九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

「九里とみ」さんの兄弟政吉さんが気になります。九里学園(山形県米沢市)の祖である「とみ」さん。

2017-07-05 | 米沢 九里氏周辺情報
九里三郎兵衛高景の娘である「とみ」さん。
その兄か弟である「政吉」さん。

我が家の通字の「政」江戸時代最後のメンバー(兄弟)政得(のちの敬三)・政邦(もとは雄蔵?)

三郎・復吉には、政の字が付いていないが、兄弟である。

この「政」の字は柏原藩の九里メンバーの内2名を抜かして(水野氏からの養子の二人)跡継ぎには全員付いている大事な文字である。

その「政」が米沢藩の系の方にも付いていた。
この政吉さんは、実は他家を支えるために養子に入った「政邦」ではないのか? どなたか、ご存じないですか?




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越前屋 米沢 酒田

2016-10-04 | 米沢 九里氏周辺情報
山形経済志料 郁文堂書店より
googlebooksに少々手を入れてます。

「三人共国名をそのまま屋号にし、越前屋と称した一人は九里三郎兵衛で米沢に居住し、
一人は即ち佐治吉人の内一人は酒田に居住して白崎良弥氏の祖となり、一人は亡命し、北陸道を
経て出羽に落ちついたものらしい。(越前屋村井久右衛門か?)」

この文章を信じれば、九里三郎兵衛は越前から来た人物ということとなる。
たしかに越前には、九里がいた。

福井県立文書館のデジタルアーカイブ
http://www.archives.pref.fukui.jp/archive/list.do;jsessionid=0FDC494B0DD6AAD9FCDC7F0BD96172A1?smode=1&sNo=1&keyword1=%E4%B9%9D%E9%87%8C&keyword1_Tl=1&grandParents=&parents=&d_ch=fkiarc_col10&d_ch=fkiarc_col11&parents=&d_ch=fkiarc_col20&d_ch=fkiarc_col21&parents=&d_ch=fkiarc_col40&d_ch=fkiarc_col70&d_ch=fkiarc_col60&d_ch=fkiarc_col50&grandParents=&d_ch=grp1&d_ch=grp2&grandParents=&d_ch=grp3&sortItem1=class_name&order1=ASC&d_cnt_l=20

上記の中よりひとつご紹介すると、

資料群名 西福寺
形態 折紙
原本有無 無
年月日 1511年(永正8)06月28日
資料名 (九里吉忠書状)
作成者(差出人等) 九里次郎左衛門尉吉忠


越前の三人組二人はどうなったのであろうか?

酒田の白崎良弥の店の名前も「越前屋」
「伝馬町にあった白崎五右衛門の越前屋呉服店、分家の菱五越前屋が特に大きかった。」とweb情報でみつけた。

…ということは、地元だけではなく江戸にも進出していたのかもしれない。

また、出羽の村井久右衛門も、八郎潟のために資本導入などの情報が書かれており、その地に貢献をしていたようである。



この三人組は、同じ越前屋を名乗って、それぞれの地で事業を成功させたようだ。

…でも、薬種商と小間物屋とでは,ヒラキがあるような。親子でしょうか。。。



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米沢 九里氏 戦国時代と戦国以前

2016-10-04 | 米沢 九里氏周辺情報

米沢の九里氏は、いつの時代から米沢に住んでいたのだろうか?

その前に、米沢の歴史を知ることが必要なので、調べてみた。(米沢市HPより)

鎌倉時代には、置賜地方を領した地頭・長井氏が米沢に本拠を置いたと伝えられます。
その後、長井氏に代わり伊達氏が置賜を領し米沢城下が整備されました。
「独眼竜政宗」として戦国の世に名を馳せた伊達政宗も米沢城に生まれ、25歳までの青年期を過ごしました。

 江戸時代には、上杉景勝(戦国の名将・上杉謙信の後継者)が越後から会津を経て米沢に入封、重臣・直江兼続の指揮で城下が拡張され、現在の米沢市街の基盤が築かれました。以後、米沢は上杉氏(米沢藩)の城下町として発展し明治維新を迎えました。その中で、第9台藩主上杉治憲(号・鷹山)による藩政改革が有名です。

財政が逼迫していた米沢藩に、縁戚の高鍋藩秋月家から迎えられた鷹山は、率先して大倹約を行うとともに、数々の殖産振興政策を展開しました。そうした中で養蚕と米沢織物が特産品に発展し、藩財政と人々の生活が立ち直りました。また、藩校・興譲館を設立するなど教育にも力を注ぎました。困難な状況の下、「なせば成る」の精神で改革を成功させた鷹山は、現在も理想のリーダーとして高く評価されています。
 
~~~*~~~

地頭長井氏とは、どのような人物なのだろうか?

長井は出羽国置賜郡長井荘を所領としたため、在地名を取って長井氏を称し家祖となった。
大江広元の息(次男)である長井時広が初代である。

なるほど、大江広元! 

九里が米沢に赴いた可能性としてはこの長井時広に付いていったか。

または、三浦・佐原義連の息盛連に付いていったか。

または、水茎岡山城の戦いに巻き込まれた蘆名氏の女(義澄に仕えており、噂では義澄の子どもも腹の中にいたとか…)を蘆名氏に無事に届けるために随行し、そのあたりで浪人となっていたところを声をかけてもらったか。

もう一つ、上杉氏の許に目加田(妻賀田)氏とともにいた九里采女正の子孫や縁戚となる可能性。…など考えられるが、

勉強不足で、まだよくわからない。

そういえば、長岡藩の系も、わが先祖の柏原藩系と仲が良かったらしいが、(同時期に生まれた子を同じような名前にしている。たとえば波之丞と文之丞など)まだ調べていなかった。。。

全国の九里様、もしもお差支えがないようでしたら、ルーツを教えていただけませんでしょうか?
心よりお待ちしております。





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米沢藩 上杉鷹山 九里三郎兵衛

2016-10-03 | 米沢 九里氏周辺情報

コメントをくださった「サンゴ」さん、ありがとうございました。「調べものスイッチ」が入りました。


以前書いた記事から~『小説伝記 上杉鷹山』八幡和郎著 PHP研究所

寛政9年(1797年)
この時代富山や近江では漢方薬の製造が盛んで、商人たちが全国に売りさばいていた。
…  …  …
心優しい立派な上杉鷹山米沢藩主が、藩の財政難の折、薬種商の九里三郎兵衛に妙案はないかと相談を持ちかけた。
九里三郎兵衛は領地内の野草で薬となるものを集め、売ることを提案した。

農民にはお灸に使う蓬を採らせて郡役所に集め、藩士には黄蓮を栽培することを勧め、他国の薬を買うことを禁じた。
販売は、国産所と大町の薬種商九里三郎兵衛に当たらせることにしたのである。…

~~~*~~~

…とある。

九里三郎兵衛の後裔と思われるのが、九里とみの父親である【九里三郎兵衛高景】である。

http://www.yonezawa-np.jp/html/museum/19kunori.html

【九里とみ】は 九里学園の創設者であり、
米沢の薬種問屋九里三郎兵衛高景の長女として生まれた。
福島に嫁ぐが、1年で離縁。

兄を頼って上京し、東京裁縫女学校(現・東京家政大学)に通った。

優秀だったため卒業後は同校の助手となり、島津家(旧薩摩藩主)から鹿児島に新設する裁縫塾への赴任を打診されるほどであったそうだ。

しかしすでに家業は傾いており、とみは、米沢へ戻った。明治32年28歳の時の事である。

米沢に戻ってからは、家計を支えるため裁縫塾を始め、1901年 県知事から認可され、米沢市越後番匠町に民家を借り生徒62名、職員6名で九里裁縫女学校が創設されたそうである。

建学の精神は【女性としての徳と社会で役に立つ技能を身につけさせる教育】

この学校が今現在の学校法人 九里学園高等学校となり、続いている!

もう一つ、以前から気になっていたパンフレットに載っていた越前屋の絵

これは、とみさんが生まれた大町です。しかも九里忠兵衛という名前で調べて行って出会ったものです。

小間物やさんです。関係ありそう!? 明治初期の絵だそうです。




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