九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

足助庄 矢作川 二つの足助氏を調べてみよう。

2022-11-12 | 源義経周辺 バラバラ情報

足助氏は二つあるようで、一つは源氏、もう一つは穂積姓の鈴木氏であろうと思われる。

 

一つ目、源氏の足助氏を見てみると、源為朝の娘と婚姻関係を持った足助重長(公暁の祖父)が有名と思われる。浦野氏・木田氏・葦敷氏と一族である。

前の調べでは、三河平氏となっている。

木田氏 (尾張国) : 「尾張木田氏」とも呼ばれる。

丹姓平氏良兼流長田氏(尾張平氏)の一門の浦野氏の系統である葦敷氏の庶家

尾張国海東郡木田郷(現在の愛知県あま市木田大字)を拠点とした。

同族に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏足助氏(三河平氏))・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏や三河平氏の大浜氏・永井氏などがある。

この尾張山田氏とつながる足助氏である。

 

 

 

*****

 

もう一方、穂積姓鈴木氏は、藤白鈴木氏であろうと思われ、源義経と強い関りがある鈴木氏である。最後まで義経に従った鈴木重家、また同じく義経に最後まで従った佐々木六郎と義兄弟の契りを結んだ亀井重清、下記の系図では兄弟となっているのだが鈴木重善(重家の叔父という説も…)

重善は善阿弥、この系図では叔父の位置に居る三河鈴木氏となった重時、等が見える。

源義経と鈴木氏とのつながりは、下記の論文を読むとよりわかりやすいかもしれない。

奈良教育大学学術リポジトリNEAR
鈴木重家物語の担い手とその展開-『義経記』成立考序説- 内田 源 氏 著

 

この叔父が重家、重清を追っかけて、義経軍に追いつこうとしていたのだが、足が痛くなり断念し、到着したのが矢作という場所で、足助の町である。後に自分では鈴木氏と称していたのだが、後に足助城主となったため、周りが足助氏と呼んでいたようなのである。

足助庄 ↓

矢作川 ↑

 

九里氏は、どちらとも関係がありそうなので混乱してしまうのだが、同じ足助という土地に住んでいたという事なのかもしれない。

 

更に、富士の宮下文書と絡んでくるかもしれない。??

 

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源行家(新宮十郎)・源義経・熊野別当家武蔵坊弁慶 と鳥居禅尼

2022-07-04 | 源義経周辺 バラバラ情報

義経を中心に据えると源行家は叔父、武蔵坊弁慶は従兄弟の可能性、鳥居禅尼は叔母にあたる。

その新宮十郎の源行家の娘に山田重忠の室になった人がいて、

その山田重忠の父 重満の兄弟に「彦坂重親、高田重宗(高田重家?)、白川重義、小島重平、足助重長らがあり・・・」とある。

足助重長の娘が【辻殿】であり源頼家の妻となった人物である。

 

公暁の母とも書かれている。

wikipediaには「(足助)重長は頼朝と直接的な関係もなく」とあったが、たしかに遠く、

叔父の源行家の娘の嫁ぎ先の山田重忠の父の兄弟の娘(つまり重忠のイトコ)が辻殿であった。

辻殿の母が、源為朝の娘であるそうだ。

「重長の子の重国・重広たちは美濃源氏として同族の山田重忠とともに木曾義仲の配下として治承・寿永の乱で戦って、重国をはじめ重広やその甥重兼が討死した。後を継いだ重知(重国の子)は、義仲が没落すると源氏の棟梁源頼朝に帰順して地頭となった。」

 

その近くに「木田氏」がいる。

 

 

 

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熊野と義経の壇ノ浦

2022-07-02 | 源義経周辺 バラバラ情報

熊野別当と熊野水軍―湛増期における熊野水軍の動向―
下田奈津美 著

https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2012/h2012_05.pdf

 

私にとって不思議なのは、この湛増の力が衰退した後のこと、小山氏が上膜として活躍が始まる。

何故、ここに小山氏が入り込むこととなったのか。

そこが知りたいし、重要な部分と思う。

http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/research/group2-5-5/index.html

 

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E7%BA%8C%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98/sqPMnjmIQuMC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E5%AE%88%E5%B0%8F%E5%B1%B1&pg=PP1047&printsec=frontcover

 

熊野水軍を湛増が指揮をして義経を支援した壇ノ浦。

後白河上皇にも取り入り、義経を通じて頼朝とも縁を深くしていこうという思惑は、頼朝と義経の縁が切れたことで、頼朝と湛増の縁も切れたのだった。

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%B6%B4%E7%86%8A

http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/research/group2-5-5/s8220f00000015x2.html

http://www.wakayama-nanki.jp/areaguide/hikigawa/index.html

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義経が鳥居禅尼をたずねた時、弁慶を紹介したのではないだろうか?

2022-06-28 | 源義経周辺 バラバラ情報

鳥居禅尼は源為義の娘。源義朝の異母姉という。

一方、義経は源義朝の息である。つまり義経から見ると叔母にあたる。

 

そして鳥居禅尼の娘の1人は、18代熊野別当湛快[1](1099年 - 1174年)の次男湛増(21代熊野別当)の妻になった。ということは、その湛増の息に武蔵坊弁慶がいたことになる。

義経から見ると叔母の娘は従姉妹で、弁慶はその息子である可能性もある。

が、

下記の系図では湛増が実は為義の息であることになっているので、湛増が義朝の兄弟となる。

つまり義経から見ると湛増自身が叔父であり、叔父の息子が弁慶となると、義経と弁慶は従兄弟関係となる。

 

 

和歌山の九里は熊野本宮の社家の高須家と養子縁組をしていた。

さらに、高須家はもともと大江氏であった可能性がある。(系図が繋がっている)

とすれば、九里は中原氏、高須氏は大江氏で、鎌倉時代は系図が重なっている部分もあり、ごく近い関係であったと思われるため、後々まで養子縁組となったのかもしれない。

 

忘れないうちに書いておくと、高須五十規(いつき)は国学者であって、訳あって幕府より逼塞となった際に、上の系図にある鵜殿家に助けてもらったように思う。

詳しくは、また調べてから書きたいと思う。

 

九里の系図に「住熊野」とあるが、鎌倉も中期くらいのことだろうと思う。

九里氏は、鎌倉初期から中期に中原氏から近江国・紀伊国・(下総国)に活躍の場が別れていったと思われる。

九里氏としては、近江八幡の九里村・奥嶋の周辺・紀伊国は熊野本宮・新宮が在住拠点となり、

富木氏としては関東、富木常忍のいた下総国中山法華寺周辺と上総国藻原が在住拠点となったように思う。

 

九里氏は紀氏・一井氏・浅小井氏・目賀田氏と元からつながりがあったか、鎌倉時代に出来たかで、管轄であった舟木庄に土岐氏が逃げてきた際に咎めもせずにそのまま暮らせるようにしていたことからもわかるように、紀氏とは深く繋がっているのだろう。(土岐氏は石清水八幡宮紀氏と密な関係であった。)

そして富木氏も国東半島の周辺の紀氏とつながりを持っていたのではないかと思う。

 

紀氏の「紀」は紀伊国の「紀」でもある。

沙沙貴神社の社家である木村氏も「紀氏」と関係が深いと思う。

戦国時代には木村氏に大変ご迷惑をおかけしている九里なのであるが。。。

 

 

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吾妻鑑の中に【武蔵坊弁慶】がいた!

2022-06-28 | 源義経周辺 バラバラ情報

弁慶のwikipediaに吾妻鑑の中にいる弁慶の記載があった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9D%8A%E5%BC%81%E6%85%B6

 

 

 

 

 

 

 

この武蔵坊弁慶は、なんと亀井六郎に手紙を書いていたのだ。

そして、湛増の息となっている。

湛増の祖父長快は鳥居禅尼の婿である【行範】の祖父でもある。

鳥居禅尼の父は源為義である。

 

この那智執行家・新宮大門家とつながったのが、和歌山の九里氏と思う。

 

 

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藤白鈴木氏と佐々木秀義六男 亀井六郎重清と近江国の新宮氏

2016-07-28 | 源義経周辺 バラバラ情報
藤白鈴木氏が気になるので、調べている。

姓氏と家紋の「鈴木氏」によると、
「 鈴木氏は佐藤氏についで日本第二位の姓となっている。鈴木氏の出自は、桓武平氏北条氏流・同千葉氏流・ 秀郷流小山氏一族・清和源氏仁科流などいろいろあるが、最大の系統は、熊野発祥の物部氏系穂積氏流の鈴木氏だ。」ということである。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/suzuki.html

https://miss-suzuki.com/history



亀井六郎重清が佐々木秀義の六男ではないか~のほかにも、その亀井氏の尼子氏に入った系に「山中鹿之助」が婿養子にはいっている。


そして大きな自分なりの発見としては、中原成行の孫季仲(または秀仲)の系に佐々木六郎重清がいるのではないか~という仮定であり、その重清は吉田厳秀自身か、近い人物であろう…という仮定である。

なぜならば、歴博のデータベース

【国名】 近江
【郡名】 愛智
【荘園名】 日吉庄
【フリガナ】 ヒエ
【重複コード】 2112009 2112010
【参考市町村】 犬上郡豊郷町
【市町村コード】 25441
【明治村字名】

【史料村郷名】 上庄・下庄
【領家・本家】 円城寺領・愛智新宮領(日吉社末社)
【初見年和暦】 文永六年
【初見年西暦】 1269
【出典】 東寺百合文書・中原氏系図
【遺文番号】 カ10471
【記録類】
【関係文献】 無
【地名辞典】  荘園志料=神崎郡建部庄内に上日吉村(八日市市)、山前五箇庄内に下日吉村(五個荘町)あり・角川地名=五個荘町、八日市市=日吉末社愛智新宮領か
【備考】  平凡地名=旧愛知郡日枝村とする説あり・→2112018「日吉保」参照・神崎郡説とあれば五個荘町とするが、いま犬上郡豊郷町説をとる

の、犬上郡豊郷町をしらべると、地図の中に愛知神社(これが成行の孫が養子に入った新宮社であることを願うが…)と吉田、そして目加田までもが揃っているのである。
もう少し深めないと説得力はないと思うが、今日のところは収穫有!という感じがする。

どうして「新宮」にこだわって来たのか…自分でもわからなかったが、なぜかつながったのである。
これが、九里とつながればうれしいのだが、ともかく中原氏とはつながった。



以前書いた記事 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/0838ad751681bd213cf7a506129d8ee3




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義経周辺の藤白鈴木重定

2016-07-27 | 源義経周辺 バラバラ情報
源とは書かれてはいないが、同時代の重定で気になっていた【藤白鈴木氏】の重定。

源行家の母親が、藤白鈴木氏の鈴木重忠か・・・といわれている~とwikipediaにあったため、以前調べてみた時に【鈴木重定】なる人物を発見。

しかも、重定の甥である鈴木重家と亀井重清が、源義経に仕える。

その義経のはからいで、重家と(実は佐々木秀義の六男であった)=重清と義理兄弟となったというではないか。

…そう、佐々木氏がここで登場する。重家は1156年生まれ、そして重清は1161年あたりの生まれであろうと仮定する。

1113~1136年あたりが重家の父親重倫の生まれた時期と考えると、1156年に合戦デビューを果たした可能性の高い源重定も藤白鈴木重定も、ほぼ同じ時代を生きている。

保元の乱の時に源重定が16歳で、1140年生まれであったなら、藤白鈴木重倫の弟であるといわれても、年齢的には違和感がない。

鈴木重定のwikipediaはないが、父親の重邦の息子の欄に「鈴木重定 - 系図に「衣川没落終為宇都宮家客」。下野鈴木氏の祖。」とある。



重定のすぐ上の兄重善の記事があるが、非常に興味深い。

wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%96%84

この記事によると、甥たちを追いかけたが、途中で義経と共に果てたのを知り、三河に土着した。それが三河鈴木氏~となっている。

その居ついた先が、三河国加茂郡矢並郷だそうである。そして、足助という名前も見える。(時代は戦国時代になってしまうが…)

この三河鈴木氏はのちに、彦根城の普請にかかわったりと井伊直正とつながるのである。


足助氏といえば、源重遠~浦野重直~六男 足助重長(加茂六郎)となり、これはもう、源と藤白鈴木の関係はあるのでは!と予感から確信になってくる。

ぐるりと、外側から回ってきた感じはするが、もう一度【源行家】を見ると、やはり、行家の母親が【鈴木重忠の女?】

そして、行家の娘を山田重忠(浦野重直の息子)に嫁がせている。名前が同じなのは、どちらかが違っているということなのだろうか? それとも別人なのであろうか?


…とても怪しい、と思う。


そして、藤白鈴木氏の本拠は、新宮である。

新宮十郎、こと源行家である。








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