九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

再考 中原以忠からの系 中原兼遠につながる 

2022-04-16 | 木曽義仲 バラバラ情報

前々回に、アバウトな年代を割り出したが、その後「五代の孫」の意味が、五代目のそのまた孫ではなく、五代目の子孫という可能性もあることに気が付き、訂正かもしれない、と思ったのだが‥‥

以下は、検証結果である。

 

中原有象と以忠は従兄弟で、有象の父春宗、その弟が良忠で、その息が以忠であったことがわかった。(後でわかるが、年齢は有象が16歳も上である。)

 

こちらも計算していくと年代が合わなくなるのでは…と心配だが、始めてみよう!

 

以忠の父は良忠で、有象の方は春宗。ともに勝良の息である。

春宗:元慶・仁和・寛平の時代

良忠:博士・主計頭・少外記・従五位上・初名良佐・貞寛十六年生天暦五年卒七十八歳

上記の記載より良忠は951年に78歳で歿していることがわかる。(874年生)

 

良忠の息 以忠:賜中原朝臣・助教・備後守・主税頭・従四位下・延喜十八年生(918年)・天元四年卒六十四歳(981年)

良忠の44歳の時の息 以忠となる。記載はないが、養子かもしれない。

以忠の息 良道:左衛門少慰・中山権頭兼遠等高祖父也

 

中原氏は学ぶ資格も取ったりと、婚期は武士よりも遅かったのかもしれない?

今までの20-25歳で息が生まれ…を訂正し、よく判らないのだが、20-30歳に仮定してみる。

以忠:918年に生まれ、良道 938年-948年に生まれると仮定。

938年に20歳ずつ加算してみる。

某2:958年

某3:978年

某4:998年

某5:1018年

全然合わない…

百年以上も違うような気がする。

 

30歳パターン 948年から

某2:978年

某3:1008

某4:1038

某5:1068年

やはり合わない。

高祖父は「曽祖父の父」という現代の認識と、昔の認識が違うのだろうか?

先祖の意味だったのかもしれない?

 

兼遠は、義賢と同じ年あたりと考え、義朝1123年生まれなので、1124年を想定しているので、56年も差が開く。

それで、前の説には五代の「孫」という記載があったのかもしれない。

この場合は以忠五代の孫で、918年を起点に30歳ずつで1068年そして孫の部分を60年足す。

1128年。妥当な年が出てくる。

 

合わせるためもあって「孫」を後で付け加えたのだろうという、結論に達した。

 

兼遠の記載がある事自体、鎌倉以降に付け加えられたという事で、正確に何代目かは系図の続きもなくわからなかったのだろうと思う。

 

 

 

 

 

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1198年 中原兼経 内舎人は? そして【押小路家譜】

2022-04-15 | 木曽義仲 バラバラ情報

1198年にまだ生きていて、内舎人であった【中原兼経】

本当にこの人物が【中原兼遠】の父親だろうか?

 

1199年に頼朝が歿しているので、頼朝の晩年。

 

武士が任ぜられることが多くなると、その本姓と「内舎人」を略した呼称が使われる。源氏で内舎人に任ぜられた者は源内平氏ならば平内藤原氏藤内橘氏吉内紀氏喜内清原氏清内伴氏伴内のごとくである。後には、実際の内舎人職や本姓に関わらず名乗られるようになった[2]

 

最後の行にある名乗っているだけの例かもしれない。

 

年代は合っているのだろうか?

兼経が1199年の時に80歳代としても、1119年生まれ。

1139年(20歳のとき)に長男が生まれたとして、三男であった兼遠なので1141年に生まれたと仮定する。

すると14歳の時に義仲を預かった事になってしまう。ちょっと早すぎる。

兼経が預かったのだろうか?

兼経は、兄弟や親戚だった可能性はないのだろうか?

 

http://kozu5.travel.coocan.jp/tabi-2/13.03.12.komaoumaru.htm

ここに、良賢と兼遠は同じ年であった、と書かれており、しかも義仲を救う際には畠山重忠も関わっていたことが示唆されている。

この頁はとても面白かった!! オススメです。

 

【訂正】

どこかで「中原広房」は・・・、と書いたような気もするが、本の中には存在しているものの、東京大学のデータベースにも出てこないので、「大江広房」か「橘広房」が正しいと思う。

 

*****

今回【押小路家譜】を調べてみた結果、兼遠は橘以忠ではなく、「中原以忠」の裔であることが確認できた。

以忠の息  良道の註に「中山権頭兼遠等高祖父也」と記載があった!

なので、(五代の孫の意味は子孫の意味であった???)

 

更にどのような時代の人となるのかざっくりと系図内で比べてみると清盛の息清定あたりとなり、息の名前が清兼とあり、どなたかからか「兼」の文字をいただいているようである。

兼経・兼遠もそうなのかもしれない。九条家?

更に清定の兄の生まれが1131年であり、だいたい兼遠とも同時代であろうと思われるのだ。

 

という事で、中原氏のほうの以忠の裔 兼遠が正しいようである。

この系は良道の註に兼遠の名が記されているのみで、系図は良道で終っている。

 

*****

あの大江兼遠の存在は、どうなのだろう?と気になったが、深入りはせず、良道とその周辺、其の後の繋がりを探してみたい。

出てくるだろうか…マイナーそうなので心配。

 

 

 

 

 

 

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中原以忠 と 橘以忠 検証(1)

2022-04-15 | 木曽義仲 バラバラ情報

中原以忠と橘以忠のことは、まだはっきりとはわからないので、検証をしてみようと思う。

 

【中原兼遠が中原以忠の裔の場合】

中原の有象の従兄弟となる以忠の五代、となると、有象は902年生ー978年没なので、アバウトに考えてみよう。

922年にはじめの息が生まれたとして、20歳ずつ加算していく(幅を持たせて25歳も計算する)

1022年に孫の部分を40年+する。1062年

25歳パターンだと1097年に兼遠が生まれたと思われるが…

詳しく述べると、

各人が平均的に20歳から25歳までの間に息を産んだと仮定し、1062年-1097年あたりに兼遠は生まれたか?なのだが、兼経が九男となることを加算して1100年は越していたと思われ、年代的には合致する。(九男とは限らないが、代々の九かもしれず…)

 

 

【中原大江兼遠が橘以忠の裔の場合】は、五代の孫は適用にはならないであろうとし、

広房ー以長ー以忠として、その次に兼経ー兼遠とくる仮定の下で考える。

 

広房は生年がわからないのだが、匡房(1041年生)の養子として入ったので1061年から1081年と長めに仮定し、広房の孫にあたるので+40年、以忠は1101年から1121年あたりに生まれたことになるかもしれない。(そのあたりで、もう兼遠が生まれていなければならないか…)

兼遠は、どんなに早くても遅くても、だいたい1110年から1130年位に生まれた人物でないと、と思う。

1155年に義仲を預かる時に若すぎてもいけないし、さらに1180年に義仲が出陣した時にまだ生きていた、ので、その時にあまりに年老いていて100歳を超えているようでもいけない。

 

1123年に源義朝(長男)がいて、次男が義賢である。

1124年に生まれたとし、1155年に歿している。その1155年に義仲は2歳であったという。

義兄弟となった「今井兼平」が1152年生まれ。という事は中原兼遠が乳母夫であった可能性が大。

その時(1152年)に20代から30代と考えられる。

1122-1132年の間位に兼遠がいると考えられる。橘説だと、一代分合わないか?

以忠ー兼遠ならば、合いそうだが。 間に兼経がいると思われるので、、、、

 

で、この「以忠の裔」の説は、一体どこから出てきたものなのだろうか?

系図あり?

ちょっと探してみようと思う。

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中原以忠の周辺 私的発見!!

2022-04-14 | 木曽義仲 バラバラ情報

ドキドキするような、私的発見。

 

源義仲を匿い育てた「中原兼遠」の先祖は「中原以忠」の系とあった。

其の以忠を調べていて、以下の系図に当たった。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/madarame1.htm

山崎博史氏の著『橘姓斑目家の歴史 古代・中世』を読む 宝賀寿男 から

こちらに 広房 の記載があり、註に 初匡房養子、号大江、後還本姓  天仁元年信濃守

殿暦 元永元年十月 信濃前司広房 書かれていた。

広房は、中原広房でもあり、大江広房でもあると思う。

更に、橘広房でもあることがわかった。

 

そこで、他の系図も見ることにした。

橘氏 web上にある系図より(公暁類別譜)(リサーチ家系リスト)

https://geocity1.com/okugesan_com/tachibana.htm

真ん中あたりの「広房」A2②→ 次の系図の 以長ー以忠ー以継ー以賢 となっている。

しかし、その系には兼遠という文字は見えない。(一行目の兼遠は、時代が別と思う。)

 

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E6%A9%98%E6%B0%8F#ijotneki

 

兼遠の父は「兼経」であった。

友経の系からの養子であったのではないだろうか?

以忠ー以継ー以賢ー兼経ー兼遠 

そこ(以賢ー兼経)がまだ未解明だが、大江兼遠でも橘兼遠でもあり得る位置にいた事がわかる。

または、但馬守が見えるので、其の系であった可能性もあると思う。

 

大江匡房の祖父が、昨日の記事に書いた大江用水の大江匡衡なので、養子ではあるが広房も繋がっている!

其の広房の孫が以忠であったのだ。その裔に兼遠!

 

九里の祖九里経久の父であった【経任 改橘次】 が、この系図には書かれていなかったが、存在していた人物にいるような気もしている。

 

 

 

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大江氏と木曽 web上の情報を集めてみた。

2022-04-12 | 木曽義仲 バラバラ情報

木曽川の対岸には江戸時代、この木曽地方を支配していた[山村家の代官下屋敷]があります。縁側から木曽駒ケ岳が見えます。山村家は学問の家柄である土師氏の流れの大江一族です。大江一族は平安時代の中古三十六歌仙の大江匡衡(まさひら)、和泉式部などを出し、大江匡衡は尾張の国司として赴任、農業政策に力をいれ、木曽川からの灌漑用排水路を造り、大江用水として残っています。元和一年(1615年)木曽が尾州藩領地になると山村良侯が木曽代官として福島に常駐、他方幕府より福島関所を預けられた幕臣でもありました。

http://footprint.life.coocan.jp/fukushima.html

 

大江用水と木曽

 

 

:::


齋田家先祖「中原兼遠」は源氏とあるが、本来、中原氏は、平安以来朝廷の実務家として長く続く名家。源氏とは、別姓であった。
親能は、後に藤原姓を名乗る。藤原氏から中原家に養子に入ったと系図の記録もあり、藤原秀郷子孫との伝にも合致する。
兼遠以前の信濃中原家については、殆ど記録がない。信濃中原家に源氏から入った者があったものと思ふ。
兼遠の異母姉妹が大江広元母と伝わるところが、兼遠と親能の関係。

https://plaza.rakuten.co.jp/kd2006/diary/200910110000/

 

上記の他にも気にかかった所 ↓

 

1180(治承4)年、義仲が平氏に対して挙兵し、木曽を離れた後は出家して仏門に入ったという。

 

大蔵合戦の後、斎藤実盛らによって逃がされてきた義仲を二十歳まで木曽で密かに養育した(延慶本)。
義仲の秘匿に不信を持った平家は、兼遠を京へ召し出し義仲を差し出すよう起請文を書かせたが、その命には従わなかった(盛衰記)。その直後、世間をはばかり義仲の後見を信濃豪族・根井幸親に託して物語から姿を消す。

根井小弥太滋野行親 (ねのい の こやた しげの ゆきちか)

中原兼遠より源義仲の後見を頼まれ、挙兵時から参戦。木曽四天王の一人に数えられる。

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大江兼遠(=中原兼遠) 義仲を匿い育てた人物なのだろうか?

2022-04-12 | 木曽義仲 バラバラ情報

他にも掘ってみると…

1199年に蹴鞠をしている大江兼遠を見つけた。

 

 

99歳で蹴鞠もないだろう…と思われるので、もう一度考え直す。

(義仲の出陣を見送った後に没したとすると、違う人物となる。)

 

この大江兼遠は、

1151年(仁平元年)に18歳で文書初見と仮定し、1199年に66歳で蹴鞠となるか。

1145年(久安元年)に善光寺の物語の中にも「少右史 大江兼遠」として登場している。

1127年生まれの中原師直も同じ場に共に登場している。

 

信濃の資料に出てくる「大江兼遠」

 

義賢は30歳前後で没したと云われている。(1155年没)

その後(1155年)義仲を預かり、出陣の1183年迄 存命していたと思われる中原兼遠。

その28年間。1155年の時に、兼遠が何歳だったのかがわかれば、解明しそうな気もするのだが。

 

大江姓と卜部姓を持っている「中原兼遠」とは別人なのだろうか。

 

謎、深まる。。。

 

 

1165年(長寛三年)の記載。山槐記  藤原(中山)忠親(1130~1195)の日記。

 

 

 

 

 

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中原兼遠は大江姓も持っていた? 卜部性も??

2022-04-12 | 木曽義仲 バラバラ情報

改めて調べてみると、面白いことが出てくる。

1155年に義仲を預かったと思われる中原兼遠だが、預かった後も木曽にいたわけではなく、働いている。(官吏補任 永井晋編)

1150年(久安6年)ー1151年(仁平元年) 

1118年(元永元年)ー1120年(保安元年)

1171年(承安元年)ー1174年(承安四年)

 

下記の文書 嘉応元年とあるので、1169年のこととなる。

 

この表を見ると、兼遠は、1000年位に生まれた人物のように思える。

源義仲が出陣したのを見届けて亡くなったそうである。治承五年(1181年)

1174年まで務めていたことがわかる。

【皇后宮大属】

卜部兼遠もいるが1300年代の人物。1364年に見える。が…

 

下記は1199年の卜部兼直(父は卜部兼貞)信濃権守  

兼遠の父は「右馬少兼経」 九男かもしれない。とすれば、兼遠の叔父あたりに信濃権守がいたかもしれない。

 

 

更に1165年(長寛三年)の記載も見つけた。山槐記  藤原(中山)忠親(1130~1195)の日記。

 

1232年(貞永元年)に登場する 卜部兼遠は別人なので、平安時代の兼遠は中原兼遠の可能性はあると思う。

大江を名乗っていた兼遠は、中原兼遠のことではないかと思う。(間違っているかもしれないが…)

 

つまり、始まりは 【大江兼遠】で、途中から【中原兼遠】となったのではないだろうか?

その後、信濃権守の中原氏のなかに「卜部」を称する人が出てきて、何度か名乗っていた?など、なにか事情があったのかもしれない。

 

いずれにせよ、今後の兼遠の解明に期待している!

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中原兼遠の「中原の系」 中原有象の従兄弟 以忠より

2022-04-09 | 木曽義仲 バラバラ情報

勝良ー良忠ー以忠ー良道ー・・・?・・・?・・・ 兼経 ー兼遠ー・・・ 

 

中原有象従兄弟に当る以忠(有象の父春宗の弟良忠の子)に出ており、五代の孫右馬少九兼経が、信濃大掾となって赴任し、佐久郡の牧長になったとある。佐久郡の物といえば、望月牧のことであろうか。あるいは浅間山麓の長倉牧かも知れない。

 

博士有象。助教以忠等。改二十市首姓」為中原宿禰」とあるのによれば、天禄二年(971年)九月に中原宿禰となり、また同系図に二年(971年)十二月十八日付「典薬寮允補任請奏」『朝野群載』八)・中原朝臣資清(永久二年 1114年 正月十三日付

 

中原資清は調べてみると、中原兼経と同じ信濃大掾である。

時代的にも山内首藤助清のことかもしれない。

また、この中原資清が義仲を育てた兼遠に続く系かもしれない。か、親戚か。

 

1111年に60歳で歿している 中原資清。1051年生まれ。源義家よりも12歳年下である。

あとの時代に同姓同名の中原資清が一名いたようであるが、上記は源義家と共に活躍していた人物ではないだろうか?

とすれば、源家の代々の乳母夫であった 山内氏=中原氏 それが資清なのではないだろうか?

義家ー義親―為義ー義賢ー義仲

この義親、為義までは、育てていたかもしれない。

 

そこにも、また、関わった中原氏がいたので、書き留めておこうと思う。

源義親の同心(家臣のことか?)にいた坂上重盛。その重盛の子清重は、中原定清に養子に入る。(中原貞清のことかもしれない)
清重(=清定)である。その清定の息子が清業である。
この清業は平頼盛の家臣であった。

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/63638fa14d6d090e82f3bf0a77476023

上記の記事に間違えが発見された。→ 義親1108年に没 が正しい。

 

義親の家臣に坂上氏がいて、中原に養子が入ったことを見ても、この東国に関係する源氏に入り込んでいたことがわかる。

 

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藤原氏と宗像

2022-04-08 | 木曽義仲 バラバラ情報

https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/img/kiyou/vol10/pdf/kiyo_10_02.pdf

上記の資料より 関係部分

藤原氏を率いていた左大臣藤原冬継は、平安京皇居近くの自邸内に宗像神を守護
として祭り、摂政・関白に昇るその子孫もこれを引き継いだ。高市父子の怨霊を恐れ

たためであろうか。

ムナカタの地政的価値がすでに失われていたにもかかわらず、京と筑紫の
宗像神が急
速に昇階し、
宗像朝臣が宗像大宮司に補任されるのも、このようないきさつがあったた
めと考
えられる。
このあとも宗像神社と大宮司家は、藤原氏とのつながりを頼りとして中世の動乱に立

ち向かう。

高市皇子の母は宗形の尼子娘である。

宗形徳善 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%BD%A2%E5%BE%B3%E5%96%84

尼子娘 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%A8%98

長屋王↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B

高市皇子 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%82%E7%9A%87%E5%AD%90

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武蔵国長井(埼玉県大里郡妻沼町長井周辺) 長井斎藤別当実盛 と 中原信濃権守兼遠

2022-04-07 | 木曽義仲 バラバラ情報

源義賢が歿した後に、義仲(駒王丸)を預かって養育先を探した「長井斎藤別当實盛」

なぜ中原信濃権守兼遠に預けたのだろう。親しかったのだろうか?

長井斎藤氏は越前の出という。

一方中原兼遠の父兼経は但馬国城崎の人 (筑摩県史)だそうで、信濃に【大吉祖庄】(おおきそ)という庄園があり、そこが宗像少輔領であり、その庄司に抜擢されていたのが、「中原兼経」であったのだそうである。

では、大吉祖庄を調べてみよう。

初見は文治二年(1186年)木曽郡日義村 

荘園志料=『三代実録』元慶397の吉蘇村の地・平凡地名=木曽谷南部の「小木曽庄」に対し、鳥居峠を境に木祖村、日義村、木曾福島町辺、中心は日義村宮越
日義村宮越に木曽義仲居館跡あり   

ひよしむら

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/258771/www.vill.hiyoshi.nagano.jp/index.html

地図を見ると、主要な場所のどこからも遠い所のような気がする。

平安・鎌倉時代の時には冬は雪に閉ざされて、行き来もできなかったのではないだろうか?

 

次には、斉藤氏と中原氏の関係を見つけてみたい。

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