九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

下総局と三善康連が賜わった土地 三善氏と山内氏・大中臣氏と波多野氏 (改定)

2020-01-11 | 三善氏

下記のアドレスと文章は「妙覚寺」の御住職様の小論からである。
ヒントがたくさん詰まっているので、時折拝読させていただいている。

http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index130.htm

『中山の所領は実朝公のとき、康連が拝領した中山四郎重政の旧領であり、そのとき、富木氏の母も拝領したとあります。『境妙庵目録』(『本化聖典大辞林』上。六五二頁)。

また、(乗明の)妻の於経(恒)は道野辺右京の孫で、日蓮聖人と従兄妹といいます。(『高祖年譜攷異』・『門葉縁起』・『御書略註』)。

中山の土地は大田乗明のものであり、若宮が富木氏の所有であることは、大田乗明の父親と富木常忍の母親が縁戚関係であることになります。

乗明の祖先は源三位頼政で、丹州丹波五箇の庄、太田城に住していたので大田氏と名のったという。…』

***

三善康俊は親鸞に九条兼実の娘を嫁がせるために養父役をかって出ている。(兼実に頼まれたのかもしれないが)



親鸞の弟子に「順信」がいる。
片岡信広
父の片岡信親は、常陸国鹿島明神(現在の鹿島神宮)の大宮司であり(鹿島山金蓮院神宮寺も参照)、親鸞に帰依し、順信を弟子とさせた。

===*===

また、下記は三善氏と山内氏とのつながりを示すもので、偶然見つけたのだが、私にとっては重要な情報であった。

以下は飛躍…というか荒唐無稽かもしれないのだが、

三善康信の母は「源頼朝の乳母であった人の姉妹」であった。
大中臣倫兼の娘のことである。

この娘が山内尼であるかもしれない可能性を感じたからである。
しかし、山内尼は「中村氏の一族」ともいわれているようなので、これからじっくりと調べてみようと思う。

:::

三善氏が山内首藤氏に妻として入っている。



山内首藤系図に通景(小野寺筑前守、母三善氏女、建治三年四月廿三日家督相続)

:::

さらに、大中臣氏と山内氏・波多野氏とのつながりもあるかもしれぬと思って調べてみると、やはりあったのである。

大中臣能宣の母は、武州御嶽山の奉修理神主大中臣(藤原)清兼と清原氏女の娘であった。
其の清兼の父は大中臣国兼もしくは藤原国兼である。




http://musashimitakejinja.jp/yuisho/


:::

大中臣氏と波多野氏だが、波多野氏は荒木田氏・渡会氏と婚姻関係にあった。
それは、大中臣氏を仲介として関係ができたと思われるのだ。
しかも下記の本によると、波多野氏に仕えていたのが大中臣氏であったようである。



:::

山内氏に戻るが、山内首藤俊通と山内尼の孫に「中山通基」(波多野経俊の息)という人物がいる。山内通基という名で吾妻鑑に記載があるそうである。



この「中山」はどこから来たものだろうか。
通基は父である経俊とは違い、源頼朝に仕えた人物である。

そこで、今度は山内氏と下総国の所領を調べてみた。
すると「下総国豊田郷」を持っていたという話もある様なので、豊田郷を調べると「岡田」が出てきた。
しかし、この豊田郷はもう少し調べないといけないと思う。





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三善康経=太田康経=太田乗明ではないだろうか?

2019-12-18 | 三善氏


上の記述では、太田乗明は「五郎」ということなのだ。



しかし、三善五郎康家(左衛門尉)は、文永二年(1265年)三月に没しているので、乗明ではない。(乗明は1222-1283年)


1257年の記載
左衛門三善次郎盛村 (中原盛村が同時代に別な文書に見える)

三善康長   左衛門尉三善五郎康家

三善康長はコトバンクにあったのでご紹介したい。(善康長)
上野(こうずけ)(群馬県)勢多郡膳(ぜん)の領主。建長(1249-56)のころ将軍供奉人をつとめる。鎌倉幕府問注所執事の三善(みよし)康信の子孫で,善氏は戦国末までつづいた。通称は右衛門。

又、康継の系も太田を名乗っていたので、もしも乗明が五郎だとすればこの系の五郎かもしれない。康継の息は康遠と康綱がわかっている。
康遠は備後国太田荘地頭として1233年に記述がある。乗明はまだ11歳なので、これは別人。
康綱も同じく天福二年1233年に大田庄山中郷地頭三善康綱とあるので、これも別人であると思う。



康経→康常→常を「じょう」とよむ→乗「じょう」明「みょう」となる。

法名を決める際、どこかに自分の名前のヒントとなる漢字を入れているように思えるので、
「康あきら」という人物がいれば、その方が乗明かもしれない…が、いまのところ「康経」が乗明と思って調べている。





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富木常忍の最初の妻は太田(大田)乗明の姉であった。では、その太田氏とは?

2019-12-14 | 三善氏

富木常忍は、太田乗明の姉を妻としていたそうである。
さらに、その縁でなのか、太田氏と同じ「中山法華経寺」の若宮内の土地を得たともいわれているそうである。
そこがのちに「中山法華経寺」すぐ近くの「正中山奥之院」となる。(もとは同じ敷地内と思われる。)



この乗明が誰のことなのかをずっと探しているわけなのだ。
いまは4つの候補が挙がっている。

①三善康連の息(備後国世羅 太田庄)
②法橋太田昌明の裔(但馬国出石、大田庄)(石見国 銀山 大田?)
③越中国太田保(新川周辺)の大田氏(宮道氏裔)
④小山氏となる太田氏(行尊)
===*===

今までは「善信」三善康信の周辺と思い年代的に「三善太田康連」の息の一人と思って探してきた。

康宗と康有が明確にわかっているが、他にもいたはず!
康有の息は時連で、六角時信の娘は太田時連に嫁いでいるので、中原の祖を持ち、六角氏の家臣となっていた九里氏に近い。

六角時信の兄弟
兄弟 頼明、宗信、成綱、宗綱、時信、
    太田時連室、中山家親室(中山家五代目当主)

::

他に今日「康経」という人物を見つけた。1243年の記載がある。舎兄康宗とあるので、弟。

康連の息:太田康宗(康政)康有 康経   
康継の息:康遠 康綱

これで、康「明」とあれば、この人物が乗明ではないか…となるのだが、いまだ見つかってはいない。

康経は康常とも書けるので、その常を「じょう」と読み、「乗」に変えたのかもしれない。(想像)
因みに富木常忍(つねのぶ・じょうにん)は富城経〇(宣・延・信??)であったと想像している。


三善康経は民部三郎とある





===*===

1250年(建長二年)越中大田次郎左衛門尉と記載がある。

以下は、web情報からの部分コピーである。「日蓮大聖人と私」さんからである。
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-category-255.html

康連の子息にあたる三善康宗(やすむね)は太田太郎兵衛尉(ひょうえのじょう)とも太田民部大夫とも称しており、三善康有(やすあり)は大田七郎と名乗っている。

この他に大田(太田)姓を名乗っているもののなかで、大聖人とほぼ同年代に生きた人物を探ってみると、大田四郎左衛門尉、大田次郎、などの名が見える。
仮にこの二人を康連の他の子息と考えると、太郎(康宗)、次郎、四郎、七郎(康有)となる。
大田乗明を三善康連の子息とする説では多くが「大田五郎左衛門」としていて、康連の五番目の子として位置づけている。
康宗(太田太郎)も康有(大田七郎)もともに、問注所執事となっているが、大田乗明の立場に関しては、確たる資料はない。

大田乗明の所領であるが、曾谷入道殿許御書で「而(しか)るに風聞(ふうぶん)の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多(あまた)の聖教(しょうぎょう)あり等云云、両人共に大檀那為(な)り所願を成ぜしめたまえ」(一〇三八㌻)とあるところからも明白なように、曾谷教信と大田乗明は越中(現在の富山県)に所領があったことが分かる。

出典『日蓮大聖人御書講義』第十八巻上

===*===

これは昨夜見つけたのだが、

もう一人、宇治川で亡くなっている(1221年)善右衛門太郎(三善康知)を見つけた。

http://www.town.kamisato.saitama.jp/1309.htm


三善康知は、康朝と書かれているものもある。
しかし乗明は1222年生まれとあるので、当てはまらない。
年代的には乗明の叔父や年上の従兄弟にあたるだろうか。

===*===

越中国太田保
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/c2980c946d82d52961226a3bead7895d

http://www.seiryu.ne.jp/~ago-hida/root_of_ago/21_yurai.htm


他に、有力な太田氏を見つけたかもしれない。
というのも、「明」が付いているからであるのだが‥‥

これよりさきの86年源平合戦に功のあった法橋昌明は,出石郡太田荘を恩給され太田を名のるようになった。 

1221年(承久3)後鳥羽上皇の討幕の召集に応じなかった太田昌明は,承久の乱後但馬守護になり,京方についた前守護安達親長(あだちちかなが)にとってかわった。以後の但馬守護は太田氏一族の就任するところとなる。…

その太田荘から「太田」を名乗ったようである。


?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
はじめ延暦(えんりゃく)寺の僧。武芸にすぐれ,平家滅亡後は北条時政にしたがい京都の警備にあたる。のち,源行家追討,奥州藤原氏攻め,承久(じょうきゅう)の乱に活躍。法橋(ほっきょう)を称し,承久3年(1221)但馬(たじま)守護に任じられた。通称は常陸房(ひたちぼう)。

常陸国と関係があったのだろうか…

===*===

もうひとり、気になっているのが小山氏の祖である太田行尊
wikipediaによると

小山政光までの諸系譜

『尊卑分脈』 
兼光━頼行━太田行尊(行高)━行政━小山政光
なお『尊卑分脈』で武行は行尊の兄、行光は行政の弟とある。
また行範(行則)は頼行の弟の名としてみえる。
『群書類従』「小山系図」   
         
兼光━頼行━太田行尊━行政(宗行)━小山政光
『下野国誌』 
兼光━頼行━太田行尊━宗行━行政━行光━小山政光
「白河結城系図」
兼光━頼行━太田行隆━宗行━行政━行光━小山政光
(東大史料編纂所および『続群書類従』)
「藤姓小山氏系図」
兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)
「諸家系図纂 結城系図」   
         
兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)
行範は頼行の弟、行高が伯父頼行の養子となって家を継ぐ
『続群書類従』第155巻 系図部50「小山系図」 
         
兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光
『続群書類従』第155巻 系図部50「結城系図」 
         
兼光━頼行━兼行━太田行隆(宗行)━行政━行光━小山政光
兼行の弟に武行を置く。
『続群書類従』第156巻 系図部51「小山結城系図」 
         
兼光━頼行━兼行━行則━行高━宗行━行政━行光━小山政光
『続群書類従』第156巻 系図部51「結城系図」   
         
兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光
行範の兄に頼行を置く。
太田行高に伯父頼行の養子となって家を継ぐとの注あり。


太田行隆で調べると

龍蔵寺(白河市)概要: 龍蔵寺は福島県白河市字年貢町に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。龍蔵寺の創建は平安時代初期の万寿3年(1026)に当時の白河城の城主だった太田行隆が開創したと伝えられる古寺で、近世に入ると寺勢も増し、周辺地域の真言宗の中で触頭として統括する立場にありました。修行僧の学問所でもあった為、門末寺院は37カ寺を数え大きな影響力のある寺院で修験の袈裟頭も歴任しています。

上記の常陸房も、常陸の出身という事ならば、地理的には近いところにこの太田行隆(行尊)もいたという事になる。

この太田氏も三善氏も、出石と関係のある太田氏も、どれにも接点がありそう。
しかも頼政の系の太田氏、宮道氏の系の大田氏もいて、まあ判断ができない状態である。

同じ文官として…ならば、三善康経のことかもしれない。=太田康経。
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_2033-30

1245 寛元3 (乙巳)
 県内  3・- 僧隆胤,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院の再建を図る(覚城院文書)
     4・17 妙法院門跡公性,香東郡野原・山田郡林荘などの寺領を弟子尊恵へ譲
         る(妙法院文書)
     この頃 山田郡坂下荘の領家と地頭争い,六波羅探題での裁判のため,地頭代
         の三善康経が上洛する(高野山文書)






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三善康持・政康・宗康 → 町野氏 

2019-09-19 | 三善氏

大中臣の息のかかった?それとも紀氏の息のかかった?日蓮と3人であったように思う。
富木常忍・曾谷教信・太田乗明

その太田(大田)乗明は三善氏と言われているが、
どの人が乗明になるのかは、いまだに解明されていないようである。

その三善氏から町野氏が出ていて、近江に居住していたことは分かっている。
近江国蒲生郡町野である。

三善康持・政康・宗康から始まる「町野氏」であると思う。
ところが、
康俊 - 康持 - 康永 - 問註所康行 … [問注所氏]
という系もある。

町野氏を継いだ政康・宗康は、康の字が後ろについているため、ひょっとすると養子であるかもしれない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E9%87%8E%E6%B0%8F

鎌倉幕府問注所初代執事の三善康信の子孫が問注所執事や評定衆を務めていたが、町野氏の祖とされる孫の三善康持は宮騒動に連座して没落し、その子である政康・宗康の兄弟は六波羅探題の評定衆となった。

政康の系統は当主の町野康世らが六波羅探題と共に滅亡したが、宗康の系統は建武政権の雑訴決断所に出仕してその後室町幕府の評定衆となった

コトバンクの康持は、以下のようである。

鎌倉中期に幕府問注所執事や評定衆などを務めた実務家。本姓三善。三善康信の孫,康俊の子。町野民部大夫,加賀民部大夫などと称した。
暦仁1(1238)年評定衆に加えられ,また同年6月,父康俊が病で職を辞したあとを襲って問注所執事となり,寛元2(1244)年には備後守に任じられた。
しかし同4年5月,名越光時と前将軍藤原頼経の陰謀に加担したとして,同6月,問注所執事と評定衆の任を解かれ,問注所執事の職は同族の太田氏に相承されることとなった。<参考文献>竜粛『鎌倉時代』上
(新田一郎)

三善康連…太田氏(大田氏)
三善康持…町野氏
三善倫重…矢野氏

という事は、乗明は太田を名乗っていることから、町野氏の系ではないことになると思う。

三善康連は
父から備後国世羅郡太田荘の半分の地頭職を譲られ、同荘桑原方(現在の広島県世羅町)を所領する。とwikipediaにもあり、源頼政の所領であった世羅郡太田荘の地頭という所でつながりを感じる。

太田康連の息大田康有はコトバンクによると、

1228-1290 鎌倉時代の幕府官僚。
安貞2年生まれ。三善康連(やすつら)の7男。弘長(こうちょう)2年兄太田康宗(やすむね)の跡をつぎ問注所執事となり,評定衆もかね,在職は21年におよんだ。弘安(こうあん)3年美作守(みまさかのかみ)。公用日記「建治(けんじ)三年記」(「太田康有日記」)をのこしている。正応(しょうおう)3年5月11日死去。63歳。通称は七郎。法号は善有。

その兄 康政改め康宗は、上記の町野氏の名前が反転しているのだが…
1212-1265 鎌倉時代の幕府官僚。
建暦(けんりゃく)2年生まれ。三善康連(やすつら)の子。太田康有(やすあり)の兄。引付衆をへて,建長8年父の跡をつぎ問注所執事となる。正嘉(しょうか)2年には評定衆もかねたが,4年後の弘長(こうちょう)2年病気のため引退した。文永2年3月22日死去。54歳。初名は康政。

で、乗明は1222年生まれという。
この康宗と七男の康有の間にいる人物であろうと思われる

太田康有を経て太田時連となる。

~~~*~~~


八幡荘 ↓ 下総国

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E8%8D%98_(%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%9B%BD)

八幡荘(やわたのしょう)は、中世の下総国葛飾郡にあった荘園。現在の千葉県市川市の北部地域に相当する。谷中郷・蘇谷(曽谷)郷・中沢郷・大野郷の4郷から構成される。

保元3年12月3日(1158年)付官宣旨に記された石清水八幡宮領「下総国 葛餝別宮」(葛飾別宮)が前身と考えられる。

『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年)条の関東御知行国々内乃具未済庄々注文にも「八幡」とみえるが[1]荘園領主の記載がなく、鎌倉時代には千田泰胤から娘婿の千葉頼胤に継承されたとされ、富木常忍・曾谷教信・太田乗明らが代官を務めていたとされる。彼らは迫害を受けていた日蓮を迎え入れてこれを保護した。そして富木常忍は日蓮の没後出家して日常と号し、日蓮のため自邸に建てた法華堂を法花寺と改め第1世貫首となった。

太田乗明の子日高は父の屋敷を本妙寺として日常を後継し第2世貫首となり、後の天文14年(1545年)に古河公方足利晴氏から法花寺・本妙寺の両寺を統合する寺号として贈られたのが今日の法華経寺であるとされている。

元応2年(1320年)には、本妙寺俗別当であった頼胤の嫡孫胤貞から猶子であり第3世貫首の日祐に八幡荘の一部が譲与され(『中山法華経寺文書』元応2年12月1日付千葉胤貞譲状)、以後南北朝時代を通して八幡荘のほとんどの地域が胤貞流千葉氏によって寄進されて(『中山法華経寺文書』観応3年4月25日付千葉胤継寄進状など)法華経寺領として伝えられたとされている。

~~~*~~~

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三善氏から始まっている町野氏・太田氏・布施氏・矢野氏・飯尾氏・一宮氏

2019-02-20 | 三善氏

近江国日野庄町野郷にいた「町野氏」
蒲生氏の家臣でもあるのだが、下記(赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!さんより)

町野・太田・一宮・矢野・飯尾・布施等にに分かれて、鎌倉・室町両幕府の奉行人として存続した。その「三善系図」を見ると、三善氏の一部に近江国町野に住して「町野氏」を名乗った一族が在り、この町野氏も室町幕府で要職に就いている。飯尾氏はこの町野氏の子孫にはならないが、「飯尾宗祇」もこの系統の人物と見られる。

「宗祇」は若くして足利義満が創建した「相国寺」に入寺しており、「足利義満の母は越中蜷川氏から出た月海夫人」で在ると云う。「足利義満」の近臣として、又、「宗祇」の連歌の高弟として著名な「蜷川新右衛門親当」もこの時期に活躍して、文安四年(1448年)には蜷川新右衛門親当は死去している。

「宗祇」についての明らかな出自が分からないが、飯尾氏を名乗り、足利家所縁の「相国寺」で若くして出家しており、越中蜷川氏とも懇意で在ったと云う事から、又、「飯尾氏」が越中射水氏の子孫で在る事からの繋がりを考える時に、「飯尾宗祇」は越中射水氏の流れを汲む人物だった事が推定できる。

~~~*~~~

宗祇・相国寺というと、どうも九里氏の浄椿を思い出してしまう。
大中臣・中原・清原氏ともつながりがあるのではないだろうか、と思っている。

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自分なりの発見 三善氏の養女となった「玉日姫」

2019-02-19 | 三善氏

町野氏の系譜を調べていて、見つけた「玉日姫」の秘密

玉日姫は親鸞の最初の妻と言われている人物であり、九条兼実の娘である。

親鸞は日野氏である。
その日野庄町野郷にいたのが三善氏から分かれた「町野氏」である。





このことは「玉日姫」の実在の傍証となるのではないだろうか。


そして、もう一つ「月輪殿」というのが九条兼実の別名なのだが、比企郡にもその名が残されている。かつては、九条の所領だったのではないだろうか。




比企氏も(比企尼も)九条氏と三善氏と関係があるに違いない!



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「初代問注所執事 三善康信」三島義教 著 

2018-05-28 | 三善氏
「初代問注所執事 三善康信」三島義教 著
とうとう図書館から借りてくることができ、読むことができた!嬉しい!

九里氏に直接関係する記述はなかったが、
もしも「中原太郎蓮忍入道」が「富来中太蓮忍」であり、
その息がもしも常忍であったならば、
そして大田乗明(1222年(貞応元年) - 1283年(弘安6年))がもしも三善氏からの太田氏ならば、繋がっているはずなのである。三善康連の息なのだろうか?(3つも「もしも」が…)

その手掛かりが無いかなぁ~と思いつつ読んでいた。

気になったことは、
三善康信の母が「大中臣倫兼」の娘ということ+三善の系図の中の富来行倫の系に「倫」が付いていること。

「大中臣氏略系図」の中の那珂氏「経久」の父(経政)の部分に「時連」養子と書かれている事。(系図の中には「倫」の通字はない。)

この那珂氏の大中臣氏と三善康信の母である「大中臣倫兼」と何かしら関係があるのではないか?ということ。

乗明は三善康信の孫であり、康連の息ということだが、全ての息子の名前が系図にあるわけではなく、確かめることができないでいる。
(乗明は妙日という法名も持っている。)←メモ

~~~*~~~

乗明の姉と結婚し、妻を亡くした常忍は再婚したのだが、相手は橘氏であり日頂を産んでいる。

日頂上人(1252~1317)
建長4年(1252年)千葉で生まれる。父は伊予守橘定時。文永4年(1267年)に日蓮上人に帰依。母は富木尼御前と呼ばれた妙常。後に常林寺を創建。

~~~*~~~

富来常忍(富木氏)は、大中臣姓の那珂氏なのではないか?ということ。

☆富木蓮忍「中太蓮忍」と蓮忍の父「経任」と蓮忍の息「常忍」(祖父と同じ読み)
☆大中臣氏の二人の経久の存在。
☆賀茂氏の中の二人の経久の存在。
☆石清水八幡宮領の菅荘の経久。これは息が「太秦忠高」という人物である。(肥前左衛門経久)
☆深江蓮忍

~~~*~~~















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恵信尼 「ゑしんの里」

2018-04-28 | 三善氏

越後板倉 三善 で調べていて、こちらに出会った。
https://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/67/13_museum/index.htm

「京都の貴族三善為教(為則)の娘」とある。が、「母が為教の女であった。」という説もある。
この人は「大中臣為則」でもある。

この辺りに関しては「中世の越後三善氏」三島義教 を購入したので、到着を待って書きたい!

おなじ方の「三善康信―初代問注所執事」は、なんと札幌の図書館に入った!!!
只今予約中である。嬉しいの極みである。

何時入っていたのだろう?
前回に調べた際にはなかったので、本当に嬉しい。





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三善氏

2018-04-28 | 三善氏

ちょっと衝撃の「錦氏」の記事でした。そのままコピーさせていただきました。
http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/nishiki.htm


三善氏は渡来人系錦氏

錦(にしき)は錦部(にしきべ)に通じるという見方もある。即ち、渡来人の倭漢氏(やまとのあやし)に属し、近江滋賀郡錦部郷、浅井郡錦織郷などに根拠を置いた氏族で、阿智王(後漢霊帝の子孫、百済から日本に帰化、坂上田村麻呂の祖とされる)に随い帰化した随従漢人の一つという。

錦部村主は韓国人波努志(波能志)より出づるともされ、また錦部村主薬麻呂等について「後漢献帝苗裔」と三国志に登場する献帝の子孫とされていた。また正倉院文書に近江国の人として錦村主特万呂らの名前が出ており、別文書で浅井郡人錦村主清常刀自に位二階を叙したということも出ているようである。

また浅井郡の人錦曰佐周與蒲生郡の人錦曰佐名吉等に志賀忌寸を賜ったということもあったようである(曰佐はおさで通訳の意)。

渡来人としては河内国錦部郡や若江郡錦部郷にも錦・錦部に関する一族が多く、百済族で錦部連を称した。錦部連乙麻呂や錦部連安宗、錦部連三宗麻呂などの名が見られる。錦部連のうち錦宿禰(錦部宿禰)を賜る者もあり、貞元二年、三善朝臣を賜る

三善氏は漢の東海王の後裔とも、百済の速古王(近肖古王)の末裔ともいわれる。姓氏類別大観によると後漢霊帝の子が献帝、その子が東海王でその四代後が波能志でこの子孫が浅井氏、錦部氏、錦織氏とされる。

三善氏を称するようになった後も、旧姓の錦氏を称したようで三善清行の子が左大史を勤めた錦良助でその子が錦連行とされる。三善氏の人物として三善清継の娘で坂上田村麻呂の妻の高子、菅原道真に辞職勧告した学者で醍醐天皇に仕えて「延喜の治」を主導した宰相三善清行とその子浄蔵(京都一条戻橋の由来で知られる)、算博士として活躍した三善為長とその後継者三善為康、鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信、越後三善氏の三善為教の娘で親鸞の妻の恵心尼などがいる。

三善康信の子孫町野氏は近江国蒲生郡町野から苗字をとったらしく「欄干輪に違い鷹の羽」を家紋としているという。蒲生といえば戦国大名蒲生氏郷が近江国蒲生から伊勢国松阪に移り、最後に会津と米沢を領有したことを考えると三重県に錦氏が多いということで蒲生と一緒に米沢に来たものか。

ところが能登鳳至郡町野庄の地頭になった三善氏が後に町野氏を称するようになった説もあり、あるいは越中越後の三善氏との関係も考えられる。三善為康は越中射水の出で、末裔の越中豪族三善一守(小浦山城主で小浦一守も称する)は能登畠山氏に仕え、上杉謙信に仕えて子の内匠を人質に出したという。一守はその後、佐々氏、堀氏に仕えて最後は能登に移住し、松原氏に改姓して子孫が前田家に仕えたという。上杉に人質を出したこともあり、上杉家に残った一族が錦氏を称して移住したことも考えられる。



三善一守 能登畠山氏七尾の歴史 こちらに興味深い記事も見つけた。

久能利氏は三善氏と関係があるかもしれない。ということは富来氏(富木・富城)もそうで、つまり久能利=九里の祖、九里太郎蓮忍入道ということになりそうである。金沢の九里氏、九里甚左衛門正貞もこの系かもしれない。

 http://nanao.sakura.ne.jp/person/s-miyoshi_kazumori.html

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日野章経が三善章経であった。(大中臣氏系図の中)

2018-04-21 | 三善氏

大中臣輔親~輔経~親定~親仲
この大中臣輔親の娘が三善(日野)章経の母となり、大中臣親仲の母が「三善章経の娘」であった関係だ。ということは、親定の妻が三善章経の娘である。現代の感覚からするとやけに近いが、それだけ強く結びつく意味があったのだろうと思う。
そして、この日野氏と大中臣氏の関係、三善氏と大中臣の関係、









日野有国~家業~章経 この章経が三善章経ということになるのでは、と思うが、他にも章経がいるかもしれないので、注意が必要だと思う。

この有国がどのような人物であったのかコトバンクからコピーしてみよう。
没年:寛弘8.7.11(1011.8.12)
生年:天慶6(943)
平安中期の官人。もとの名は在国。従二位,豊前守輔道と近江守源守俊(一説に済俊)の娘の子。正暦1(990)年蔵人頭,次いで従三位(非参議)となる。翌年に秦有時殺害事件に連座して官位を奪われたが1年後に復位。大宰大弐を経て長保3(1001)年,参議となり修理大夫を兼ねた。摂政藤原兼家により平惟仲と共に「左右の眼」と重んじられた。摂関を子の誰に譲るか兼家から相談を受け,道兼を推したことで関白となった道隆(惟仲が推薦)に冷遇されたが,道長時代に復権した。妻橘徳子(橘三位)は一条天皇の乳母を務め,その皇子後一条天皇の乳付もした。博学で漢詩をよくし『勘解由相公集』2巻を著し,『本朝麗藻』などに漢詩を多く残す。応天門の変(866)で失脚した伴善男に容貌が似るところからその後身との説があった。

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有国の妻が橘徳子であったこと。
また、大中臣親隆の母(親仲妻)が橘宗季であったこと、その親隆の妻は卜部であったことも知り、日野氏のことが再び気になってきた。

日野氏(コトバンク)

公家(くげ)。藤原北家(ほっけ)流。右大臣内麿(うちまろ)の長子真夏より出る。その孫家宗(いえむね)が山城国(やましろのくに)宇治郡日野(京都市伏見(ふしみ)区)に法界寺(ほうかいじ)を創立、さらにそれから5世後の資業(すけなり)が11世紀なかばに法界寺薬師堂を建立し、以後日野氏を称する。儒学と文章を家道として朝廷に仕え、大学頭(だいがくのかみ)に任ぜられることが多かった。鎌倉末から南北朝内乱期にかけては、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の討幕計画に参画し、のちに処刑された資朝(すけとも)、俊基(としもと)がよく知られているが、他方で北朝に仕え室町幕府の創設に尽力した者もいる。室町時代には時光(ときみつ)の女(むすめ)業子(なりこ)が足利義満(あしかがよしみつ)に嫁いで以来、代々足利将軍家と縁戚(えんせき)を結ぶようになり大きな権勢を振るうようになる。「万人恐怖」といわれた足利義教(よしのり)の時代には、その室日野重子(しげこ)の長男出産を祝って多くの公家や僧侶(そうりょ)が兄日野義資(よしすけ)のもとを訪れたが、当時義資は義教の勘気にふれ謹慎中であったため、彼を訪れた60人の公家や僧がみな処分されるという事件があった。また1443年(嘉吉3)の南朝勢力による内裏(だいり)襲撃では、それに内応したとして日野有光(ありみつ)が滅ぼされている。さらに応仁(おうにん)の乱(1467~77)前後の激動する政局のなかで、足利義政(よしまさ)室日野富子(とみこ)と兄勝光(かつみつ)の専横ぶりは、多くの史料の物語るところである。江戸時代には家禄(かろく)1153石を得、明治時代に至り伯爵を授けられた。その支族には、裏松(うらまつ)、四辻(よつつじ)、烏丸(からすまる)、柳原(やなぎはら)、竹屋(たけのや)、日野西(ひのにし)、外山(とやま)、豊岡(とよおか)、三室戸(みむろど)、北小路(きたのこうじ)、広橋(ひろはし)、勘解由小路(かげゆのこうじ)などがある。[酒井紀美]

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その日野氏が大中臣氏・三善氏・橘氏・卜部氏とつながっていることは、清原氏・中原氏・大江氏とも繋がっていたのではないだろうか?

そのために、九里(久能利)が能登国で日野氏の家臣となることに繋がっていくのかもしれない。

少し、見えてきたような気がする。




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