前々回に、アバウトな年代を割り出したが、その後「五代の孫」の意味が、五代目のそのまた孫ではなく、五代目の子孫という可能性もあることに気が付き、訂正かもしれない、と思ったのだが‥‥
以下は、検証結果である。
中原有象と以忠は従兄弟で、有象の父春宗、その弟が良忠で、その息が以忠であったことがわかった。(後でわかるが、年齢は有象が16歳も上である。)
こちらも計算していくと年代が合わなくなるのでは…と心配だが、始めてみよう!
以忠の父は良忠で、有象の方は春宗。ともに勝良の息である。
春宗:元慶・仁和・寛平の時代
良忠:博士・主計頭・少外記・従五位上・初名良佐・貞寛十六年生・天暦五年卒七十八歳
上記の記載より良忠は951年に78歳で歿していることがわかる。(874年生)
良忠の息 以忠:賜中原朝臣・助教・備後守・主税頭・従四位下・延喜十八年生(918年)・天元四年卒六十四歳(981年)
良忠の44歳の時の息 以忠となる。記載はないが、養子かもしれない。
以忠の息 良道:左衛門少慰・中山権頭兼遠等高祖父也
中原氏は学ぶ資格も取ったりと、婚期は武士よりも遅かったのかもしれない?
今までの20-25歳で息が生まれ…を訂正し、よく判らないのだが、20-30歳に仮定してみる。
以忠:918年に生まれ、良道 938年-948年に生まれると仮定。
938年に20歳ずつ加算してみる。
某2:958年
某3:978年
某4:998年
某5:1018年
全然合わない…
百年以上も違うような気がする。
30歳パターン 948年から
某2:978年
某3:1008
某4:1038
某5:1068年
やはり合わない。
高祖父は「曽祖父の父」という現代の認識と、昔の認識が違うのだろうか?
先祖の意味だったのかもしれない?
兼遠は、義賢と同じ年あたりと考え、義朝1123年生まれなので、1124年を想定しているので、56年も差が開く。
それで、前の説には五代の「孫」という記載があったのかもしれない。
この場合は以忠五代の孫で、918年を起点に30歳ずつで1068年そして孫の部分を60年足す。
1128年。妥当な年が出てくる。
合わせるためもあって「孫」を後で付け加えたのだろうという、結論に達した。
兼遠の記載がある事自体、鎌倉以降に付け加えられたという事で、正確に何代目かは系図の続きもなくわからなかったのだろうと思う。