九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原祐安と藤原公重

2016-08-29 | 平頼盛周辺 バラバラ...
中原祐安と藤原家の関係を読み解きたい。
中原師遠の娘が藤原公重の妻である。

藤原公重
生年は元永二年(1119)とも。閑院流公実の孫。権中納言通季の息子。母は藤原忠教女。公通の同母弟。子に内大臣実宗・参議実明がいる。
父に早く死に別れ、叔父実能の養子となる。紀伊守・侍従・右少将などを経て、正四位下に至る。
『治承三十六人歌合』に選ばれる。家集『風情集』がある。詞花集初出。勅撰集入集歌は計六首。

通季の息に公通・公重の二人がいて、公通の息には九里と関係があるかもしれない実明がいる。
通季が亡くなったときには、公通は11歳。公重は10歳であった。
そこで、公重は叔父の徳大寺実能の養子となったのだ。

公重の妻に中原師遠の娘が嫁ぎ、中原と藤原家のつながりができていた。

そして、その師遠の娘は師元の姉である。
師元は、清原家から祐安を養子として入れた。
その中原祐安の義理の兄弟に平清貞がいる。

清原の実兄には頼業がいる。




                                                

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源義親を迎えに首藤資通が行く。

2016-08-29 | 平頼盛周辺 バラバラ...


1101年(康和3)7月7日…義家が、暴れている次男対馬守義親を召喚させるのに派遣させたのが山内首藤氏の首藤資通。
どうしたわけか、迎えにいったはずの首藤資通も義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまうことに…。
翌年、12月28日、ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定。




この山内首藤氏の祖【首藤資通】奥州後三年の役に登場します。その時、13歳。

そして、wikipediaによると

『首藤資通の祖父、藤原公清は秀郷流藤原氏で、従五位下左衛門尉検非違使。京武者であり、その系統の多くは佐藤を名乗る。その嫡流は鳥羽院に使えた北面武士、従五位下左衛門尉佐藤季清であり、その孫が、やはり鳥羽院に使えた北面武士・従五位下佐藤兵衛尉義清、後の西行である。』

・・・と西行にまでつながる。

奥羽山内首藤氏の系図によると、資通の後裔に「畔蒜庄」寛元1畔蒜南北庄領主職=山内首藤清俊の清俊がいる。




坂上重盛が義親に同心して、義親と共に誅された。

その子は、中原定清に養子に入る。
清重(=清定)である。その清定の息子が清業である。

そして、私の持っている小説には「父親史大夫中原清貞が忠盛に仕えていた関係から、頼盛とは幼い頃から一緒に遊んだ仲で、頼盛は五歳年少の清業を弟のように可愛がってきた。」とある。

しかし、同じ時代に、平清貞がいる。
こちらの清貞はwikipediaによると『平清盛の養子。実父は大外記を務めた中原師元であり、兄に師尚がある。』となっており、子の師行は中原に復しているそうだ。1184年に亡くなったとあるが、文書には1297年平清貞と署名が残っている。(web東寺百合文書)


平に養子に行った方の中原清貞の実父は中原師元であり、養子に清原から来た中原祐安がいる。
その祐安から【 出納平田家/蔵人所深尾家】が始まる。

そして、祐安と「清原頼業」は兄弟である。


【深尾】という名前まで出てきてしまった。。
















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平頼盛周辺

2016-08-28 | 平頼盛周辺 バラバラ...
【清原頼業】というキーワードで、【中原清業】を思い出し、突然違う方向へシフト。

昨年も書いたのだが、違うかな…と自ら却下した【想像】だったが、やはりまた浮上してきた。


【中原清業】という人物。この人の父は、中原清貞。(清重の弟か、または同一人物)清貞は、坂上氏から中原定清へ養子に入っている。
清業は、坂上重盛の孫となる人物であった。(昨日は間違っていたので訂正。)

そのため【中原清業】は坂上(岡田)氏系図の中にいるそうである。
(日本の苗字七千傑「坂上氏」田村麿流に『岡田氏』として書いてあるのを確認した。)

坂上氏(岡田)・・・この岡田ということと、戦国時代に九里氏が大勢つぶされた後に、私自身の先祖が岡田という苗字に替えて過ごし、後に九里に改めて、九里の再興?となったことと関係がありそうである。

「岡田」という苗字はたくさんあるので、慎重に調べなくてはいけないと思う。

そして、平頼盛の郎党であった「中原清業」である。

また、下の系図の上に『義親同心』とある。義親の仲間であったのか、仕えていたのか。誅殺されているようだ。



源義親は、対馬守であり、子どもたちも対馬守であるが、為義にはついていないため息子ではなく、兄弟または庶子ではないかという説もあるそうである。

義親の妻は、高階基実の娘であり、義親の兄弟に義宗、(義親)、義忠、義国、義時、義隆がいる。
弟の義忠の妻は平正盛の娘(または妹)?であり、正盛の兄弟に忠盛・息子に清盛がいる。
このあたり、web情報も一致していない。

そして、平忠盛の五男は【平頼盛】である!
母は、入道修理大夫藤原宗兼の女、池禅尼である。それで、恩義に感じていた頼朝は池殿(頼盛)を大切に思っていたと思われる。

~~~*~~~

一方、清業は仕事で、播磨目代をしていた時期があり、その時の国司?は藤原実明であった。(次の代には高階経仲・・・とつながっていく。)

ここで、清業と実明はつながる。

目代とは、遙任国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のことである…とあるが、遥任国司とは、現地に赴かなかった国司のことだそうだ。

このことは、東京大学史料編纂所の検索ワードに中原清業と入れると、論文が出てくるので、それをご参照いただけると詳しく述べられている。

ともかく、ココはつながったのである。

そして、清業・実明とつながるということは、頼盛にも、義親にも、つながるのである。

まるで、蜘蛛の巣状態であるが、ともかく九里かその前身がどこかにいるはず!と思うのだ。

対馬守であった、九里も『鹿苑日録』に登場している! 九里源兵衛である。
また、江戸時代にも、対馬に赴いた九里九郎右衛門もいる。
対馬とは、ご縁があると思っている。

【岡山之城主始九里対馬守殿城築 之元主、其子刑部少輔…】と八日市市史にはある。
水茎岡山城の近くの「邇々藝志神社」に文書があるのらしいが…。。。。見てみたいものである。





そして、以前頼盛付近の記事を当ブログに書いてあるので、興味のある方はぜひご一読いただけると嬉しいです。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B


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