https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%BA%B7%E7%8E%84
この下記の【南坊】というのが高山右近のことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%BA%B7%E7%8E%84
この下記の【南坊】というのが高山右近のことである。
http://ebible.jp/ukon/ukonkakei.html
こちらのページを読んでいて【母少将中川ノ女】が気にかかったので調べてみようと思う。
まず、中川といえば中川清秀の父親が高山重清である。中川清秀は高山右近の従兄弟とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B8%85%E7%A7%80
この高山重清は、高山氏から中川に婿養子として入った人物だったのではないだろうか?
高山重利は、wikipediaによると高山右近の祖父に当たる。
重利ー友照(重房)ー右近(重友)
清秀と従兄弟という事は、友照の兄弟が重清ということだ。
重利―重清ー清秀
更に、母【少将中川ノ女】とは、高山右近の母も中川姓であったか?
つまり、中川清秀の母の姉妹が高山右近の母でもあった可能性もあるのではないだろうか?
下記を読むと中川清村=重利とよめるが、重利は高山の重利と思われる。
此処に小説だが、まさにその点を開設している部分を見つけたのでご紹介しておきたい。
古田織部の妻になった女性が中川清秀の妹だったことがわかる。
wikipediaに中川清秀の記載があったので貼っておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B8%85%E7%A7%80
高山右近の母【高山マリア】は、中川清村の娘であったように思うが・・・。
平姓を源姓に改めた! 高山重房(友照)も清秀と同様にそうしたではないだろうか?
(1)は永原氏との接点だったため、カテゴリー永原氏に入れてある。
比重が永原氏のほうにあるため、である。
(2)は高山氏に入れた。わかりにくくて申し訳ない。
さて、武蔵国高麗郡高山邑とはどのあたりだろうか?
下の地図に高山不動尊があり、その周辺と思われるそうだ。
その後大治6年(1131年)上野国緑野郡に伊勢神宮領高山御厨が置かれる。
元暦元年(1184年)12月、高山重遠、熊谷四郎ら佐々木盛綱に従い備前国児島で平行盛を破る。
此処で、佐々木氏と接点ができている。
更に御殿場の永原氏も伊勢神宮領大沼鮎沢御厨周辺であった事も、ゆるく関係するかもしれない。
一方、摂津の高山氏だが、
摂津高山家は宇多天皇の皇子敦実親王から出て、宇多源氏と同族と伝えられる[要出典]。代々が摂津国三島郡清渓村高山に城を構える地頭職であったといわれる(人物叢書『高山右近』[要ページ番号]参考)。
その他の摂津高山氏(上記の平姓高山氏とは系統が異なる)も、同国三島郡高山庄の国人領主として存在して、室町時代頃に高山重基が美濃国本巣郡に移住、そしてその子高山重利が摂津国茨木に移住した。
佐々木氏も宇多源氏…このつながりは佐々木氏との婚姻関係から出た者なのではあるまいか?
高山右近の先祖は「滋賀県甲賀郡水口町高山」だそうで、一見別系に思えるのだが、佐々木氏とのつながりが東国時代にあった事もあり、繋がっているのではないかと思っている。
その高山家の支流が摂津の国高山(現在の大阪府三島郡)に城を構えたとされ、右近はそこで産まれた、と下記のページにある。この場所が隠れキリシタンの茨木(乾大夫がいた場所)でもあり、大変気になっている【高山】である。
http://ebible.jp/ukon/ukonkakei.html
九里氏(乗如)が1300年にいたことがわかっている【飯道寺】がほど近い場所である。系図内では「般童寺僧」となっている。このお寺、高山氏とも関係があるのだろうか?
甲賀郡志によると、佐々木盛綱に随ったことと関係があるように記載がある!!やった!!
儀峨氏と関係があるのだろうか?