九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大江通景の周辺 

2024-03-14 | 清原氏バラバラ情報
藤原以成の父であった大江通景。
通景の妻は藤原成実(白河上皇の院武者所に出仕)の姪で、斉藤為盛の兄弟姉妹の関係だったようだ。

斉藤為永の娘と大江通景の息が斎藤以成
斉藤以成の息が以邦
以邦の息が清原信定の養子となり清原清定となる。

大江+斎藤→清原となっている。











大江通景:天治元年:前伊勢守・白河院の院庁の主典代(『高野御幸記』同年十月二十一日条)

 近江国の伊香郡にいた中原政康は気比神社に仕える神官となっていた。場所的に近い。



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藤原氏 斎藤氏 清原氏 大江氏 が「清定」が繋ぐ。

2024-03-14 | 清原氏バラバラ情報
福井県史 通史編1 より


越前国押領使 伊傳 のあとに為延がくる。
左下に「以成」がみえる。
この「以成」が「以邦」の実父である。さらに以邦の祖父は大江通景という。
其の以邦の息が清原信定(進士判官)に入り「清定」となる。
清定の息「長定」は斎藤を称している。(疋田斎藤氏である。)

以成の父が大江ということは、清定の曽祖父が大江通景である。
応徳三年(1086年)・寛治元年(1087年)学生大江通景と朝野群載に記述があるそうである(後には大外記・伊勢守になっている)




大江氏と斎藤氏と清原氏の接点がこの「清定」なのだろうと思う。





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清原祐隆 (3) 斎藤氏とのつながり

2024-03-13 | 清原氏バラバラ情報

浄命は浄明となったようで、定隆の息に登場する。
浄明の曾孫である信定の養子として清定が入る。(藤原以邦の息・・・利仁系の藤原氏)
清定の息である斎藤長定(浄円)が評定衆・政所寄人・清原満定が評定衆として鎌倉幕府で活躍する。









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清原祐隆 (2) 中原氏とのつながり

2024-03-13 | 清原氏バラバラ情報
清原祐隆の息であった祐安(有安)は中原師元の養子となり、
娘は中原師業に嫁いでいる。


出納の平田家も祐安からの系である。

その祐安が近江国御家人井口中原系図の中の【景康】を養子に取ったのではないか?というのが、私の説である。
間違っているかもしれないが、年代的にはほぼ一致していると思う。

中原景康が、大江久康(久兼の孫)を養子に取ったっことで、清原氏と中原氏と大江氏が繋がってくる。

其の景康の息に光氏がいる。

景康は、祐安と出会う前は、神官として安芸のいつくしま吉備津宮にいた人物の息であったのだろうと思う。
ここが解明されれば、近江国井口中原系図に記載のある「景康」かどうかがわかる思う。

清原頼業の息良業が安芸権守となっていることと、景康が安芸に赴いていた事と関係はあるのだろうか?
それとも中原師行の方の関係で?


もっと鎌倉幕府に近い人物であったとすると、親実・師員の許で働いていたのだろうか?
親実の世代と師員の親の世代に祐安と景康が出会った時代と重なるのだろうか?

藤原親実=中原親実

中原師員


中原師員は、実は師茂の養子である。(大友文書)
師員は親能の第四子となっている。鎌倉生まれ、とある。
叔父が師茂…となると、中原忠順も師員の叔父なので、忠順と師員は兄弟となるかもしれない。



何処かに安芸のいつくしま吉備津宮にご縁のある方がいるはずであろうと思っている。
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清原祐隆 (1) その周辺 

2024-03-05 | 清原氏バラバラ情報

系図を見ると祐隆の父は「定康」祖父は「定滋」となっている。
では、石見守となっていた定隆は??

そして祐安(有安)は『中原師元子』とある。


上のアドレスより、関係部分を貼らせていただく。











下記の系図の三代略の部分は
定滋ー定康ー祐隆である。

そして、教隆は金沢文庫の設立に貢献する。
コトバンクによると
「1199-1265 鎌倉時代の儒者。
正治(しょうじ)元年生まれ。清原頼業(よりなり)の孫。家学の明経(みょうぎょう)道をつぐ。鎌倉幕府につかえ,将軍九条頼嗣(よりつぐ),宗尊(むねたか)親王の侍講となる。金沢実時(さねとき)をみちびき,実時が金沢文庫を創設するうえで影響をあたえた。晩年京都にかえり,大外記(だいげき)となる。文永2年7月18日死去。67歳。初名は仲光。 」




以前調べた箇所にも繋がってくる。

もうすぐ金沢文庫へ行く予定。どうか地震、起きないで欲しい!!
清原教隆様に守って欲しい!
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清原真人正基 (2)越中守 と 越中権守中原成俊

2023-05-18 | 清原氏バラバラ情報

中原正基から姓を賜わり清原となった真人正基は、どのような働きをしていたのだろうか?

貞観十六年(874年)中原正基 清原姓を賜る

延喜十年(910年)7月 越中守であった。(次の人物が越中守となったのは920年となる。)

 

 

 

 

 

因みに中原成俊〈天治元年(1124年)10月〉二年弱

清原頼業も、清原頼業〈安元2年(1176年)1月〉より3年間 、越中守であった。

 

上記の成俊という名は、近江国御家人井口中原の系図にも記載はあるが同一人物なのだろうか?

越中守の中原成俊が井口中原系図の人物ならば、越中守と記載があっても良さそうなのだが。

この人は、中原経行・成行の父に当たり『伊香三郎』として伊香郡に住んでいたひとであり、その息である中原経行は越前権介、伊香郡司判官代となっている。

 

この中原成俊、次にの記事でもう少し掘り下げてみようと思う。

 

 

 

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平賀氏 と 大内氏

2022-09-05 | 清原氏バラバラ情報

平賀氏は源の新羅三郎義光の子孫となる。wikipediaより関係しそうなところをコピペする。

新羅三郎義光の子盛義佐久郡平賀邑を有したことに始まり、子の平賀義信の代に、源氏御門葉として、また御家人筆頭として隆盛を誇った。

義信の子惟義は文治元年(1185年)に相模守となる。2代将軍頼家以降では京都守護として活躍し、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、更に朝廷の後鳥羽上皇の近臣となり、大内冠者と呼ばれた。最終官位は修理権大夫で四位に昇進したと考えられる。惟義は、承久元年(1219年)正月27日、3代将軍実朝の右大臣昇進の鶴岡参宮行列に列したのを最後に記録上から姿を消す。

 

惟義の弟朝雅は、父義信に次いで武蔵守となり、北条時政の娘(牧の方所生)を妻に迎えて京都守護と伊賀・伊勢の守護を兼ね、さらに伊賀の国主と栄達を重ねるが、義父時政の寵愛が災いして元久2年(1205年)牧の方が朝雅を将軍にしようとした陰謀(牧氏事件)が発覚、京都で誅された。

朝雅の死後(時政の失脚後)も惟義の権威は揺らがなかったが、鎌倉幕府内では執権北条氏の権威が確立し、当初は御家人筆頭であった席次も北条氏の下座に着くようになる。また惟義の後を継いだ惟信は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方に付き、平賀氏は没落した。

👇

平賀氏が大内氏となる。石見国を調べていると久利氏と大内氏のやり取りが見える。(久利家文書)

大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人清和源氏義光平賀氏の一族で、大内惟義嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。

 

 

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清原業恒 と 儒教の師であった小野吉柯 

2022-08-14 | 清原氏バラバラ情報

前回の片岡氏を調べていて、壬生氏・小槻氏に出会い…そのうちに凡海 麁鎌(おおあま の あらかま)に出会った。

兎王の記事で、安曇氏(阿曇氏)には触れていなかったのだが、伊香郡に安曇氏も在住していたと思われる。

天武天皇の養育係であったともいわれる凡海 麁鎌(おおあま の あらかま)。

つながりが、清原氏に見え、小野氏とも繋がってくる。

 

http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/zakki/azumino/azumizoku.htm

 

下記のアドレスの論文に記載のある【吉柯

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/3224/1/0160_034_001.pdf

 

http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-42.html

清原業恒の子供に広澄・近澄がおり、広澄が家督を継いだが、男子が無く、弟の近澄の子供「頼隆」を養子とし、この流れが朝廷の大外記職を世襲して貴族清原氏が継続することになる。

ところが、上記清原広澄は、古代豪族小野氏の末裔である「小野吉柯」の養子になったという説がある。しかし、小野系図には、この養子は記録されていないのである。清原広澄が小野姓を称したことは無いらしい。

 

業恒
父:海信恒(麁鎌の7世孫) 海宿禰業恒  養父:房則?  母:不明
子供:広澄・善澄・近澄 兄弟:海薫仲  別名:業経 業垣
古代豪族 安曇氏の流れである海氏から養子に入ったか。
この系が貴族清原氏の本流となる。群書類従記事
正五位下、左京大夫、勘解由次官
群書類従系図:1004年海宿禰を改め清原真人となる。儒業小野吉柯門人也。
  小野瀧雄二男。

広澄(934-1009)
父:業恒 母:不明
子供:養子:頼隆(実父:周防守清原近澄
儒家石見守小野吉柯(小野篁の従兄弟)の養子説あり。
 (群書類従記事)儒家清原氏祖
正五位下 大外記 大隈守
通常の小野氏系図にはこの人物名は無い。

清原の系図の中に【吉柯】はある。 

頼隆(979-1053)
父:近澄 養父:広澄 母:不明
子供:定滋(1003-1054)・定隆(1018-1072)など
大外記職を世襲とする。正五位下河内守


 

海信恒(麁鎌の7世孫)の息広澄・近澄を清原氏を称しつつ、小野吉柯の養子とした、と読める。

小野吉柯は石見・伊豆守であった。

久利と関係のある定隆もまた石見守である。

広澄・近澄は血族としては海氏(凡海 麁鎌(おおあま の あらかま))を継ぎ、且つ清原を称し、小野氏の養子となった、と

https://rekisisuki.exblog.jp/30390442/

 

ところが、東京大学DBを調べてみると年齢がはっきりとわかる記述が残っていた。

小野吉柯 天徳元年 22歳 ・・・ 935年生まれが判明

清原広澄(海広澄)寛弘6年 76歳没 933年生まれが判明

清原近澄     天喜元年 75歳没 978年生まれ判明

 

小野吉柯と清原広澄は同年代であり、(小野の儒学の門下であったかもしれないが)

広澄と近澄は兄弟とはいえぬほど年が離れている。

更に頼隆が979年生まれで、近澄が978年生まれなので、兄弟となりそうな年齢となる。

 

他に、(右近小弁)小野恒柯という人物もいたそうで、業恒の「恒」と吉柯の「柯」からとられた名前と思われる。

 

 

実況中継のため、まだよくわからないが、この系こそが祐安(有安)につながり、中原となり、近江の中原景安(景康)とつながり、関東と繋がってくるのである。

 

 

 

 

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清原清定 息は「長定」= 評定衆の【浄圓】(追記)

2022-01-01 | 清原氏バラバラ情報

清原清定

尊卑分脈』は,実父を藤原時長の子孫以邦,清原信定の養子とする。(コトバンク)

私は【以邦】は、疋田斎藤以忠の弟なのではないかと思う。

そう思って調べると稿本国史眼という本に以下のようにあった!

 

この信定の方、文書によっては「信定、笠氏」と出てくる。

笠氏とは笠原のことだろうか?

違うようで「笠氏」がいた。コトバンクより

古代の吉備の豪族。《古事記》《日本書紀》の伝承によれば,景行(天皇)の妃となり日本武(やまとたける)を生んだ播磨稲日大娘は同氏の出身で,日本武とともに蝦夷遠征に功のあった吉備武彦の娘は日本武の妃となり,吉備武彦の子の鴨別は仲哀(天皇)の熊襲征討に功があり,応神(天皇)の妃の兄媛や仁徳(天皇)の妃の黒媛も吉備氏の出身という。これらを通じて,大王家に女を入れて婚姻関係を結び,その軍事行動に参加するという形で,大王勢力と結合関係にあったことが知られる。…

此処にも記載があった。↓

https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%B6%9A%E5%90%89%E5%82%99%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%8B%E3%82%89/-LIJWxJNwoMC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E7%AC%A0%E6%B0%8F&pg=PA22&printsec=frontcover

 

https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E5%90%8D%E6%89%80%E6%97%A7%E8%B7%A1/%E5%88%9D%E7%80%AC%E9%81%93%E5%91%A8%E8%BE%BA-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%AF%BA%E3%81%BB%E3%81%8B/%E7%AC%A0%E8%8D%92%E7%A5%9E/

 

===*===

因みに野本に養子に入った笠原氏をキーワードに調べると、天武天皇の息磯城皇子の裔に見える。

こちらも天武天皇。

清原氏も天武天皇の裔。

江州中原氏も天武天皇の裔。

 

 

 

 

 

 

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五條局は清原氏の娘ではないか?

2020-01-10 | 清原氏バラバラ情報

下総局と共に、源実朝より所領をいただいた小山宗政いわく「青女」の一人。

「五條」という名は京都か奈良の出身と連想させられる。
のちのち「五條氏」を名乗ったのが、清原頼業の息「良業」の系である!

大外記清原頼元からとなる。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/gozyo_k.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9D%A1%E9%A0%BC%E5%85%83

何故五條氏と呼ぶに至ったか。

天平のあたりから五条家文書に清原氏が登場している。
関係があるのだろうか?

memoとしてここに留めておく。

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