
没年:治承4(1180)
生年:生年不詳
平安後期の武士。重貞とも書く。清和源氏満政の子孫(美濃源氏)で,重実の3男。山田先生と号す。
父重実は鳥羽院に仕え,鳥羽院四天王のひとりと称されていた。
保元1(1156)年8月,保元の乱に敗れて近江国坂田の近辺に隠れていた源為朝を搦め捕り,その功により右衛門尉に補任された。(~~ということは、後白河法皇方である。)
または筑後守に任じられたともいう(『尊卑分脈』)。
嘉応1(1169)年12月,権中納言藤原成親を流罪にせよという延暦寺僧徒の強訴に際し,郎従を率いて内裏修明門を守った。
治承4(1180)年源頼政の挙兵に従い,反平家の軍勢に加わったが,敗れて美濃国にて死去した。
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権力が流転している中の事なので、私には難しくて良くはわからないのだが、櫟井氏が日牟礼神社を守っていたとして、それから何度か時の権力者に移譲され、源重定が1221年に代官となった・・・と云うことで、この人物が九里とイコールということではない、と思う。
しかし、源氏に組み込まれていった可能性はある。それが、賀茂員定であり、九里員定、と繋がると考えた理由である。
そして、驚いたことに、下の記載のある【藤原爲世(二条)】の妻は【賀茂氏久】の娘である。そして、賀茂氏の系図がデジタルでwebにあるのだが、その氏久の息子に【経久】がいるのである。・・・ということは、この氏久の息経久は、賀茂であり、九里の祖なのではないだろうか。つまり、この爲世の妻と同父である。(兄弟姉妹)
正室が、賀茂氏久の娘である。爲世の娘には尊良親王・宗良親王の母となった女性がいる。
また、西園寺公衡の室となった女性もいる。
さらに、下記の洞院前右府とは、西園寺公衡の事であり、また西園寺家との関係がクローズアップされるのである。
源重定
【国名】 近江
【郡名】 蒲生
【荘園名】 比牟礼庄
【フリガナ】 ヒムレ
【重複コード】
【参考市町村】 近江八幡市
【市町村コード】 25204
【明治村字名】
【史料村郷名】
【領家・本家】 皇室領・歓喜光院領・八条院領・二品尊性法親王家領
【初見年和暦】 安元二年
【初見年西暦】 1176
【出典】 内閣文庫蔵山科家古文書・門葉記・竹内文平氏所蔵文書・比牟礼八幡神社文書・大報恩寺文書
【遺文番号】 ヘ5060・カ5512・カ22661
【記録類】
【関係文献】 無
【地名辞典】 角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
【備考】 比牟礼神社あり・カ22661嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)
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そして、以前から蓮忍は九州に【深江蓮忍】もいる!と気になっていたのだが、とうとう名前がわかった。(歴博データベース)
この人も、また同一人物と考えても良いのではないだろうか。(次回で詳しく述べる)
1247年に 平朝澄譲状案 として、深江文書に残っており、宛所が深江入道蓮忍となっているのである。(肥前国)
下のデータベースを見ると、弘安八年(1285年)地頭肥前左衛門太郎経久であり、上の譲状と合わせて考えると、どうしても同一人物になってしまう。しかも先祖伝来の【多賀僚(ママ)】…という地名も見える。
しかし、一人の人間が、但馬にも、肥前にも、丹波にも、因幡にも、近江にも、いるわけにはいかないので、そこはこれから調べようと思う。
【国名】 但馬
【郡名】 出石
【荘園名】 菅庄
【フリガナ】 スゲ
【重複コード】
【参考市町村】 出石郡出石町
【市町村コード】 28561
【明治村字名】 細見・荒木・福見・暮坂・菅谷
【史料村郷名】 南方・北方・宗友名・貞行名・貞久名
【領家・本家】 石清水八幡宮領
【初見年和暦】 保元三年
【初見年西暦】 1158
【出典】 石清水文書・但馬川崎文書・但馬国大田文・石清水田中家文書・川崎文書・帝釈寺文書・県神社誌
【遺文番号】 ヘ2959・カ3965・カ15774
【記録類】 『三代実録』貞観10,閏10,21(菅神)
【関係文献】 無
【地名辞典】 角川地名=出石町荒木を中心に、菅川流域と菅谷の谷あい地域=保元3石清水八幡宮領、延喜式内社須義神社鎮座=弘安8、41町7反余=北方と南方に分割
【備考】 弘安8但馬国大田文に「菅庄41丁7反300分(八幡宮領)」とあり・北方地頭肥前左衛門太郎経久、南方地頭多々良岐孫太郎長基