九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

高山氏 平姓・摂津 いくつかの流があるようだ (1)永原氏との接点

2022-12-23 | 永原氏

昨日、キリシタンのことを調べていて「高山氏」が気になった。

まず、wikipediaを読むと、以下のようにあった。

 

桓武平氏良文流の秩父氏の一族。秩父重綱の三男である秩父三郎武蔵国高麗郡高山邑埼玉県飯能市高山にある高山不動に名を残す)に住んで高山三郎を名乗り、初代高山三郎重遠となる。

後に重遠は上野国緑野郡高山(群馬県藤岡市美九里地区字高山)を本拠とし、重遠の嫡男重久(重昭)が高山を継ぎ、弟の重幸は緑野郡小林邑に移り小林氏の祖となる。 この頃から重遠の一族は高山党と呼ばれるようになる。

大治6年(1131年)緑野郡に伊勢神宮領高山御厨が置かれる。

上野国群馬県多胡郡源義賢との結びつきをもったようで、高山重久の代に木曾義仲が挙兵したとき、横田河原の合戦に参加している。(高山党の西七郎、平家軍の富部三郎と戦う)その後源範頼軍に参加

元暦元年(1184年)12月、高山重遠、熊谷四郎ら佐々木盛綱に従い備前国児島で平行盛を破る

 

まず注目したのは、秩父氏、さらに緑野郡と云えば片岡氏がいた場所でもある。佐々木盛綱に従っていた点も注目である。

此の平姓の高山氏は勤王の「高山彦九郎」につながる系となっている。

 

では、摂津の高山氏は…

高山右近の息が永原三女のことの記載があった。

http://ebible.jp/ukon/ukonkakei.html

【永原家の系図に
高山右近の子忠右衛門が近江永原にいた永原重信の三女と結婚したと書かれている。
この忠右衛門が、亮之進と同一人物なのか、別人なのか不明である。】

 

下記とつながってくる。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/9cf5497a6bfeef66b886f8b003086c80

 

六角氏奉行人重信は、文明七年(1475)十一月六日(野洲郡兵主神社文書)から明応七年(1498)十一月二十一日(永源寺文書)まで奉行人として活躍し、署名した奉行人奉書六通を確認できる。連署人は後藤三郎左衛門高種(兵主神社文書)や(姓欠)久継(芦浦観音寺)・久健(醍醐寺文書)・久澄(永源寺文書)、および三上越後守頼安(芦浦観音寺・永源寺文書)である。
 さらに、重信の子と推定できる重隆も、延徳元年(1489)十一月十日から明応八年(1499)九月七日まで六角氏奉行人であったことが確認でき、三通の六角氏奉行人奉書に署名している。連署人は(姓欠)久継(小佐治・長命寺文書)、久澄(永源寺文書)である。この奉行人重隆を天文期の越前守重隆と同一人物とすると年代が合わない。また花押も異なり、奉行人重隆の花押はやはり奉行人重信の花押に似ており近親者と分かる。明応七年(1498)の菅原神社本殿棟札見える越前守重秀は、その翌年まで文書を確認できる奉行人重隆は同時代人であり、すでに六角氏奉行人として活躍していた重隆が一世代上と考えられる。『永原氏由緒』で重秀の養父とされる「安芸守重賢」は重隆であろう。
 永原氏の系譜伝承では、三宅系図では安芸守実高とする人物を、永原氏由緒では安芸守実賢とするように、「高」と「賢」が混同される。重賢も重隆の可能性が高い。

佐々木哲学校 の記事から拝借した。↑

https://satetsu.seesaa.net/article/201302article_6.html

 

越前守吉重 (佐々木哲学校にも吉重が載っている)

ここに出自関東という伝承があったようで、それが実は御殿場の永原だったのではないだろうか。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-nagahara.html

 

高山右近関係

http://yamagenjozo.xsrv.jp/murocho/aji/index_aji.html

 

つづく

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【永原】という地名 駿河 御殿場・近江・長崎 

2022-12-22 | 永原氏

遠江と秦野の中間地点 御殿場付近 前方後円墳があるそうだ。

 

他は、近江国内 昨日アップした長浜付近・近江八幡付近・野州郡内(室町期から見える地名のようである。また、九州長崎にもあるとのことである。肥前介であった永原朝臣永岑の関係かも知れない。

 

 

御殿場

中田遺跡や永原追分遺跡が後の歴史に登場する大沼鮎沢御厨とよばれるその大沼の、いわゆる湿地帯縁辺部と思われる地にあることは、注目に値するであろう。

大沼鮎沢御厨は、伊勢神宮の荘園 1193 頼朝の巻狩り

御殿場市の歴史 市政情報

https://www.city.gotemba.lg.jp/gyousei/g-1/g-1-1/53.html

 

キリシタン ゆかりの地を訪ねて

https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20100506_nagahara.php

https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20100629_nikorao.php

 

永原と云えば、キリシタンである。

そして九里の裔が匿われていたと思われる場所なのである。(父は深尾・母は九里・祖父母が永原であったと思う。)

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永原弟貞・永原最弟麻呂

2022-12-22 | 永原氏

 

この資料の中の永原氏を調べてみよう。(国史大系)

永原朝臣最弟麻呂 姉妹に藤原巨勢麻呂室がいる可能性がある。最弟麻呂の父は弟貞

         弟貞は、長屋王の息である。妻は藤原仲麻呂の娘。

wikipediaより ↓

延暦10年(791年従五位下に叙爵し、延暦15年(796年内兵庫正に任ぜられる。

その後、藤原朝臣から永原朝臣に改姓し、大同3年(808年)従五位上・諸陵頭に叙任される。また、同年12月には姉妹と思しき子伊太比恵子も同様に永原朝臣に改姓している[1]弘仁3年(812年豊前守を兼帯した。

恵子 弟貞の娘

   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8E%9F%E6%81%B5%E5%AD%90

子伊太比 弟貞の娘

門継 承和二年 835年 従五位下 紀名虎・小野篁と同じ時代。

貞主(下記の真人貞主と同じと思われる)

末継 承和十四年 846年 従五位下 藤原氏雄と同時代。

亭子  原姫のこと。 

永峯 肥前介であった。 百済王貞忠 清原真人惟岳と同時代 

真殿 ?

真人貞主 承和十三年 845年 従五位下 散位頭 長田王と同時代。

 

以上を見ると、この永原氏は秦氏と直には繋がっていない印象がある。それ以前のことからのつながりかもしれない。

 

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永原御息所 女御永原氏 

2022-12-21 | 永原氏

永原氏にこだわってみると淳和天皇の女御に【女御永原原姫(亭子女御) 】がいる。

その猶子が 源定(815年 - 863年)だという。

源定 コトバンク

没年:貞観5.1.3(863.1.25)
生年:弘仁6(815)
平安前期の公卿正三位。四条大納言,賀陽院大納言,楊梅大納言と称される。嵯峨天皇皇子で母は百済王慶命。賜姓源氏。母が天皇の寵であったためか幼少より父の愛厚く,父の退位後,淳和天皇に預けられ猶子となった。淳和はわが子以上に定を寵愛し,妃の永原氏に養育を託したことから世に「定には二父二母あり」といわれた。14歳のとき淳和天皇は親王にすることを嵯峨上皇に請うたが許可されなかった。貞観1(859)年,大納言に昇る。宮廷の奥に育ち性質は温厚で上品であったという。音楽を愛し,家には常にと鉦を置き,公務を退くとこれに耳を傾けたという。

 

*****

永原原姫

広隆寺に多額の財を寄進したことでも知られており、現在の講堂の本尊である阿弥陀像などは原姫によって寄進されものである。

 

何と、私の好きな像はこの永原原姫によって寄進された仏像だったのかもしれない。

広隆寺は秦氏の氏寺である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA#%E5%9B%BD%E5%AE%9D

 

平安時代の歴史と文学より ↓

緒継女王が永原氏を称した確証はないけれども、緒継女王は死の直前の十一月三日に、大和にあつたその田地家地を「家別当永原利行」に賜つてゐる(唐招提寺文書、平安遺文一原氏は世に「亭子女御」と呼ばれたといふ。また続日本後紀承和十四年十一月七日条 ...

 

wikipediaによると、この緒継女王に仕えていたのが永原原姫(永原亭子)という事のようだ。

源定を育てた女性であることには間違いないと思われる。

 

永原とは地名だったのか、はたまた父の苗字だったのか。

 

近江国内の「永原」を調べてみると、長浜・近江八幡・野州と何カ所か見つかった。

そういえば、余呉の「呉」も、呉から来た人々がいたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

アチラコチラに土地を持っていた永原氏。

佐々木氏が入ってくる以前は近江国全体にいたのが秦氏系の永原であったとか?

 

その後、中原が入り、佐々木氏が入り‥‥と??

 

 

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