近江国の牧にある岡山城。みずくきの城とも呼ばれ、湖と山との風景が美しく古来より和歌に詠まれておりました。
今は地続きとなっておりますが、戦国時代には離れていたそうです。
琵琶湖に浮かぶ小さな島のようだったのではないでしょうか。
この近江水茎岡山城主は信隆、その死後は浄椿(じょうちん)が城主であったろうと思われるのですが、
なぜかソコに『乾甲斐守』という名前が出てくるのです。
岡山城の西向に(湖を渡って向かい)長命寺があります。
開基は619年『聖徳太子』だそうです。西国三十三所巡礼の第三十一番札所となっております。
その長命寺の縁起書に『岡山城主 乾甲斐守』と書かれていたそうなのです。(姓氏家系大辞典 太田亮)
六角の家臣『乾』という苗字が「江源武艦」という本の中に出てくるので、その人と関係があるのかもしれません。
(佐々木経方の六男行範が祖となる乾氏でしょうか?)
また、池田氏(のちに鳥取藩主となる)の家臣にもその名がみえます。
もうひとつ、甲斐の国に武田信虎の重臣に板垣氏がおり、その系が途中で誅殺されるため苗字を「乾」に変えているのでそれも怪しいです。
が、時代が合いませんでしたので、やはり鳥取に行った方の系でしょうか。
この「乾甲斐守」と六角氏家臣から信長に降りた「九里三郎左衛門」その舎弟「永田刑部少輔景弘」
この三人が気になっています。九里とどのような関係で、どのようなことを語り合い、どのように生きて行ったのかを知ることができると嬉しいのですが、依然謎のままです。
三郎左衛門だけは、信長に内通容疑で遠くに飛ばされたか、自害させられたか…だと思います。
追記
乾甲斐守に関しては、ひょっとすると・・・という線が浮かんできました。
員秀が白川家の忠富王に出入りしており、【忠富王記】の中に乾大夫の名前があったこと。
室町幕府の御家人に【乾太郎兵衛】が存在していたこと。
鳥取藩史第一巻に以下のような記述があること。
『将軍義澄没落後、乾太郎兵衛京都を去り、摂津島下郡に住し、孫平右衛門長次に至る。
長次初め将軍義輝に従ひしが、後信輝に仕へ、兵部大輔と称す。
元亀元年公に従い姉川戦役に奮闘し、信長の勧賞に与る。
天正八年摂津花熊に戦ひ、又功を立て百石を給 ...』
そして、摂津島下郡には、乾大夫の関わっていた隠れキリシタンの里があったことを、最近発見したのです。
それだけではなく、さらに付け加えますと、我が家の家紋は『榧之内十文字』という変わった家紋なのです。隠れキリシタンのような…
(板垣退助の乾家と同じ紋)
この隠れキリシタンの里に、生き残っていた九里が乾氏に誘われて入ったのかもしれません。
なんだか、小説のような話になってきましたので、ココマデ。