九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

山中長俊は、山中為俊の孫か曾孫なのではないだろうか?

2023-04-06 | 山中氏バラバラ情報

山中長俊は1547年生まれという。という事は、1507年に活躍していた為俊は、祖父に当たるのではないだろうか?

wikipediaでは父となっていたが、1507年に頼られる存在であったならば、すでに30歳から40歳くらいであったろうと想定する。となると為俊は、1467年~1477年あたりに生まれているはずである。

為俊が70歳から80歳に長俊が生まれたことになるため、曾孫とも考えられる。

 

さて、山中氏の文書・書籍に見える名前を調べてみようと思う。

 

☆山中俊好も某年十月浅小井(現近江八幡市)を承禎より安堵された。☆

 

橘左衛門尉久俊  橘左衛門尉久俊の弟が俊好のようである。 俊好の弟 西岡兼俊

山中大和守(橘左衛門尉久俊) 

戦国時代後期、山中氏の惣領は勘解由左衛門貞俊・大和守久俊父子であった。

(山中貞俊ー久俊・俊好・兼俊となる)

 

山中氏は柏木御厨と関係があり、さらに遡ると「鈴鹿山」の警護役でもあり、つまり浅小井氏・深尾氏ともつながりがあると思えるのである。

深尾氏も確か警護役として鈴鹿山にいて、その後員弁の山奥に潜んでいたはずである。

 

室町時代だが、九里浄椿は柏木御厨に飛鳥井氏の使いとして出入りしていたではないか!

山中氏とつながりがあったからこそ、選ばれたのかもしれない。

 

仏教大学の論文があったのでご紹介したい。↓

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/M003/OSM0030R521.pdf

『元来彼らは伊勢国との国境鈴鹿山系近辺に土着し、其の惣領家は山中村地頭職鈴鹿山守護= 鈴鹿関警固役を

先祖重代相伝の所職としていた鎌倉御家人であった。

建久五年(1194年)二月十四日鎌倉将軍家下文案」に、山中新五郎俊直所』…と書かれているそうである。

 

そして建保4年に息俊信に、仁治3年には俊信の息の山中有俊に譲り渡しをおこなっている。

 

祖は、橘義清 橘諸兄の系という。 父は橘義通 祖父は橘為義 弟に橘為仲

http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/waka-rokunintou/yosikiyo-t.htm

 

他に文書・書籍に見えた人物は、

盛俊 盛宗

道俊

であった。

山中氏祖とある ↑

此の後、大江氏とつながる。

 

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山中氏と九里との接点(想像)

2016-07-22 | 山中氏バラバラ情報
まず、【差出】 伊庭満隆
【宛所】 山中太郎左衛門殿/九里次郎左衛門殿 …とあるように、共に同じような立場であった可能性があること。しかし、たった一通しかない書状で、しかも内容も不明であるためなんとも言えないが、ともに室町幕府の御家人だったのではないだろうか。

また、山中氏が伊勢神宮の御厨の地頭(代官)であったように、九里も賀茂神社の御厨である舟木庄の代官であったため、ここでも、立場が似ていると思う。



そして、九里がもしも真野氏と関係があるならば、【鈴鹿】との関係があるところも、また似ている。

山中氏は【鈴鹿土山町山中村】とかかわりがあり、九里氏が浅小井氏(または真野氏)だとすると、深尾氏に分かれ、系図によると

平治の乱に敗れて【伊勢鈴鹿山中の員弁郡深尾谷】に隠遁し深尾氏を冒す。

文明年間(1469-1486)美濃守護土岐氏に仕へ山縣郡太郎丸の城主となり、 土岐氏歿落後は斎藤氏に仕へる。

等、web情報にあったので、いなべ郡深尾谷とかかわりがある。

ここの村は、ダムの中に水没しており、場所を掲載しておこうと思う。









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山中新左衛門 その2.

2016-07-21 | 山中氏バラバラ情報
甲賀五十三家 wikipedia
https://nortonsafe.search.ask.com/web?q=%E7%94%B2%E8%B3%80%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%B6&o=APN11915&geo=ja&prt=&ctype=&ver=&chn=&tpr=121

名前を見ていると、見知っている名前もある。佐治氏、服部氏、青木氏、芥川氏…

山中氏は、はじめは今の鈴鹿山土山町山中村に住んでおり、応安七年(1374年)十一月の山中文書に

『譲興 處分之事

在近江国甲賀郡山中村地頭職幷仁警固役、同柏木御厨五□郷之所職名田山林荒野等事

   合

一 山中村地頭職幷警固役事
一 上山村郷友行名田畠・山林・荒野観音寺幷地蔵堂院主職・山等事
一 上山村郷助房名事
一 中山村郷石武名幷屋敷・山林・荒野等事、山村三□所ニ在之、但石武内畑村六人百姓幷炭二石毎年在之
一 柏木御厨内祭主保之保司職事
一 柏木御厨内宇田村前河原事
   
…とまだ続くが、これらは山中道俊が相伝していたもので、嫡子助次郎範俊に譲る~浄俊(花押)~ということであるらしい。

この浄俊というのが、道俊の事と思うが、もしかすると、道俊から浄俊にわたり、これから範俊に渡す・・・という意味かもしれない。


さて、六番目に宇田村と出てくる。
鈴鹿山麓山中村の山中氏の一部が柏木郷に移り住み宇田村の山中氏となり『宇田氏』となったようである。



【柏木御厨】に関して、コトバンクで調べたのでコピペしておこう!

近江国甲賀郡にあった伊勢神宮領の御厨。現在の滋賀県甲賀市のうち旧水口(みなくち)町域。もと源義光の所領で,園城(おんじょう)寺金光(こんこう)院を建立してその住持に子の覚義をあて,柏木郷・山村郷を仏聖灯油料などとして寄進した

中世の伊勢神宮領の御厨(荘園)。現在の滋賀県甲賀郡水口町の西北部にあった。12世紀初期に源義光が柏木・山村両郷を摂関家の牧として寄進したのに始まると伝えるが,1165年(永万1)に伊勢外宮領として立荘された。以後荘域が確定するとともに開発が進み,1331年(元弘1)の検注では,本郷・酒人郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷の5ヵ郷で見作田299町歩余となった。その間に伊勢神宮は祭主保も設けたので,現地の荘官としては惣郷の検断職,各郷の下司職,祭主保の保司職があった。



【山中氏】より


…橘諸兄(もろえ)の後裔といい,義清の代に山中氏を名のる。1216年(建保4)俊直が俊信に山中村地頭職と柏木御厨の上山村友行名を譲っているが,平安・鎌倉期の動向には不明な点が多い。ただし67年(文永4)俊信跡の大番役を有俊が務めているところからみて,御家人であったことは確かなようである。…




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山中新左衛門 その1.

2016-07-20 | 山中氏バラバラ情報
甲賀二十一家の中の柏木三家

柏木御厨一帯に力を有する山中家と他に伴・美濃部の三氏については、柏木三家といわれる。

姓氏家系大辞典での近江の山中氏の解説をかいつまんで書くと以下のようである。

甲賀二十一家柏木三家の一にして、「鶴見系譜に伊予守為俊の女は山中氏室」と載せ、応仁略記に山中の民部、細川両家記に「甲賀の谷山中新左衛門」(細川條に詳か也)、其の外、山中遠江守、山中また三郎等見え、鈎の陣には山中十郎・武功を記す。…

この細川家記載の山中新左衛門こそ九里と共に闘っていた新左衛門ではないのだろうか。

手稿の修史館の記載を見ると、細川政元が六月二十四日に殺されたとあるので、1507年永正五年の事と思われる。(宣胤卿記)
そして二十六日に細川澄元、同被官三好(之長)と共に、江州甲賀郡青地城甲賀山中新左衛門(名ハ為俊、実隆公記 永正八年八月二十一日ニ見ユ)之城へ御移云々

・・・・とある。

そして、澄元ハ三好筑前守以下馬廻少々相俱シ、江州サシテ被落、甲賀郡ニテ山中新左衛門尉ニ憑テソ被居ケル、玄蕃頭元治子息源五郎元全ハ手定戦テ、手勢十余人ニテ、是ハ若狭国へソ落ラシケル。

二十七日、六角氏網京師ニ在り、将軍義澄其謁見ヲ許サス、是ニ至り将ニ近江ニ帰ントス。義澄之ヲ召シ、幕府ヲ警守セシム。

…六角四郎氏綱が甲賀被官人三雲ヲ初トシテ、同心ニ六郎澄元三好之長ヲ討テ可進…となっており、詳しくはわからないが緊迫している様子が感じられる。

~~~*~~~

山中氏は初めは鈴鹿峠ふもとの土山町山中村を本拠とし、地頭職にあって鈴鹿の関の警護役などを務めていたそうである。
土地の売買・高利貸しのような役割も担っていたそうである。
 
この後のことは、その2.に書きたいと思う。

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山中氏~姓氏家系大辞典より

2016-07-18 | 山中氏バラバラ情報
初めて出会う氏を調べるときには、姓氏家系大辞典にお世話になっている。(国立国会図書館デジタルライブラリー)

ヤマナカ:三河、甲斐、伊豆、近江、美濃、上野、磐木、加賀、越前、備後、長門等にこの地名あり。其の他、猶ほ多からん。

1.清和源氏小笠原氏族
2.滋野姓
3.甲斐都留郡山中より起る。
4.甲州藤原姓
5.秀郷流藤原姓
6.房総 千葉系図
7.武蔵
8.桓武平氏関氏族
9.三河 井田系図
10.尾張 知多郡
11.美濃
12.佐々木氏族
13.橘姓
14.近江 甲賀二十一家
15.中原姓 岡本氏裔
16.伊勢 
17.伊賀
18.大和
19.河内 楠家臣
20.藤原裔家二階堂氏
21.摂津
22.紀伊
23.赤松氏族
24.備後
25.安芸
26.長門
27.肥後
28.石見
29.出雲 山中鹿之助
30.因幡
31.丹波
32.丹後
33.雑載

~~~*~~~

明日は、山中新左衛門という人物に焦点を当ててみたい。

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【山中氏】と九里、突破口となるか?

2016-07-11 | 山中氏バラバラ情報
さあ、今日からしばらく【山中氏】に関して、九里と重なっている部分を中心に調べていこうと思う。
まず、下の文書をご覧いただきたい。

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伊庭満隆打渡状案
【底本名】 山中文書(32610201)

【差出】 伊庭満隆
【宛所】 山中太郎左衛門殿/九里次郎左衛門殿
【詳細内容】 【形状】折紙

【原蔵】 神宮文庫

これらをみると、山中氏と九里氏がともに行動していたことが分かる。

山中氏とはどのような氏なのだろうか…
甲賀なので、忍者のような隠密の役目もあったのだろうか。

山中氏の事が気になるのは、九里の近江国御家人井口中原系図のなかに甲賀『飯道寺』に行った者が一名いたこと。

現在も甲賀に九里氏が何名かはいらっしゃるようであること。

九里と関係のありそうな『乾氏』の妻が服部勘解由の娘であること。

次郎左衛門がともに同じような立場で働いていたこと。

甲賀の柏木御厨・柏木神社あたりに、九里も出入りしていたこと。

室町幕府奉行人では、という節があること(ここが、九里と立場を同じくしているのかもしれない)

等々、重なる部分も少なからず、情報源の少ない九里としては、調べる価値がありそうなのである。

ぜひ、何らかの情報がありましたら、教えてください! よろしくお願いいたします。





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