九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

水茎の城 岡山城余話 城主が九里浄椿から乾甲斐守に?

2016-03-22 | 水茎岡山城

近江国の牧にある岡山城。みずくきの城とも呼ばれ、湖と山との風景が美しく古来より和歌に詠まれておりました。
今は地続きとなっておりますが、戦国時代には離れていたそうです。

琵琶湖に浮かぶ小さな島のようだったのではないでしょうか。

この近江水茎岡山城主は信隆、その死後は浄椿(じょうちん)が城主であったろうと思われるのですが、

なぜかソコに『乾甲斐守』という名前が出てくるのです。


岡山城の西向に(湖を渡って向かい)長命寺があります。

開基は619年『聖徳太子』だそうです。西国三十三所巡礼の第三十一番札所となっております。

その長命寺の縁起書に『岡山城主 乾甲斐守』と書かれていたそうなのです。(姓氏家系大辞典 太田亮)

六角の家臣『乾』という苗字が「江源武艦」という本の中に出てくるので、その人と関係があるのかもしれません。
(佐々木経方の六男行範が祖となる乾氏でしょうか?)


また、池田氏(のちに鳥取藩主となる)の家臣にもその名がみえます。

もうひとつ、甲斐の国に武田信虎の重臣に板垣氏がおり、その系が途中で誅殺されるため苗字を「乾」に変えているのでそれも怪しいです。

が、時代が合いませんでしたので、やはり鳥取に行った方の系でしょうか。


この「乾甲斐守」と六角氏家臣から信長に降りた「九里三郎左衛門」その舎弟「永田刑部少輔景弘」

この三人が気になっています。九里とどのような関係で、どのようなことを語り合い、どのように生きて行ったのかを知ることができると嬉しいのですが、依然謎のままです。

三郎左衛門だけは、信長に内通容疑で遠くに飛ばされたか、自害させられたか…だと思います。


追記

乾甲斐守に関しては、ひょっとすると・・・という線が浮かんできました。

員秀が白川家の忠富王に出入りしており、【忠富王記】の中に乾大夫の名前があったこと。

室町幕府の御家人に【乾太郎兵衛】が存在していたこと。


鳥取藩史第一巻に以下のような記述があること。

将軍義澄没落後、乾太郎兵衛京都を去り、摂津島下郡に住し、孫平右衛門長次に至る。

長次初め将軍義輝に従ひしが、後信輝に仕へ、兵部大輔と称す。

元亀元年公に従い姉川戦役に奮闘し、信長の勧賞に与る。

天正八年摂津花熊に戦ひ、又功を立て百石を給 ...』


そして、摂津島下郡には、乾大夫の関わっていた隠れキリシタンの里があったことを、最近発見したのです。

それだけではなく、さらに付け加えますと、我が家の家紋は『榧之内十文字』という変わった家紋なのです。隠れキリシタンのような…

(板垣退助の乾家と同じ紋)

この隠れキリシタンの里に、生き残っていた九里が乾氏に誘われて入ったのかもしれません。

なんだか、小説のような話になってきましたので、ココマデ。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水茎岡山城 (2)

2016-03-22 | 水茎岡山城
水茎岡山城つづきです。
六角氏が船を用意した~という話は、京の町を牛車を使い船を運んだという記述が残っているのです。

東京大学のデータベースでは、『兵庫から五段帆云々、大船也 牛車で引き…』とあります。

【大船】とあります。

☆★☆★☆

九里一族というだけあって、この時代はたくさんの九里がおりました。その親子・兄弟の関係が良くわかっておりませんが、一応水茎岡山城に関係あると思われる人を書き出してみます。

九里対馬守が岡山城主を始める ~ もともとは、近江八幡にある本郷城が居城ですが、六角より頼まれて伊庭氏が始めにこの地を守ることになったらしいです。
その伊庭氏の被官である九里が城主(城主代かもしれない?)となって、在城したようです。

(本郷城は応仁の乱の時に焼け落ちているそうです。その後はまた築城したのかどうかは?です。)

九里刑部少輔 ~ 信隆か

九里備前守 ~ 員秀

九里伊賀守 ~ 伊賀入道・宗忍と名前がいくつかあるらしい。

浄椿 ~ 近江国だけではなく、京のお寺にもいたことのある人 景徐周鱗の弟子である。

他に、伊庭氏・奈須氏・井狩氏・堀氏などの武士が参加

☆★☆★☆

九里信隆が策略によって六角親子に誅殺された後、その弔い合戦になり、信賢・浄椿(じょうちん)・三重郎らが闘い続ける…ということになったらしいです。最後は籠城戦。

九里備前守員秀という人については、面白い話があります。

飛鳥井家という代々の蹴鞠の先生に「蹴鞠五部抄」なるものを書いて頂いてます。『九里四朗次郎員秀』宛てになっております。(日本の古典籍その面白さその尊さ:反町茂雄著)
多少、公家への憧れがあったのでしょうか。

~~*~~*~~*~~


戦乱状態の岡山城に戻ります。

足利義澄が亡くなる際、想像ですが、水茎岡山城で生まれた『義晴(亀王丸)のことを、将軍になれるよう赤松氏と共に援護するよう』頼まれていたと思います。

いつしか九里一族の間では「亀王丸様を将軍に」ということが合言葉になっていたようです。

伊賀入道宗忍とその息が落城後も残党として生き残っておりました。

そして、とうとう大永四年(六月八日)『義晴、近江九里宗忍の、足利義澄の小袖を進むるを謝す、尋で、廷臣等、之を賀す』とあり、
足利義澄より預かっていた「小袖」を息子の将軍足利義晴に渡すことができたのです。
(大永元年十一月に征夷大将軍になる。この大永四年六月八日は近衛尚通娘と結婚した日)

義澄が1502年に水茎岡山城に逃れてきてから1524年義晴が無事に将軍となり小袖を渡す迄、
九里は長い戦乱に巻き込まれ、滅亡と言われるほどに死んでいったのです。


【玉松】という子どもが、六角氏の人質として渡されておりました。永正十七年冬に和議を結ぶのですが、その際に渡されたようです。
『師走、六角と九里に和議が成り、九里玉松(信隆の子)は人質として六角家に差出された』とあります。


この玉松は、私としては、鹿苑日録の中に良く出てくる「九里源兵衛」ではないか?と思っております。
六角氏の使者のようでもあるからです。


その後、大永五年(1525年)十二月二十日に城に立て籠もっていた残党九里三重郎らが、六角佐々木軍と近江八幡今金田村の(本郷城にほど近い)黒橋で戦い、敗れました。

宗忍はその前後に自害したとも言われております。ということは、玉松以外は皆死んでいったということになります。合掌

しかし、加賀・長岡等、九里の名前は今日まで受け継がれております。

そして、員秀の娘が内裏に入っていたので、その子孫もいるかもしれません。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大永五年 悲しい結末 近江水茎の岡山城 (1)

2016-03-22 | 水茎岡山城
水茎の岡山城(近江国)

なんといっても、九里一族滅亡…と言われた事件です。

『文亀二年(1502年)に「第一次伊庭の乱」勃発、これは、六角佐々木氏と伊庭氏との戦いです。


永正四年(1507年)管領細川政元が暗殺され、後継者争いが起こる。

その混乱に乗じて永正五年(1508年)以前政元に追放された前将軍足利義材が上洛し、将軍職に返り咲いた。

逆に政元に支えてもらっていた足利義澄は近江に日野氏とともに逃走する。

この義澄を保護したのが九里備前守(岡山城城主)であった。

『永正五年4月16日 義澄、足利義尹の東上して京畿に迫まると聞き、近江甲賀に奔り、九里氏に頼る、室日野氏亦、細川政賢の邸に匿る、』と大日本史料総合データベースに手稿が載っています。そう、九里を頼ってきたのです!

義材派である【六角高頼】VS 義澄を保護する【伊庭貞隆】・伊庭被官の【九里備前守】


永正八年(1511)3月5日 義澄の男子が岡山城で生まれる。播磨守護赤松に託す。(のちの義晴です。)

同年 八月十四日 岡山城で義澄が死没する。

翌月には岡山城主九里備前守が六角高頼に討たれる。

これでも争いは終わらず、さらに永正十一年(1514)二月、「第二次伊庭の乱」が始まったのである。

伊庭貞隆・貞説父子は湖北に出奔すると、江北の浅井亮政の支援を受けた。』

                                以上 ここまでは webの「武家家伝」参照+自己流


しかし、九里は備前守(信隆)が殺された後も、信賢・浄椿・三重郎・宗忍と代は変わりながらも、闘い続けます。

乱は六年にも及び、ついに永正十七年(1520年)八月、岡山城が陥落して内乱は終結しました。

六角氏は、大きな船まで用意し湖側から攻めようと思っていたらしいです。

九里の戦いはまだ続きます。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする